2009-12-09

書評「神の仮面」

江口再起著「神の仮面」


神の仮面―ルターと現代世界

これも、「本のひろば」に掲載されたもの。

近年、ルター関連の著作が相次いで出版されてきている。政治・経済・社会的に不安定で、心理的・精神的にも大きな危機を迎える中世末期に、ドイツの片田舎で個人的な試練を体験した一人の修道士ルターは、その深い信仰の思索において、時代の人々が当然としてきた教会の伝統に対し決然と立ち向かって宗教的確信を貫いた。聖書に示されたキリストによる救いへの信仰に基づいて彼は教会の改革を呼びかけたが、それがもたらした改革のうねりは政治・文化・教育など広範な影響を与えることになった。それが新しい時代、近代へと向かう大きな歩みを形作ることになったのである。ルターの宗教改革は、混迷する現代の私たちに、時代の問題性を明らかにし、新しい時代を切り開く神学的思索の重要性と有効性を教える。
本書は、その意味で、いわゆる歴史研究としてのルター研究ではなく、まさに神学的思索が時代をとらえる、ルター的神学の醍醐味を表すものだと言えよう。

著者の江口再起氏は、現在は大学で教鞭をとり、キリスト教関連科目を担当されているが、もともとルーテル教会の牧師である。私が牧師の按手を受けた20年ほど前には、所属の教区行政にも責任を持たれていた。教会の現状と将来に対する鋭い彼の分析は、希望的観測というよりもかなり厳しい内容であったからか、悲観論者とも評された。しかし、統計的資料にも基づいた客観性に裏付けられた分析は、20年経つとそれらのほとんどが、ほぼ正確に現実となっていることがわかる。江口氏の冷静に現実を見据える視点は、その神学の取り組みにおいても基本的に変わらない。独特の着眼と発想をもって、現代世界の諸相に切り込む思索と論述には、思わず読者をうならせるものがある。かつて訪れた書斎には、神学・哲学・思想を中心とした洋の東西の著作家の著作、全集が揃えられ、蔵書の多さはおそらく類を見ないものであったことを記憶する。彼の知識と見分の広さを物語るが、それが氏の著作を下支えする。

一方で「良心」、「義認論」、「二王国論」、「神の仮面」、「隠された神」、「キリスト者の自由」、「罪」、「救済」、「生と死」など、いわゆるルター神学のカギとなるような伝統的な神学概念を取り上げつつ、他方では「グローバル・ヴィレッジ」、「ポストモダン」、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ・ナガサキ」、「デス・エデュケーション」、「スピリチュアリティー」や「サカキバラ事件」など現代世界をとらえる様々なタームを手繰り寄せて、それらを切り結び、大胆かつ自由に思索し、確かに世界と時代を浮き彫りにする。ある意味で、我々が人間の中に自明的に期待してきたであろう良心とか正義への感覚とか、罪の意識などという観念が、すでに意味をなさなくなりつつある今日の現実を見据えつつ、そこに神の関わりをどう見出すのか。ルターの著作・資料にもあたり、また、豊富な神学と哲学の思想を用いつつ、丁寧になされる論述は説得力を持ち、その論理的展開の妙味は読む者を引き寄せる。

現代において我々が神学するということがどういうことであるのか。単に信仰の教理と教会の事柄にのみ専心するのではなく、現代の世界、時代の課題に向かい合い、それに応えていく神学が求められている。それは時代のニーズに合わせる祭司的な営みというばかりではなく、また、むしろ時代を問う預言者的営みでもあろう。神の存在も人間の信仰も前提に出来ない現代の世界に生きる我々が、なお、「神の前」に立つということの意味を問う神学の課題と可能性を、本書によって改めて考えさせられる。

福音への深い信頼の故に、ペシミスティックにも見える江口氏の洞察の奥には、徹底したオプティミズムが流れているのであろう。深い問いの只中に立ちつくしつつも、なおキリスト教信仰に確かな手掛かりを感じさせる叙述には安心感を覚える。本書のような取り組みは、まさにそうした現代の神学的思索の一つの試みだと言えるだろう。

江口氏は、私が神学生の時代から、ルター研究所の研究会や講演などで接することの多かった牧師先生のひとりだった。神学や教会はどういうチャレンジの中にあるかということについて私が教えられた神学者の一人でもある。

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