本文から
●世界中のカトリックとルーテルの人々への呼び掛け
わたしたちはすべてのルーテルとカトリックの教会員と教会に、わたしたちの前にある大きな旅を続けることに加わって、大胆であり、創造的であり、喜びをもち、希望をもつよう呼び掛けます。過去の争いよりもむしろ、わたしたちの間における一致という神の賜物が協働を導き、わたしたちの連帯を強めてくださるでしょう。キリストを信じる信仰において近付けられ、互いに耳を傾け合い、わたしたちの関係においてキリストの愛を生きることによって、わたしたち、カトリックとルーテルの者たちは、三位一体の神の力に心を開きましょう。キリストに根ざし、キリストを証しして、すべての人に対する神の限りない愛の信実の使者となるという定めをわたしたちは新たにするのです。
学び
この声明は最後に今一度世界のカトリック教会、ルーテル教会の人々に呼びかけている。「争いから交わりへ」という一つの言葉(コンセプト)によって象徴的に現すこの両教会の歴史的取り組みが、単に一過性のお祭りに終わることのないように、それぞれの地域、社会のなかでこの信仰を証し、具体的な生活や世界の課題のなかで互いに神のみこころに生きることを支え合い、「愛の真実の使者」たるべく、自らを整えていこうとよびかけるのだ。
それを可能にするのは、私たち人間の力によるのではなく、洗礼によって結び合わされた三位一体の神の力によるのだし、また私たちが生かされているキリストのいのちがこれを進めていく具体的な働きを産み出すという確信を伝えている。
コリントの信徒への手紙1の12章に語られているように、一つの洗礼、一つの霊の賜物にあずかって一人のキリストの体として結び合わされている私たちが、キリストを証しするように生かされていく。それは神のみことばによる神ご自身の御業なのだから、大胆にこれに信頼をするように呼びかけるている。私たちは時に絶望しそうになることがたくさんある。政治的状況を見ても、環境の問題においても、とても解決できそうにない課題を目の前にみているのだ。しかし、神が決してあきらめることなく私たちに働いていてくださる信仰に立つとき、私たちの中に新しい希望が与えられる。
信仰と希望と愛をキリストにいただくことから、歩み続けるようにと呼びかけることばで締めくくられているのだ。
2017-01-11
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑸
〈本文から〉
●キリストにあってひとつ
この喜びの時に、わたしたちは、世界のキリスト教諸教会や交わりを代表してここに同席し、わたしたちと祈りを共にしている、わたしたちの兄弟姉妹にわたしたちの感謝を申し上げます。争いから交わりへ進もうと取り組むに当たって、わたしたちは洗礼によってそこに加えられている、キリストのひとつのからだの一部分としてそうしているのです。わたしたちはわたしたちの努力を思い起こさせ、また、わたしたちを励ましてくださるよう、エキュメニカルな同志にお願いします。わたしたちはこの同志に、わたしたちのために祈り、共に歩み、今日表明している、祈りを込めた努力を生き抜くに当たってわたしたちを支え続けてくださるよう求めます。
〈学び〉
●キリストにあってひとつ
この喜びの時に、わたしたちは、世界のキリスト教諸教会や交わりを代表してここに同席し、わたしたちと祈りを共にしている、わたしたちの兄弟姉妹にわたしたちの感謝を申し上げます。争いから交わりへ進もうと取り組むに当たって、わたしたちは洗礼によってそこに加えられている、キリストのひとつのからだの一部分としてそうしているのです。わたしたちはわたしたちの努力を思い起こさせ、また、わたしたちを励ましてくださるよう、エキュメニカルな同志にお願いします。わたしたちはこの同志に、わたしたちのために祈り、共に歩み、今日表明している、祈りを込めた努力を生き抜くに当たってわたしたちを支え続けてくださるよう求めます。
〈学び〉
この声明は、カトリックとルーテルの50年にわたる対話がそれぞれの取り組みにおいて成果を積み上げてきたことの結果として産み出されたものだ。異なる二つの教派という事だけではなく、ある意味で歴史のなかで最も激しく争い、キリスト教西欧世界を二分するような結果をもたらした両教会が、こうして今、この記念の年に共同して一つの声明を現すことになったことは意義深い。
しかし、こうしたエキュメニカルな交わり、その対話と和解、共同ということはカトリックとルーテルという二教会間だけのものではない。むしろ20世紀はエキュメニズムの世紀であるといわれるほどに、世界のキリスト教が対話を重ねて、具体的な協力関係を作ってきたし、一致に向けての成果も産み出してきた。
1910年の世界宣教会議(エディンバラ)、1921年のIMC結成、1925年「生活と実践」委員会、1927年「信仰職制」委員会など、プロテスタント教会間での教派をこえた交わりと共同がすすみ、第二次世界大戦を経て、1948年には世界教会協議会(WCC)の発足となる。信仰職制委員会には、発足当時から実はローマ・カトリック教会からのメンバーを正式に迎えていて、教会一致のための神学的な学びを積み重ねてきたのだ。あるいはまた、19世紀から続いていたカトリック教会での典礼復興運動はプロテスタント諸教会にも影響し、礼拝についての学びと実践が教派を超えてなされていくようなことも起こっていた。そして、特筆すべきは1982年に公にされたリマ文書、BEM文書が産み出されたことだ。これは、WCCに加盟する各教派の洗礼(Baptism)、聖餐(Eucharist)、職務(Ministry)に関する神学的な違いを乗り越えていくための対話を重ね、相互理解と受容を推し進めて、ここまでは一つの理解に到達しているという収斂させた成果を公にしたものだ。そして、この理解を基にして、リマ式文なるものが作成され、教派をこえて聖餐をともにする礼拝を可能にしようという画期的な取り組みなのだ。現実にこの式文を用いての一致の礼拝をもつにはまだまだ課題が多いといわなければならないが、少なくともこうしたエキュメニカルな交わりと神学的な対話の大きな流れが20世紀のはじめから続いていたことが、カトリック教会の第二バチカン公会議、エキュメニズム教令に影響を与えたに違いないし、実際にカトリックとルーテルの対話もこうしたWCCでの取り組みということと重なっていたからこそ成果をあげることが出来たのだと言える。
従って、この声明ではこうした多くのエキュメニズムの取り組みをしてきているキリスト教世界に対する感謝を述べ、またそうした大きな教会一致への願いを祈り続けてもらえるように願っているわけだ。そして、この宣言だけでなく、カトリックとルーテルの両教会のエキュメニズムの成果がそうした世界のキリスト教会の一致運動との深い関係のなかにおぼえられることに大きな意味があるといってよいだろう。
しかし、こうしたエキュメニカルな交わり、その対話と和解、共同ということはカトリックとルーテルという二教会間だけのものではない。むしろ20世紀はエキュメニズムの世紀であるといわれるほどに、世界のキリスト教が対話を重ねて、具体的な協力関係を作ってきたし、一致に向けての成果も産み出してきた。
1910年の世界宣教会議(エディンバラ)、1921年のIMC結成、1925年「生活と実践」委員会、1927年「信仰職制」委員会など、プロテスタント教会間での教派をこえた交わりと共同がすすみ、第二次世界大戦を経て、1948年には世界教会協議会(WCC)の発足となる。信仰職制委員会には、発足当時から実はローマ・カトリック教会からのメンバーを正式に迎えていて、教会一致のための神学的な学びを積み重ねてきたのだ。あるいはまた、19世紀から続いていたカトリック教会での典礼復興運動はプロテスタント諸教会にも影響し、礼拝についての学びと実践が教派を超えてなされていくようなことも起こっていた。そして、特筆すべきは1982年に公にされたリマ文書、BEM文書が産み出されたことだ。これは、WCCに加盟する各教派の洗礼(Baptism)、聖餐(Eucharist)、職務(Ministry)に関する神学的な違いを乗り越えていくための対話を重ね、相互理解と受容を推し進めて、ここまでは一つの理解に到達しているという収斂させた成果を公にしたものだ。そして、この理解を基にして、リマ式文なるものが作成され、教派をこえて聖餐をともにする礼拝を可能にしようという画期的な取り組みなのだ。現実にこの式文を用いての一致の礼拝をもつにはまだまだ課題が多いといわなければならないが、少なくともこうしたエキュメニカルな交わりと神学的な対話の大きな流れが20世紀のはじめから続いていたことが、カトリック教会の第二バチカン公会議、エキュメニズム教令に影響を与えたに違いないし、実際にカトリックとルーテルの対話もこうしたWCCでの取り組みということと重なっていたからこそ成果をあげることが出来たのだと言える。
従って、この声明ではこうした多くのエキュメニズムの取り組みをしてきているキリスト教世界に対する感謝を述べ、またそうした大きな教会一致への願いを祈り続けてもらえるように願っているわけだ。そして、この宣言だけでなく、カトリックとルーテルの両教会のエキュメニズムの成果がそうした世界のキリスト教会の一致運動との深い関係のなかにおぼえられることに大きな意味があるといってよいだろう。
2017-01-10
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑷-④
本文から
以前に増して一層わたしたちは、この世界におけるわたしたちの共同の奉仕が開発や飽くことを知らない欲望にさらされている神の創造へと拡張されねばならないことを認識しています。わたしたちは将来の世代が神の世界をその可能性と美しさのすべてにおいて享受する権利を認めます。わたしたちは、この被造の世界のために愛と責任をもってこれを導くよう、心と思いが変わっていくように祈ります。
学び
この声明は、こうした世界の争いや差別、迫害という課題を見据えながら、その奥に隠された現代世界を息に人間の根本的な問題にまで切り込んでいる。
人間の経済・文化が人間の「開発と飽くことをしらない欲望」に支配されていて、それが本来人間が神の創造に参与し、世界を守り、ケアするつとめを負っているにも拘らず、むしろ、被造物全体を傷つけ、損なってしまっていること現実を見つめている。だからこそ、この世界そのものに対する奉仕ということを地球規模において全面的に展開していかなければならないというのだ。「神の世界の可能性と美しさ」が失われていく。その危機感を持っているからこそ、いま、それを次の世代に、またその次の世代へと引継ぎ、守らなければならないと表明する。
20世紀の後半、人間の健康をも損なうような深刻な環境破壊を体験してきた。また、平和利用という神話のかげで、核の取り返しのつかない放射能汚染の危機を抱きかかえてきたのだ。それは近い将来に人間のいのちそのものを脅かすものであることを予想させるのだ。だからこそ、いま、この問題から目を背けることのないように、この世界に対する「愛と責任」を心にきざむのだ。
昨年、教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」を明らかにし、次の世代の子どもたちに神の創造された世界を引き継いでいく責任を語った。具体的に環境問題に深く減給するばかりではなく、基本的にこの世界のなかで人間が生きる意味や価値が失われていくような現実に対してキリスト教の果たすべき使命を語っている。
この声明も、回勅が明らかにしている課題を共有し、両教会が被造世界全てに対する責任を分かち合うということを確認しているのだ。
以前に増して一層わたしたちは、この世界におけるわたしたちの共同の奉仕が開発や飽くことを知らない欲望にさらされている神の創造へと拡張されねばならないことを認識しています。わたしたちは将来の世代が神の世界をその可能性と美しさのすべてにおいて享受する権利を認めます。わたしたちは、この被造の世界のために愛と責任をもってこれを導くよう、心と思いが変わっていくように祈ります。
この声明は、こうした世界の争いや差別、迫害という課題を見据えながら、その奥に隠された現代世界を息に人間の根本的な問題にまで切り込んでいる。
人間の経済・文化が人間の「開発と飽くことをしらない欲望」に支配されていて、それが本来人間が神の創造に参与し、世界を守り、ケアするつとめを負っているにも拘らず、むしろ、被造物全体を傷つけ、損なってしまっていること現実を見つめている。だからこそ、この世界そのものに対する奉仕ということを地球規模において全面的に展開していかなければならないというのだ。「神の世界の可能性と美しさ」が失われていく。その危機感を持っているからこそ、いま、それを次の世代に、またその次の世代へと引継ぎ、守らなければならないと表明する。
20世紀の後半、人間の健康をも損なうような深刻な環境破壊を体験してきた。また、平和利用という神話のかげで、核の取り返しのつかない放射能汚染の危機を抱きかかえてきたのだ。それは近い将来に人間のいのちそのものを脅かすものであることを予想させるのだ。だからこそ、いま、この問題から目を背けることのないように、この世界に対する「愛と責任」を心にきざむのだ。
昨年、教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」を明らかにし、次の世代の子どもたちに神の創造された世界を引き継いでいく責任を語った。具体的に環境問題に深く減給するばかりではなく、基本的にこの世界のなかで人間が生きる意味や価値が失われていくような現実に対してキリスト教の果たすべき使命を語っている。
この声明も、回勅が明らかにしている課題を共有し、両教会が被造世界全てに対する責任を分かち合うということを確認しているのだ。
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑷-③
〈本文から〉
わたしたちは神に祈ります。カトリックの者たちとルーテルの者たちがイエス・キリストの福音を共に証しし、神の救いの働きを受け入れるべく人々を招くようになることを。わたしたちは共に奉仕の務めに立って、特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。今は特に、多くの国々や社会で、またキリストにある数え切れないほどの姉妹や兄弟たちに影響を及ぼしている暴力や過激主義を終わらせるよう、わたしたちは声を挙げねばなりません。わたしたちはルーテルやカトリックの人々に、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます。
〈学び〉
この声明は、単にこの二つの教会の和解と一致ということに終始せず、むしろ、それが両教会が共同・協働して宣教の責任を担うように決意し、また両教会に属している人々に強く呼びかけていることだ。
中心はキリストの福音を分かち合うこと。しかし、信仰への招きということだけを語るのではなく、この世界に神のみこころである正義・公平・平和を実現していくつとめを重く受け止め、その責任を担っていくべきことを語っている。特に、現代世界という文脈をしっかりと見つめ、今も多くの人々が差別や争いや暴力によって人間として生きる尊厳を奪われていることを課題としていることがわかる。
声明は、そういういのちの尊厳と正義、平和と和解を求めている人々に「近づく」ことへと神が呼びかけておられると招いている。「近づくこと」は、具体的に問題に関わり、人々の苦しみに触れるということだ。それは、この招きに応えて近づくものたちに、傷つき、痛み、哀しみや怒りをもたらすことでもある。それでも、そうやって共に生きることを神がもとめている。福音を限られた人々の中にとどめるのではなく、貧しい人や苦しみの中にある一人ひとりへと届けること、逆にいえば、そうした人々を自分の場所へ招くこと、受け入れていくことを両教会、いやキリストの教会のつとめとして深く見定め、信仰者を押し出しているのだ。
ことにも、難民受け入れの問題に揺れる伝統的キリスト教世界である欧米社会にとって、この語りかけがなされた意味は大きい。現状はといえば、いわゆるポピュリズムの大きな流れは一定の限られた人々の利益にだけ結びついてる保護主義・排他主義が力を得ているようだ。あのとき、多くの群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫び出したことを思い起させる。煽動する者たちがあったに違いないが、人間の愚かしさはいつの世も変わらない。けれども、その大きな流れが、たとえ人からあらゆる尊厳を奪い取っていこうとも神がそのいのちを愛される。それを、主の十字架の出来事が示している。だからこそ、イエスを主と仰ぐ者たちはともにこのキリストを証しするように招かれているのだ。
わたしたちは神に祈ります。カトリックの者たちとルーテルの者たちがイエス・キリストの福音を共に証しし、神の救いの働きを受け入れるべく人々を招くようになることを。わたしたちは共に奉仕の務めに立って、特に貧しい人々のために、人間の尊厳と権利とを高め、正義のために働き、あらゆる形の暴力を斥けることにおいて共に奉仕に当たることができるよう、霊の導きと勇気と力とを神に祈ります。尊厳、正義、平和、和解を切に求めているすべての人々にわたしたちが近づくようにと、神は呼び掛けておられます。今は特に、多くの国々や社会で、またキリストにある数え切れないほどの姉妹や兄弟たちに影響を及ぼしている暴力や過激主義を終わらせるよう、わたしたちは声を挙げねばなりません。わたしたちはルーテルやカトリックの人々に、知らない人々を受け入れ、戦いや迫害のゆえに逃れることを強いられた人々に助けの手を差し伸べ、難民や亡命を求める人々の権利を守るよう、共に働くことを強く求めます。
〈学び〉
この声明は、単にこの二つの教会の和解と一致ということに終始せず、むしろ、それが両教会が共同・協働して宣教の責任を担うように決意し、また両教会に属している人々に強く呼びかけていることだ。
中心はキリストの福音を分かち合うこと。しかし、信仰への招きということだけを語るのではなく、この世界に神のみこころである正義・公平・平和を実現していくつとめを重く受け止め、その責任を担っていくべきことを語っている。特に、現代世界という文脈をしっかりと見つめ、今も多くの人々が差別や争いや暴力によって人間として生きる尊厳を奪われていることを課題としていることがわかる。
声明は、そういういのちの尊厳と正義、平和と和解を求めている人々に「近づく」ことへと神が呼びかけておられると招いている。「近づくこと」は、具体的に問題に関わり、人々の苦しみに触れるということだ。それは、この招きに応えて近づくものたちに、傷つき、痛み、哀しみや怒りをもたらすことでもある。それでも、そうやって共に生きることを神がもとめている。福音を限られた人々の中にとどめるのではなく、貧しい人や苦しみの中にある一人ひとりへと届けること、逆にいえば、そうした人々を自分の場所へ招くこと、受け入れていくことを両教会、いやキリストの教会のつとめとして深く見定め、信仰者を押し出しているのだ。
ことにも、難民受け入れの問題に揺れる伝統的キリスト教世界である欧米社会にとって、この語りかけがなされた意味は大きい。現状はといえば、いわゆるポピュリズムの大きな流れは一定の限られた人々の利益にだけ結びついてる保護主義・排他主義が力を得ているようだ。あのとき、多くの群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫び出したことを思い起させる。煽動する者たちがあったに違いないが、人間の愚かしさはいつの世も変わらない。けれども、その大きな流れが、たとえ人からあらゆる尊厳を奪い取っていこうとも神がそのいのちを愛される。それを、主の十字架の出来事が示している。だからこそ、イエスを主と仰ぐ者たちはともにこのキリストを証しするように招かれているのだ。
2017-01-09
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑷-②
〈本文から〉
わたしたちの共同体の多くの会員たちは、十全な一致の具体的な現れとして、ひとつの聖卓で聖餐を受けることを心から願っています。全生活を共にしながら、聖餐の聖卓において神の救いの現臨を分かち合うことができない人々の痛みを経験しています。わたしたちはキリストにあってひとつとなるという人々の霊的な渇きと飢えとに応えるべき、わたしたちの牧会的な共同の責任を認識しています。わたしたちはキリストのからだにおけるこの傷が癒されることを切に願っています。これは神学的な対話へのわたしたちの関わりを新たにしていくことによってもまた、わたしたちのエキュメカルな努力の目指すところなのです。
学び
キリスト教の教派を超えた交わり、対話と共同・協働の関係を築いていくことをエキュメニズムと呼ぶが、これは「教会一致運動」とか「世界教会主義」などと訳される。
もともとイエス・キリストを救い主と信ずる信仰者は、それぞれに違いがあっても父と子と聖霊の一つの神を信じ、一つの洗礼によってキリストの体に結ばれているものであって、その体はそれぞれを尊重し、それぞれの働きが結び合わされて成長し、この世界に働くものと教えられている。だからこそ、歴史の中で一つの教会ということが絶えず求められてきたといってよい。
しかしながら、一つであることを求めることは、間違ったものや異なるものと判断されると、それを排除していくということと裏腹の関係となることはさけ難い。現実には時代や場所、状況の違いがそれぞれの信仰に特徴をもたらすものだし、言葉や文化が異なれば信仰の理解にも違いが生まれる。人間の世界に存在する限り、政治的な力関係のなかで異なるグループが分裂したり、影響し合ったりすることも当然起こる。それが、今日のキリスト教世界のなかに多様な教派の存在を造り出してきたといってよいだろう。
その違いを改めて認め合いながらも、やはりキリスト教は本来の一つのものとして一致していこうというのがこのエキュメニズムということになる。カトリックとルーテルもお互いを認め合い、一致のためにこの対話を重ね、交わりを深めている。
あらゆるエキュメニズムの目指すところは、必ずしも組織的な完全なる一致、融合ではない。むしろ、それぞれの教派の違い、その存在を確かに認め、それをキリスト教の豊かさとしていけるように考えているといってよいだろう。その時に、具体的に目指している姿は、共に聖餐にあずかる一つの礼拝をもつことと言われている。主の食卓を共に囲むことは、やがて神の国が実現するときの一致、その祝宴の先取りを今・ここに経験することに他ならないからだ。
カトリックとルーテルは、今、これだけ対話を重ね、お互い理解し、これからもその歩みを重ねていくことを宣言しているのだが、それでも、まだ聖餐を共にすることは出来ないでいる。実は、カトリック教会はどんな教派ともまだこの共なる聖餐というところまで一致を実現してはいない。一つの聖餐ということが一つの教会ということを現すということが本当に大切なこととと理解されているが故に、教会とはなにか、聖餐とはなにかということの理解に一致がなければ、聖餐を共にすることは出来ない。それを曖昧にして聖餐を共にすることは、結果として相手を尊重しないということにもなってしまうからだ。だからこそ、共に聖餐にあずかるということについては、本当に慎重になっている。この聖餐は、単なる食事でなく、特別な意味をもっているからこそ、この食卓を一つに交わりをもつためにはお互いにその意味を理解することが必要なのだ。
しかし、この声明は、その「共なる聖餐」を目指していることをはっきりと示している。そこに向かっているのだと表明するのは、その実現がそんなに遠いことではないと理解されているのだと信じたい。
お互いを認めているのであれば、一つの食卓を囲むというそんな単純なことがどうしてできないの?そんなのおかしいよ。と、素直に思うことは決して間違っていない。それがエキュメニズムの原点だといってよいだろう。だから、そんなのおかしいと思う痛み、哀しみ、あるいは悔しさ、そういうものが、一つの聖餐を実現する時に、本当に癒されていくことであることを思わずにはいられない。だから、それを渇望する。これがエキュメニズムを進める力だと思う。
たとえば、今、同じ町にカトリック教会もルーテル教会も普通に存在しているのだから、そのカトリック教会にいっている人とルーテル教会にいっている人が互いに友となって、お互いの教会を行き来するということは普通にあっておかしくない。でも、その相手の教会の礼拝に出席しても、そこで祝われる聖餐、ミサにはあずかれない。たとえば、カトリックの人とルーテルの人が結婚したら、いずれかの教会に完全に転籍してということでなければ、一つの礼拝、一つの聖餐にあずかることは出来ない。これが分かたれているということの痛みなのだ。
だから、「ひとつの聖卓で聖餐を受けること」が本当に願われているのだし、その実現は必ずや大きな証になる。争い、分かたれてきたところに、交わりが、和解が、慰めが与えられること。この願いは、実現へとむかっているのだ。
わたしたちの共同体の多くの会員たちは、十全な一致の具体的な現れとして、ひとつの聖卓で聖餐を受けることを心から願っています。全生活を共にしながら、聖餐の聖卓において神の救いの現臨を分かち合うことができない人々の痛みを経験しています。わたしたちはキリストにあってひとつとなるという人々の霊的な渇きと飢えとに応えるべき、わたしたちの牧会的な共同の責任を認識しています。わたしたちはキリストのからだにおけるこの傷が癒されることを切に願っています。これは神学的な対話へのわたしたちの関わりを新たにしていくことによってもまた、わたしたちのエキュメカルな努力の目指すところなのです。
学び
キリスト教の教派を超えた交わり、対話と共同・協働の関係を築いていくことをエキュメニズムと呼ぶが、これは「教会一致運動」とか「世界教会主義」などと訳される。
もともとイエス・キリストを救い主と信ずる信仰者は、それぞれに違いがあっても父と子と聖霊の一つの神を信じ、一つの洗礼によってキリストの体に結ばれているものであって、その体はそれぞれを尊重し、それぞれの働きが結び合わされて成長し、この世界に働くものと教えられている。だからこそ、歴史の中で一つの教会ということが絶えず求められてきたといってよい。
しかしながら、一つであることを求めることは、間違ったものや異なるものと判断されると、それを排除していくということと裏腹の関係となることはさけ難い。現実には時代や場所、状況の違いがそれぞれの信仰に特徴をもたらすものだし、言葉や文化が異なれば信仰の理解にも違いが生まれる。人間の世界に存在する限り、政治的な力関係のなかで異なるグループが分裂したり、影響し合ったりすることも当然起こる。それが、今日のキリスト教世界のなかに多様な教派の存在を造り出してきたといってよいだろう。
その違いを改めて認め合いながらも、やはりキリスト教は本来の一つのものとして一致していこうというのがこのエキュメニズムということになる。カトリックとルーテルもお互いを認め合い、一致のためにこの対話を重ね、交わりを深めている。
あらゆるエキュメニズムの目指すところは、必ずしも組織的な完全なる一致、融合ではない。むしろ、それぞれの教派の違い、その存在を確かに認め、それをキリスト教の豊かさとしていけるように考えているといってよいだろう。その時に、具体的に目指している姿は、共に聖餐にあずかる一つの礼拝をもつことと言われている。主の食卓を共に囲むことは、やがて神の国が実現するときの一致、その祝宴の先取りを今・ここに経験することに他ならないからだ。
カトリックとルーテルは、今、これだけ対話を重ね、お互い理解し、これからもその歩みを重ねていくことを宣言しているのだが、それでも、まだ聖餐を共にすることは出来ないでいる。実は、カトリック教会はどんな教派ともまだこの共なる聖餐というところまで一致を実現してはいない。一つの聖餐ということが一つの教会ということを現すということが本当に大切なこととと理解されているが故に、教会とはなにか、聖餐とはなにかということの理解に一致がなければ、聖餐を共にすることは出来ない。それを曖昧にして聖餐を共にすることは、結果として相手を尊重しないということにもなってしまうからだ。だからこそ、共に聖餐にあずかるということについては、本当に慎重になっている。この聖餐は、単なる食事でなく、特別な意味をもっているからこそ、この食卓を一つに交わりをもつためにはお互いにその意味を理解することが必要なのだ。
しかし、この声明は、その「共なる聖餐」を目指していることをはっきりと示している。そこに向かっているのだと表明するのは、その実現がそんなに遠いことではないと理解されているのだと信じたい。
お互いを認めているのであれば、一つの食卓を囲むというそんな単純なことがどうしてできないの?そんなのおかしいよ。と、素直に思うことは決して間違っていない。それがエキュメニズムの原点だといってよいだろう。だから、そんなのおかしいと思う痛み、哀しみ、あるいは悔しさ、そういうものが、一つの聖餐を実現する時に、本当に癒されていくことであることを思わずにはいられない。だから、それを渇望する。これがエキュメニズムを進める力だと思う。
たとえば、今、同じ町にカトリック教会もルーテル教会も普通に存在しているのだから、そのカトリック教会にいっている人とルーテル教会にいっている人が互いに友となって、お互いの教会を行き来するということは普通にあっておかしくない。でも、その相手の教会の礼拝に出席しても、そこで祝われる聖餐、ミサにはあずかれない。たとえば、カトリックの人とルーテルの人が結婚したら、いずれかの教会に完全に転籍してということでなければ、一つの礼拝、一つの聖餐にあずかることは出来ない。これが分かたれているということの痛みなのだ。
だから、「ひとつの聖卓で聖餐を受けること」が本当に願われているのだし、その実現は必ずや大きな証になる。争い、分かたれてきたところに、交わりが、和解が、慰めが与えられること。この願いは、実現へとむかっているのだ。
2017-01-06
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑷-①
本文から
●共に証しすることに向けてのわたしたちの参与
わたしたちの重荷となっている、歴史上のこれらのできごとを乗り越えて進むとき、わたしたちは十字架にかかり、挙げられたキリストにおいて見えるものとされている神のいつくしみ深い恵みに応えて、相共に証しすることを堅く誓います。わたしたちが堅く関わりをもつあり方こそが福音へのわたしたちの証しを形作ることを意識して、完全な一致を得ることからわたしたちを妨げている、まだ残っている妨げを取り除くことを求めて、わたしたちは洗礼に根拠づけられている交わりにおける更なる成長に深く関わります。キリストは、わたしたちがひとつとなって、この世が信じるようになることをお望みです(ヨハネによる福音書17章23節参照)。
(Joint Declaration on the Doctrine of Justification『義認の教理に関する共同宣言』)
学び
カトリックとルーテルの両教会が確かな一致への歩みを重ねてきたなかで、最も重要な鍵となったのはキリストの福音についてであった。宗教改革は、まさにその一点を問題にして争われたといってよいのだ。だからこそ、いまその歴史を超えて進むという時に、その問題を避けて通るわけにはいかない。そして、その福音を語るということをもっとも大切な使命とするならば、その二つの教会は「争い」の中に留まるべきではないのだ。両教会がそれぞれに相手を非難攻撃しながら、イエス・キリストによって与えられる神の恵みの出来事を証するなどということはありえない。だから、カトリックとルーテルの関係の在り方そのものの中でこそ、福音が証されるはずだというのだ。これが、長い対話を辛抱強く重ねきた力になっている。
1999年、両教会は「義認の教理に関する共同宣言」を明らかにする。「義認の教理」こそが、その福音の理解をめぐって「争い」を産み出した神学的なテーマなのだ。その教理について、両教会が一致して共有される理解を告白宣言したということだ。この宣言こそ、長い対話のなかで最も大きな成果であり、宗教改革500年を共同で記念することを可能にした文書だといってよいだろう。
その「義認の教理に関する共同宣言」は、両教会の一致とともに、まだ残されている神学的な相違や課題も示している。今回のこの声明においても、その相違や課題をこれからの歴史を歩む中で克服していくことが、キリストを証する両教会の使命であるとの理解を示しているのだ。
●共に証しすることに向けてのわたしたちの参与
わたしたちの重荷となっている、歴史上のこれらのできごとを乗り越えて進むとき、わたしたちは十字架にかかり、挙げられたキリストにおいて見えるものとされている神のいつくしみ深い恵みに応えて、相共に証しすることを堅く誓います。わたしたちが堅く関わりをもつあり方こそが福音へのわたしたちの証しを形作ることを意識して、完全な一致を得ることからわたしたちを妨げている、まだ残っている妨げを取り除くことを求めて、わたしたちは洗礼に根拠づけられている交わりにおける更なる成長に深く関わります。キリストは、わたしたちがひとつとなって、この世が信じるようになることをお望みです(ヨハネによる福音書17章23節参照)。
(Joint Declaration on the Doctrine of Justification『義認の教理に関する共同宣言』)
学び
カトリックとルーテルの両教会が確かな一致への歩みを重ねてきたなかで、最も重要な鍵となったのはキリストの福音についてであった。宗教改革は、まさにその一点を問題にして争われたといってよいのだ。だからこそ、いまその歴史を超えて進むという時に、その問題を避けて通るわけにはいかない。そして、その福音を語るということをもっとも大切な使命とするならば、その二つの教会は「争い」の中に留まるべきではないのだ。両教会がそれぞれに相手を非難攻撃しながら、イエス・キリストによって与えられる神の恵みの出来事を証するなどということはありえない。だから、カトリックとルーテルの関係の在り方そのものの中でこそ、福音が証されるはずだというのだ。これが、長い対話を辛抱強く重ねきた力になっている。
1999年、両教会は「義認の教理に関する共同宣言」を明らかにする。「義認の教理」こそが、その福音の理解をめぐって「争い」を産み出した神学的なテーマなのだ。その教理について、両教会が一致して共有される理解を告白宣言したということだ。この宣言こそ、長い対話のなかで最も大きな成果であり、宗教改革500年を共同で記念することを可能にした文書だといってよいだろう。
その「義認の教理に関する共同宣言」は、両教会の一致とともに、まだ残されている神学的な相違や課題も示している。今回のこの声明においても、その相違や課題をこれからの歴史を歩む中で克服していくことが、キリストを証する両教会の使命であるとの理解を示しているのだ。
2017-01-04
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑶
〈本文から〉
●争いから交わりへと変わっていく
宗教改革によって受けた霊的、また神学的な賜物に深く感謝しながら、わたしたちはまた、ルーテル教会もカトリック教会も教会の目に見える一致を傷つけてきたことをキリストのみ前でざんげし、悲しみます。神学的違いには偏見と争いとが伴いましたし、宗教は政治的な結果に至る手段となりました。イエス・キリストを信じるわたしたちの共通の信仰とわたしたちの洗礼はわたしたちに日毎の悔い改めを求めています。それによってわたしたちは、和解の務めを妨げる歴史的な争いと不一致とを捨て去ることができるのです。過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうることです。わたしたちお互いの見方を曇らせてきた傷と記憶の癒しをわたしたちは祈ります。わたしたちは過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥けます。今日わたしたちはすべての争いを捨てるようにとの神のご命令を聴いています。わたしたちは、神が絶えずわたしたちを召しておられる交わりへと向かうように、恵みによって自由にされていることを確認しています。
〈学び〉
宗教改革の歴史を見るというとき、カトリック教会から見る場合とルーテル教会の側から見る場合とでは全く異なるものであったということを考えておかなければならない。ルーテル教会にとっては、宗教改革こそ自らのアイデンティティーを確認する神学的・霊的なルーツであり、福音の「正しい」理解を回復した出来事、カトリック側から見れば、それは教会の一致を乱し、多くの人々が「真の」教会から奪い取られていくような出来事として記憶されてきたと言えるだろう。
しかし、この声明ではカトリック教会もルーテル教会もともに、この出来事を「霊的、また神学的な賜物」をもたらしたといい、また「教会の目に見える一致を傷つけてきた」というのだ。こうしたことを両教会が共に告白できることこそ、長い対話の積み重ねのなかで、宗教改革という出来事を教派の視点というよりも神の教会の歴史のなかに見る視点に開かれて見出すことができた地平を示しているということだろう。
そして、そういう地平にたって神の前に深く懺悔しなければならない自らの罪をしっかりと見出し、告白することへ導かれているのだと思う。ただ、神の前に打ち砕かれて自らを告白する時にだけ、私たちには未来への確かな歩みをはじめる力をえるのではないだろうか。そして、そういう歩みをする時に、「過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうる」と大胆に語り、新しい歴史への責任を見出していくこととなっている。
「過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥け」ると宣言する時に、両教会は単に自分たちの過去についてのみ語っているのではなく、「今の世界」への責任をかたっているのだ。神のみことばに聞き、神の前に自らをかえりみることが、私たちの今への責任とそこへ生かされる力とを恵みのうちに見出すことへと向かわせるのだ。
●争いから交わりへと変わっていく
宗教改革によって受けた霊的、また神学的な賜物に深く感謝しながら、わたしたちはまた、ルーテル教会もカトリック教会も教会の目に見える一致を傷つけてきたことをキリストのみ前でざんげし、悲しみます。神学的違いには偏見と争いとが伴いましたし、宗教は政治的な結果に至る手段となりました。イエス・キリストを信じるわたしたちの共通の信仰とわたしたちの洗礼はわたしたちに日毎の悔い改めを求めています。それによってわたしたちは、和解の務めを妨げる歴史的な争いと不一致とを捨て去ることができるのです。過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうることです。わたしたちお互いの見方を曇らせてきた傷と記憶の癒しをわたしたちは祈ります。わたしたちは過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥けます。今日わたしたちはすべての争いを捨てるようにとの神のご命令を聴いています。わたしたちは、神が絶えずわたしたちを召しておられる交わりへと向かうように、恵みによって自由にされていることを確認しています。
〈学び〉
宗教改革の歴史を見るというとき、カトリック教会から見る場合とルーテル教会の側から見る場合とでは全く異なるものであったということを考えておかなければならない。ルーテル教会にとっては、宗教改革こそ自らのアイデンティティーを確認する神学的・霊的なルーツであり、福音の「正しい」理解を回復した出来事、カトリック側から見れば、それは教会の一致を乱し、多くの人々が「真の」教会から奪い取られていくような出来事として記憶されてきたと言えるだろう。
しかし、この声明ではカトリック教会もルーテル教会もともに、この出来事を「霊的、また神学的な賜物」をもたらしたといい、また「教会の目に見える一致を傷つけてきた」というのだ。こうしたことを両教会が共に告白できることこそ、長い対話の積み重ねのなかで、宗教改革という出来事を教派の視点というよりも神の教会の歴史のなかに見る視点に開かれて見出すことができた地平を示しているということだろう。
そして、そういう地平にたって神の前に深く懺悔しなければならない自らの罪をしっかりと見出し、告白することへ導かれているのだと思う。ただ、神の前に打ち砕かれて自らを告白する時にだけ、私たちには未来への確かな歩みをはじめる力をえるのではないだろうか。そして、そういう歩みをする時に、「過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうる」と大胆に語り、新しい歴史への責任を見出していくこととなっている。
「過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥け」ると宣言する時に、両教会は単に自分たちの過去についてのみ語っているのではなく、「今の世界」への責任をかたっているのだ。神のみことばに聞き、神の前に自らをかえりみることが、私たちの今への責任とそこへ生かされる力とを恵みのうちに見出すことへと向かわせるのだ。
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑵
〈本文から〉
●感謝の心をもって
この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。
〈学び〉
この「共同の祈り」がもたれるということは、先に記したようにこの50年間の両教会の代表によって積み重ねられてきた粘り強い取り組みがなければ、決して実現できなかったものだ。それまでも、もちろん互いの神学的主張についてはそれぞれに研究対象であったが、どちらかと言えば批判的傾向が強かったと言えるだろう。しかし、この対話の時期に入ってからは、お互いをより深く学び、認め合うものであった。
折しもルーテル教会の大切な信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」450年やルター生誕500年などのきりの良い時がこの50年の歩みの中に重なっていて、それでなくてもルターやルーテル教会について神学的検証が起こることが必然でもあった。その時期に、この両教会間の対話がなされることは特別な恵みであったといってよいかもしれない。
50年に渡る「エキュメニカルな対話」は今までのところでは五つの期に分けられている。第一期(1967〜72):この次期に、今一度、それぞれの教会の福音理解を友にしていることを確認した。その果実が1972の「福音と教会(マルタレポート)」。
第二期(1973〜84):聖餐、一人のキリストのもとにあること、教会の職務などのトピックを取り上げる。
第三期(1986〜1993):「教会と義認」をテーマに対話を重ねる。
第四期(1995〜2006):第三期をうけて、1999年「義認の教理に関する共同宣言」と、2006年の「教会の使徒性」を成果とする実りある対話がなされた。
第五期(2009〜):2017年を両教会で迎えるための準備をかさねてきた。2013年に「争いから交わりへ」の文書が出され、両教会の歴史の中の過ちを告白し、これからの両教会の宣教の責任とまた教会一致への歩みを宣言している。
つまり、この対話においては実践的な協力という側面よりもむしろはっきりと神学的課題を正面に据えてきたものだということがわかる。言葉をかえるなら、自分たちの信仰の内実、とりわけ福音の理解ということでの一致を確認するための歩みだったといってよいだろう。しかし、その一致を求める対話の中でこそ、それぞれの信仰の具体的な姿、内容が共有され、自らの伝統を寄りよく理解することにも、またそこでの特徴や課題についても気づかされていくものとなったといってよいだろう。そして、相手の姿の中に新しい発見も導きも見出していくことにもなった。
エキュメニカルな対話は教会を豊かに実らせているように思う。
そして、こうした対話とともに、より具体的な世界の課題で協力し合う、実践的交わりももちろんあったのだ。具体的な協力関係がお互いを本当によく理解し合う原動力になったことも確かなことだといわなければならない。
●感謝の心をもって
この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。
〈学び〉
この「共同の祈り」がもたれるということは、先に記したようにこの50年間の両教会の代表によって積み重ねられてきた粘り強い取り組みがなければ、決して実現できなかったものだ。それまでも、もちろん互いの神学的主張についてはそれぞれに研究対象であったが、どちらかと言えば批判的傾向が強かったと言えるだろう。しかし、この対話の時期に入ってからは、お互いをより深く学び、認め合うものであった。
折しもルーテル教会の大切な信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」450年やルター生誕500年などのきりの良い時がこの50年の歩みの中に重なっていて、それでなくてもルターやルーテル教会について神学的検証が起こることが必然でもあった。その時期に、この両教会間の対話がなされることは特別な恵みであったといってよいかもしれない。
50年に渡る「エキュメニカルな対話」は今までのところでは五つの期に分けられている。第一期(1967〜72):この次期に、今一度、それぞれの教会の福音理解を友にしていることを確認した。その果実が1972の「福音と教会(マルタレポート)」。
第二期(1973〜84):聖餐、一人のキリストのもとにあること、教会の職務などのトピックを取り上げる。
第三期(1986〜1993):「教会と義認」をテーマに対話を重ねる。
第四期(1995〜2006):第三期をうけて、1999年「義認の教理に関する共同宣言」と、2006年の「教会の使徒性」を成果とする実りある対話がなされた。
第五期(2009〜):2017年を両教会で迎えるための準備をかさねてきた。2013年に「争いから交わりへ」の文書が出され、両教会の歴史の中の過ちを告白し、これからの両教会の宣教の責任とまた教会一致への歩みを宣言している。
つまり、この対話においては実践的な協力という側面よりもむしろはっきりと神学的課題を正面に据えてきたものだということがわかる。言葉をかえるなら、自分たちの信仰の内実、とりわけ福音の理解ということでの一致を確認するための歩みだったといってよいだろう。しかし、その一致を求める対話の中でこそ、それぞれの信仰の具体的な姿、内容が共有され、自らの伝統を寄りよく理解することにも、またそこでの特徴や課題についても気づかされていくものとなったといってよいだろう。そして、相手の姿の中に新しい発見も導きも見出していくことにもなった。
エキュメニカルな対話は教会を豊かに実らせているように思う。
そして、こうした対話とともに、より具体的な世界の課題で協力し合う、実践的交わりももちろんあったのだ。具体的な協力関係がお互いを本当によく理解し合う原動力になったことも確かなことだといわなければならない。
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑴
2016年10月31日、スウェーデンのルンドで行われたカトリック教会とルーテル世界連盟の「共同の祈り」の礼拝において、2017年の宗教改革500年を共同で覚えるに当たっての声明文が公にされた。この声明はフランシスコ教皇とユナン連盟議長が書名をして発表されたのだ。少しずつ、この声明文を読んで学んでみよう。
はじめに、この記念礼拝でのテキストとされたヨハネ福音書が記される。
〈本文から〉
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができ
ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶこ
とができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)
〈学び〉
みことばを記すことにはじまる声明。みことばによってこそ導かれるという基本的な姿勢をしめしているといってよいだろう。これは、この宗教改革500年の記念ということに留まらず、近年のエキュメニカルな交わりの基本を示している。それぞれの教会の神学的な主張からはじまるのではなく、伝統に縛られるのではなく、みことばによってこそ導かれるべきなのだという意味を示している。
さて、このヨハネ15章の箇所が示されることで、カトリック教会もルーテル教会も等しくキリストに結ばれ、キリストに生かされ、豊かな身を結ぶものであるようにと主に呼びかけられている存在として認め合っていることが示されている。
当然のことのように思われるかも知れないが、決してそうではない。宗教改革者マルティン・ルターはカトリック陣営と論争した末に自説を撤回することのなかったために断罪された。その信仰に連なるルーテル教会はもちろん、カトリック教会からたもとを分かつこととなったプロテスタント教会は、カトリックから見れば教会として認められない異端とされてきたわけだ。逆にルターをはじめプロテスタント教会は、聖書に基づく福音主義を掲げて、カトリック陣営、特に聖書の解釈の正当性を独占するような教皇主義を徹底的に攻撃をした。中世から近代への歴史の中では両方の勢力は政治的な意味での対立と重なり西欧世界においては争いと対立が繰り返されてきた。
そうした対立は、近代国家の成立の歴史とともに比較的穏やかになっていくけれども、基本は変わらない。そうした関係を決定的に変えたのが、カトリック教会の大転換だったといってよいだろう。1962年から65年まで開かれた第二バチカン公会議は、カトリックのみならず世界のキリスト教会に大きな影響を与える会議となった。カトリック教会は、この四年にわたる公会議で、現代世界のなかに新しい教会の姿を求めて大きな舵を切ったのだ。その中で、1964年にエキュメニズム教令を公にしてプロテスタント教会にも真理が示されていることを否定しないこととなった。難しく言うとカトリック教会の包括主義的な立場(最終的に救いについての確かな真理があるのはカトリック教会に他はないのだけれども、部分的には他の場所においても神の普遍的真理を示すものがあることを否定せず、それを認めていこういうこと)をしめしている。しかし、実質的に大切なことは、中世の時のようにルーテル教会を「断罪する」という考えを改めて、兄弟としての教会と認めていく可能性を示したということだ。
そこからはじまる対話の歴史こそ、みことばによって導かれたものだ。その歴史があって、カトリックの立場からも、ルーテル教会が確かにキリストに連なるものと認められるようになったといってよいのだろう。ルーテル側からすればはじめから一つの教会を飛び出すことが目的の改革の呼びかけであったわけでもなく、こうした積み重ねられる対話によって、福音が明らかに示されていく教会の本来の姿として示されていく道筋にカトリック教会も立っていると認められることだっただろう。一つのキリストに連なる枝、互いに違いを認めつつ、その働きを尊重し、世界に向かって福音を示していくキリストの体としての教会を教派を超えて連なり宣教の働きを担うものとますますなっていくように、みことばが招いているのだ。
だからこそ、今、改めてこのみことばに聞くことが示されている。教会はたとえ教派が異なっても、キリストに連なるものとして認め合えることがなによりも大切なのだ
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