2015-12-29

鈴木浩先生 最終講義 及び 懇親会 

ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教授として長年ご貢献をいただき、また付属のルター研究所においては現所長としてお働きをいただいている鈴木浩先生がいよいよ、この2016年3月末をもって定年と迎えられることになります。そこで、以下のように先生の最終講義を予定しております。



鈴木浩先生 最終講義
日時:2016年1月30日(土)13:00〜14:00
場所:ルーテル学院大学ブラウンH 251教室
テーマ:「97箇条のルター」

最終講義の後、懇親会を開催致します。
人数確認ができるように、事前に学校に連絡をいただけますと助かります。
(代表番号0422−31−4611)Email: luther.sfl@gmail.com

先生には、学科長として大勢の学生がお世話になりましたね。特に、各神学校や大学院進学については、多くの学生が指導をいただきました。歴史神学がご専門ですが、大学で学ぶこと、好奇心と意欲をもって一つのことにかじりついて取り組むことを教えてくださいました。授業は、静かに語りはじめながらも途中からはアツイ語りをもって学生に伝えたいオーラが満載。独特の“ため”と“間”が学生の心を引きつけました。

歴史神学、特にアウグスティヌス研究がご専門でいらっしゃいますが、教父研究からの展開で東方教会の歴史と神学についても造詣の深い先生です。また、先生の聖書研究は切り口もするどく、インサイトに富んだ豊かさに多くのファンが魅了されています。
今回の最終講義のテーマは先生のルター研究の一端をご披瀝いただけるものでしょう。鈴木節が楽しみです。

大勢の方にお集りいただき、先生のお働きに感謝申し上げたいとおもいます。

追記:
大盛会でした。130名を超える多くの方々にお集まりいただきました。教室を251から252の大きい教室に変更していましたが、それでも会場は埋め尽くされて、熱心に先生のお話に耳を傾けておられました。
ルター研公開講座や英語聖書の授業を通しての鈴木ファン、また飯田橋で行われている聖書研究会の方々も駆けつけてくださいました。教会から、そしてキリスト教学科の卒業生、牧師たちも先生のお働きへの感謝の思いを先生にお伝えしたく参集されました。



1517年10月31日にウィッテンベルクの城教会の扉に贖宥の効力に関する公開の討論提題を著した「95箇条」はあまりに有名だが、実はその少し前、同じ年の9月3日づけで著した「スコラ神学を論駁する討論」(97箇条)においてルターはすでに宗教改革的神学を明らかにし、その神学を主張しはじめているというところから説き起こされました。
宗教改革の本質を、5世紀のアウグスティヌスとペラギウスとの論争の拡大再生産としてとらえる先生の主張を、緻密な神学的裏付けからお話しになられました。ルターとカルヴァンの神学は、オランジュ公会議以降骨抜きにされたアウグスティヌス神学の急進的で過激な再主張として神学史のなかに位置づけ、「信仰義認」の宗教改革神学を、罪の理解の徹底(原罪論)と、神の恵みの独占的な救いのみ業(予定論)を説くものとしてお話くださいました。Coram Deo (神の前で)と Coram hominibus (人々の前で)の区別を明確にすることで、アウグスティヌスの神学的な境界線を突破したルター神学の神髄を示してくださいました。
1時間ではとても足りない内容でしたが、福音を「鮮やかに、力強く、喜びにあふれて」伝えるための神学と説教、教会の宣教のための神学をお話しくださいました。

先生にはこれからもルター研の所長をしばらくはおつとめいただきます。また、大学・神学校でも非常勤として教えていただきます。そんなに急にいらっしゃらなくなると、私たちは困ります!



2015-12-25

第50回教職神学セミナー 「十字架の神学:現代の宣教の脈絡から」



年が明けた2月に、以下のように教職神学セミナーを計画しています。
ルーテルの各教会、教区に連絡をさせていただいています。
どうぞ、ご予定に加えていただけますように。
個々の講演についても参加できるように考えております。

2016年2月9日(火)〜12日(金)
場所:代々木オリンピックセンター

【テーマについて】
 今回は、宗教改革500年を直前にして、ルター神学の中心テーマを取り上げようと、『十字架の神学』に焦点を当てることと致しました。そして、この神学的な視座を、現代の宣教の脈絡の中でとらえていきたいと実践的、宣教学的な関心をもって牧師先生方に学んでいただこうと準備をしております。

【講 演】
各講演は、以下のような視点からお話いただきます。(具体的なタイトルとは別)
 基調講演:江藤直純  今日のおける十字架の神学
 特別講演:青野太潮  「十字架の神学」と教会
 聖書研究:大串肇   「十字架の神学」旧約聖書の視点から
      原口尚彰  「十字架の神学」新約聖書の視点から
 講  演:宮本新   現代の宣教の脈絡のなかで
      T.マッケンジー ルターのハイデルベルク討論に視点をあてて
      鈴木浩   A.マクグラスの最新の研究から
      賀来周一  実践的牧会的視点から

【日 程】
 2月9日 1500〜 開会礼拝
      1530〜 オリエンテーション
      1600〜 基調講演:江藤直純
      1800〜 レセプション
 2月10日 900〜 デボーション
       9:30〜 聖書研究:大串肇
      1030〜 講演:T.マッケンジー
      1200〜 昼食 お昼休み
      1330〜 特別講演:青野太潮
      1500〜 休憩
      1530〜 グループ・ディスカッション
      1700〜 休憩
      1800〜 夕食
            夕食後は自由

 2月11日 900〜 デボーション
       9:30〜 聖書研究:原口尚彰
      1030〜 講演:宮本新
      1200〜 昼食 お昼休み
      1330〜 講演:鈴木浩
      1500〜 休憩
      1530〜 グループ・ディスカッション
      1700〜 休憩
      1800〜 夕食
            夕食後は自由

 2月12日 900〜 講演:賀来周一
       1030〜 まとめ
       1120〜 閉会礼拝

       1200〜 昼食 

2015-10-23

2015 ルター研秋の講演会

ルター研究所は今年開所30周年。
秋の講演会は、30周年を記念して開所時の初代所長の徳善先生と第二代で現所長の鈴木先生のお二人に講演をいただく。
日時は11月8日午後4時から。日本ルーテル教団六本木教会が会場。
        


徳善義和先生には、これまでのルター研究所の歩み、特にルター研究と今日のルーテル教会の現状を重ねながら、私たちの神学的な課題、宣教の務めをお話いただきたく、「ルター研究所30年…ルターと今日のルーテル教会を考える」と題しての講演をお願いしている。
また、鈴木浩先生には、今年の牧師のためのルターセミナーでのテーマ、そして、宗教改革500年を記念して新しい翻訳で紹介することとなったアウグスブルク信仰告白を取り上げて、「アウグスブルク信仰告白と今日の課題」をタイトルにお話いただく。

乞うご期待。

2015-09-18

『スピリチュアルペインとそのケア』


 デールパストラルセンターにおいて、昨年7月に行いましたセンターの創立記念シンポジウムが書籍化されました。(これは、第一回のデール記念講演として行ったものです。)

http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

現代社会において私たちが生と死に真向かうなかで体験している魂の問題を「スピリチュアルペイン」と呼び、それにどのような援助が必要か、可能なのかということを共に考えるシンポジウム、その講演記録とプラスαを本にしました。
 今、どういう葬儀をするのかとか、お墓は必要なのかとか、死装束を纏いお棺に入る体験まであって、いわゆる「終活」がかまびすしく取り上げられています。あれこれと私たちな自分らしい「死に方」を求めているのかも知れません。けれども、「死」というものの本当の恐ろしさに向かい合うときは、実際にはそんなに余裕のある話ではありません。重い病、自由にならない身体をかかえて、次第に向かい合わざるを得ない死の恐ろしい形相を前に、私たちはそれでも生きる最期の「時」をいったいどのようにして生き抜くものなのでしょうか。自分らしく死にたいと思うよりも前に、その時まで自分らしく生き抜かなくてはならないのです。けれども、生きる気力もなくし、不安や恐れにとらわれていく。生きる意味や意義がわからなくなり、不条理を嘆き、死後の不安を抱き、これまでの人生に悔いをかかえる。死と生の背中合わせの隙間には深い闇が張り付いていて、私たちの魂を覆い尽くそうとするのです。
 そして、人は皆必ず死を迎えなければならず、いや実際その刻その刻が死に向かう時間であるわけですから、この生と死の深淵にある魂のいたみを必ずや経験するのです。これは、スピリチュアルペインと呼ばれます。その魂のいたみとは何か、またそのいたみをもつ一人ひとりをわたしたちはどのように支え、サポートして、最期の刻までともに生きる者であり得るのか。
 本書は、この分野で第一人者といわれる三人、ウォルデマール・キッペス先生、窪寺俊之先生、賀来周一先生をシンポジストに招き、皆でまなぶひとときを過ごしました。
その記録+αの書き下ろしで本書を編集することができました。
 是非お求めください。


2015-07-23

第二回デール記念講演 加藤常昭氏「魂への配慮の共同体・教会」

 日本ルーテル神学校のデールパストラルセンター主催で行われるデール記念講演の第二回目。
今年は加藤常昭先生をお迎えして、「魂への配慮の共同体・教会」と題して講演をいただけることになった。
 2015年8月1日 (土) 13:00-15:00   
                  日本福音ルーテル東京教会にて





加藤先生は、日本基督教団の隠退牧師あられるが、説教塾を主宰され日本の説教学、実践神学に大きなご貢献をいただいていることはもちろん、クリスチャン・メラー氏編の『魂への配慮の歴史』全12巻の翻訳をはじめ、牧会学の分野においても大きなお働きをしてくださっている。
 すでに、メラーの翻訳を終えられて約十年。日本の社会も超高齢社会となり、また3・11をはじめとする災害を経験していろいろな意味で、私たちの生と死の現実に新たに向かい合うことになってきているように思う。
 ご自身の牧師として、また信仰者としての人生のあゆみを重ねられ、主の御言葉とその出来事に出逢われてこられた加藤先生が、今だからこそお話しいただける内容と期待している。
 神が与えてくださる恵み・慰めを分かち合う共同体・教会の働き、その使命をお話しいただけることだろう。


2015-07-19

主に信頼するいのち

ルーテル天王寺にて講壇奉仕。
「主に信頼するいのち」と題して、ルターの死生観に学ぶ講演・説教をさせていただいた。礼拝後の女性会での交わりでは、「日本人の死生観と聖書のメッセージ」を短く話したが、いつものように、会の後半は豊かに導かれて多くの方の証を伺うことができた。
それぞれに死と向かい合い、あるいはまた看取りを生きられて、思うところは主の恵みと支え。不思議な導き。信仰に生きる深い息吹を、今日も感じさせていただいた。こうして、牧師の方がかえって養われ、生かされていく。


この天王寺教会は、私が按手をいただいた礼拝堂。25年、牧師として召され、たてられ、用いられてきたが、それこそ、つくづくと神のみ業を思うばかり。
 主に信頼する歩みを重ねていこう。







2015-06-19

「日本人の死生観 〜そのスピリチュアルニーズとキリスト教〜」

 リラ・プレカリアは、「祈りのたて琴」として知られているが、アイリッシュ・ハープを用いて、必要とする人たちに祈りの音楽を提供する活動だ。高齢の方、重い病気の患者さんや心に傷を持った人たち、また災害にあったり、愛する人を失った方などに、寄り添いつつ、ハープと歌の音楽が永遠とその人をつなぐ。
 この活動をする人たちを養成する二年間プログラムをJELAが提供している。
 その中の一講座を公開して、一般の方々にも聞いていただいている。その公開講座の最終を受け持った。


 講演は「日本人の死生観〜そのスピリチュアルニーズとキリスト教〜」。今日の日本人は、私たちが「死」という問題にどのように向かい合っているのか。東日本大震災やISのテロなどの経験は、特別な出来事だけれども、現代を生きる私たちの魂の深い問題を照らす出来事でもあった。そんなことを説き起こしながら、具体的に、今、死と向かい合う魂にどのように寄り添い、援助できるのかを共に考えた。
 天童荒太の『悼む人』、いとうせいこう『想像ラジオ』、姜尚中『心』、若松英輔『魂にふれる』などを紹介しながら、現代の私たちが死んだ人の魂に向かい合い、死者の声を聞いていくことで、今を生きることの意味を受け取ることやあるいは今を生きる魂の深い痛みに寄り添う力も得ることができるのではないかと、そんなことも含めての話をさせていただいた。
 人間の理想的な姿ではなく、むしろ現実の破れや傷ついた関係を生きる私たちの悩み、苦しみ。やすらうことを失った放浪の魂の現実を、罪の問題として考察を試みてみた。
 ルカ15章の放蕩息子のたとえも用いて、神からのアプローチこそが、本当の救いの鍵になること。そのメッセージに生かされて、その福音を示すことば、そして、ことばではないことば(働き、奉仕)のなかにどこまでも私たちを捨てておかない、寄り添う神の愛を分かち合う鍵を分かち合うことができたかと思う。
 より具体的には、認知症の方々やその人と共に活きる私たちのスピリチュアリティーの問題にもふれた。
 

 

2015-06-04

グリーフについての学び

 日本ルーテル神学校付属デールパストラルセンター(DPC)には、3つの部門がある。その一つソシアルの部門は、キリスト教信仰を基にしながら社会のなかに心と魂の深いニーズを持っている人々への具体的に奉仕していく部門で、特に現在は死別の悲しみの中にある子どもとその保護者、まわりの大人家族の悲嘆への取り組み(グリーフワーク)、その癒し(グリーフケア)に特化した働きを展開している。
 そのDPCのソシアル部門がひらく講演会を紹介したい。
 講師は、日本福音ルーテルむさしの教会牧師でDPCの運営委員でもある大柴譲治氏。大柴氏は神学校で牧会学を担当し、臨床牧会訓練のスーパーバイザーでもあるが、上智大学グリーフケア研究所客員所員もされている。


http://www.luther.ac.jp/news/150601/index.html

私たちは、もちろん、有限な存在で、やがて最期を迎えるものだ。だから、人は、いずれのときにか愛する人との別れを必ず経験しなければならないのだが、事故や災害、病気、あるいは自死など、何らかのことで思わぬときに死別を経験することになる。突然の死は、その人の喪失の悲嘆を大きくすることになる。いや、自分自身がそれによって全く失われてしまうのではないかとさえ思うような喪失を経験するのだ。その悲しみは、子どもであっても、大人であったも同じように深く深くその人を捕らえている。

どのように、その悲嘆を和らげることができるのだろうか。どうしたらその悲嘆から新しく立ち上がることができるのだろうか。
深い悲しみの中にある人の傍らで、私たちはなす術もなく、立ち尽くす。
立ち尽くすことから、何が始まるのか。

共に学んでいきたい。是非、おいでください。



2015-05-26

2015年神学生修養会「教会と宣教」

今年の神学生修養会が、5月24日のペンテコステの夕から、26日の午後までの日程で行われている。テーマは「教会と宣教」。


 昨年は、三人の現役牧師を招いての修養会だったが、このテーマで、今年はお一人。立野泰博先生をお迎えした。熊本は大江教会で牧会の責任を負うばかりでなく、地元の九州学院でのお働き、東日本大震災の被災地支援、臨床宗教士養成のプログラム、あるいはまた実際のカフェ・ド・モンクの活動にと忙しい毎日。FBやBlogの欠かさぬ更新。全国各地での講演。絵本や紙芝居づくり。そうした一切合切を抱えたまま、なおその貴重な時間を神学生のために用いてくださった。

 大江教会が九州学院教会としての歴史的な性格と立地を持っているところで、どのように若い人たちと地域にひらかれた教会として新しい歩みを作っていかれているのか。
 教会の現状への確かな分析、地域における課題や可能性、教会員との雑談のなかでのヒアリング、確かなリサーチのなかで考え抜き、教会員にも一緒に考えていってもらえるようにワークショップを行う。そうして教会の宣教のヴィジョンを描いていく。そのヴィジョンを実現するのは牧師ではない。教会の人々の心に働きかけ、楽しくみんなでやる。協力が生まれていく。教会の見え方が違ってくる。結果が伴う。
 大胆な取り組みには、きっと色々な問題があるだろうが、すべては神さまの働きの中に用いられるものとの信頼があってこそのことだろう。
 種が豊かなみのりをもたらすためには、その石地を耕し、茨を除き、良い地としての畑にされる農夫のつとめがあればこそ。そんな信仰の姿に教えられるものはいっぱいあった。その農夫に仕える牧師と教会員こそが、まずよく耕され、柔らかくなって、蒔かれた種を成長させないとならないだろう。神学生もこの修養会でたくさん耕された。

 最終日は、先生ご自身の被災地支援の取り組み、そのご経験からお話をいただいた。「となりびと」から「寄り添い人」へ。大きな大きな被害のなかで被災者一人ひとりが、いのちの重みを知り、その生活が根こそぎ奪われ、家族を失い、地域を失い、コミュニティーを失って、どう生きるのか。そこに生きている人々が自分で生きていかなければならなくて、そこに何の力にもなれないという現実を多い知らされながら、なおそこで牧師としてその現場の苦悩に立ち尽くすこと。ここでも先生の経験、また先生が見て来られた多くの被災者、ボランティアの働きの数々から学ぶことができた。
 被災地支援に限らず、それぞれ召され、遣わされていくところで、牧師であることとはどういうことなのか、将来の牧師の卵、神学生たちは重い問いかけの中に投げ込まれたように思う。

 三日間、この修養会がほんとに恵まれた時間であったことを、感謝!

 
 


2015-05-09

JATE 日本神学教育連合会 総会

 毎年、この時期に琵琶湖のほとりに出かける機会が与えられている。「日本神学教育連合会」(Japan Association of Theological Education)という、少し堅い名前の団体の総会が同志社大学のリトリートセンターで行われるのだ。全国にある、プロテスタント教会、カトリック教会の神学教育機関、つまり牧師さんとか神父さんを育てる神学校とか大学の神学部などの連盟だ。教派は違うけれども、それぞれに日本でのキリスト教の宣教を担う教職養成の責任にある人たちが集うユニークな集まり。


 現在加盟している学校は17校、これにオブザーバーとして2校が参加している。大きなミッション系大学の神学部であったり、また教派神学校であったりと様々だが、互いに今日の日本の教会の現実を背負いながら、教育と研究に従事する立場にあって、共通する問題や課題に向かい合っていることを確認し、自ずと共感し合えるものがある。教会の宣教の困難さや、少子高齢化する教会の現状。若い人たちの信仰についての意識。神学教育を担う後継者養成の問題など。
 閉会のデヴォーションでは、キリストが私たちのためにそのいのちを注ぎ、友とし、新しい神のみ業に参与させてくださる恵みについてのみことばを取り次いでいただいた。感謝!
 このJATEは、さらに韓国の神学校連盟、台湾の神学教育の連盟などと北東アジアの神学校の連盟を組織していて、国際的な交わりを構成している。ここ数年はこの国際的な交わりが有名無実になってきていたが、今、再開の方向を模索しはじめている。韓国の神学校連盟が再開に積極的なプロポーズをしてきたのだ。
 日本の教会も神学校も今は自分の足下ばかり見つめている。財政的にも人材的にも苦しい。けれど、神の宣教のみ業がこのアジアに、また世界にどんな大きな流れを生み出しているのか、またその流れの中に私たちが位置付いているのか、私たちはもっと大胆に飛び込んで味わってみてもいいように思った。
 


2015-05-08

2015年度 牧師のためのルターセミナー


今年も下記の要領でルター研究所主催の「牧師のためのルターセミナー」がひらかれる。
教派を問わず、ルターについて、宗教改革について学びたいと思われるかたは、是非ご参加ください。今回は、特に「アウグスブルク信仰告白」を題材にしますが、ルーテルにおけるエキュメニズムに関わる議論がなされそうです。
実際にも豊かな交わりが与えられ、牧会のことや宣教のことも語り合うこともできますし、リフレッシュできると思います。



日程:2015年6月1日(月)午後3時から6月3日(水)正午まで
 会場:まほろばマインズ三浦(京浜急行三浦海岸駅すぐ近く)
 主題:「宗教改革500年とわたしたち」(第三回)……『アウグスブルク信仰告白』
 費用:2万5千円(宿泊、食事、資料代込み)

原則として全期間の参加をお願いしますが、部分参加を希望される方はご相談ください。
                                                         
1) 発題と討論
1.CAに見る信仰義認とエキュメニズム          ……石居 基夫 
2.CA5、7、8条にみる教会とその職務         ……江藤 直純
3.CA16条における「正しい戦争を行う」の諸問題    ……鈴木 浩 
4.CAと和協信条                    ……立山 忠浩 
5.エキュメニズムの未来                 ……江口 再起
6.信仰告白と宣教……公同の宣教に参与する        ……宮本  新

2) 書評『争いから交わりへ』(バチカン・LWF共同文書)
 ……高井 保夫
 
3) 宗教改革500周年をめぐる討論        ……参加者全員
                   
*「まほろばマインズ三浦」までのアクセスはホームページで検索してください。
*参加申し込みは直接、ルター研究所(鈴木)まで
 

2015-04-08

2015年度 入学始業聖餐礼拝

 日本ルーテル神学校、2015年度の入学始業聖餐礼拝が4月2日に行われた。
その礼拝での説教。
 『真理の霊によって生きる』ヨハネ14:15〜17


 新しい年度を迎え、神学校には3名の新入生が与えられました。また神学基礎コースにも2名の方が学びをはじめてくださることになりました。それぞれに主のみ声に聞いて、ここに集められたのです。改めて、その恵みと導きに感謝を祈りたいと思うのです。
 今年の、この入学式とオリエンテーションは、ちょうど受難週にあたりました。イエス様が十字架の死において、またご自身の復活によって、私たちに神の愛を表し、新たないのちを生きる道を開いてくださる。その出来事をたどっていく時です。
 特に今日は洗足の木曜ということでもあって、お読みいただいた聖書は、ヨハネの14章。この洗足の後に主が弟子たちに話された告別説教と言われている個所です。イエス様は、弟子たちと共にいることがもはや限られているというはっきりとした想いのなかで、弟子たちに語られている個所です。だから、ここには、弟子たちにどうしても伝え残しておきたいことがみことばに刻まれている。弟子たちが、そして私たちが信仰に生きるためのみことばです。
 繰り返し言われるのは、イエス様が神のものであったこと、父と子とが一つであったこと。そこに愛と従順があり、確かな繋がりがあったということですが、その一致によってイエス様が生きられたように、あなたがたも私キリストと繋がり、一つとなって、人を愛し、仕え合うようにと教えられる。それが神とキリストの一致に与って、キリストと一つになる信仰を生きるようにとすすめられているのです。キリストのみことばに聴き、愛に留まることで、弟子たちが確かな信仰のみのり、豊かな働きをもたらすものだという約束が語られているのです。
 なぜ、そのことを繰り返しいわれるのでしょうか。それは、ほかでもなく私たちが信仰を保つことができず、主を見失う時が来ることを、イエス様ご自身がご存知だからなのです。キリストの内の留まることができない、信仰が見えなくなる。
 福音書を書いたヨハネの時代の人々にとっては、おそらく迫害が一番大きなこととしてあったでしょう。しかし、あらゆる困難や危機、またそのなかに私たちを捕らえようとする誘惑、人間の思いが、信仰の根っこであるキリストに留まることを妨げる。そのことをイエス様はご存知なのです。だからこそ、繰り返し、信仰に留まるべきことを語っておられるのです。
 しかし、そう教えられるだけではありません。主は、その時の具体的な助けを約束してくださっています。主のもとに留まり続けるということ、それは主が私たちに命じられ、また望まれていることですが、私たちの力にあまることだと主は知っていらっしゃる。それが本当に可能なのは、私たちの力ではなく、私たちを捕らえ、生かす、神の助け、真理の霊によるのだ、だからこそ、主はキリストにつながって愛する戒めを守るように、繰り返し教えすすめながら、神の働きにのみ救いを求め、信頼するようにと招いておられるのです。

 そんなことは、私たちは分かっているつもりでしょうか。救いは恵みのみによる。信仰は神の働き。ルーテル教会で伝えられてきた信仰義認の教理は、鮮やかにそのことをしめしているのですから。でも、改めて、新年度を迎え、自分の召命を確認する時に、そこに私の出発点があると、深く心に受け止めたいのです。召命が尋ねられ、自分の信仰や取り組みを思う時だからこそ、私たちの信仰の源が主にのみあることを思い起こしたいのです。

 この3月に、ちょうど今年が七十周年にもなった3月10日東京大空襲と、4年目をむかえた東日本大震災のことが何度か、テレビや新聞で取り上げられました。多くの犠牲者を生んだこの二つの出来事は、一つは戦争の悲劇、もう一つは自然災害の脅威です。全く違う二つのできごとなのですけれども、なす術なく、多くのいのちが奪われていったことにおいて共通しているのです。そして、その不条理さは私たちにとってある決定的な信仰の問いを突きつけているのだと、わたしは思います。
 私たちが今日、宣教を考えるとき、そこにあるのはどのような言葉を持って信仰を分かち合えるのかという問題ですが、その答えは、この私たちの信仰への根源的問いを共有することを忘れたところには見いだされないように思う。
 もちろん、こうした不条理の問題は、あの旧約ヨブ記において示されているように、古くから取り上げられてきた問題です。けれども、今日のように、たとえば原子力の問題が象徴的にそのことをしめしているのですけれども、神の創造された世界、一切を無にしてしまうような危機の前に立っている現代の人間精神には、神を信ずるということについて、決定的な問いとなっているように思うのです。

 わたしは、今でもおぼえています。あの3・11のあと、しばらくして、テレビで人気歌手グループがうたった「夜空ノムコウ」という歌の歌詞が私たちの信仰の原風景をうたっているように感じられたのです。その歌は、こううたいだされるのです。「あれから、僕たちは何かを信じてこれたかな〜」。信仰の言葉は、あの時から虚しくなってしまったのでしょうか。
 あれから四年が経って私たち東京に生活するものにとっては、そのことは次第に忘れられていっているのかも知れません。けれども、被災された方々の多くは、仮設住宅で細々と寒さを凌ぎ生きる人たちがいる。ふるさとに帰ることのできなくなった人たちがいます。放射能汚染の問題に発病や死の不安を持つ人々がある。自分たちの畑でとれたものを子どもに食べさせて大丈夫なのかと恐れる母親たち、自分は将来結婚して子どもを産むことを望めるのかと心をふるわせる少女たちがある。
 私たちは、忘れようとしているのでしょうか。見ないようにして生きていないでしょうか。けれど、私たちはこの現実のなかにあるのです。

 原民喜という人をご存知かと思います。原爆小説『夏の花』を書いたことでご存知でしょう。もともと左翼の活動家でもあり、詩人としても作家活動をしていました。40歳の時に広島で被曝し、その経験をメモしたものをもとに小説を書いたそうです。原爆を題材にした多くの小説のなかでも最もすぐれたものの一つとして評価されています。
 たまたま、彼はその時にお手洗いにいたことで、あの原爆の威力から逃れ生き残ったのでしたが、その直後のあの広島に見いだされた惨状を克明に私たちの心に刻むことばが小説に記されています。その文章から、何もかもが吹き飛ばされ、燃えつくし、人々は影になって焼き付き、川に死に倒れ、あるいは生き延びても焼けただれ、顔は腫れ上がり、水を求めて彷徨う姿とうつろなまなざしが見えてくる。
 彼は、その人々をかき分けるようにして避難する。その中で、一瞬彼に起こった思いというか、感情を記しています。

「私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持ちがした。長い間脅かされていたものが、ついに来るべきものが、きたのだった。さばさばした気持ちで、私は自分がいきながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、いま、ふと己がいきていることとその意味が、はっと私を弾いた。
 このことを書き遺さねばならない、と、私は心につぶやいた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相をほとんど知ってはいなかったのである。」

 この惨状のなかで、いきていることの一切の意味が見いだされないような状況の中で、かれは、生き残った自分に与えられた使命を感じるのです。天命として、この現実を書き遺す使命を、自分を弾くような衝撃とともに受け取ったのだというのです。その感覚は、少なくとも彼を捕らえ生かしたことだと思う。原民喜は小説家として、この使命を生きたのです。
 けれど、それだけではもしかしたら何かが足りなかったのかもしれません。彼は、「夏の花」を書いてから4年目の1951年3月13日に吉祥寺と西荻の線路に身を横たえたのでした。
 
 私たちが今の時代に、牧師としてたてられていく、その使命をどのように感じていますか。自分を弾くようにした感覚は、あなたを呼ぶ神様の声です。何をするように求められているのだろう。
 私は確認したい。あなたを捕らえた弾くような感覚は、あなたへの確かな救いの出来事なのです。そして、あなたに与えられた使命は、この惨状・この不条理を記録することだけではなくて、「ここに、主がいたもう」という救いのメッセージを分かち合うことです。
 それを可能にするのは、あなたを捕らえ、ここに導きたもうお方が、真理の霊であるという、ただそのことによっているのです。真理の霊。それは、嘘偽りなく、ごまかしもなく、この現実に向かい合って、その重荷を負って生きるための勇気と力、慰めであり、助けである神ご自身の働き、あるいは臨在なのです。そして、そのよりどころは、キリストの十字架にある。 
 キリストが十字架におかかりなって、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、神が自分を見放したという叫びのなかに死にたもうこと。にも拘らず、その主が復活のいのちを示してくださったこと。その出来事が、あらゆる時にすべての信仰を支えるのです。一切が虚しくなってしまったのか、と思わされるその現実の中、その出来事があなたを捕らえているのです。その出来事が私たちを生かしているのです。その出来事が私たちの信仰をつくるのです。
 
 皆さんが、信仰の歩みの中で聞き取られた召命の言葉。それは、間違いなく皆さんを導いています。もちろん、その歩みがどのようにかたちを整えてくるかは、分かりません。牧師になることだけが答えなのではないのです。けれども、大切なことは、あなたに語りかける声がある。あなたを生かす真理の霊がある。あなたを助け、あなたを導き、あなたを用いたもう主がいたもうということです。そのことへの信頼をもって、私たちの直面する一つひとつの現実に誠実に向かい合っていきたいと思う。
 新年度、それぞれに召されてここに集っています。赦された歩みがどのように主によって整えられるのか、希望と期待をもちつつ、私たち自身もその恵みに応えていきたいと思うのです。

2015-03-12

神学基礎コース 2015年度から

日本ルーテル神学校に『神学基礎コース』を設けました。
 このプログラムは、教派を超えてキリスト教の人間理解やキリスト教死生学に関心のある方、信徒として聖書をもっと深く学びたい、少し神学について学んでみたいという方、あるいは牧師になるために神学校へ進もうかな〜と少し考えている方など、学びの意欲のある方に一緒に学んでいただけるようなプログラムを提供するものです。

 ルーテル学院大学の神学・キリスト教関連科目と神学校での神学基礎科目から神学校が選んだ科目群から年間30単位を上限として履修することができるようにしています。

 詳しくは、大学・神学校のHPをご覧ください。

http://www.luther.ac.jp/news/150311/index.html

 このコースをとる方には、神学校の教員が担当するホームルームで履修のガイダンスや学びについての手引きなども受けることができます。
 
 将来的には、教会とも連係を強め、さらに整えて、「信徒奉仕者・説教者」(オルガニスト、教会学校の教師なども含めて)の養成なども考えています。
 
 教会での信徒の方々に深く福音を味わっていただき、またいろいろなタラントを生かし、教会を強めていきたいのです。
 通常の授業を用いたプログラムですから、お仕事のある方には無理がありますが、なかなか別の時間を使って特別なプログラムをつくることが難しい現実があるので、今、神学校や大学で提供する授業をもって、いろいろな方の学びのニーズに御応えしたいというコースです。研究生の制度的枠組みの中で考えました。

関心のある方、お問い合わせください。

2015-02-28

2015年 教職授任按手礼拝

今年2015年、日本福音ルーテル教会には4名の新しい牧師が誕生する。明日、3月1日は、そのための按手礼拝が日本福音ルーテル教会の宣教百年記念東京会堂で行われる。



今年、日本ルーテル神学校は5名の卒業生を送り出すが、そのうちの4名が日本福音ルーテル教会の牧師となる。それぞれ、1月に行われた教職試験と任用試験を合格し、2月の常議員会で任地を与えられた。甲斐友朗氏は日本福音ルーテルシオン教会、関満能氏は、日本福音ルーテル水俣教会・八代教会、渡辺高伸氏は日本福音ルーテル新霊山教会、渡邉克博氏は日本福音ルーテル浜松教会・浜名教会へと赴任する。

今年は、定年を迎えられた牧師が5名であったから、4名の卒業でも間に合わない計算だ。これから10年ほどは、牧師の大量引退時代。卒業はおそらく年平均で2.5名くらいだろうか。教会・神学校は共に協働して、次に牧師となる人材を育てなければならない。

日本ルーテル教団の神学生、笠原光見氏は3月8日に教団の神学院卒業式を迎え、4月からは日本ルーテル教団浦和教会へと赴任される。合わせて、祈りに覚え、支えていただければと思う。


2015-02-23

『争いから交わりへ』

 ルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会が2017年の宗教改革500年を共に記念するために、両教会の世界規模の合同委員会が議論を重ね、昨年その成果を一つの形として文書にし発表した。1999年に両教会は「義認の教理に関する共同宣言」を公に調印して、キリスト教界にエキュメニズムの新しい時代の到来を示したが、さらに具体的に両教会の協働が合同の礼拝をもって続けられるように、宗教改革500年が覚えられることは本当に画期的なことだ。その基礎となる文書なだけに、この書がいち早く日本語に翻訳出版された意義は大きい。


http://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/16965

翻訳チームの一人として加えられたが、元訳を鈴木浩先生がいち早くつくってくださり、それをもとに、カトリック教会と日本福音ルーテル教会からの代表が半年以上をかけて出版に向けて翻訳を丁寧に造り上げた。
 本来、1517年の宗教改革は、M・ルターが「贖宥の効力に関する95ヶ条の提題」を公にして、いわゆる「免罪符」(贖宥券が正しいが、免償符でもよい)の問題をきっかけにカトリックに対して改革を呼び掛けた教会運動だった。けれども、結果的にはそれまでのカトリック教会の一致を分つことになったわけだから、プロテスタント教会にとっては自分たちのアイデンティティーを示す記念、祝いの気持ちを持つかもしれないが、カトリック教会からすればこれは少しも喜ばしいことではない。だから、この日は一緒に「祝う」(celebration)はできない。「記念する」(commemoration)という言葉遣いだ。
けれど、いずれにしても、福音を世に伝えるとう使命と喜びを確認し、歴史的な断罪を改めた両教会が協働・共同する世界への宣教のコンテキストを意識して取り組まれていることは本当に意義深いことだ。
 この文書は、両教会がそれぞれの歩みを神学的に検証しつつ、新しい世紀への教会の在り方を示そうとしていると言ってよいだろう。
 神学生には必読の書。

内容は下に目次を紹介する。
ルターの宗教改革的神学主張が、カトリックとルーテルの双方からの視点を合わせつつ評価を加えて確認されている。詳しく検証される必要があるが、こういう文書が共同で出せるというところが今の新しい時代を象徴するできごとだと思う。そして、なにより大事なことは、新しい時代にむけたエキュメニカルな責務を明らかにしていることだと言えるだろう。



第一章
エキュメニカルでグローバルな時代に宗教改革を記念する(4−15)
第二章
マルティン・ルターと宗教改革を見る新たな視点(16−34)
第三章
ルターの宗教改革とカトリック側からの反応に関する歴史的描写(35−90)
第四章
ルーテル教会とローマ・カトリック教会の対話に照らして見た
マルティン・ルターの神学の主要テーマ(91−218)
第五章
共同の記念に召されて(219−237)
第六章
五つのエキュメニカルな責務(238−245)

神学校の夕べ 2014年度

2014年度神学校の夕べが昨日行われた。あらかじめのご案内にならず、報告となってしまったが、記録したい。


今年は、五人の卒業生を送り出す、神学校の夕べとなった。ポスターの順とは異なるが説教順に紹介したい。甲斐友朗(JELC賀茂川教会出身)、笠原光見(NRK中越教会出身)、関満能(JELC三鷹教会出身)、渡辺高伸(JELC雪谷教会出身)、渡邉克博(JELC東京教会出身)。5人のうち3人が都内の教会の出身であり、またNRKの学生が卒業になるということも重なって、およそ270名を超えた方々が祝福に駆けつけてくださった。また、遠く九州からお祝いに駆けつけてくださった方もあった。それぞれの地でも覚えていただき、祈りを合わせてくださって、祝ってくださっている方々があることにも感謝したい。

「賜物」という一つのテーマを選び、それぞれが別々の聖書箇所を取り上げてみことばを取り次いだ。自らの献身、召命の歩みから語りだされる説教は力強く、福音に生かされた恵みが伝わってきた。また、卒業してそれぞれ遣わされていく宣教へのあつい思いがあふれていた。
 それぞれの派遣教会も決まっている。甲斐さんは日本福音ルーテルシオン教会、笠原さんは日本ルーテル教団浦和教会、関さんは日本福音ルーテル水俣教会、八代教会、高伸さんは日本福音ルーテル新霊山教会、そして克博さんは日本福音ルーテル浜松教会、浜名教会。
 それぞれが刻んできた神学校と教会での学びと研鑽の歩みが、こうして主によって豊かにされ、新しい教会の歩みに重ねられていく幸いを、共に喜び、祝うことができた。
 個人的には、私も校長となって最初の神学校の夕べであって、この喜びを集まってくださった皆様とまた全国の教会の方々と分かち合えたことが、本当にうれしかった。
 祈り、支え、育て、また召してくださるのは、それぞれの教会、そして、そこに働いてくださる主ご自身であることを改めて心に受け止めている。感謝。