2012-09-08

一日神学校「ルターの詩編と祈り」


今年の一日神学校は、9月22日の土曜日。
久しぶりに講義を担当。今回のテーマは「ルターの詩編と祈り」
ルターにとって、聖書の中でも詩編は信仰のための特別な書。ルターが大学で初めて学生に講義を担当したときに選んだのがこの詩編であった。1512年から準備を始めて、翌13年から講義を行う。おそらく、もっとも身近で、親しんだ書であったろう。そして、この詩編との取り組みの中で、次第に当時彼が学んだ神学的な考えから宗教改革的な神学への転換がおこってくる。それは、なにか机の上で繰り広げられる神学研究等ではなく、彼の心の中の葛藤であったといえるだろう。ルターにとって、聖書との取り組みが、もっとも実存的な深みの中で繰り広げられたのはこの詩編という書物であったのだ。

彼の宗教改革的神学は、この詩編講義にその萌芽を見、やがてローマ書講義においてはっきりとした表現をとることになる。
今回は、ルターにとってなぜ詩編がそれほど重要であったのか。その秘密に迫ってみたい。「神のことば」によって生かされるルターの神学の深みに、「ことば」以上の「ことば」があったと改めて考えさせられている。








2012-07-30

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む

仏教の詩人といってもよい宮沢賢治の作品、『銀河鉄道の夜』。



いろいろな重荷を背負う孤独な少年主人公ジョバンニが、祭りの夜に体験する幻としての銀河鉄道。それは、生と死を結ぶ不思議な世界でもある。

丁寧に読み解くと賢治の死生観を伺うことが出来る。それは、何か死後の世界についての思弁ではなく、人間が死と隣り合わせの生を生きる不思議と、その孤独な生を生きいく深みにおいて、私たちが生きることの本当の意味を問うものである。

子どもの頃に読んだきりで、長く気になりながらも読まないままにおいたこの作品を久しぶりに読んだ。改めて読むと賢治がまるでキリスト者ではなかったかと思うほどにキリスト教的作品と見える。もちろん、「讃美歌」、「カトリックの尼さん」、「バイブル」、「ハレルヤ」、そして「十字架」などの要素がちりばめられているだけではなく、「ほんとうの幸い」を求め、それが「ほんとうにいいこと」をすることであり、「みんなの幸」になることをもとめつつ、そのために自らを犠牲とし、捧げるという作品の中心的メッセージにおいて、賢治が深くキリスト教に触れていることを示している。

けれども、作品の後半で、たったひとりの「ほんとうの神さま」について議論される場面がある。そこに至って、宮沢賢治がキリスト教や他の宗教の枠組、その教義的理解を超えて求め続けたものがあることに気がつかされる。だから、厳密にいえば、深くキリスト教的色彩を持つが故に、キリスト教そのものへの宮沢賢治の批判的な立ち位置にも気づかされるのだ。

この鉄道の幻の最後の場面で「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」「僕わからない」とやり取りするジョバンニとカンパネルラ。「僕たちはしっかりやろうねぇ」とジョバンニはいう。そのジョバンニの決意こそ、賢治自身がおそらく誰かの死の悲しみを超えても生きていくために自らにおいた決意に他ならないのだろう。

しかし、そのための生きる力は、一体どこからくるものなのか・・・。





2012-07-15

『いのちと環境』

柳澤桂子氏が、生命科学者として放射能の危険について述べている。



いま、放射能についてあまたの本がでているけれども、読みやすく、また信頼性が高い一冊。いまさらながら、放射能の危険がどういうことなのか学び、確認したいなら、まず手に取りたい一冊だ。知らなかったでは済まされないからこそ、今一度私たちの頭を整理しよう。。
このいのちに対する、見えないしかし恐ろしい力を生み出す原子力は、戦争利用であろうと平和利用であろうと、もはやそんなものに人間は頼ってはならないと、はっきりとした態度を広げていくことが必要だ。


2012-07-10

反原発の声、日本聖公会の声明を受けて

日本聖公会が、今年の五月の全国の定期総会で、反原発の立場を明らかにした声明を採択した。
原発のない世界を求めて-原子力発電に対する日本聖公会の立場―」
http://www.nskk.org/province/others/genpatsu2012.pdf

カトリック、ルーテル、聖公会の諸教会がそれぞれの責任機関において今の日本の原子力発電の存続、その稼働について深く危機感を共有している。
カトリック司教団の声明
「いますぐ原発の廃止を ~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

日本福音ルーテル教会 声明 (総会決議
一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」
http://www.jelc.or.jp/data/pdf/201206.pdf
(機関誌『るうてる』4面)

地球環境の保全の視点はもちろん、原子力の利用に際して弱者に犠牲を強いるシステムの問題、将来にわたる生命への影響の問題を看過することはできないと、神様からの委託に応える信仰的立場から明らかにして、原子力にたよらない新しい生き方を求めている。

日本のキリスト教会は、実効的影響力を持つほどに、力を持っていないかもしれないが、この歴史的三教会のはっきりした声明は意義深いものだと思う。
それぞれの教会が草の根の運動をこれからの時代に向けて作り出していくことが、声明を本当の意味で生かすものと成るはず。声明を出して終わりということにならないように我々がここから運動を起こしていく、発言をしていく責任をもっているのだ。

もちろん、私たちはいたずらにこのスローガンを掲げて熱狂するのではない。また、これをいかなる意味においても、信仰の踏み絵にしてはいけない。けれども、このテーマが私たちの大きな課題であることを決して忘れてはならないのだ。現実的な問題を深く捉え、どう判断し、何を今考えなければならないのか。何を選び取るべきなのか。その一歩、そのための足場をこれらの声明が示している。

「反戦・反原爆」の夏が来る。「反原爆・反原発」を声としよう!


2012-07-02

くまとやまねこ

絵本は、子どもの読むものというのは必ずしも正しくない。むしろ、絵本という表現によっていろいろなテーマに迫る一つの形なのだ。
近年、「死」というテーマをいろいろな角度から取り上げる絵本が出版されるようになった。もちろん、それが子どものためのものということでは必ずしもない訳だけれども、子どもにも触れやすいものとして作られた作品は大人が子どもと一緒にその作品を通して、一緒に考えたり、話したりすることのできるものだと思う。



主人公のくまは、大の親友のことりが死んで、ふかい悲しみの中に過ごす。死んだことりを忘れて前向きに生きるように言われても、この悲しみをいやす力にはならない。ただ、時を過ごして、やまねこと新しいの出逢いの中で、くまはことりの死を死として受毛止めていく力を与えられる。死を否定するのではなく、死んだものがどれだけかけがえのない存在であるかということを分かち合うことが、できたからだろう。そうして、死んだことりはしんだものでありつつ、ともに生きるものとして受け止められ、くま自身の新しい歩みが見いだされていく。

静かな絵本だが、「死」の受容、グリーフワークの働きを伝える良書。







2012-06-21

日本のキリスト教受容の問題

錦糸梅が、鮮やかに梅雨の陽射しの中に輝きます。

京都文教大学の臨床心理学科の秋田巌教授のお招きをいただいて、「日本におけるキリスト教受容あるいは非受容について」というタイトルで講演をさせていただいた。
秋田先生は、ユング派の精神心理学のご専門だが、日本ではいわゆる「西欧」の様々な精神療法が盛んに紹介され、用いられているのだけれども、そうした学説や方法論が果たして日本の文化・社会という西欧とは全く異なる文脈の中に生きる日本人に本当に有効なものなのか。また、日本人の心性というものをもっとより深くとらえることがなければ、そうした西欧のものを用いるにしても不十分であったり、誤解が生まれてくる可能性もある。おそらく、そうした問題意識から、日本の心理療法が取り組む日本人の精神のその背景を深く探る研究をされ、様々な専門家を招かれているようだ。特に今回は「宗教と日本的精神性」という主題のもとで、キリスト教と日本人の関係についての学びをされたいということで私にお声をかけていただいた。

http://www.kbu.ac.jp/kbu/gakugaimuke/120620-rinsho/index2.html

1時間10分ほどの講演の後20分ほど秋田先生との対談となった。
講演は、はじめに日本においてキリスト教が受容されているのか、いないのかという問題から考え始めた。一方でクリスチャン人口が1パーセントを超えないという現実を見据えながら、他方ではキリスト教が教育や福祉などに果たして来た役割やクリスマスやキリスト教式結婚式が多くの人々に好まれていることなどに日本的な受容の仕方があることをお話しした。つまり、受容されているという側面と、少しも受容されないというその両側面がある。この日本的な受容の仕方こそが、日本人の精神性によるものではないかというところが、まず出発点。
続いて、16世紀キリシタン時代のキリスト教受容、19世紀の明治以降のキリスト教受容の特徴を示した。日本におけるキリスト教受容ということの問題を考えるとき、この二つの時代のあり方を見ることは非常に重要。キリシタン時代にはおそらく日本人の3パーセント弱近くにまでキリスト教が広まったともされる。日本人は宣教師からも道徳的で理性的なその人間性が高く評価されていたことも興味深いが、民衆また下層武士階級に急速に広まった理由はキリスト教の新しい神観念とその人間理解であったことは重要。宣教師の実践に裏付けされた一人ひとりを平等に重んじる人間観は当時の人たちへ、福音を具体的に伝える力であっただろう。およそ、250年にわたる迫害があり、明治期からのキリスト教が没落武士階級とインテリ層へと浸透したことはキリシタン時代とは全く違った日本におけるキリスト教の性格を形成してきていると考えられることなどを概観した。
次にキリスト教が出会った日本の文化・宗教性を探ってみた。特にキリスト教との関連で語られてきた課題を丸山真男、遠藤周作、R・ベネディクト、イザヤ・ベンダサンなどをあげながら整理し、仏教、神道などの具体的宗教の奥にある日本人の宗教性をたどる方法をとった。いつものように自然志向型の霊性と共同体志向型の霊性の二つが基盤にあることをお話しして、そして、現実にはその歴史の中で、それぞれの政治的支配権力の下にある状況がその日本人の精神性に大きな影響を持っていることを示した。
最後に、現代日本中でキリスト教が受容されるという場合の可能性と課題についてお話をした。いわゆる伝統的な日本的宗教性が根こそぎその基盤を失ってくるような現代のなかで、日本人の中にどういう精神的課題があるのか、そこに向けてキリスト教の持っている福音が何を示すものかということと、また具体的にそうした深いもんだいに応えていくためにも、一般的な意味でキリスト教がまず示していくべき課題、例えば正義や平和への具体的な貢献、現代社会への倫理的な提言、また特に自然や環境を含めた現代の課題に答えていくべきキリスト教の枠組みというものをしっかり示すこと必要のあることをお話しした。
全体は短い時間で消化不良となってしまったが、いずれ論文としてまとめることにしている。



2012-06-09

脱原発にむけて



野田首相がその必要性を表明し、大飯原発の再稼働に向けて大きく舵が切られた。
その安全性は何によって保証されるのかは明らかでない。というよりも、福島の事故について、十分な検証もなければ、被害について補償さえ手が付けられず、今も大勢被災者が自らの家に帰ることさえできない汚染が続いている中で、どうして、「絶対」という言葉を何回も使って、新たな被害を生まないなどという決意を口にすることができるのだろうか。

日本福音ルーテル教会は、この5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を」という声明を採択した。その全文が「るうてる」6月号に掲載された。以下のpdfファイルの4ページ目。
http://www.jelc.or.jp/data/pdf/201206.pdf

私たちが、神の創造された世界に対して保全の責任を持つことを根拠として、いのちを守る重い課題を受け止めることを自覚した声明になっていると思う。実際に過疎の地域社会と社会的弱者に犠牲を強いる仕組みは、たとえ原発稼働そのものが仮に一応無事になされたとしても、到底容認できるものではない。原子力エネルギーを利用しようとする限り燃料加工から廃棄物の処理に至まで、放射能の汚染はさけることができない。その影響は甚大だ。
声明のなかで、「原発が人間のいのちへの途方もない脅威であり、いのちと両立しえない存在」と明言していることは重い主張だ。

また、実際にこの原発のない社会を選び取るためには、私たちが現在享受している生活をそのままにできないことも自覚して自らの生活を見直し新しい生き方を求めていくことを述べている点も重要なポイントだ。
この声明を出発点として、原発をめぐる様々な課題に具体的にどのように取り組むことができるのか学び、考えていくという表明は、単に原発反対というだけではない継続的に自分たちの問題としていこうとするものだ。

自分たちの教会の声明(もともと信仰と職制委員会から出された答申がベースになっている)で、我田引水ということではないが、教会と社会に向けて現したものとしては、意義深いものだと自覚している。しかし、この声明に満足するのではなく、これからの取り組みこそが大切なのだ。

2012-05-18

もっと「ふしぎな」キリスト教

キリスト新聞社出版教会季刊雑誌『Ministry』。創刊から丸三年、リニューアルされて装いも新たに13号がついに発売された。
今回の特集は『もっと「ふしぎな」キリスト教:教会よ、応答せよ!!』だ。

http://www.ministry.co.jp/contents013.html

20万部を超える売り上げで、新書大賞を受賞した、橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の『ふしぎなキリスト教』。あまたの批判や批評が飛び交う中で、この雑誌がわざわざ取り上げるからにはそれなりの理由がある。つまり、この本をどう読むかということを超えて、これだけの売り上げを上げているということそのものをどう読むのか。メタな分析にただ終始するのではなく、さらに一歩踏み込んで教会への提言を含めた読み応えのある雑誌となっている。

今回から新たに西原廉太氏、濱野道雄氏と共に新編集委員の一人として加わり、特集のための座談会にも参加させていただいた。その記録が収録されている。雑誌掲載は、ぐっと圧縮されているが1時間半にも及んだ座談会は本当に話していても楽しく、キリスト教宣教の課題に迫った内容の濃いものだった思う。ここからスタートする、本誌のあたらし編集の方向性をある意味で示すものとなったようにも思っている。

いくつか新しい連載もはじまった。その一つも担当させていただいている。

付録は、これまで特集で取り上げた説教者の生説教のDVDだったが、今回からはキリスト教に関係する名画のDVD。第一回は「ベン・ハー」だ。十回まで、このDVDを集めるのも楽しみの一つといえよう。乞うご期待。

2012-04-09

イースターヴィジル

イースターヴィジルは復活を祝う通夜礼拝だ。



イースターといえば、日曜日の早天礼拝が一般的なあり方かと思われるかもしれないが、教会の伝統においては、この通夜の礼拝が大切にされてきた。
実際、イエスの復活は週の初めの日の朝と記されているが、明け方早くマグダラのマリアをはじめとする女性たちが駆けつけた時に、見出されたのは、すでに主イエスが復活されてそこにはおられなくなった空の墓である。つまり、主のご復活はその前に起こっている。復活そのものを祝うというなら、「朝早く」以前ということになる。土曜日の日没に安息日は終わり、十字架の出来事から三日目が始まる。その宵から明け方までの間に、主の復活の出来事があったことになるわけだ。
ただ、イースターヴィジルはもちろんその主の復活の出来事の「時」をとらえようとして生まれた礼拝というわけではない。もともと、大きな祝祭日を祝う時、ユダヤの伝統としての一日の始まりを日没とする考えを引き継いで今日では前日の夕べとなるその日のはじまりからの礼拝を祝うということになったわけだ。その形を今日に残しているのはクリスマスのイブ礼拝になる。クリスマスは12月25日。その礼拝を前夜の一日のはじまりから祝うのがイブ礼拝ということになっている。
また、実際に大きな祝祭を祝う時には当然それにともなう準備にさいし、一つひとつ祈りと御言葉と黙想をもって行っていく習慣がそのまま礼拝となったといってもよいだろう。伝統的には、このヴィジルこそもっとも大事な礼拝と考えられ、この礼拝において洗礼の準備を終えたものが受洗し、信仰の奥義と告白のことばを確かに受け取り、初めての聖餐に招かれるのであった。

今現在、日本福音ルーテル教会はイースターヴィジルの式文を全体として統一された形式のものを持っているわけではない。現在三鷹教会が神学校と共同で行っているヴィジルにもちいているものが、どのようにしてつくられたのか定かではないが、次のような構成になっている。
1.光の祝祭
2.み言葉
3.洗礼
4.聖餐
5.派遣

光の祝祭の部では、会堂の外、玄関わきにたき火を起こし、そこから火をとってパスカキャンドルにともして礼拝堂まで行進をして、キリストの光の到来を暗闇の中に迎えて、闇に勝利、死に対するいのちの勝利の救いを象徴する。




み言葉の部においては、旧約聖書から神の救いの歴史をたどるように七つの朗読がなされる。
七つの聖書箇所は①創世記1:1-2:4a、②創世記7:1-5、11-18、8:6-18、9:8-13、
③創世記22:1-18、④出エジ14:10-31、15:20-21、⑤イザヤ55:1-11、⑥エゼ36:24-28、
⑦エゼ37:1-14
一つひとつの朗読において、詩編が歌われるか、もしくは適当な讃美歌が歌われ、一定の時間の黙想が続き、祈りが祈られる。
そして、続いてローマ6:3-11が使徒書の箇所として読まれる。洗礼の出来事がキリストの死と復活に与り、罪が滅ぼされて永遠の命をたらすものであることを確認するのである。

また説教もここで話されるので、説教のために復活のテキストが福音書から読まれる。


洗礼の部は実際に洗礼式が行われるのとは別に教会員全員が洗礼の意味を今一度思い起こすように洗礼の水を棕櫚の葉などによって会衆に振り掛ける儀式が整えられている。

聖餐の部と派遣は通常の礼拝に準じている。

今の形は大分簡略化していて、全体で約2時間ほどの礼拝となっているが、実際は御言葉の部においての一つひとつの黙想にはもっと時間をかけておこなうのが本来の姿だろう。

また、洗礼も、この時に実際の洗礼式が行われるのが伝統的な祝い方だ。レントの期間に準備を重ねて、この日に洗礼を受ける。ちなみに、このレントの期間にBのマルコ年であるにもかかわず主日の日課がヨハネを多く取り上げたのは、この洗礼準備の時に受洗者のみでなく、会衆もみなその準備を過ごすための日課だそうである。つまり、A,B,Cのどの年でも、ヨハネを読み、洗礼準備の時を過ごし、すでに洗礼を受けている信徒もみなこの洗礼の意味を受け取っていく。

こうして、主の復活が確かな救いの出来事として「私」に与えられた恵みであることをいただき、喜びと感謝のなかにイースターの本当の意味を祝うのである。




2012-03-31

「わたしの教理問答」

FEBCで、新番組を担当させていただくことになった。
番組名は「いちじく桑の木登り~わたしの教理問答」。なぜ、「いちじく桑の木登り」なのかについては、第一回の放送の中で取り上げているが、下のFEBCのHPを見ていただければと思う。



キリスト教において、私たちは何を信じているのか。その信仰の内容について、聖書をたどり、また教会の歴史の中で深められてきたものをくみ取りながら、私たちの信仰を確認していく番組となるように願っている。限られた時間枠であることもあって、「教義学」のように詳しく展開することは目的としていない。むしろ、私たちがキリスト教の信仰ということを今一度確認しつつ、一つひとつの問いの中でキリストとの出会いに導かれていることを知っていきたい。




水曜日の夜、9時48分から22分ほどの番組。第一回は4月4日。いつものように、吉崎恵子さんにお相手をお願いしている。いわゆる「信仰入門」ともいえるが、長く聖書に親しみ、自分の中に自然と息づいている信仰を、今一度見つめていくものとなるだろう。
乞うご期待。





2012-03-30

NCC総会礼拝

2012年3月26・27日の二日間、日本聖公会聖アンデレ教会において、日本キリスト教協議会の第38回総会が開かれた。
総会二日目の朝の礼拝を信仰職制委員会・委員長の私と神学・宣教委員会の大宮溥委員長と二人で担当するよう依頼され、大宮先生と年頭に打ち合わせ、準備をさせていただいた。

礼拝は、テゼ共同体の祈りと賛美を用いて、「一つになって」というテーマにさせていただいた。
震災と原発の事故によって被災の人々はばらばらにされ、その生涯が切り裂かれる経験の中におかれていることを私たちもまたともに経験している。そして、一般の社会の中で「絆」や「つながり」が求められ、助け合い、支えあうことが改めて見つめなおされている。それは、今回の被災によって特にクローズアップされた問題だけれども、現代の日本社会が特に20世紀後半から直面させられてきた問題なのだ。神と人との間が私たち自身の罪によって切り裂かれるとき、人と人、人と被造物が分裂し、その深い痛みを負わされている。この分裂の中にあって、結び合い、一つとなることを祈っていきたかった。

また、実際に被災された方々を憶えること、また特に生と死の境を異にせざるを得ず切り裂かれた痛みを憶え、主から慰めと力が与えられるように祈りたいということ、そして、この現実の中で、だれもキリストによって見いだされないものはないと信じ、祈りを合わせていきたいと願った。

そして、NCCがキリストのミニストリーの中に生かされるものとして、こうした切り裂かれている現実の中で信仰の一致と協働を主の恵みのうちに証しするものでなければならないし、そうありたいと思い、このテーマを持たせていただいた。(そして、一番私自身が大切に思っていたことは、この現実に責任のある私たちの罪の告白だった。)

大宮溥先生にはローマ書8章18-30節から御言葉を取り次いでいただき、「共に生きる」と題して説教をいただいた。NCCのおかれている「今」を深く考えさせられ、また励まされた説教をいただいた。

加盟の各教会、団体の代表者にろうそくを灯して、聖卓の前に進み出ていただき、祈りを合わせ、神様からの赦しと祝福をいただく、感謝の部を設けさせていただいた。

教会が聖公会の聖アンデレ教会であったので、あのアンデレが五つのパンと二匹のさかなを持った少年を主の前に連れてきたように、私たちがそれぞれに持っているものは役に立つとも思われないようなわずかであっても、それを主が受け取られ、神への感謝とともに祝福し、用いられるときに大きな働きに生かされていくものであることを象徴的に表させていただいた。


NCC、日本キリスト教協議会は、日本のプロテスタント諸教会の教派を超えたエキュメニカルな働きを担うものである。エキュメニカルな働きの一つの軸は信仰の一致ということである。歴史の中で、それぞれの状況の中で生まれてきたプロテスタント諸教会は、しかし、同じキリスト教会なのだ。その信仰を一つの信仰として、互いに理解を深めキリストに従う一つの交わりとして自らを表していくことができることを目指している。
今一つの働きの軸は、この世界の中で信仰に基づいて他者のために奉仕をする、実践的な働きについての協働である。
こうしたNCCの働きは、日本にあるばかりではなく、世界中に存在する。世界規模の団体としてはWCC、世界教会協議会がある。日本のNCCはこのWCCの働きを受けながら、日本におけるプロテスタン教会諸派が一致と協働のために話し合い、活動を担っていくものとなっている。キリスト者としての多様な活動、運動がこのNCCを軸にして生み出されてきた。

しかし、この新しい21世紀を迎えて、NCCはその組織そのもののあり方について大きな曲がり角に立っている。加盟の教会、団体をはじめ、各委員会が今改めて自らのあり方について考えなければならないのだと、痛感させられた総会だった。

そうであればこそ、本当に主の前に立つものであること、憶えたいと思い、この礼拝を企画させていただいた。
主の恵みに生かされたい。


2012-03-12

3・11 カトリック・NCC合同祈祷集会


いつの間にか、梅が咲いて、春の足取りを思い起こさせてくれている。
一年前も、同じように春をたくさん感じ始めた3月11日、午後2時46分。
東日本大震災が東北を襲った。続く津波の脅威は、すべてを根こそぎさらっていった。制御のきかなくなった原発からは放射能が流れだした。

あの日から一年。
カトリック教会とNCC(日本キリスト教協議会)の合同主催によって「東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会」が全国で持たれた。
東京では、四谷麹町の聖イグナチオ教会にて行われた。

礼拝の式文は次の通り。
http://ncc-j.org/uploads/photos/25.pdf

会堂にいっぱいの人が集まり、岡田武夫大司教と輿石勇NCC議長との合同司式で執り行われ、岡田司教から御言葉をいただいた。

礼拝の終わりに現地での活動報告。被災のお一人ひとりに寄り添うことの大切さと難しさ、しかし、主の働きがもたらされるために用いられることについて深く深く思いめぐらし、浅薄な自分の祈りが導かれた。
ともに祈ること。教派を超え、宗教を超えて、この日にささげられた祈り。この祈りから、私たち自身が整えられ、神の働きのなかに生かされていく。そうありたい。





2012-03-05

教職授任按手式礼拝 2012年3月

今日3月4日は、日本福音ルーテル教会の教職受任按手式礼拝。
竹田大地氏と乾和雄氏の二人が按手を受けられた。
神と教会からの委託が「手を置いて祈る」という行為に伴う聖霊の付与において、それぞれを教会の職務へと召し出す。厳かな儀式の中に、受按者の信仰が改めて神によってとらえられ、召し出される恵みの出来事にあずかった。

大勢の方々が集い、この喜びを分かち合うことができた。
西日本福音ルーテル教会の教職で、神戸ルーテル神学校の校長、正木牧人氏が駆けつけてくださった。お忙しい中、この近畿福音と西日本のルーテル教会の牧師養成を担う神学校校長がおいでくださったことはことのほか意義深いことだ。
今回按手を受けられた乾氏は三年と一学期の間、神戸の神学校で学ばれたのだ。中学の教頭を勤め上げた後、献身を決意、学ばれることになったが、神戸に住まいがあり、ご家庭の事情もあって神戸から離れずに研鑽をつまれることになった。ちょうど2002年に神学校の複線化が憲法上認められていたことを初めて利用されるケースとなったのだ。こうして、実際に牧師が育てられ按手を受けられたことは何にも代えがたい喜びである。最後の仕上げとして、7か月のインターンと臨床牧会訓練をしっかりと東京の神学校でおさめられてのこの日である。教会の祈りが重ねられて、実現したこの歩みの尊さはいかばかりも欠けたるところはない。

教会は宣教者を求めている。それが育てられる道の多様なあり方は教会にとって、勇気を与えるものであったし、実際によい証となっている。

今後、この制度が活用されていくとするならば、もう少し神学的な確認を積み重ねないとならないとも思う。特に神戸の神学校との更なる交流と神学的な話し合いがなされ、日本におけるルーテル教会の教職養成にともに力を合わせていくようにしたい。

神学校の明日を切り開くためにも、乾氏の足跡は非常に大きな意味を持ったことだと思う。

多くの祈りがこのお二人を支え、また歓迎し、ともに生かされていく喜びを分かち合い、受け取っていた。
主に感謝します。



2012-03-03

神学校卒業聖餐礼拝 2012年春

東京教会での「神学校の夕べ」も終え、按手礼拝をまつこの3月1日の木曜日に、日本ルーテル神学校の卒業聖餐礼拝が行われた。実は、毎年はこの卒業聖餐礼拝の翌日が大学と神学校の合同卒業式なのだが、今年は学事暦の関係で卒業式は一週間あとになった。


今年、一人の卒業生と一人の特別学生の終了にあたって、主の宣教の働きへと召し出される御言葉をいただき、神学校のすべての課程を終えた学生たちに特別の派遣の祝福が与えられた。

この礼拝は、いつも受難節にあたるということもあって聖壇には特別なレリーフが置かれる。チャペルの大きなレリーフ「派遣」と同じ作者カイテン宣教師の作の「十字架に釘づけられた主の手」。

この手は、祈りの手であり、弟子たちを招いた手、貧しい人々へさし延ばされた手、祝福された手、病人を癒しをされた手、宮清めのために激しく人々を追い出された手、ラザロを墓から呼び出された手、復活ののちにはトマスに差し出した手だ。

この手が、弟子たちを派遣する。卒業生を送り出すこの日に、私たちが主の手によって生かされ、主の手によって支えられ、主の手を生きるようにここから派遣されていくことを憶える。
何よりも、私のために ここに釘づけられた この手がある。

この手が、ご自身を裂いて、この聖餐式に分かち合ってくださった。

さあ、ここから出かけていこう。




2012-03-01

「カトリック諸宗教対話」から考える

カトリックとNCCとの間で毎年開かれる対話集会、その第29回の集会が2月28日に四谷のイグナチオ教会ヨセフホールで開かれた。
今年のテーマは、「『カトリック教会の諸宗教対話の手引き』について」。
2009年に出版された、同書の解説をいただきながら、今日のカトリック教会が他宗教についてどのような姿勢を持っているのか、また、具体的な現実のかかわりの中でどういう問題があるのかなど、キリスト教会と他宗教との関わりということについて、大わ変興味深い発題をいただいた。

 

http://www.cbcj.catholic.jp/publish/other/jissen/jissen.html

信徒の信仰生活では、当然のことながら、親せきや地域のかかわりの中で必然的にキリスト教以外の宗教に関わることがある。どのように対応するべきか、非常に具体的な問題について、カトリック教会が指針というか、手引きを明らかにしているのだ。
発題は、フランコ・ソットコルノラ司祭と園田善昭司祭。本の内容にそって解説をいただく形式ではあったが、ソットコルノラ司祭が基本的な神学的な取り組みについて話され、園田司祭は具体的な問題にかかわっての発題だった。
具体的課題は、たとえば冠婚葬祭で他宗教とかかわる場合のことあるいは地域のお祭りや正月のお飾りなど、日本の生活習慣の中にある宗教性とのかかわりの中でクリスチャンとしてどのように対処すべきかというもので、これは大いに役立つ。

第二バチカン以降の他宗教への新しい対応の在り方をわかりやすく解説された。
カトリックの基本的な考え方は、包括主義といえよう。他宗教にも真理の契機があることを認めつつも、キリストがない限り、救いは教会以外にはない。結局は唯一の真理と救いはカトリックにあるので、他宗教の中にも良いものは認めるけれども、回心がおこならない限り救いはあり得ない。けれども、他宗教との対立はさけ、忍耐強く対話を続ける。
しかし、結局対話において、変わるべきは常に相手側であって、教会には変わる必要はないというのが基本的な考えであるようだ。

けれども、他宗教のなかに、カトリック(キリスト教)よりも優れたものはないのか。
たずねると、
実践のなかでは、カトリックの真理への接近に大いに役立つもので、自分たちの伝統の中にはなかったり、あるいは時代とともに見失われてきたものもあるので、現在の宗教間対話がカトリックにいろいろなよい影響を与えることはあるという答え。

でも、ここからが問題なのだ。たとえば実践において、仏教の禅において、自らを無とするやり方がある。仏教にはキリストがないし、十字架の贖いがないわけだから救いは求められないけれども、この実践には、自らを無にして神様の御心に満たされる方法を示唆されるという。たとえば、キリスト教におけるケノーシスとも重なるという。
これなら、実践的ななにか。方法論の援用ということにとどまりそう。

でも、園田司祭の発言は非常に微妙な展開を見せた。
つまり、他宗教にみとめるべきことが単に実践的な問題だけなのか。キリストの真理が最終的・決定的なものであることをゆるがせにせずとも、キリスト教、カトリックがその真理についてただ一つの絶対的な理解を今すでに持っているということが言えるのか。神学の中に真理理解の発展ということがあるとするなら、現在の神学の言葉は部分的なものでしかない。つまり、歴史の中で相対的なのだ。キリストの真理をすべて言葉にしつくし、絶対的な表現を持っているとはいえない。絶対的でないのであれば、相対的な理解にとどまる。ならば、もしかすると他宗教の真理理解に、部分的であるとしてもより優れたものがないとは限らないのでは・・・と。
これは、大変微妙な発言。カトリック的インクリューシヴィズムは、歴史主義において相対化されてくるようにも思えるのだ。
ここをもう少しお聞きしたかったところだが、限られた時間を思い、これを掘り下げることはできなかった。しかし、園田司祭が、他宗教との長い対話のなかから、注意深く発言されたその言葉は、なかなか重たいものだ。キリスト教の相対性を語るとしても、キリストの絶対性は疑うことはない。それでも、謙遜に、しかし、確かな信仰を生きながら、真摯に信仰を異にする人々と向かい合う知性を思わされた。






2012-02-27

神学校の夕べ 2012年

神学校の夕べ


今年の神学校は二人の働き人を宣教の現場に送り出す。竹田大地氏と乾和雄氏。
それぞれ下関教会と神戸東教会の赴任地を得て、来週の3月4日に按手をうけられる。
竹田君は自由学園大学を卒業後、神学校4年間の学びを終えた26歳。乾氏は中学教頭まで勤め上げた団塊世代。神戸のルーテル神学校で学んだ後に、三鷹で一年間の特別学生として過ごされた。
年齢は違っても、宣教への熱い思いを同じくする二人が旅立つ。
今日、それぞれにキリストにある希望を語られた。
若々しくキリストの愛に思索を巡らし、それによって完成される信仰者の生を語った竹田氏も、長い信仰生活からキリストの導きと宣教への決意を語った乾氏も、神さまの働きの器とされていくことへ素直な召しへの応答を表されているのが、なんとも美しく思われた。

キリストの福音を教会の現場で語り、人々の信仰の歩みをともにしつつ、キリストを見出していくことになるだろう。

毎年思うことだが、やはり宣教の喜びを生きられるふたりを送り出せる喜びととともにうらやましくも思う自分がいることは隠しようもない。ただ、自分の思いではなく、遣わされる道へ進む思いを、私もまた新たにしたことも確かだった。

礼拝の後奏で聖歌隊が歌った「Let It Be」が心にしみた。


2012-02-15

第46回教職神学セミナー『説教』

この2月13日から16日まで第46回教職神学セミナーが代々木のオリンピックセンターを会場に開かれている。ルーテル4教団から牧師たちが集まり、神学校教員や講師を含め総勢で30名弱の参加者がある。テーマは「説教」。昨年から三年シリーズで取り組んできている二年目である。

第一日目には、昨年講談社から『ふしぎなキリスト教』という新書を出版された橋爪大三郎先生を迎えて、教会にはじめてくる人々と教会の中で教会員に向けて語られる説教との接点について、新鮮な刺激ある発題をいただいた。
私自身は、この初日を逃してしまったので、残念でならないが、いただいたレジュメだけでも、本当にいろいろと考えさせられる。




今回のテキストではなかったけれども、この本は教会に来ていない、一般の人たちに対するキリスト教入門、キリスト教を紹介する目的で書かれている。そこで用いられる言葉や考え方と教会の中で用いられる言葉、あるいは前提となっている考え方には大きな差があるというのだ。その差について考えなければ、牧師の説教はコミュニケーションできないものになってしまう。
よく言われることではあるのだが、牧師の言葉は説教という特別な古典芸能になってしまうのではないか。そうなってしまうと、もはや実は会員にも解説がないとわからないものになってしまいかねない。もっと言えば、聞く人々との対話のない説教は、もはや牧師の独り言に陥ってしまうのではないか。自らの説教を吟味して、その言葉が今生きている人々へ届く言葉かどうか、牧師は研鑽をつまなければならない。

二日目からは、昨年に引き続き、教団の平野克己先生を招き具体的な説教セミナーを開いている。参加者はそれぞれの自分が教会でした説教を持ち寄るが、その中からヴォランタリーに数名が実際に参加者の前でその説教をしてもらう。第一印象から語り始め、具体的な分析と批評を皆でしあいながら、説教を黙想し、説教をつくり、説教を語ることの試練と喜びを分かち合う。

こんな豊かな交わりと、セミナーを体験できることはめったにない。
牧師にとって説教は日々の孤独な取り組みであるし、赴任してしまうとなかなかほかの人の説教を聞くチャンスも少なくなる。いろいろなタイプの説教を実際に聞くことは、それだけでも貴重な体験だが、そこから与えられる気づきは、自分の説教を改めて見直していくよい機会となる。
やや厳しい批評が語られるときも、私たちがともに説教の務めに召されているからこそ、一人ひとりの参加者の成長につながるための熱意と愛を共有する場となっていることを実感させられるのだ。

このプログラムは、来年までかと思うと残念でならない。形を変えて継続できるとよいのだが。
いま、教会の牧師は改めて説教に真摯に取り組むべきことを使命とせねばならない。
その自覚を促したいとと思うのは、自らのことを含めて、説教が弱くなっていると思わざるを得ないからだ。いったい、牧師は本当に喜びを持ってキリストを分かち合っているか。その一つ一つの礼拝が主との出会いの出来事となっているのか。
聖書の解説や、単なる再話ではなく、キリストが証され、キリストご自身が語りかけてくださる御声をともに聞くことができるように、教職が何を準備するのか。プロフェッショナルな技を磨くべきだろう。
こういうチャンスをこれからも継続して生かし続けられるとよいとおもう。

2013年度 第47回神学セミナーは⬇
http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/02/47.html

2012-02-08

ルターの「聖徒の交わり」

もう三年前になるとは驚きだが、2009年の3月にドイツのアウグスブルクで行われたLWF(ルーテル世界連盟)の神学コンサルテーションの時に発表したものを日本語でまとめなおして、紀要の掲載論文になったものがインターネットで見られるようになっていた。

ルターの「聖徒の交わり」―日本の伝統的霊性との対話


http://ci.nii.ac.jp/els/110008452460.pdf?id=ART0009692596&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1328542379&cp=


ルターの communio sanctorum 理解の研究ということでは、特別に新しいものではないかもしれないが、この聖徒の交わりを単に信仰における人格的交わりということにとどめず、神様から与えられた賜物すべて、いうなれば被造物すべてに及ぶ概念として見出すことで、救いについての包括的視点を出したことは大事な視点だったと思っている。

そして、そうした神学的な理解を日本人の霊性の問題と対話させたところは、かなり大胆な試みであると思う。こうしたヨーロッパとは違う文化・社会・宗教的コンテキストの中での神学の試みがもともとLWFでの神学コンサルテーションでは課題になったもので、その方法論を論じるものではなく、具体的な取り組みの一例として考えてもらえると良いと発表させてもらったものだ。



もとの発表は、このブログでも紹介させてもらったが、
http://mishii-luther-ac.blogspot.com/2009/05/motoo-ishii-dialogue-between-luthers.html   

英文で編集して、発表時とタイトルも変えて、“Luther's perspectives on the communio sanctorum in dialogue with traditional Japanese spirituality” とし、LWFで出版したTransformative theological perspectives. Karen L Bloomquist; Lutheran World Federation(Minneapolis, Minn. : Lutheran University Press, 2009)におさめられている。
ただ、この日本語での内容の方が、より一歩踏み込んだものとなったように思っている。

2012-01-31

阿蘇の風を




阿蘇山の外輪、俵山には風の力で発電するプロペラが回っている。雄大な山の合間を駆け抜ける風をとらえると、うなりをともなってまわる。そのプロペラの力強さを目の当たりすると、ただ、なにか茫然とその様子に引き込まれていきそうになる。

肌に優しく感じるのと違って、風のなかにひそんでいる無限のエネルギーへの驚き。



先日、ルーテル幼保連合の熊本地区の保育者研修会に招かれたときに、阿蘇の空港から案内をしていただいた。俵山からは、地獄温泉をはじめいくつかの立ち上る源泉のけぶりを向こうに望むことができたのだが、何よりもこの大きなプロペラの存在感に圧倒させられた。

遠い山にいならぶ姿を見るだけでも、不思議な感覚におそわれるけれど、足もとに立つことで、なにか悠かなるものと人間との触れあうことのとてつもなさを思うのだ。

巨大な人工物には、異様さを思わされもする。
こんなものをつくりだすのは、あくなき人間の欲望なのか、夢なのか。

けれども、あの原発に比べるならば、どれほど自然そのものへ優しいことだろう。
一瞬にして、空を海を川を土を変えてしまった、あの放射能の脅威をここにみることはない。

あのナウシカの「風の谷」の知恵を思う。「火の七日間」の後、あの腐海に沈む世界の片隅で、人がどうして生きていくのか。自然との共生を求める知恵は、確かにあまりに人工的ではあっても、自然に対する謙遜を知っている。

そして、
本当に優しいのは、そのどんな人間の思いをものともせずに、ただ流れていく風の力強さか。

すべてをつくりたもう主が私たちに託したもうことを、今一度、考える時だ。