今週、15-18日の4日間、ルーテル学院大学・神学校では教職神学セミナーが開かれた。。
テーマは「中高年と再生―人生の危機と信仰の歩み」。
やや硬い感じのタイトル。しかし、このセミナーで改めて「団塊の世代」についての実際を教えられ、また自分の世代との比べつつ、あの世代がいまの時代に大量に引退時期を迎えているという現実について考えさせられている。
あの「団塊の世代」は、自分の世代のちょうど一回り上になる。だから、いろいろな意味で自分たちがぎりぎりあの世代の影響を受けてきたといえるかもしれない。中学になったころにあの浅間山荘事件の連日の報道にくぎ付けになった自分は、大学生になってもうすっかりと時代は変わってしまっていたにも拘らず、学生運動の残り火のようなものを味わい、当時学生たちとしのぎを削った経験を話してくれる教授たちから、いい意味でも悪い意味でも『「学生運動」の後』を教えられてきた。社会の問題に鋭くきりこむイデオロギーの崩壊後の、自分たちの世代が90年代前半のあの「オーム真理教」をはじめとする新しい宗教を求めた中心的世代である。時代はポスト・オームとなって、宗教という衣を嫌い、スピリチュアリティーを求めるようになったわけだから、この世代間の相違はそれなりに興味深い。
しかし、江口氏は「団塊の世代」を生きた一証人として、自分たちがあの時に立ち向かっていた問題は、実は社会の問題ではなくて、今につながる時代の生み出してきていた内面的な「空虚さ」の問題だったと述懐された。これは、なかなかに深い考察だ。あの「団塊世代」との断絶の中で、自らを感じてきた世代としては、突然に親近感を覚えてくる。ならばと振り返るとき、ある種の憧れのような感覚と批判的な視点をもって見てきたあの世代に対する遅れ・・のようなものは、何のことはない逆に早すぎた彼らの世代の問題とも見えてくる。
さて、そうであれば、同じ時代を生きている我々が「中高年」という人生の節目に、どんな「ことば」をキータームとして神の言葉を聞き取るものなのだろうかと、改めて問い直したいのだ。
2010-02-20
2010-02-11
書評「人物でたどる礼拝の歴史」
「本のひろば」に掲載の紹介文
人物でたどる礼拝の歴史
礼拝学関連の出版が続き、近年その研究の充実ぶりには目を見張るものがあるが、そうした各種の研究書の中で、本書は、おそらく最も読みやすい礼拝学のイントロダクションにあたると言ってもよいだろう。現在に至るキリスト教二千年の歩みの中、欠かすことなく守られてきた主の礼拝が、どのような歴史的な変遷をたどってきたのか。礼拝の歴史に深く関与した人物に着目しつつ、礼拝の神学と実践の宝庫としての歴史に近づく一冊である。季刊誌『礼拝と音楽』に7年間にわたって連載されてきたものを中心に纏められたものであるだけに、とりあげられたトピックや人物のみならず、執筆陣の充実ぶりも壮観な印象である。
新たに書き下ろされた二項目を加えた全二十六項目は礼拝史のなかの全てのトピックを網羅するとは言えないのかもしれないが、使徒教父の時代から現代までの広がりの中で重要な項目が十分押さえられている。一つひとつの項目は、コンパクトではあっても、洗練され、凝縮された叙述なのは連載の故だが、執筆者の苦労と同時にその力量を思わせる。それぞれに深いかかわりをもった人物を初めに紹介する手法は、その時代、ことにもそこに生きる信仰者の姿を浮き彫りにしてくれる。「まえがき」にもあるように、礼拝はどんな時も個人のものではないけれども、まさにそこに生きる人々、「共同体の業」(レイトゥルギア)であればこそ、その時とところに生きた具体的な人物が感じられるところで、その共同体の姿も生き生きとして見えてくる。礼拝の神学の展開や実践的発展を歴史的に視るというよりも、その一つの時代に何が求められ、信仰者がどのように礼拝によって生かされていったのか、その時代と場所に焦点が絞りこまれていくことで、礼拝の豊かさを再度確認させられる叙述である。
読者は、読みやすく興味のあるところから自由に読み始めることができるだろう。しかし、読み始めたなら、必ずや他の項目にも目を注ぎたくなる。ローマ・カトリック、聖公会、ルター派、改革・長老派、メソジスト、バプテスト、あるいはピューリタンや敬虔主義の礼拝。今日の多様な教派にかかわる礼拝の源泉をそれぞれに見出すばかりではなく、その源泉が二千年の教会の歴史の中に改めて位置づけられることで、一つの教派的伝統がより大きなキリスト教会全体の伝統の豊かさとなることを思わされる。
日本についても、キリシタン時代やプロテスタント宣教初期の礼拝の様子を紹介していることは見逃せない。特に、日本最初のプロテスタント教会の礼拝が鎖国時代の17世紀にさかのぼるというくだりは、新しい研究の成果でもあり、宣教百五十年を祝ったばかりの読者には胸躍るものがある。
また、西方の伝統ばかりではなく、日本ではあまり一般に知られてこなかった東方正教会の礼拝伝統についても垣間見ることができたことも特筆すべきことだろう。近年ビザンティンの伝統が紹介されているところだけに、同じキリストの教会としての具体的な交わりと相互の理解がより進むように願うところである。読者には、この異なる伝統の具体的なイメージが伝わりきるものではないかもしれないが、その深い敬虔に改めて興味をそそられることになる。
リタージカルムーブメントやエキュメニカルなリマ式文、あるいはヒム・エクスプロージョンなども取り上げられて、現代の礼拝につながっている大きな潮流見ることも出来る。近年のアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどのコンテキストから起こっている賛美や礼拝、新しい神学と実践の動きについては、もう少し時間を置いてから紹介されるということになろうか。
いずれにせよ、本書によって、礼拝に招かれ、礼拝から派遣されるダイナミズムの中にこそ、私たちの信仰の生があることを今一度教えられるのである。
人物でたどる礼拝の歴史
礼拝学関連の出版が続き、近年その研究の充実ぶりには目を見張るものがあるが、そうした各種の研究書の中で、本書は、おそらく最も読みやすい礼拝学のイントロダクションにあたると言ってもよいだろう。現在に至るキリスト教二千年の歩みの中、欠かすことなく守られてきた主の礼拝が、どのような歴史的な変遷をたどってきたのか。礼拝の歴史に深く関与した人物に着目しつつ、礼拝の神学と実践の宝庫としての歴史に近づく一冊である。季刊誌『礼拝と音楽』に7年間にわたって連載されてきたものを中心に纏められたものであるだけに、とりあげられたトピックや人物のみならず、執筆陣の充実ぶりも壮観な印象である。
新たに書き下ろされた二項目を加えた全二十六項目は礼拝史のなかの全てのトピックを網羅するとは言えないのかもしれないが、使徒教父の時代から現代までの広がりの中で重要な項目が十分押さえられている。一つひとつの項目は、コンパクトではあっても、洗練され、凝縮された叙述なのは連載の故だが、執筆者の苦労と同時にその力量を思わせる。それぞれに深いかかわりをもった人物を初めに紹介する手法は、その時代、ことにもそこに生きる信仰者の姿を浮き彫りにしてくれる。「まえがき」にもあるように、礼拝はどんな時も個人のものではないけれども、まさにそこに生きる人々、「共同体の業」(レイトゥルギア)であればこそ、その時とところに生きた具体的な人物が感じられるところで、その共同体の姿も生き生きとして見えてくる。礼拝の神学の展開や実践的発展を歴史的に視るというよりも、その一つの時代に何が求められ、信仰者がどのように礼拝によって生かされていったのか、その時代と場所に焦点が絞りこまれていくことで、礼拝の豊かさを再度確認させられる叙述である。
読者は、読みやすく興味のあるところから自由に読み始めることができるだろう。しかし、読み始めたなら、必ずや他の項目にも目を注ぎたくなる。ローマ・カトリック、聖公会、ルター派、改革・長老派、メソジスト、バプテスト、あるいはピューリタンや敬虔主義の礼拝。今日の多様な教派にかかわる礼拝の源泉をそれぞれに見出すばかりではなく、その源泉が二千年の教会の歴史の中に改めて位置づけられることで、一つの教派的伝統がより大きなキリスト教会全体の伝統の豊かさとなることを思わされる。
日本についても、キリシタン時代やプロテスタント宣教初期の礼拝の様子を紹介していることは見逃せない。特に、日本最初のプロテスタント教会の礼拝が鎖国時代の17世紀にさかのぼるというくだりは、新しい研究の成果でもあり、宣教百五十年を祝ったばかりの読者には胸躍るものがある。
また、西方の伝統ばかりではなく、日本ではあまり一般に知られてこなかった東方正教会の礼拝伝統についても垣間見ることができたことも特筆すべきことだろう。近年ビザンティンの伝統が紹介されているところだけに、同じキリストの教会としての具体的な交わりと相互の理解がより進むように願うところである。読者には、この異なる伝統の具体的なイメージが伝わりきるものではないかもしれないが、その深い敬虔に改めて興味をそそられることになる。
リタージカルムーブメントやエキュメニカルなリマ式文、あるいはヒム・エクスプロージョンなども取り上げられて、現代の礼拝につながっている大きな潮流見ることも出来る。近年のアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどのコンテキストから起こっている賛美や礼拝、新しい神学と実践の動きについては、もう少し時間を置いてから紹介されるということになろうか。
いずれにせよ、本書によって、礼拝に招かれ、礼拝から派遣されるダイナミズムの中にこそ、私たちの信仰の生があることを今一度教えられるのである。
2010-02-09
「いのち学序説」の計画
2010年度にキリスト教学科は「いのち学」という枠組みをつくって、神学の各分野から「いのち」の問題を深くとらえ、研究して行こうという取り組みを準備している。これは、神学が教会のために教会の信仰内容を説明するということだけではなく、現代の課題に神学が正面から向き合っていくことと、その成果を世界に問いかけ、また投げかけいこうとするものである。
現在、準備に取り掛かっている2010年度の新しい授業。
次のようなシラバスを用意している。
シラバス
「いのち学序説」
【履修の条件】
特にないが、クラスでのディスカッションに積極的に参加する者に限る。
【内 容】
現代社会における「死といのち」の諸問題を見すえ、キリスト教の視座からこれに取り組んでいくことをともに学んでいく。授業は、講義とクラスのディスカッションによって進められる。
1.イントロダクション・いのち学
2.いのちのはじまり
3.いのちの喜び
4.労苦と苦難
5.病と障がいを負って
6.科学・医療といのち
7.他者とともに生きる
8.求められる和解
9.いのちは誰のものか
10.死と魂
11.死後の世界
12.自然の中にあって
13.いのちと宗教
14.まとめ
【評価】
クラスでの発表・発言、提出物と前期末の試験、もしくはレポートによる。
【テキスト】
テキストは特にない。
参考書は、その都度クラスで紹介するが、森岡正博『生命学をひらく』、東京大学出版会の『死生学』シリーズなど。
現在、準備に取り掛かっている2010年度の新しい授業。
次のようなシラバスを用意している。
シラバス
「いのち学序説」
【履修の条件】
特にないが、クラスでのディスカッションに積極的に参加する者に限る。
【内 容】
現代社会における「死といのち」の諸問題を見すえ、キリスト教の視座からこれに取り組んでいくことをともに学んでいく。授業は、講義とクラスのディスカッションによって進められる。
1.イントロダクション・いのち学
2.いのちのはじまり
3.いのちの喜び
4.労苦と苦難
5.病と障がいを負って
6.科学・医療といのち
7.他者とともに生きる
8.求められる和解
9.いのちは誰のものか
10.死と魂
11.死後の世界
12.自然の中にあって
13.いのちと宗教
14.まとめ
【評価】
クラスでの発表・発言、提出物と前期末の試験、もしくはレポートによる。
【テキスト】
テキストは特にない。
参考書は、その都度クラスで紹介するが、森岡正博『生命学をひらく』、東京大学出版会の『死生学』シリーズなど。
2010-01-17
Ministry
昨年の春、キリスト新聞社から創刊された新しい注目の雑誌。
Ministry(ミニストリー 2010年 01月号 [雑誌]
1月号を読んだ。牧師を応援する実践神学分野の雑誌。今月号の特集「『説教力』をみがく」。
編集主幹のひとり平野克己氏がこの特集をまとめられている。
神学校で説教学を教えられいる諸氏の一言は奥が深い。短い文章のなかに、説教者への心得が要領よくまとめられている。実際の牧師たちの一週間の説教への取り組みのドキュメンタリー風のレポートには若い牧師たちも励まされるだろう。なによりも、平野氏による説教の「赤ペン先生」は必見。氏の説教についての深い理解からなされる的確な指示は、説教作りに多くのヒントを与えてくれるばかりでなく、説教を語るということを改めて課題として受け止めさせてくれる。
昨年の10月雑誌の編集会議にも出させていただいたが、私と同世代の牧師たちが、日本中の牧師と教会を元気にしたいという熱いパッションで作っている。素直に、うれしい心になった。教派をこえて、この雑誌が日本のキリスト教界にあたらしい風をもたらすに違いないと感じた。
Ministry(ミニストリー 2010年 01月号 [雑誌]
1月号を読んだ。牧師を応援する実践神学分野の雑誌。今月号の特集「『説教力』をみがく」。
編集主幹のひとり平野克己氏がこの特集をまとめられている。
神学校で説教学を教えられいる諸氏の一言は奥が深い。短い文章のなかに、説教者への心得が要領よくまとめられている。実際の牧師たちの一週間の説教への取り組みのドキュメンタリー風のレポートには若い牧師たちも励まされるだろう。なによりも、平野氏による説教の「赤ペン先生」は必見。氏の説教についての深い理解からなされる的確な指示は、説教作りに多くのヒントを与えてくれるばかりでなく、説教を語るということを改めて課題として受け止めさせてくれる。
昨年の10月雑誌の編集会議にも出させていただいたが、私と同世代の牧師たちが、日本中の牧師と教会を元気にしたいという熱いパッションで作っている。素直に、うれしい心になった。教派をこえて、この雑誌が日本のキリスト教界にあたらしい風をもたらすに違いないと感じた。
2009-12-16
提唱 「いのち学」
キリスト教学科では来年度から「いのち学」を提唱し、関連科目を整理して、カリキュラムを整えることとした。「キリスト教学」という広い学問領域の中に新しい道筋をつけて、研究活動と教育を新たに展開していくことをねらいとしている。
1980年代ごろから90年代にかけて、ホスピスや終末期医療、あるいは脳死と臓器移植など最先端の医療の現場で向かい合う「死」の問題が多く論じられるようになり、それと同時に日本人の死生観ということに注目が集まるようになった。それから、五木寛之の「大河の一滴」がベストセラーになったり、「葉っぱのフレディー」という絵本がとりあげられたり、最近では「千の風になって」という歌が多くの人々の心に、それとなく自分たちの「死」や「死後の問題」について考えるきっかけを与えたといってよい。昨年(08年)の直木賞作品『悼む人』、また米アカデミー賞の外国語映画賞受賞の「おくりびと」なども、現代の「生と死」に対する深い問いが作品のテーマになっている。いずれも、日常的な人間の「死」を受け止めてきた伝統的な共同社会が崩壊した現代社会の孤独な私たちが、新しく「死」の問題に向かい合いながら、生きることを問い直す深い求めが潜在的な主題であることを考えさせられるものだ。つまり、「死といのち」について問い直したいというニーズが非常に高くなってきているということだと思う。
従来なら、いわゆる「宗教」がこうした問題に対する答えを提示してきた。しかし、具体的な宗教世界に入るのとは違った形で、「死といのち」を問うていきたいという現代のニーズがあることは確かといえよう。
こうした二ーズに対して、私たちは、「キリスト教学科」こそが、これに応えていく材料も力も、責任もあるのではないかという自覚を新たにし、「いのち学」の新しいカリキュラムを提供することにした。
すでに開講されていた関連科目に加え、新たにいくつかの科目を用意し、次のような科目を開講する。
①「人間・いのち・世界I」石居
②「人間・いのち・世界II」石居
③「いのち学序説」石居
④「食といのちと環境I」上村
⑤「食といのちと環境II」上村
⑥「キリスト教と生命倫理」江藤
⑦「キリスト教と環境倫理」江藤
⑧「福音書におけるいのち」ブランキー
⑨「いのちのキリスト教史」マッケンジー
⑩「キリスト教倫理I」江藤
⑪「キリスト教倫理II」江藤
⑫「神化の教理と永遠の命」鈴木
⑬「スピリチュアリティーと聖書の伝統」江藤
⑭「死生学I」石居
⑮「死生学II」石居
隔年開講等も含めてこの15科目ほどをまず用意できるとよいと考えている。
このテーマを神学諸科のインターディシプリナリな取り組みの中で、さらに研究をすすめ、プログラムとして提供していきたい。
1980年代ごろから90年代にかけて、ホスピスや終末期医療、あるいは脳死と臓器移植など最先端の医療の現場で向かい合う「死」の問題が多く論じられるようになり、それと同時に日本人の死生観ということに注目が集まるようになった。それから、五木寛之の「大河の一滴」がベストセラーになったり、「葉っぱのフレディー」という絵本がとりあげられたり、最近では「千の風になって」という歌が多くの人々の心に、それとなく自分たちの「死」や「死後の問題」について考えるきっかけを与えたといってよい。昨年(08年)の直木賞作品『悼む人』、また米アカデミー賞の外国語映画賞受賞の「おくりびと」なども、現代の「生と死」に対する深い問いが作品のテーマになっている。いずれも、日常的な人間の「死」を受け止めてきた伝統的な共同社会が崩壊した現代社会の孤独な私たちが、新しく「死」の問題に向かい合いながら、生きることを問い直す深い求めが潜在的な主題であることを考えさせられるものだ。つまり、「死といのち」について問い直したいというニーズが非常に高くなってきているということだと思う。
従来なら、いわゆる「宗教」がこうした問題に対する答えを提示してきた。しかし、具体的な宗教世界に入るのとは違った形で、「死といのち」を問うていきたいという現代のニーズがあることは確かといえよう。
こうした二ーズに対して、私たちは、「キリスト教学科」こそが、これに応えていく材料も力も、責任もあるのではないかという自覚を新たにし、「いのち学」の新しいカリキュラムを提供することにした。
すでに開講されていた関連科目に加え、新たにいくつかの科目を用意し、次のような科目を開講する。
①「人間・いのち・世界I」石居
②「人間・いのち・世界II」石居
③「いのち学序説」石居
④「食といのちと環境I」上村
⑤「食といのちと環境II」上村
⑥「キリスト教と生命倫理」江藤
⑦「キリスト教と環境倫理」江藤
⑧「福音書におけるいのち」ブランキー
⑨「いのちのキリスト教史」マッケンジー
⑩「キリスト教倫理I」江藤
⑪「キリスト教倫理II」江藤
⑫「神化の教理と永遠の命」鈴木
⑬「スピリチュアリティーと聖書の伝統」江藤
⑭「死生学I」石居
⑮「死生学II」石居
隔年開講等も含めてこの15科目ほどをまず用意できるとよいと考えている。
このテーマを神学諸科のインターディシプリナリな取り組みの中で、さらに研究をすすめ、プログラムとして提供していきたい。
2009-12-09
書評「神の仮面」
江口再起著「神の仮面」
神の仮面―ルターと現代世界
これも、「本のひろば」に掲載されたもの。
近年、ルター関連の著作が相次いで出版されてきている。政治・経済・社会的に不安定で、心理的・精神的にも大きな危機を迎える中世末期に、ドイツの片田舎で個人的な試練を体験した一人の修道士ルターは、その深い信仰の思索において、時代の人々が当然としてきた教会の伝統に対し決然と立ち向かって宗教的確信を貫いた。聖書に示されたキリストによる救いへの信仰に基づいて彼は教会の改革を呼びかけたが、それがもたらした改革のうねりは政治・文化・教育など広範な影響を与えることになった。それが新しい時代、近代へと向かう大きな歩みを形作ることになったのである。ルターの宗教改革は、混迷する現代の私たちに、時代の問題性を明らかにし、新しい時代を切り開く神学的思索の重要性と有効性を教える。
本書は、その意味で、いわゆる歴史研究としてのルター研究ではなく、まさに神学的思索が時代をとらえる、ルター的神学の醍醐味を表すものだと言えよう。
著者の江口再起氏は、現在は大学で教鞭をとり、キリスト教関連科目を担当されているが、もともとルーテル教会の牧師である。私が牧師の按手を受けた20年ほど前には、所属の教区行政にも責任を持たれていた。教会の現状と将来に対する鋭い彼の分析は、希望的観測というよりもかなり厳しい内容であったからか、悲観論者とも評された。しかし、統計的資料にも基づいた客観性に裏付けられた分析は、20年経つとそれらのほとんどが、ほぼ正確に現実となっていることがわかる。江口氏の冷静に現実を見据える視点は、その神学の取り組みにおいても基本的に変わらない。独特の着眼と発想をもって、現代世界の諸相に切り込む思索と論述には、思わず読者をうならせるものがある。かつて訪れた書斎には、神学・哲学・思想を中心とした洋の東西の著作家の著作、全集が揃えられ、蔵書の多さはおそらく類を見ないものであったことを記憶する。彼の知識と見分の広さを物語るが、それが氏の著作を下支えする。
一方で「良心」、「義認論」、「二王国論」、「神の仮面」、「隠された神」、「キリスト者の自由」、「罪」、「救済」、「生と死」など、いわゆるルター神学のカギとなるような伝統的な神学概念を取り上げつつ、他方では「グローバル・ヴィレッジ」、「ポストモダン」、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ・ナガサキ」、「デス・エデュケーション」、「スピリチュアリティー」や「サカキバラ事件」など現代世界をとらえる様々なタームを手繰り寄せて、それらを切り結び、大胆かつ自由に思索し、確かに世界と時代を浮き彫りにする。ある意味で、我々が人間の中に自明的に期待してきたであろう良心とか正義への感覚とか、罪の意識などという観念が、すでに意味をなさなくなりつつある今日の現実を見据えつつ、そこに神の関わりをどう見出すのか。ルターの著作・資料にもあたり、また、豊富な神学と哲学の思想を用いつつ、丁寧になされる論述は説得力を持ち、その論理的展開の妙味は読む者を引き寄せる。
現代において我々が神学するということがどういうことであるのか。単に信仰の教理と教会の事柄にのみ専心するのではなく、現代の世界、時代の課題に向かい合い、それに応えていく神学が求められている。それは時代のニーズに合わせる祭司的な営みというばかりではなく、また、むしろ時代を問う預言者的営みでもあろう。神の存在も人間の信仰も前提に出来ない現代の世界に生きる我々が、なお、「神の前」に立つということの意味を問う神学の課題と可能性を、本書によって改めて考えさせられる。
福音への深い信頼の故に、ペシミスティックにも見える江口氏の洞察の奥には、徹底したオプティミズムが流れているのであろう。深い問いの只中に立ちつくしつつも、なおキリスト教信仰に確かな手掛かりを感じさせる叙述には安心感を覚える。本書のような取り組みは、まさにそうした現代の神学的思索の一つの試みだと言えるだろう。
江口氏は、私が神学生の時代から、ルター研究所の研究会や講演などで接することの多かった牧師先生のひとりだった。神学や教会はどういうチャレンジの中にあるかということについて私が教えられた神学者の一人でもある。
神の仮面―ルターと現代世界
これも、「本のひろば」に掲載されたもの。
近年、ルター関連の著作が相次いで出版されてきている。政治・経済・社会的に不安定で、心理的・精神的にも大きな危機を迎える中世末期に、ドイツの片田舎で個人的な試練を体験した一人の修道士ルターは、その深い信仰の思索において、時代の人々が当然としてきた教会の伝統に対し決然と立ち向かって宗教的確信を貫いた。聖書に示されたキリストによる救いへの信仰に基づいて彼は教会の改革を呼びかけたが、それがもたらした改革のうねりは政治・文化・教育など広範な影響を与えることになった。それが新しい時代、近代へと向かう大きな歩みを形作ることになったのである。ルターの宗教改革は、混迷する現代の私たちに、時代の問題性を明らかにし、新しい時代を切り開く神学的思索の重要性と有効性を教える。
本書は、その意味で、いわゆる歴史研究としてのルター研究ではなく、まさに神学的思索が時代をとらえる、ルター的神学の醍醐味を表すものだと言えよう。
著者の江口再起氏は、現在は大学で教鞭をとり、キリスト教関連科目を担当されているが、もともとルーテル教会の牧師である。私が牧師の按手を受けた20年ほど前には、所属の教区行政にも責任を持たれていた。教会の現状と将来に対する鋭い彼の分析は、希望的観測というよりもかなり厳しい内容であったからか、悲観論者とも評された。しかし、統計的資料にも基づいた客観性に裏付けられた分析は、20年経つとそれらのほとんどが、ほぼ正確に現実となっていることがわかる。江口氏の冷静に現実を見据える視点は、その神学の取り組みにおいても基本的に変わらない。独特の着眼と発想をもって、現代世界の諸相に切り込む思索と論述には、思わず読者をうならせるものがある。かつて訪れた書斎には、神学・哲学・思想を中心とした洋の東西の著作家の著作、全集が揃えられ、蔵書の多さはおそらく類を見ないものであったことを記憶する。彼の知識と見分の広さを物語るが、それが氏の著作を下支えする。
一方で「良心」、「義認論」、「二王国論」、「神の仮面」、「隠された神」、「キリスト者の自由」、「罪」、「救済」、「生と死」など、いわゆるルター神学のカギとなるような伝統的な神学概念を取り上げつつ、他方では「グローバル・ヴィレッジ」、「ポストモダン」、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ・ナガサキ」、「デス・エデュケーション」、「スピリチュアリティー」や「サカキバラ事件」など現代世界をとらえる様々なタームを手繰り寄せて、それらを切り結び、大胆かつ自由に思索し、確かに世界と時代を浮き彫りにする。ある意味で、我々が人間の中に自明的に期待してきたであろう良心とか正義への感覚とか、罪の意識などという観念が、すでに意味をなさなくなりつつある今日の現実を見据えつつ、そこに神の関わりをどう見出すのか。ルターの著作・資料にもあたり、また、豊富な神学と哲学の思想を用いつつ、丁寧になされる論述は説得力を持ち、その論理的展開の妙味は読む者を引き寄せる。
現代において我々が神学するということがどういうことであるのか。単に信仰の教理と教会の事柄にのみ専心するのではなく、現代の世界、時代の課題に向かい合い、それに応えていく神学が求められている。それは時代のニーズに合わせる祭司的な営みというばかりではなく、また、むしろ時代を問う預言者的営みでもあろう。神の存在も人間の信仰も前提に出来ない現代の世界に生きる我々が、なお、「神の前」に立つということの意味を問う神学の課題と可能性を、本書によって改めて考えさせられる。
福音への深い信頼の故に、ペシミスティックにも見える江口氏の洞察の奥には、徹底したオプティミズムが流れているのであろう。深い問いの只中に立ちつくしつつも、なおキリスト教信仰に確かな手掛かりを感じさせる叙述には安心感を覚える。本書のような取り組みは、まさにそうした現代の神学的思索の一つの試みだと言えるだろう。
江口氏は、私が神学生の時代から、ルター研究所の研究会や講演などで接することの多かった牧師先生のひとりだった。神学や教会はどういうチャレンジの中にあるかということについて私が教えられた神学者の一人でもある。
2009-11-30
「いのちの倫理と宗教」
ルーテル学院のコミュニティー人材養成センターを通して、本学のそれぞれの学科が、地域の人々、特に専門職にある人たちに向けてキャリア・アップのためのプログラムを提供している。
キリスト教学科では、医療や福祉などの現場で「死」という避けることのできない課題と向かい合う人たちに、死にゆく人と向かい合うということが、どういうことであるのか、ともに学び、考えていただこうと、今回の企画を試みた。
企画は、次のとおり。
http://docs.google.com/View?id=dhbtdn5z_12q8d82cfz
今回は、真言宗の僧侶にもお話しを伺うことができて、なかなか興味深いプログラムになったとおもうのだが、実は企画の初日、私がインフルエンザにかかってしまい、急遽予定を変更することになった。申し訳ない。
それでも、なんとかスケジュールは調整できた。
福祉の現場からの参加が多少多かったが、養護の施設、教育の現場、ホスピスで働いていらっしゃる方などいろいろな方たちが熱心に参加してくださっている。
キリスト教学科では、医療や福祉などの現場で「死」という避けることのできない課題と向かい合う人たちに、死にゆく人と向かい合うということが、どういうことであるのか、ともに学び、考えていただこうと、今回の企画を試みた。
企画は、次のとおり。
http://docs.google.com/View?id=dhbtdn5z_12q8d82cfz
今回は、真言宗の僧侶にもお話しを伺うことができて、なかなか興味深いプログラムになったとおもうのだが、実は企画の初日、私がインフルエンザにかかってしまい、急遽予定を変更することになった。申し訳ない。
それでも、なんとかスケジュールは調整できた。
福祉の現場からの参加が多少多かったが、養護の施設、教育の現場、ホスピスで働いていらっしゃる方などいろいろな方たちが熱心に参加してくださっている。
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