昨年の12月にルター研究所から出版された『ルター研究別冊 宗教改革500周年とわたしたち 3』。テーマはアウグスブルク信仰告白だ。
1530年に、アウグスブルクで開かれた神聖ローマ帝国の帝国議会において公に表されることとなった宗教改革陣営の最初の信仰告白文書だ。メランヒトンによって起草され、ルターによってはじめられた宗教改革的信仰が簡潔に、そして福音主義に立つことを明白にに示されている。だから、いわば宗教改革的教会、つまりプロテスタント教会にとっての記念碑的信仰告白だといえよう。しかし、この国会、そしてまたメランヒトンが誠実に取り組んだのは、ルター派の創設などではなく、むしろ教会の一致のため出会ったと言ってよいだろう。この信仰告白であれば、ローマ側もまた福音主義に立つものも、共に同じキリストの教会として告白できるものであり、教会の分裂を避けることができる。そのような願いが込められた著述なのだ。
このアウグスブルク信仰告白の新しい翻訳が昨年10月に出版された。あらためて今日のエキュメニズムの文脈において、これを読んでみたいのだ。
http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/76539
ルター研究所では、この出版の準備に平衡して昨年はこのアウグスブルク信仰告白について改めてそれぞれの視点から研究発表をして、論文集にまとめあげている。
http://shop-kyobunkwan.com/4863768168.html
内容は以下のとおり。
・まえがき
・三つのE──来たるべきエキュメニズムのプログラム 江口再起
・アウグスブルク信仰告白のギリシャ語訳──翻訳に至った事情とその後の経緯 鈴木浩
・公同の宣教に参与する──アウグスブルク信仰告白とミッシオ・デイ 宮本新
・アウグスブルク信仰告白に見る信仰義認とエキュメニズム 石居基夫
・『アウグスブルク信仰告白』と『和協信条』の聖餐論──エキュメニカル的対話の促進
と課題について 立山忠浩
・『アウグルブルク信仰告白』 五、七、八条に見る教会とその職務──歴史的またエキュ
メニカルな考察 江藤直純
・『アウグスブルク信仰告白』 第十六条の「正しい戦争を行う」について 鈴木浩
・<書評> 『争いから交わりへ』(教文館 二〇一五年) 一致に関するルーテル=
ローマ・カトリック委員会:著 高井保雄
私の論文では、このアウグスブルク信仰告白がもっとも明瞭にしなければならなかったし、また事実そうであった「信仰義認」の神学的主張が、16世紀においては教会の分裂の決定的な要因となったこと、しかし、今日のエキュメニカルな時代においては、その同じ「信仰義認」の神学的軸こそが、エキュメニズムを支え、動かしていく要となっていると論じる。そのようにして、本来アウグスブルク信仰告白が目指した、エキュメニカル(教会一致のため)の目的は500年の時を経てみのりを見せていると、論じるものだ。ご一読を。
2016-03-20
2016-03-14
牧会研究会
牧会研究会のご案内です。
日本ルーテル神学校の付属研究所、デール・パストラル・センターは、2016年度から「牧会研究会」を開催することになりました。
かつて、PGC(人間成長とカウンセリング研究所)の時代にも牧会事例研究会を開いていましたが、しばらくその後継がなかなか準備できずにきました。しかし、2015年の2月に臨床牧会セミナーを開き、やはりニーズは高いことを実感致しました。
そこで、少し準備に時間がかかりましたが、2016年度、日本福音ルーテル東京教会(新大久保)を会場にして行います。
毎月一回、第二金曜日午後1時半から3時半まで、全10回の研究会となります。
参加費は10回で2万円となります。
お問い合わせは Emailにてお願いします。E-mail:dpc@@luther.ac.jp
(実際には@を一つおとりください。)
日本ルーテル神学校の付属研究所、デール・パストラル・センターは、2016年度から「牧会研究会」を開催することになりました。
かつて、PGC(人間成長とカウンセリング研究所)の時代にも牧会事例研究会を開いていましたが、しばらくその後継がなかなか準備できずにきました。しかし、2015年の2月に臨床牧会セミナーを開き、やはりニーズは高いことを実感致しました。
そこで、少し準備に時間がかかりましたが、2016年度、日本福音ルーテル東京教会(新大久保)を会場にして行います。
毎月一回、第二金曜日午後1時半から3時半まで、全10回の研究会となります。
参加費は10回で2万円となります。
お問い合わせは Emailにてお願いします。E-mail:dpc@@luther.ac.jp
(実際には@を一つおとりください。)
牧会研究会各回テーマおよび担当者は、以下のとおりです。
第1回 4月 8日(金)
【現代人へのストレスケア】
現代人のストレス問題とケアの方法を考える (担当:堀 肇)
第2回 5月13日(金)
【教会と一般社会集団の違いから見た牧会上の諸問題】
教会という集団における人のあり方を探る (担当:賀来 周一)
第3回 6月10日(金)
【教会生活・牧会生活の疲れへのケア】
教会生活の疲れの心理構造とケアを考える (担当:堀 肇)
第4回 7月 8日(金)
【スピリチュアルペインについて考える】
「成熟した宗教性」のみが答えを持つ「苦悩」とは、そしてそのケアのあり方
(担当:賀来 周一)
第5回 9月 9日(金)
【ライフ・サイクル上の課題へのケア】
牧会におけるライフ・サイクル上の課題を考える (担当:堀 肇)
第6回 10月14日(金)
【自死を巡る牧会上の問題】
自死と信仰の問題および周辺関係者への牧会配慮 (担当:賀来 周一)
第7回 11月11日(金)
【葬儀とグリーフケア】
キリスト教葬儀とグリーフケアについて考える (担当:堀 肇)
第8回 1月13日(金)
【生きづらさを抱える人々へのケア】
障がいを抱えて生きるための勇気と希望はどこから? (担当:賀来 周一)
第9回 2月10日(金)
【パーソナリティー障害への対応】
教会におけるパーソナリティー障害圏の人々への対応 (担当:堀 肇)
第10回 3月10日(金)
【こころの病を抱えて生きる人と教会】
こころ病む人々への関わり方と「いやし」のかたちはどうあればよいか?
(担当:賀来 周一)
第1回 4月 8日(金)
【現代人へのストレスケア】
現代人のストレス問題とケアの方法を考える (担当:堀 肇)
第2回 5月13日(金)
【教会と一般社会集団の違いから見た牧会上の諸問題】
教会という集団における人のあり方を探る (担当:賀来 周一)
第3回 6月10日(金)
【教会生活・牧会生活の疲れへのケア】
教会生活の疲れの心理構造とケアを考える (担当:堀 肇)
第4回 7月 8日(金)
【スピリチュアルペインについて考える】
「成熟した宗教性」のみが答えを持つ「苦悩」とは、そしてそのケアのあり方
(担当:賀来 周一)
第5回 9月 9日(金)
【ライフ・サイクル上の課題へのケア】
牧会におけるライフ・サイクル上の課題を考える (担当:堀 肇)
第6回 10月14日(金)
【自死を巡る牧会上の問題】
自死と信仰の問題および周辺関係者への牧会配慮 (担当:賀来 周一)
第7回 11月11日(金)
【葬儀とグリーフケア】
キリスト教葬儀とグリーフケアについて考える (担当:堀 肇)
第8回 1月13日(金)
【生きづらさを抱える人々へのケア】
障がいを抱えて生きるための勇気と希望はどこから? (担当:賀来 周一)
第9回 2月10日(金)
【パーソナリティー障害への対応】
教会におけるパーソナリティー障害圏の人々への対応 (担当:堀 肇)
第10回 3月10日(金)
【こころの病を抱えて生きる人と教会】
こころ病む人々への関わり方と「いやし」のかたちはどうあればよいか?
(担当:賀来 周一)
2016-03-06
「3・11を憶えて」 私たちの明日のために、ことばをさがしながら
今日、夕方の報道ステーションという番組で、あの震災直後の少年野球チームの様子がドラマ仕立てで取り上げられた。あの震災の後、まだがれきが校庭をうずめていて、それぞれ被災した子どもたちも毎日の生活を立て直すことに精一杯のころ、すぐに子どもたちを元気づけたい、取り組まれた陸前高田の少年野球。子どもたちは、練習することだってたいへんだった。からだも心も萎縮して、なかなか思ったようにプレーできない。けれど、そんな自分たちが、本当にこの時だからこそ、しっかりと取り組んで乗り越えるって、心に決める。一試合一試合、勝ち進んで、ついに地区大会優勝で県大会に進む。そこにどんなに子どもを勇気づけたいとおもった大人たちの努力があったことか。
その勝ち進んだ子どもたちが、親善試合を他所のチームと戦った。そのあと、懇親会で元気いっぱいの子どもたちがみな自分の将来の夢を語っていた。被災していない他所のチームの子どもたちが、大リーグやプロ野球への夢を語る。そのとき、この高田の子たちは何を夢として語ったか。ずーっとチームを指導し、励ましてきた大人たちは、「大きな夢を語れよ」とはげまして見守る。すると、子どもたちが口を開く。「被災した私たちを助けてくれた自衛官になりたい」、「家に住みたい」「仕事がしたい」、「はやく仕事について、親を助けたい」。大人たちは、子どもの心になにがあるのか、想像だにしていなかったと、その時の驚き、その真実をつたえていた。
大人たちが子どもたちの心に元気をあげたいと、一生懸命取り組む中で、子どもたちは子どもたちなりに、そのときに生きる現実の中で、物事を見て、考えている。どんなに近くにいても、大人が勝手にその心を左右できるわけではないし、押しつけることもできない。子どもであろうと、大人であろうと、その時を生きる精一杯の尊さが、「大きな夢を語れよ」ということばにも、一人ひとりの子どもが紡いだ夢の姿にも見て取れる。そのことばを、ただいとおしく思った。
あの時から五年、成長したこの子どもたちの今の夢は…あの時と同じだった。それはそれで尊いことだと、言えることもある。しかし、同時にこの五年間、私たちはこの子どもたちに新しいなにかを示してこなかったのだろうかと、ふと思うことでもある。けれど、いずれにしろ、これが現実なのだ。その現実の重さを私たちは復興ということの難しさとして認識する。
私たちがともに担うべき復興は…。と、軽々しくはいえないのかと思う。それでも、私たちは、何をいま考えるのか。何を今の子どもたちに残すのか。何を伝えるのか。
東日本大震災から五年。約2万の人々のいのちが奪われ、今も18万近くの方々が避難生活を強いられている現実、また私たちがかかえ続けている原発事故と放射能の問題。私たちはそれらにしっかりと目をむけ、またこころにとめなければならない。そして、明日を生きる子どもたちのために、次の世代の人々のために、いま、このときを私たちはどのように生きていくのか。何を選び取っていくのか。そのことを考えなければならない。
被災地においても、今は、だれも、憐れみや同情を求めてはいない。それは、ある意味で失礼なことだろう。「手を差し伸べる、なんていったら、何様なのかということだ。彼らは自分たちを自分たちとして生きているのだから。それぞれの現実を生きる。かけがえのないものを。
それでも、いや、それだからこそ、私たちは共に今のこのときを、ここで生きるものなのだから、本当に考えなければならない。尊厳ある一つひとつのいのちだから。今を生きる私たちとして。
「共に」「いっしょに」ということばを使ってみたけれど、そのことの難しさを改めて思ってもいる。違うのだ。被災地の子どもたちと他所の子どもたちの描く夢の姿がことなるように、それぞれに向かい合い、背負っているものが。だから、切実に結実することばは、簡単には重ならない。それでも、それぞれをまず知ろう。私たちの明日に向けて、語り合うべきことばを探そう。深い魂の同行をもとめよう。
日本福音ルーテル教会東教区は、本教会が三年間続けた支援を終えた後、今できる支援を展開してきた。小さなものでしかないけれども、その報告と共に、いまも大きな痛みをおい続ける人々の魂に触れながら、3・11を憶える礼拝をおこなう。
あの震災当時から被災地に入って、現地の人々との深い信頼関係を築いて、その人々と一緒になってそこに留まり、寄り添うということを考え、実践して来られた伊藤文雄先生によることばは重い。ぜひ、この礼拝に与って、いのりの時をもちたいと思う。
その勝ち進んだ子どもたちが、親善試合を他所のチームと戦った。そのあと、懇親会で元気いっぱいの子どもたちがみな自分の将来の夢を語っていた。被災していない他所のチームの子どもたちが、大リーグやプロ野球への夢を語る。そのとき、この高田の子たちは何を夢として語ったか。ずーっとチームを指導し、励ましてきた大人たちは、「大きな夢を語れよ」とはげまして見守る。すると、子どもたちが口を開く。「被災した私たちを助けてくれた自衛官になりたい」、「家に住みたい」「仕事がしたい」、「はやく仕事について、親を助けたい」。大人たちは、子どもの心になにがあるのか、想像だにしていなかったと、その時の驚き、その真実をつたえていた。
大人たちが子どもたちの心に元気をあげたいと、一生懸命取り組む中で、子どもたちは子どもたちなりに、そのときに生きる現実の中で、物事を見て、考えている。どんなに近くにいても、大人が勝手にその心を左右できるわけではないし、押しつけることもできない。子どもであろうと、大人であろうと、その時を生きる精一杯の尊さが、「大きな夢を語れよ」ということばにも、一人ひとりの子どもが紡いだ夢の姿にも見て取れる。そのことばを、ただいとおしく思った。
あの時から五年、成長したこの子どもたちの今の夢は…あの時と同じだった。それはそれで尊いことだと、言えることもある。しかし、同時にこの五年間、私たちはこの子どもたちに新しいなにかを示してこなかったのだろうかと、ふと思うことでもある。けれど、いずれにしろ、これが現実なのだ。その現実の重さを私たちは復興ということの難しさとして認識する。
私たちがともに担うべき復興は…。と、軽々しくはいえないのかと思う。それでも、私たちは、何をいま考えるのか。何を今の子どもたちに残すのか。何を伝えるのか。
東日本大震災から五年。約2万の人々のいのちが奪われ、今も18万近くの方々が避難生活を強いられている現実、また私たちがかかえ続けている原発事故と放射能の問題。私たちはそれらにしっかりと目をむけ、またこころにとめなければならない。そして、明日を生きる子どもたちのために、次の世代の人々のために、いま、このときを私たちはどのように生きていくのか。何を選び取っていくのか。そのことを考えなければならない。
被災地においても、今は、だれも、憐れみや同情を求めてはいない。それは、ある意味で失礼なことだろう。「手を差し伸べる、なんていったら、何様なのかということだ。彼らは自分たちを自分たちとして生きているのだから。それぞれの現実を生きる。かけがえのないものを。
それでも、いや、それだからこそ、私たちは共に今のこのときを、ここで生きるものなのだから、本当に考えなければならない。尊厳ある一つひとつのいのちだから。今を生きる私たちとして。
「共に」「いっしょに」ということばを使ってみたけれど、そのことの難しさを改めて思ってもいる。違うのだ。被災地の子どもたちと他所の子どもたちの描く夢の姿がことなるように、それぞれに向かい合い、背負っているものが。だから、切実に結実することばは、簡単には重ならない。それでも、それぞれをまず知ろう。私たちの明日に向けて、語り合うべきことばを探そう。深い魂の同行をもとめよう。
日本福音ルーテル教会東教区は、本教会が三年間続けた支援を終えた後、今できる支援を展開してきた。小さなものでしかないけれども、その報告と共に、いまも大きな痛みをおい続ける人々の魂に触れながら、3・11を憶える礼拝をおこなう。
あの震災当時から被災地に入って、現地の人々との深い信頼関係を築いて、その人々と一緒になってそこに留まり、寄り添うということを考え、実践して来られた伊藤文雄先生によることばは重い。ぜひ、この礼拝に与って、いのりの時をもちたいと思う。
2016-02-28
「今、見えないものを曇りなき眼で」
Luther Nights「ルター ナイツ」に招かれた。
ライブハウスで音楽を聞きながら、食事を楽しみ、ワイングラスを傾け語り合うひととき。宗教改革500年を記念して、あのルターも大いに楽しんだ音楽とビール(お酒)をもって過ごす夜だって。二年前から企画されて、vol.0からはじまってこれがvol.3の集まり、つまり4回目。
キリスト教や宗教に関心はあるけれど、教会とかにはちょっと行きにくいし、クリスチャン(信仰者)が集まるなんていうと、なんだか自分には敷居が高い。一度行ったら、なんだかぬけられなくなったら?なんて思うと近づけないよね〜。きっとそういう人たちはたくさんいる。
逆に、洗礼をうけた自分は、いつのまにかクリスチャンと見られるところにいるんだけれど、いつから、クリスチャンじゃない人との間に溝ができたみたいになっているんだろう?なんにも違わないのにって思ってたりする。教会って、なんだかやっぱり窮屈だと思ってたり。話し相手がいないんだ〜なんて、なんか自分らしくいられないと感じていたり。
そんな私たちのありのままで、楽しく語らう時となるように、ライブハウスでの企画がつくられたのだと、勝手に私は思っている。音楽を通して、こころの深いところで、感じるものを、きっと共有できるだろう。教会から外に飛び出し、垣根は壊して、今を生きる「私たちのこと」を語り合えるといいと思う。真剣に、みんなで、楽しく! そのすべて真実なものの中に、私たちはきっと新しいことばを見いだすに違いないのだ。
今回は、特別に「この日」だからこその企画ということで、私の短いトークのテーマは、「今、見えないものを 曇りなき眼で」〜宮崎駿の問いかけを受けて3・11以後を生きる〜とした。
普段は90分話すから、20分のトークでどれだけ伝えられるか?
2016-02-12
『十字架の神学者であること』 G・フォルディ
ゲァハルト・フォルディの著したこの本は、いわゆるルターの「十字架の神学」についての最もすぐれた解説なかの一つである。(他に、レーヴェニッヒ、またマクグラスの研究を挙げなければならないのはもちろんだが…)
もともとは、ルターの「十字架の神学」は、彼の宗教改革的神学を明らかにする「ハイデルベルク討論(1518)」において示された「いかに神を知るのか」という啓示に関するルターのテーゼにその由来がある。(下に、その二つのテーゼは記している。)しかし、それはなにか客観的な「神学」があるというよりも、神学をすること、神学者であるとは、どういうことかを示している。そして、神学者といっても、ルターにとってそれは書斎にこもって難しい本とにらめっこしているというような意味なのではなく、信仰を持つものが誰でも、自分が何をどのように信じているのだろうと考える、それが神学であり、信仰者はみな神学者だということを意味している。だから、いうなれば信仰者というものが、信仰者である限り、何をどんなふうに信じるものなのかということ、その在り方について著したものといえるだろう。(ただ、その叙述そのものは中世の神学者、修道士たちを相手にして書かれたもので、いわゆる信仰入門書のようなものではない。)
「ハイデルベルグ討論」には、神学的な命題が28、著されるが、そのなかでも19と20の提題が特に、その神学者としての在り方についてかたるのだ。
19 神の「見えない本質が」、「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ1:20〕
20 だが、神の見える本質と「神のうしろ」〔出エジプト33・23〕とが、受難と十字架とによって理解されると認めるものは、神学者と呼ばれるにふさわしい。
ここに、ルターがイエス・キリストの十字架の受難と死においてのみ、救いの根拠を見るものであることを明らかにしているといえよう。しかし、さらにいえば、この討論のための28のテーゼ全体がいわゆる宗教改革的神学の確立を示しているといえるのだ。そして、フォルディはこの十字架の神学、十字架の神学者というものがどのような信仰にたつのかということを著したこの書を構造的にとらえて、みごとに解説をしている。
1-12のテーゼは、人間の働き(業)の性質とその価値について著し、
13-18は自由意志の問題。
19-24では、栄光の神学者と十字架の神学者の区別を書いて、
25-28 キリストにおける神の愛の働き、それがどのように信仰者に働くかということをしめすという。そして、大胆に中世のスコラ神学を批判して、福音とは何かを明瞭にしているというのである。
この第1テーゼは神の律法について書かれ、そして、最後の第28テーゼは神の愛について書いている。正に、神の律法を中心とする考え方から神の愛(福音)へ信頼するように、神学がシフトさせられていく。
ルターの「十字架の神学」を学ぶときの必読書である。
2016-02-03
教職授任按手式 2016
今年は、一人の神学生が日本ルーテル神学校を卒業し、四月から新しい牧師として日本福音ルーテル教会に赴任することとなる。教職として召されていく、歩みのはじめに按手礼拝がある。
今年、按手を受けるのは、秋久 潤(日本福音ルーテル大森教会出身)さん。
高専から電通大、そして東工大の大学院と進み、日立建機につとめて将来を嘱望されたが、5年前の東日本大震災後のボランティア体験に深く魂を揺さぶられた。神の呼びかけを受け止め、神学校へ。4年間の研鑽を通して、私たちに本当に必要なものは、世界の不条理のなかに、なお神の恵みを知るたった一つの十字架の福音への信頼であることを確信し、宣教に生きる決意を新たにしている。
今年、按手を受けるのは、秋久 潤(日本福音ルーテル大森教会出身)さん。
高専から電通大、そして東工大の大学院と進み、日立建機につとめて将来を嘱望されたが、5年前の東日本大震災後のボランティア体験に深く魂を揺さぶられた。神の呼びかけを受け止め、神学校へ。4年間の研鑽を通して、私たちに本当に必要なものは、世界の不条理のなかに、なお神の恵みを知るたった一つの十字架の福音への信頼であることを確信し、宣教に生きる決意を新たにしている。
こうして一人の牧師が誕生する。それはなんと恵みに満ちた出来事だろう。
もちろん、神学校の4年間という短い時間の中で、学び、研鑽をしたからといって、それで牧師になれるわけではない。そこからはじまる教会での実際の牧会と伝道の生活のなかで、人と出会い、人々と共に生きる。たくさんの人たちの人生に伴いゆき、悲しみも喜びもともにする。その経験の只中で、神のことばの持つ意味が少しずつ知らされる。
そのとき、私たちはあらためて信仰ということが何を私たち人間のなかに生み出すものであるのかを知る。人間ではどうにもならない現実を生きる私たちの中に、神の特別の働きがあることを知るだろう。積み重ねられていくその経験こそが、牧師としての人生の歩みを形づくってくれるのだ。神学校の4年間はその歩みをはじめる準備期間に過ぎない。
新しい歩みへと神様の召しがある。主の御手が一人ひとりに差し伸べられて、その人は召されていく。
按手礼拝…その恵みの出来事の証人となろう。
総会議長、五つの教区の教区長らがそろって赤いストールをかけて、この按手を行うのも壮観だ。私たち自身が宣教への心を新たにいただける。
秋久牧師の赴任地は、東海教区、日本福音ルーテル小鹿教会、清水教会。
今年 4月1日からの就任。
按手の時の記録をここに残したい。
2016-01-20
神学校の夕べ 2015年度
今年、日本ルーテル神学校からは一人の神学生が卒業し、牧師となる。
例年のように、今年も「神学校の夕べ」でこの卒業生を送り出す。4年間の神学の学びと教会での研鑽の成果は、まずこの夕べで本人のみことばの取り次ぎによってあらわされることだろう。
日時: 2016年2月28日 (日) 16:00〜18:30
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 (東京教会)
卒業生: 秋久 潤
テーマ:「救い」
入学から卒業まで、一貫して一人の学年で、見事にその全課程を終了する。
これまで、出身教会の日本福音ルーテル大森教会をはじめ、それぞれの実習、研修教会を通じ、多くの人々の祈りと支えをいただいた。皆で祝福のうちに送り出したい。
二月に教会の常議員会で任地が決定する。
教職按手は3月6日の夜。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2016/02/2016.html
また、学院での卒業式は3月8日。
例年のように、今年も「神学校の夕べ」でこの卒業生を送り出す。4年間の神学の学びと教会での研鑽の成果は、まずこの夕べで本人のみことばの取り次ぎによってあらわされることだろう。
日時: 2016年2月28日 (日) 16:00〜18:30
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 (東京教会)
卒業生: 秋久 潤
テーマ:「救い」
入学から卒業まで、一貫して一人の学年で、見事にその全課程を終了する。
これまで、出身教会の日本福音ルーテル大森教会をはじめ、それぞれの実習、研修教会を通じ、多くの人々の祈りと支えをいただいた。皆で祝福のうちに送り出したい。
二月に教会の常議員会で任地が決定する。
教職按手は3月6日の夜。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2016/02/2016.html
また、学院での卒業式は3月8日。
登録:
投稿 (Atom)