〈本文から〉
●争いから交わりへと変わっていく
宗教改革によって受けた霊的、また神学的な賜物に深く感謝しながら、わたしたちはまた、ルーテル教会もカトリック教会も教会の目に見える一致を傷つけてきたことをキリストのみ前でざんげし、悲しみます。神学的違いには偏見と争いとが伴いましたし、宗教は政治的な結果に至る手段となりました。イエス・キリストを信じるわたしたちの共通の信仰とわたしたちの洗礼はわたしたちに日毎の悔い改めを求めています。それによってわたしたちは、和解の務めを妨げる歴史的な争いと不一致とを捨て去ることができるのです。過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうることです。わたしたちお互いの見方を曇らせてきた傷と記憶の癒しをわたしたちは祈ります。わたしたちは過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥けます。今日わたしたちはすべての争いを捨てるようにとの神のご命令を聴いています。わたしたちは、神が絶えずわたしたちを召しておられる交わりへと向かうように、恵みによって自由にされていることを確認しています。
〈学び〉
宗教改革の歴史を見るというとき、カトリック教会から見る場合とルーテル教会の側から見る場合とでは全く異なるものであったということを考えておかなければならない。ルーテル教会にとっては、宗教改革こそ自らのアイデンティティーを確認する神学的・霊的なルーツであり、福音の「正しい」理解を回復した出来事、カトリック側から見れば、それは教会の一致を乱し、多くの人々が「真の」教会から奪い取られていくような出来事として記憶されてきたと言えるだろう。
しかし、この声明ではカトリック教会もルーテル教会もともに、この出来事を「霊的、また神学的な賜物」をもたらしたといい、また「教会の目に見える一致を傷つけてきた」というのだ。こうしたことを両教会が共に告白できることこそ、長い対話の積み重ねのなかで、宗教改革という出来事を教派の視点というよりも神の教会の歴史のなかに見る視点に開かれて見出すことができた地平を示しているということだろう。
そして、そういう地平にたって神の前に深く懺悔しなければならない自らの罪をしっかりと見出し、告白することへ導かれているのだと思う。ただ、神の前に打ち砕かれて自らを告白する時にだけ、私たちには未来への確かな歩みをはじめる力をえるのではないだろうか。そして、そういう歩みをする時に、「過去は変えることができないのですが、何が記憶されるのか、それがどのように記憶されるのかは変えられうる」と大胆に語り、新しい歴史への責任を見出していくこととなっている。
「過去と現在のすべての憎しみと暴力、特に宗教の名によって言い表されてきたそれらを強く斥け」ると宣言する時に、両教会は単に自分たちの過去についてのみ語っているのではなく、「今の世界」への責任をかたっているのだ。神のみことばに聞き、神の前に自らをかえりみることが、私たちの今への責任とそこへ生かされる力とを恵みのうちに見出すことへと向かわせるのだ。
2017-01-04
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑵
〈本文から〉
●感謝の心をもって
この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。
〈学び〉
この「共同の祈り」がもたれるということは、先に記したようにこの50年間の両教会の代表によって積み重ねられてきた粘り強い取り組みがなければ、決して実現できなかったものだ。それまでも、もちろん互いの神学的主張についてはそれぞれに研究対象であったが、どちらかと言えば批判的傾向が強かったと言えるだろう。しかし、この対話の時期に入ってからは、お互いをより深く学び、認め合うものであった。
折しもルーテル教会の大切な信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」450年やルター生誕500年などのきりの良い時がこの50年の歩みの中に重なっていて、それでなくてもルターやルーテル教会について神学的検証が起こることが必然でもあった。その時期に、この両教会間の対話がなされることは特別な恵みであったといってよいかもしれない。
50年に渡る「エキュメニカルな対話」は今までのところでは五つの期に分けられている。第一期(1967〜72):この次期に、今一度、それぞれの教会の福音理解を友にしていることを確認した。その果実が1972の「福音と教会(マルタレポート)」。
第二期(1973〜84):聖餐、一人のキリストのもとにあること、教会の職務などのトピックを取り上げる。
第三期(1986〜1993):「教会と義認」をテーマに対話を重ねる。
第四期(1995〜2006):第三期をうけて、1999年「義認の教理に関する共同宣言」と、2006年の「教会の使徒性」を成果とする実りある対話がなされた。
第五期(2009〜):2017年を両教会で迎えるための準備をかさねてきた。2013年に「争いから交わりへ」の文書が出され、両教会の歴史の中の過ちを告白し、これからの両教会の宣教の責任とまた教会一致への歩みを宣言している。
つまり、この対話においては実践的な協力という側面よりもむしろはっきりと神学的課題を正面に据えてきたものだということがわかる。言葉をかえるなら、自分たちの信仰の内実、とりわけ福音の理解ということでの一致を確認するための歩みだったといってよいだろう。しかし、その一致を求める対話の中でこそ、それぞれの信仰の具体的な姿、内容が共有され、自らの伝統を寄りよく理解することにも、またそこでの特徴や課題についても気づかされていくものとなったといってよいだろう。そして、相手の姿の中に新しい発見も導きも見出していくことにもなった。
エキュメニカルな対話は教会を豊かに実らせているように思う。
そして、こうした対話とともに、より具体的な世界の課題で協力し合う、実践的交わりももちろんあったのだ。具体的な協力関係がお互いを本当によく理解し合う原動力になったことも確かなことだといわなければならない。
●感謝の心をもって
この共同声明をもってわたしたちは、宗教改革500年を覚える年の始まりに当たり、ルンドの大聖堂において共同の祈りを捧げるこの機会のゆえに神に喜びをもって感謝していることを表明いたします。カトリックの人々とルーテルの人々との間にもたれた、実り多いエキュメニカルな対話の50年がわたしたちにとって多くの違いを乗り越える助けとなり、わたしたちの相互理解と信頼を深めてきました。同時にわたしたちは、しばしば苦難や迫害の中で苦しんでいる隣人に対する共同の奉仕をとおして互いにより近しい者となりました。対話と分かち合った証しとをとおしてわたしたちはもはや他人同士ではなくなりました。むしろわたしたちは、わたしたちを結び付けるものがわたしたちを分かつものよりも大きいことを学んできました。
〈学び〉
この「共同の祈り」がもたれるということは、先に記したようにこの50年間の両教会の代表によって積み重ねられてきた粘り強い取り組みがなければ、決して実現できなかったものだ。それまでも、もちろん互いの神学的主張についてはそれぞれに研究対象であったが、どちらかと言えば批判的傾向が強かったと言えるだろう。しかし、この対話の時期に入ってからは、お互いをより深く学び、認め合うものであった。
折しもルーテル教会の大切な信仰告白である「アウグスブルク信仰告白」450年やルター生誕500年などのきりの良い時がこの50年の歩みの中に重なっていて、それでなくてもルターやルーテル教会について神学的検証が起こることが必然でもあった。その時期に、この両教会間の対話がなされることは特別な恵みであったといってよいかもしれない。
50年に渡る「エキュメニカルな対話」は今までのところでは五つの期に分けられている。第一期(1967〜72):この次期に、今一度、それぞれの教会の福音理解を友にしていることを確認した。その果実が1972の「福音と教会(マルタレポート)」。
第二期(1973〜84):聖餐、一人のキリストのもとにあること、教会の職務などのトピックを取り上げる。
第三期(1986〜1993):「教会と義認」をテーマに対話を重ねる。
第四期(1995〜2006):第三期をうけて、1999年「義認の教理に関する共同宣言」と、2006年の「教会の使徒性」を成果とする実りある対話がなされた。
第五期(2009〜):2017年を両教会で迎えるための準備をかさねてきた。2013年に「争いから交わりへ」の文書が出され、両教会の歴史の中の過ちを告白し、これからの両教会の宣教の責任とまた教会一致への歩みを宣言している。
つまり、この対話においては実践的な協力という側面よりもむしろはっきりと神学的課題を正面に据えてきたものだということがわかる。言葉をかえるなら、自分たちの信仰の内実、とりわけ福音の理解ということでの一致を確認するための歩みだったといってよいだろう。しかし、その一致を求める対話の中でこそ、それぞれの信仰の具体的な姿、内容が共有され、自らの伝統を寄りよく理解することにも、またそこでの特徴や課題についても気づかされていくものとなったといってよいだろう。そして、相手の姿の中に新しい発見も導きも見出していくことにもなった。
エキュメニカルな対話は教会を豊かに実らせているように思う。
そして、こうした対話とともに、より具体的な世界の課題で協力し合う、実践的交わりももちろんあったのだ。具体的な協力関係がお互いを本当によく理解し合う原動力になったことも確かなことだといわなければならない。
「2017年宗教改革500年 カトリックとルーテルの共同声明」に学ぶ ⑴
2016年10月31日、スウェーデンのルンドで行われたカトリック教会とルーテル世界連盟の「共同の祈り」の礼拝において、2017年の宗教改革500年を共同で覚えるに当たっての声明文が公にされた。この声明はフランシスコ教皇とユナン連盟議長が書名をして発表されたのだ。少しずつ、この声明文を読んで学んでみよう。
はじめに、この記念礼拝でのテキストとされたヨハネ福音書が記される。
〈本文から〉
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができ
ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶこ
とができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)
〈学び〉
みことばを記すことにはじまる声明。みことばによってこそ導かれるという基本的な姿勢をしめしているといってよいだろう。これは、この宗教改革500年の記念ということに留まらず、近年のエキュメニカルな交わりの基本を示している。それぞれの教会の神学的な主張からはじまるのではなく、伝統に縛られるのではなく、みことばによってこそ導かれるべきなのだという意味を示している。
さて、このヨハネ15章の箇所が示されることで、カトリック教会もルーテル教会も等しくキリストに結ばれ、キリストに生かされ、豊かな身を結ぶものであるようにと主に呼びかけられている存在として認め合っていることが示されている。
当然のことのように思われるかも知れないが、決してそうではない。宗教改革者マルティン・ルターはカトリック陣営と論争した末に自説を撤回することのなかったために断罪された。その信仰に連なるルーテル教会はもちろん、カトリック教会からたもとを分かつこととなったプロテスタント教会は、カトリックから見れば教会として認められない異端とされてきたわけだ。逆にルターをはじめプロテスタント教会は、聖書に基づく福音主義を掲げて、カトリック陣営、特に聖書の解釈の正当性を独占するような教皇主義を徹底的に攻撃をした。中世から近代への歴史の中では両方の勢力は政治的な意味での対立と重なり西欧世界においては争いと対立が繰り返されてきた。
そうした対立は、近代国家の成立の歴史とともに比較的穏やかになっていくけれども、基本は変わらない。そうした関係を決定的に変えたのが、カトリック教会の大転換だったといってよいだろう。1962年から65年まで開かれた第二バチカン公会議は、カトリックのみならず世界のキリスト教会に大きな影響を与える会議となった。カトリック教会は、この四年にわたる公会議で、現代世界のなかに新しい教会の姿を求めて大きな舵を切ったのだ。その中で、1964年にエキュメニズム教令を公にしてプロテスタント教会にも真理が示されていることを否定しないこととなった。難しく言うとカトリック教会の包括主義的な立場(最終的に救いについての確かな真理があるのはカトリック教会に他はないのだけれども、部分的には他の場所においても神の普遍的真理を示すものがあることを否定せず、それを認めていこういうこと)をしめしている。しかし、実質的に大切なことは、中世の時のようにルーテル教会を「断罪する」という考えを改めて、兄弟としての教会と認めていく可能性を示したということだ。
そこからはじまる対話の歴史こそ、みことばによって導かれたものだ。その歴史があって、カトリックの立場からも、ルーテル教会が確かにキリストに連なるものと認められるようになったといってよいのだろう。ルーテル側からすればはじめから一つの教会を飛び出すことが目的の改革の呼びかけであったわけでもなく、こうした積み重ねられる対話によって、福音が明らかに示されていく教会の本来の姿として示されていく道筋にカトリック教会も立っていると認められることだっただろう。一つのキリストに連なる枝、互いに違いを認めつつ、その働きを尊重し、世界に向かって福音を示していくキリストの体としての教会を教派を超えて連なり宣教の働きを担うものとますますなっていくように、みことばが招いているのだ。
だからこそ、今、改めてこのみことばに聞くことが示されている。教会はたとえ教派が異なっても、キリストに連なるものとして認め合えることがなによりも大切なのだ
2016-12-05
ルター『クリスマス・ブック』
ルターの著作の紹介。
R.ベイントン編、中村妙子訳の『クリスマス・ブック』。
ルターによる短いクリスマスにちなんだ説教集だ。
説教は①受胎告知、②マリアのエリサベツ訪問、③降誕、④羊かいたち、⑤ヘロデ、⑥博士たち、⑦宮もうでの七編。これに、ルターが作り、家族で歌った、「天つ空より」よりの讃美歌が収録されている。
ルターの伝記『我、ここに立つ』の著者として知られるベイントン博士の手による編集。
ひたすら聖書に聴いていくルターの信仰と説教の力を充分に味わうことができる。
また、それぞれの説教にはルターの時代のデューラーやショーンガウアーの挿絵(版画)が入っているのも楽しい。
新教出版の新書版で1958年に出版されたが、繰り返して再版された。また、大人のための絵本のようなかたちで、ルター生誕500年を記念して1983年に出版されたものは挿絵も大きく、親しみをもってゆっくりと読むことができる。おすすめだが、手に入るのか??
R.ベイントン編、中村妙子訳の『クリスマス・ブック』。
説教は①受胎告知、②マリアのエリサベツ訪問、③降誕、④羊かいたち、⑤ヘロデ、⑥博士たち、⑦宮もうでの七編。これに、ルターが作り、家族で歌った、「天つ空より」よりの讃美歌が収録されている。
ルターの伝記『我、ここに立つ』の著者として知られるベイントン博士の手による編集。
ひたすら聖書に聴いていくルターの信仰と説教の力を充分に味わうことができる。
また、それぞれの説教にはルターの時代のデューラーやショーンガウアーの挿絵(版画)が入っているのも楽しい。
新教出版の新書版で1958年に出版されたが、繰り返して再版された。また、大人のための絵本のようなかたちで、ルター生誕500年を記念して1983年に出版されたものは挿絵も大きく、親しみをもってゆっくりと読むことができる。おすすめだが、手に入るのか??
2016-12-02
臨床牧会セミナー2017 宗教改革500年記念 『時代を生きる苦悩〜魂にふれる牧会』
来年、2017年は宗教改革500年の年。
この時を憶えつつ、来年春はデール・パストラル・センター主催で臨床牧会セミナーを開催する。
テーマは『時代を生きる苦悩〜魂にふれる牧会』。
日程:2017年2月6〜8日。場所:ルーテル学院大学
基調講演:江口再起(日本ルター学会理事長)「青年ルターと心の問題」(仮題)
分科会:「教会と青年」 発題:松谷信司(キリスト新聞・ミニストリー編集長)
「女性とDV問題」 発題:松浦薫(矯風会ステップハウス所長)
「ジェンダー」 発題:平良愛香(教団三・一教会牧師)
「自死と牧会 発題:賀来周一(CCC理事長、DPC所員)
責任:石居基夫(DPC所長)
ルターは、中世末の激動する世界に苦悩をもっていきた人物。当時の西欧世界はキリスト教の世界であったから、救いをもとめて修道士にまでなるのだが、簡単に解決の出来ない「魂の深い問い」に捉えられたことから、「福音」を再発見するほどに求道をした人だといってよいだろう。そして、またそこにはルターが得ることのできたみことばによる、つまり、キリストご自身による牧会があったに違いない。それこそが宗教改革の核となったのだ。
実際、ルターは宗教改革運動を担った人物、神学者としての側面が強調されるかも知れないが、生涯を牧師として生き、その最期も牧会のための訪問の旅の中で迎えることであった。牧会者ルターは、自分も生かされた神の福音(ことば)を、それぞれの悩みや苦しみの中にいる人々に分かち合う使命を生きたと言えるだろう。
このルターの魂の苦悩と福音の働きということを念頭におきながら、現代世界において教会が直面している「苦悩」に向かい合うための「牧会」を学ぶ企画とした。4つの分科会は、それぞれに多様な課題を含んでいるので、ゆっくりと時間をかけながら問題を整理し牧会者として研究を深めたい。
定員は60名ほどとなる見込みで、先着順となるので、早めにご予定に入れておいていただければと思う。申し込みについては、別途、お知らせしたい。
この時を憶えつつ、来年春はデール・パストラル・センター主催で臨床牧会セミナーを開催する。
テーマは『時代を生きる苦悩〜魂にふれる牧会』。
日程:2017年2月6〜8日。場所:ルーテル学院大学
基調講演:江口再起(日本ルター学会理事長)「青年ルターと心の問題」(仮題)
分科会:「教会と青年」 発題:松谷信司(キリスト新聞・ミニストリー編集長)
「女性とDV問題」 発題:松浦薫(矯風会ステップハウス所長)
「ジェンダー」 発題:平良愛香(教団三・一教会牧師)
「自死と牧会 発題:賀来周一(CCC理事長、DPC所員)
責任:石居基夫(DPC所長)
ルターは、中世末の激動する世界に苦悩をもっていきた人物。当時の西欧世界はキリスト教の世界であったから、救いをもとめて修道士にまでなるのだが、簡単に解決の出来ない「魂の深い問い」に捉えられたことから、「福音」を再発見するほどに求道をした人だといってよいだろう。そして、またそこにはルターが得ることのできたみことばによる、つまり、キリストご自身による牧会があったに違いない。それこそが宗教改革の核となったのだ。
実際、ルターは宗教改革運動を担った人物、神学者としての側面が強調されるかも知れないが、生涯を牧師として生き、その最期も牧会のための訪問の旅の中で迎えることであった。牧会者ルターは、自分も生かされた神の福音(ことば)を、それぞれの悩みや苦しみの中にいる人々に分かち合う使命を生きたと言えるだろう。
このルターの魂の苦悩と福音の働きということを念頭におきながら、現代世界において教会が直面している「苦悩」に向かい合うための「牧会」を学ぶ企画とした。4つの分科会は、それぞれに多様な課題を含んでいるので、ゆっくりと時間をかけながら問題を整理し牧会者として研究を深めたい。
定員は60名ほどとなる見込みで、先着順となるので、早めにご予定に入れておいていただければと思う。申し込みについては、別途、お知らせしたい。
2016-11-20
「今、見えないものを曇りなき眼で」@本郷教会
今年の3月11日のルターナイツに20分という短い時間でお話した、「今、見えないものを曇りなき眼で」〜宮崎駿の問いかけを受けて3・11以後を生きる〜を、今日は本郷教会で80分バージョンでお話しさせていただいた。
レジュメとしてお配りしたものを記録としておきたい。お話ししながら、改めてアシタカが身に負った「のろい」のしるし(スティグマ)の意味を考えさせられている。
新しい理想の未来(時代の中で差別され、人として認められないままの一人ひとりが人間として尊ばれるための世界)を築くというエボシ御前が、その実現のために自然を切り開いていくことを可能にするため放った石火矢の一発の鉄つぶて(自然の非神話化、生産のための資源として対象化し、搾取する)。その一発が「ナゴの守」(自然のいのち)に取り返すことの出来ない傷と死の苦しみ与えた。それが、あのタタリガミ(異常な荒ぶる神)を産み出した。自然と共に活きるエミシ村を襲うのは筋違いといっても、自然の不思議な連鎖に特別な意志も論理もない。「鎮まりたまえ」といっても容易におさまることのない、その恐ろしい勢いを食い止めようとしたアシタカは、死に至らしめる「呪い」をみにうけてしまうのだ。不条理なことこの上ない。しかし、まさにそれが真実な姿だ。
3・11の災害は自然の驚異をとことん思い知らせるものであったが、他方、その時に伴った災害は、自然にたいして人間の文明が与えた決定的な傷であった。自然は苦しみもだえている。それは、いったいどれほどの大きな犠牲を産み出すものであったのだろう。スティグマを身に負うこと。その不条理は、どんな手だてをしても、簡単には救われることはないのかも知れない。けれども、「曇りなき眼」で、その真実をつぶさに見ることだけが、「癒し」につながる可能性という。私たちへ託された使命。宮崎氏の問いかけ。
「もののけ姫」が1997年に公開されたというのは、なんと予言的なことかと思いもするが、ある意味では、3・11のもたらしたことは予測されたことでもあるということなのではないか。
私たちは、キリストの信仰において、この問いかけに真っ正面から向き合わなければならないだろう。私たちは、「キリストの十字架のしるし」を身に負うものだからだ。
人間の愚かしさは、この矛盾をわかっていても、飽くことなき欲望と利潤をもって自らを豊かなものとし、全てを支配しようという誘惑からのがれられないことなのだ。それによって、私たちは、本当は助け合い、自らの肉の肉、骨の骨と尊重するべき他者との関係に破れをもち、憎み争うものとなってしまった。聖書は、そうした私たちの姿をアダムの堕罪として記す。その罪の結果、その子たちもまた関係に破れを増幅させ、羨みと憎しみをまして、カインはアベルの血を流す。大地はさらに呪いを吸い込んでいく。そして、大地はもはや作物を産み出すことがなくなり、カイン(人)は地上を彷徨うものとなった。
「もののけ姫」のアシタカは関係をつなぐ存在だ。彷徨いつつも、それぞれの生の真実に触れようとする。「曇りなき眼」で見極めようとする。エボシが自分の生い立ちの中に抱えていた苦しみから、しかし、「理想」を目指す新しい歩みをとった真摯な思いを受け取る。人間に恨みを満ちつつも、人間である自分の宿命を抱えたサンが、森の神々こそ、小さな人間をもその一部とするはるかに大きないのちの営みの確かさを守るものと知っている、その真実をアシタカは受け止めている。そして、どんなに刃を向けられても、「そなたは美しい」といって、サンのいのちの尊厳を慈しむ。そして、エボシのタタラバと神々の森とが共に生きる道を求め続けるのだ。
映画の最後は、サンとの再会を誓い、今はそれぞれの場所に留まって、しかし、繰り返し、新しい道を探ろうとする。このように、そこに踏みとどまる力はどこから来るのだろう。彼に与えられた「スティグマ」が、不思議な「力」になっているのかも知れない。けれど、本当は、「力」に頼る愚かさをこそ、エボシの姿に描いたはず。宮崎のなかには、なお解けない問いが残されている。
カインの末裔としてのしるし…私たちは、その苦しみの中にあるのか。けれど、神は私たちを決してあきらめない。こんなにも、神から遠く、御心にそぐわない私を愛し、求め、赦し、生かしてくださる。絶望の中に希望をもたらすように、ご自身がこの絶望の只中においでになっている。それがイエス・キリストの出来事が示す啓示なのだ。けれども、ここには「無力さ」のみがある。人間の「弱さ」がある。十字架の愚かさ。そこに、ただ、他者とともに、他者のために生きる十字架のことばがある。
このことばに与るものは、自らにキリストを、その死といのちを、その十字のしるしを新たに与えられる。無力さ、よわさ。しかし、愛すること、つながることにこそ言葉を持っている。赦しの中に生きる道。赦されて、赦しへ。長い、長い道のりかも知れないが、その確かな歩みの中に生かされていく。だから、このしるしを負うものは、共に、あの方の御心にむかって歩むのだ。
「今、見えないものを曇りなき眼で」
〜宮崎駿氏の問いかけを受けて、3・11以後を生きる〜
1.自然と私たち
(1)驚異の自然
美し国、いのちの豊かさ、神々の世界
(2)自然の驚異
台風、地震、津波… 荒ぶる神
(3)自然への驚異
平和利用という神話の崩壊
2.アシタカのスティグマ
(1)宮崎駿の問いかけ
ファンタジーを通して、語る強いメッセージ
(2)目に見えない世界の大切さ
合理主義・物質主義の中で見失われていくもの
(3)人間文明と自然の相克関係
理想社会を求める文明と神々の世界
「ともに生きる道はないのか」
3. 十字架のしるし
(1)土の塵から形づくられたものは
神のようになろうとした欲望、関係の破れへ
呪いがおかれた大地、流された血
(2)十字架において
人となられた神を知る、破れの只中にあって
自らを裂き、罪の赦しと和解をもたらす
(3)矛盾の只中を生きる
あらゆる悪に耐えつつ、絶望しない
この身に負う「キリスト」の死といのち、使命をともにする
レジュメとしてお配りしたものを記録としておきたい。お話ししながら、改めてアシタカが身に負った「のろい」のしるし(スティグマ)の意味を考えさせられている。
新しい理想の未来(時代の中で差別され、人として認められないままの一人ひとりが人間として尊ばれるための世界)を築くというエボシ御前が、その実現のために自然を切り開いていくことを可能にするため放った石火矢の一発の鉄つぶて(自然の非神話化、生産のための資源として対象化し、搾取する)。その一発が「ナゴの守」(自然のいのち)に取り返すことの出来ない傷と死の苦しみ与えた。それが、あのタタリガミ(異常な荒ぶる神)を産み出した。自然と共に活きるエミシ村を襲うのは筋違いといっても、自然の不思議な連鎖に特別な意志も論理もない。「鎮まりたまえ」といっても容易におさまることのない、その恐ろしい勢いを食い止めようとしたアシタカは、死に至らしめる「呪い」をみにうけてしまうのだ。不条理なことこの上ない。しかし、まさにそれが真実な姿だ。
3・11の災害は自然の驚異をとことん思い知らせるものであったが、他方、その時に伴った災害は、自然にたいして人間の文明が与えた決定的な傷であった。自然は苦しみもだえている。それは、いったいどれほどの大きな犠牲を産み出すものであったのだろう。スティグマを身に負うこと。その不条理は、どんな手だてをしても、簡単には救われることはないのかも知れない。けれども、「曇りなき眼」で、その真実をつぶさに見ることだけが、「癒し」につながる可能性という。私たちへ託された使命。宮崎氏の問いかけ。
「もののけ姫」が1997年に公開されたというのは、なんと予言的なことかと思いもするが、ある意味では、3・11のもたらしたことは予測されたことでもあるということなのではないか。
私たちは、キリストの信仰において、この問いかけに真っ正面から向き合わなければならないだろう。私たちは、「キリストの十字架のしるし」を身に負うものだからだ。
人間の愚かしさは、この矛盾をわかっていても、飽くことなき欲望と利潤をもって自らを豊かなものとし、全てを支配しようという誘惑からのがれられないことなのだ。それによって、私たちは、本当は助け合い、自らの肉の肉、骨の骨と尊重するべき他者との関係に破れをもち、憎み争うものとなってしまった。聖書は、そうした私たちの姿をアダムの堕罪として記す。その罪の結果、その子たちもまた関係に破れを増幅させ、羨みと憎しみをまして、カインはアベルの血を流す。大地はさらに呪いを吸い込んでいく。そして、大地はもはや作物を産み出すことがなくなり、カイン(人)は地上を彷徨うものとなった。
「もののけ姫」のアシタカは関係をつなぐ存在だ。彷徨いつつも、それぞれの生の真実に触れようとする。「曇りなき眼」で見極めようとする。エボシが自分の生い立ちの中に抱えていた苦しみから、しかし、「理想」を目指す新しい歩みをとった真摯な思いを受け取る。人間に恨みを満ちつつも、人間である自分の宿命を抱えたサンが、森の神々こそ、小さな人間をもその一部とするはるかに大きないのちの営みの確かさを守るものと知っている、その真実をアシタカは受け止めている。そして、どんなに刃を向けられても、「そなたは美しい」といって、サンのいのちの尊厳を慈しむ。そして、エボシのタタラバと神々の森とが共に生きる道を求め続けるのだ。
映画の最後は、サンとの再会を誓い、今はそれぞれの場所に留まって、しかし、繰り返し、新しい道を探ろうとする。このように、そこに踏みとどまる力はどこから来るのだろう。彼に与えられた「スティグマ」が、不思議な「力」になっているのかも知れない。けれど、本当は、「力」に頼る愚かさをこそ、エボシの姿に描いたはず。宮崎のなかには、なお解けない問いが残されている。
カインの末裔としてのしるし…私たちは、その苦しみの中にあるのか。けれど、神は私たちを決してあきらめない。こんなにも、神から遠く、御心にそぐわない私を愛し、求め、赦し、生かしてくださる。絶望の中に希望をもたらすように、ご自身がこの絶望の只中においでになっている。それがイエス・キリストの出来事が示す啓示なのだ。けれども、ここには「無力さ」のみがある。人間の「弱さ」がある。十字架の愚かさ。そこに、ただ、他者とともに、他者のために生きる十字架のことばがある。
このことばに与るものは、自らにキリストを、その死といのちを、その十字のしるしを新たに与えられる。無力さ、よわさ。しかし、愛すること、つながることにこそ言葉を持っている。赦しの中に生きる道。赦されて、赦しへ。長い、長い道のりかも知れないが、その確かな歩みの中に生かされていく。だから、このしるしを負うものは、共に、あの方の御心にむかって歩むのだ。
「今、見えないものを曇りなき眼で」
〜宮崎駿氏の問いかけを受けて、3・11以後を生きる〜
1.自然と私たち
(1)驚異の自然
美し国、いのちの豊かさ、神々の世界
(2)自然の驚異
台風、地震、津波… 荒ぶる神
(3)自然への驚異
平和利用という神話の崩壊
2.アシタカのスティグマ
(1)宮崎駿の問いかけ
ファンタジーを通して、語る強いメッセージ
(2)目に見えない世界の大切さ
合理主義・物質主義の中で見失われていくもの
(3)人間文明と自然の相克関係
理想社会を求める文明と神々の世界
「ともに生きる道はないのか」
3. 十字架のしるし
(1)土の塵から形づくられたものは
神のようになろうとした欲望、関係の破れへ
呪いがおかれた大地、流された血
(2)十字架において
人となられた神を知る、破れの只中にあって
自らを裂き、罪の赦しと和解をもたらす
(3)矛盾の只中を生きる
あらゆる悪に耐えつつ、絶望しない
この身に負う「キリスト」の死といのち、使命をともにする
2016-11-13
『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜
ルター研 「秋の講演会」での私の講演メモです。当当日配布のレジュメに書き足していたものです。
『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜
1.問題意識:「自由」とはなにか。
中世の終わり、近代前夜の胎動の中、ルターは「キリスト者の自由」をいう。「自由」は近代を象徴するもの。けれども、ルターはキリスト者となってはじめて得られる「自由」を語る。キリスト者となることによって与えられる自由を語ることは、現代を生きる私たちにどのような意味があるのか。
(1)現代人の自由。
不自由のない現代は「自由」を求めないか。
ITプラトニズムの時代 。時空を超える。身体性を超える。自分を超える。
(2)「自由主義」の行き詰まり?
「自由」は近代の指標の一つ。しかし、その原理が自由な競争世界を資本主義のも
と展開し格差を産み出す。近代のもう一つの指標である「平等」が揺らぐ。
排他主義、保護主義の台頭、力による支配を求める時代。
(3)「何をしてもよい」自由。善悪の判断が超えられている?
自由な個人。自己責任を求める世界。個人の欲望を満たす消費社会。人間関係の希
薄化は、社会の中での共通の価値観や倫理の感覚を弱くする。「良心」が薄らぐ。
あからさまに、「なぜ人を殺してはいけないか」 が言葉になる。
私たちは、自由を満喫しているようだが、本当の意味で「自由」なものなのか。
2.ルターにおける自由と悪
一般に中世において「自由」が語られてきたのは、人間の「自由意志」の問題。しかし、ルターが語るのは「魂の自由」。しかし、プラトニズムのように魂だけの自由を語るのではない。むしろ、信仰における魂の自由がこの世に肉を持って生きる新しい生き方、愛と奉仕に生きることを実現する。
(1)自由の問題
アウグスティヌス以来の中世の伝統⇒ルネサンスにおけるあたらしい人間
こうした人間中心的なオプティミズムは、人文主義へさらに近代へとつながってい
く。人間賛歌と自由意志⇒エラスムス自由意志について:ルターとの論争。
(2)悪の問題
ルターの奴隷的意志の強力な主張⇒すなわち、罪意識の徹底!
「悪い欲望」 に囚われていること。いっさいの虚しさ。
(3)キリストの勝利
キリストの十字架⇒逆説的な力。
魂はみことば(キリストの福音)において満ち足りる
キリスト者は、確かに、この勝利に与っていて、完全に魂の安らぎを持っているが、魂だけの存在になるわけではない。だから、この世界においては「愛と奉仕」を積極的に生きる。しかし、そのことは、必然的に悪魔の支配にいつもさらされ続けるということでもある。そして、そのことからの完全な自由は死と復活のときまでは得られない。それゆえに、義人にして同時に罪人!
3.現代の「悪」の力とキリストにある自由
罪・悪の支配と神の支配の二つの世界を同時に生きている。その同時性に耐え、なおかつキリストのみ業への参与をいきることが求められ、またそのように生かされているのがキリスト者であると言えるのだろう。
(1)罪と悪の具体的な支配のもとにある人間
① 人間共同体・自然関係
功績主義・成果主義による関係の破壊
② 組織的・社会的構造的悪と個人
関係の抽象化と無責任 弱者とマイノリティへのしわ寄せ
こうした悪の支配を象徴するような「核」の問題。「核」そのものは、絶対悪ということまでは言えないかも知れないが、これを用いる人間には、戦争利用にしろ、平和利用にしろ、これを確かにコントロールする力は無い。逆に、これによって支配されるだけということが現実ではないか。
ただ、その現実を変えていくことには、理想を叫び、それを絶対善として求めるだけでは解決しない。むしろ、時間をかけてこの矛盾を抱きかかえる以外にないのかもしれない。
(2)一人ひとりの魂を包む暗やみ
① 関係の希薄と生きる意味の喪失
あらゆる人間関係の希薄さ 隣人への無関心
② 欲望の増殖と虚無
経済活動はそれゆえほとんど重要な意味はなく、虚しい。
③ 「暗やみ」「鬼畜」 聖なるものの喪失
暴力と破壊衝動 死の欲動、憎悪のエネルギー
(3)「キリスト者の自由」
矛盾を抱えている自分を受け入れ、「すべてを抱きしめて生きる」 ために
この現実のなかで、ただ「キリストとともに」 というルターの主張!
① みことばを受けることのなかで
律法:「わたしたちのいっさいが無」
福音:「わたしたちにひつような全てが与えられる」
「すべてのものが働いて益となる」
② 無力さのなかで
キリストと共に十字架を生きる
苦難を引き受けることと他者のための生へ
一人ひとりが小さなキリストとして、このみことばを生き、とりなしと証
しによって、みことばを分かち合う。
悪の支配する現実に耐え、なお確かな安らぎを受けて、
終末に約束された、神の国(支配)における正義と公平、平和を見通して
神のみ業への参与へと応答する。
『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜
1.問題意識:「自由」とはなにか。
中世の終わり、近代前夜の胎動の中、ルターは「キリスト者の自由」をいう。「自由」は近代を象徴するもの。けれども、ルターはキリスト者となってはじめて得られる「自由」を語る。キリスト者となることによって与えられる自由を語ることは、現代を生きる私たちにどのような意味があるのか。
(1)現代人の自由。
不自由のない現代は「自由」を求めないか。
ITプラトニズムの時代 。時空を超える。身体性を超える。自分を超える。
(2)「自由主義」の行き詰まり?
「自由」は近代の指標の一つ。しかし、その原理が自由な競争世界を資本主義のも
と展開し格差を産み出す。近代のもう一つの指標である「平等」が揺らぐ。
排他主義、保護主義の台頭、力による支配を求める時代。
(3)「何をしてもよい」自由。善悪の判断が超えられている?
自由な個人。自己責任を求める世界。個人の欲望を満たす消費社会。人間関係の希
薄化は、社会の中での共通の価値観や倫理の感覚を弱くする。「良心」が薄らぐ。
あからさまに、「なぜ人を殺してはいけないか」 が言葉になる。
私たちは、自由を満喫しているようだが、本当の意味で「自由」なものなのか。
2.ルターにおける自由と悪
一般に中世において「自由」が語られてきたのは、人間の「自由意志」の問題。しかし、ルターが語るのは「魂の自由」。しかし、プラトニズムのように魂だけの自由を語るのではない。むしろ、信仰における魂の自由がこの世に肉を持って生きる新しい生き方、愛と奉仕に生きることを実現する。
(1)自由の問題
アウグスティヌス以来の中世の伝統⇒ルネサンスにおけるあたらしい人間
こうした人間中心的なオプティミズムは、人文主義へさらに近代へとつながってい
く。人間賛歌と自由意志⇒エラスムス自由意志について:ルターとの論争。
(2)悪の問題
ルターの奴隷的意志の強力な主張⇒すなわち、罪意識の徹底!
「悪い欲望」 に囚われていること。いっさいの虚しさ。
(3)キリストの勝利
キリストの十字架⇒逆説的な力。
魂はみことば(キリストの福音)において満ち足りる
キリスト者は、確かに、この勝利に与っていて、完全に魂の安らぎを持っているが、魂だけの存在になるわけではない。だから、この世界においては「愛と奉仕」を積極的に生きる。しかし、そのことは、必然的に悪魔の支配にいつもさらされ続けるということでもある。そして、そのことからの完全な自由は死と復活のときまでは得られない。それゆえに、義人にして同時に罪人!
3.現代の「悪」の力とキリストにある自由
罪・悪の支配と神の支配の二つの世界を同時に生きている。その同時性に耐え、なおかつキリストのみ業への参与をいきることが求められ、またそのように生かされているのがキリスト者であると言えるのだろう。
(1)罪と悪の具体的な支配のもとにある人間
① 人間共同体・自然関係
功績主義・成果主義による関係の破壊
② 組織的・社会的構造的悪と個人
関係の抽象化と無責任 弱者とマイノリティへのしわ寄せ
こうした悪の支配を象徴するような「核」の問題。「核」そのものは、絶対悪ということまでは言えないかも知れないが、これを用いる人間には、戦争利用にしろ、平和利用にしろ、これを確かにコントロールする力は無い。逆に、これによって支配されるだけということが現実ではないか。
ただ、その現実を変えていくことには、理想を叫び、それを絶対善として求めるだけでは解決しない。むしろ、時間をかけてこの矛盾を抱きかかえる以外にないのかもしれない。
(2)一人ひとりの魂を包む暗やみ
① 関係の希薄と生きる意味の喪失
あらゆる人間関係の希薄さ 隣人への無関心
② 欲望の増殖と虚無
経済活動はそれゆえほとんど重要な意味はなく、虚しい。
③ 「暗やみ」「鬼畜」 聖なるものの喪失
暴力と破壊衝動 死の欲動、憎悪のエネルギー
(3)「キリスト者の自由」
矛盾を抱えている自分を受け入れ、「すべてを抱きしめて生きる」 ために
この現実のなかで、ただ「キリストとともに」 というルターの主張!
① みことばを受けることのなかで
律法:「わたしたちのいっさいが無」
福音:「わたしたちにひつような全てが与えられる」
「すべてのものが働いて益となる」
② 無力さのなかで
キリストと共に十字架を生きる
苦難を引き受けることと他者のための生へ
一人ひとりが小さなキリストとして、このみことばを生き、とりなしと証
しによって、みことばを分かち合う。
悪の支配する現実に耐え、なお確かな安らぎを受けて、
終末に約束された、神の国(支配)における正義と公平、平和を見通して
神のみ業への参与へと応答する。
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