イースターヴィジルは復活を祝う通夜礼拝だ。
イースターといえば、日曜日の早天礼拝が一般的なあり方かと思われるかもしれないが、教会の伝統においては、この通夜の礼拝が大切にされてきた。
実際、イエスの復活は週の初めの日の朝と記されているが、明け方早くマグダラのマリアをはじめとする女性たちが駆けつけた時に、見出されたのは、すでに主イエスが復活されてそこにはおられなくなった空の墓である。つまり、主のご復活はその前に起こっている。復活そのものを祝うというなら、「朝早く」以前ということになる。土曜日の日没に安息日は終わり、十字架の出来事から三日目が始まる。その宵から明け方までの間に、主の復活の出来事があったことになるわけだ。
ただ、イースターヴィジルはもちろんその主の復活の出来事の「時」をとらえようとして生まれた礼拝というわけではない。もともと、大きな祝祭日を祝う時、ユダヤの伝統としての一日の始まりを日没とする考えを引き継いで今日では前日の夕べとなるその日のはじまりからの礼拝を祝うということになったわけだ。その形を今日に残しているのはクリスマスのイブ礼拝になる。クリスマスは12月25日。その礼拝を前夜の一日のはじまりから祝うのがイブ礼拝ということになっている。
また、実際に大きな祝祭を祝う時には当然それにともなう準備にさいし、一つひとつ祈りと御言葉と黙想をもって行っていく習慣がそのまま礼拝となったといってもよいだろう。伝統的には、このヴィジルこそもっとも大事な礼拝と考えられ、この礼拝において洗礼の準備を終えたものが受洗し、信仰の奥義と告白のことばを確かに受け取り、初めての聖餐に招かれるのであった。
今現在、日本福音ルーテル教会はイースターヴィジルの式文を全体として統一された形式のものを持っているわけではない。現在三鷹教会が神学校と共同で行っているヴィジルにもちいているものが、どのようにしてつくられたのか定かではないが、次のような構成になっている。
1.光の祝祭
2.み言葉
3.洗礼
4.聖餐
5.派遣
光の祝祭の部では、会堂の外、玄関わきにたき火を起こし、そこから火をとってパスカキャンドルにともして礼拝堂まで行進をして、キリストの光の到来を暗闇の中に迎えて、闇に勝利、死に対するいのちの勝利の救いを象徴する。
み言葉の部においては、旧約聖書から神の救いの歴史をたどるように七つの朗読がなされる。
七つの聖書箇所は①創世記1:1-2:4a、②創世記7:1-5、11-18、8:6-18、9:8-13、
③創世記22:1-18、④出エジ14:10-31、15:20-21、⑤イザヤ55:1-11、⑥エゼ36:24-28、
⑦エゼ37:1-14
一つひとつの朗読において、詩編が歌われるか、もしくは適当な讃美歌が歌われ、一定の時間の黙想が続き、祈りが祈られる。
そして、続いてローマ6:3-11が使徒書の箇所として読まれる。洗礼の出来事がキリストの死と復活に与り、罪が滅ぼされて永遠の命をたらすものであることを確認するのである。
また説教もここで話されるので、説教のために復活のテキストが福音書から読まれる。
洗礼の部は実際に洗礼式が行われるのとは別に教会員全員が洗礼の意味を今一度思い起こすように洗礼の水を棕櫚の葉などによって会衆に振り掛ける儀式が整えられている。
聖餐の部と派遣は通常の礼拝に準じている。
今の形は大分簡略化していて、全体で約2時間ほどの礼拝となっているが、実際は御言葉の部においての一つひとつの黙想にはもっと時間をかけておこなうのが本来の姿だろう。
また、洗礼も、この時に実際の洗礼式が行われるのが伝統的な祝い方だ。レントの期間に準備を重ねて、この日に洗礼を受ける。ちなみに、このレントの期間にBのマルコ年であるにもかかわず主日の日課がヨハネを多く取り上げたのは、この洗礼準備の時に受洗者のみでなく、会衆もみなその準備を過ごすための日課だそうである。つまり、A,B,Cのどの年でも、ヨハネを読み、洗礼準備の時を過ごし、すでに洗礼を受けている信徒もみなこの洗礼の意味を受け取っていく。
こうして、主の復活が確かな救いの出来事として「私」に与えられた恵みであることをいただき、喜びと感謝のなかにイースターの本当の意味を祝うのである。
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