2013-10-20

「あきらめないで」

説教「あきらめないで」(ルカ18:1〜8)

 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」、と書き出される今日の聖書の箇所は、イエス様が「神を神とも思わず、人を人とも思わない裁判官のたとえ」を通して、弟子たちに熱心に祈るべきことを教えられている、分かりやすい所と思います。ちょうど、ルカの11章のところで、「主の祈り」に続いて、祈ることを教えられている、その箇所とも重なる主題があるように思う。熱心な祈り、執拗に求める祈りに、神様は必ず答えてくださるという約束が語られているのです。

 けれども、実際私たちが経験するところは、「熱心に祈っても、神様はすこしも聞いてくださらないのではないのか」という現実です。ちょうど、私たちは身近なところで大きな災害を繰り返し経験しています。ニュースを見ているという立場であれば、ただ胸をいためるばかりですけれど、しかし、直面している方々には、もっともっと切実な思い、叫びがある。どこにも救いが見いだされないままに、助けをもとめても答えは見えず、絶望が広がる。時が無情に過ぎていく。力を失い、希望を失う。むなしさの中にたたずむ。
そうした現実を私たちが生きるものであることを思う時に、この執拗な祈りへの招き、いやそれに神様が答えてくださるのだということばにはいささか戸惑いを覚えない訳でもありません。

 しかし、今日の箇所は、実はまさにこうした私たちの問いや戸惑いに対する答えとして、わざわざ記されている箇所だというように思われるのです。福音書記者のルカは、直前の17章の後半で、イエス様がファリサイ派の人の問いかけに答えて「神の国」について教えられた直度に語られたものとしているのです。神の国はいつ?
 「神の国」。それは、当時のイスラエルの人々にとっては具体的なユダヤの王国の再建をすぐにイメージさせた言葉ですが、しかし、その意味するところは神様の救いの実現の事です。
 独立を失い、大国に滅ぼされ、支配されている。そうした厳しさを歴史の試練として経験して来た人々は、一体いつになったら神様の救いに与って、心安らかに過ごすことができるのか。そういう切実な思いで、「神の国」を求めて来たといってよい。
 救いの実現への切実な問いを、福音書記者ルカは、自分たち自身の切実な思いとしているのです。この描かれている場面は、イエス様がエルサレムに向かっている、つまり十字架に向かうその旅の途上での教えとして記されています。しかし、書いているルカはその十字架の出来事から40年ほど経って、この福音書を書いています。その時にも、未だに神様の救いは、完成していない。「神の国」へのあこがれとともに、その到来の遅いこと、神様の救いの見えないことを嘆き、「いつになったら救われるのか」という問いが人々の中にある。人々は天に昇られたイエス様がもう一度おいでになる、その主の再臨と終末の救いということがいつ実現するのか、待ちかねているわけです。
 そういう状況にある中で、一体イエス様は自分たちに何を教え、しめされたのか、改めて聞き取るようにと、ルカはこれを書いているのです。
 
 イエス様はいわれます。「気を落とさずに、絶えず祈る」ようにと。まさに気を落とさざるを得ない状況の只中にあって、この励ましの言葉がかたりかけられている。不正な裁判官のたとえをもって、裁判官はこのやもめ求めの声に嫌々であろうと動かされるものだといいます。まして、神は、私たちの叫びもとめている声を聞かないでおられることはない。神様は速やかに求めに答えてくださる。そのことへの信頼を保ち続けるよう「絶えず祈る」ように励まされている。それが今日の聖書の箇所の最初にかたりだされているところです。

 けれども、実は、この聖書の箇所が私たちに示している大切なことは、そこではありません。この箇所の一番おしまいの部分に示されているのです。つまり、絶えず祈り、神様の約束へ信頼するように語り、励ましながら、イエス様は、その最後に何をいわれているかというと、「しかし、人の子が来る時、はたして地上に信仰を見いだすだろうか」と結ばれているのです。イエス様は、弟子たちに対し、私たちに対し、「あなたがたには、最後まで信頼し続ける信仰があるか」と問いかけられているのです。

 本当は、私たちがこの現実の中で、一体神様の救いはどこ?と、いつ?と尋ねているはずだったのです。しかし、その時に、イエス様が私たちに問うている。私たちは問われている者なのです。「その時に、信仰はあるのか」。

 このことばは、「地上に信仰を見いだすだろうか。いや、見いだすことが出来ないだろう」という反語的な表現です。ある意味で、主のまなざしは非常に厳しいものだと思う。
 けれど、それは、イエス様が私たちの現実をよく知っておられるということでもあります。私たちの有り様はきっとそうだろうと思うのです。救いを信じたいのです。あきらめることなく、気を落とさずに、主の救いに信頼をしたい。けれども、どうにも私たちは、疑いや迷い、不安や恐れにとらわれてもしまう。お前たちには、芥子種一粒ほどの信仰すら、みいだされないのではないのか。気を落とし、絶望するものなのではないのかと、主は言われているのです。
 しかし、イエス様はその現実を良く知っておられて、なお、私たちに救いの確かさを語られている。不正な裁判官のたとえでも、このやもめには何か自分に有利に裁判をしてもらう根拠があるか、というとそんなことは最初から全く問題にはなっていません。この裁判官は自分がこれ以上煩わされるのはかなわないと、そのやもめのために裁判を行う。まして神様は、私たちへの愛をもってくださっているのだから、私たちの罪にも拘らず、いや、私たちの不信仰にも拘らず、赦しと憐れみをもっていてくださることを疑うことは出来ないと、いわれる。
 つまり、信仰はないのか、と問われて、私たちにこれが私の信仰ですと申し出られるような確かな信仰なんてないに違いないのです。私たちはそういうものでしかありません。
 あきらめちゃうんですよ、耐え切れないもの。そんなにお行儀のいい信仰者じゃない。「神様どうして たすけてくれないのか。助けてくれなかったのか」と、そういう嘆きを抱かざるを得ないのが私たちなのであって、いつも喜んでいなさいといわれても、どんな時にも喜んで、希望をもってなんていう信仰者のお手本みたいなことにはなれない。
 そうだろう。それが私たちのありのままの姿だと、主はとうの昔に知っておられるということです。
 いや、だからこそ、主はこれから十字架に向かわれるのです。その私たちを絶望の只中で、捉えてくださるために。生かすために。神様は、イエス様は、そういう不信仰な私であることを知っているからこそ、私をどこまでも捜し求めてくださっている。あきらめないでいらっしゃるのは、わたしたちではなくて、神様のほうなのです。
 私たちが神も仏もないものだと、あきらめ、叫びたくなる、その現実の只中においで下さって、私を捉えてくださる。
 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、叫ぶ、その私たちの場所にイエス様がいてくださる。それが十字架の意味です。それこそ、私たちをどこまでもあきらめない、神様の御心だといえるだろうと思う。それが私たちに救いをもたらすイエス・キリストの真実・信仰(ピスティス)なのです。
 私たちを求め、私たちが信仰をすら失う、その場所にイエス様がいてくださる。私たちがあきらめと絶望のなかにある、その時にも、私たちをあきらめ、見放すことのない神様の愛がある。
 それがルカもまた聞いていた、主の最も大きな慰めであり、希望であったに違いない。あのエルサレムの神殿がローマの侵攻によって崩れ落ちていく絶望感の只中で、ルカの心に尚働く慰めと力。それこそが、すでにあの十字架においてしめされた救いではなかったかと、ルカは私たちに対する神様の速やかな答えであること、この絶望の只中に見いだすことの出来る神様の愛の確かさに気づくように促しているといえるでしょう。
 私たちの信仰が失われていくような、救いの見えない状況の只中で、私たちの信仰への問いかけとともに、「たとえあなたがあきらめようとも、私は決してあなたをあきらめることはない」とイエス様のみことばが、その真実がこの福音から響いている。

 この恵みの声に包まれ、新しい一週間、主に生かされてまいりましょう。

(日本福音ルーテル刈谷教会での奉仕)


2013-10-06

「看取りの心と場」

毎年開催される、ルーテル学院大学、コミュニティ人材養成センター主催の講座「いのちの倫理と宗教」。今年の主題は「看取りの心と場」です。

http://www.luther.ac.jp/news/130919/index.html

 「ホスピス」など終末期医療ということが注目されるようになって、死と向かい合うということが特別に意識されはじめたのは、80年代の終わり頃からでしょうか。90年代、山崎医師による『病院で死ぬということ』が出版され、某テレビ局アナウンサーが自らガン闘病を公にしたことも「死」と向かい合うこと、最期をどのように「生きる」のかという課題、その可能性を広く考えさせる事にもなったように思います。かつては、家で家族に見送られて死ぬことが当たり前だったかもしれませんが、現代は病院で最期を迎えるということが一般的であればこそ、そのあり方について改めて問い直すということになってきたのです。
 しかし、近年はまた逆に病院で死ぬという事ばかりが選択肢ではなく、ホスピス的なことも含めて在宅での終末期のケアを実現することや、住み慣れた施設のなかで最期をすごすというような取り組みも多く見られるようになって来ました。超高齢化社会は、すべての人を病院で看取るほどの余裕もないからこそ、今一度、生涯の終わりを日常の延長のなかで迎えられるような仕組みが考えられているという事かもしれません。
 そこで、こんにちは「看取り」ということも多様な「場」が考えら得れるということになってきました。そうしたそれぞれの「場」において、本人、家族の中にどういう心の状態が見られるのか。そのことにどのように寄り添い、また援助する事ができるのか。そういった問題を考えてみたいと思っています。
 講師には、医師であり牧師である黒鳥偉作氏、ホスピスでソーシャルワーカーとして働く吉松知恵氏を迎え、江藤直純神学校長と私、石居も加わって一緒に考えていきます。
11月18日までに申し込みを!



2013-10-02

神学生必読書。アウレン『勝利者キリスト』

神学生の必読書。
グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』。研究の基礎は贖罪論の類型論的研究だ。古典的贖罪論、法廷論的贖罪論、そして主観的贖罪論。キリスト教神学史をたどり、この三つのタイポロジーによって、キリストの十字架による贖罪理解の特徴を捉える研究だ。こうしたタイポロジカルな研究は、ルンド学派の特徴のひとつ。この研究をもとに、中世末の宗教改革者ルターの贖罪理解について、それが通常理解されて来た法廷論的な理解よりも、古典的なものによっていると主張し、大胆に切り込む。

勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究

もちろん、単純に古典タイプといっている訳ではない。そこにルターの独自の視点があることを明らかにしたアウレンの貢献が見られるのだ。
こうしたアウレンの見解に対し、同じルター研究の第一人者の一人アルトハウスは異なる見解を提示することになる。ルター理解を進めていくうえで、非常に重要な論争と言っても良いだろう。
 すでに80年以上前の研究だが、この研究の重要性は変わらない。ルター研究という意味でもこの書は勧められるけれども、タイポロジカルな研究が、神学の深みを探る醍醐味を教えるものでもあって、神学生には必読の一冊。

2013-09-27

ルター研 「秋の講演会」 2013

 10月20日、ルーテル学院大学ルター研究所主催で秋の公開講演会が開かれる。
日本福音ルーテル大岡山教会を会場として、午後三時半から開かれる予定だ。
               (場所=http://www.jelc-ohkayama.org/map.html)
今年の総合テーマは『宗教改革500周年とわたしたち』。春に行われた研究所主催の牧師のためのルターセミナーと同じテーマで、これから2017年まで、毎年このテーマでセミナーと講演会を連続する。その第一回目ということになる。
 今年の講演者は、徳善義和先生と江藤直純先生のお二人。
徳善先生の講演タイトルは、「日本におけるルター研究の歴史」、
江藤先生の講演タイトルは「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解」。



今年、つい先日、ルーテル学院大学の図書館の未整理資料から、歴史的な書物が発見された。1630年印刷のルター訳新旧約聖書。一般にメリアン聖書と呼ばれるものの本物。美しい挿絵入りで、これを見るだけでも楽しい。どんないきさつでこれが図書館に存在することとなったのかは、未だに謎のままだが、日本ルーテル神学校の図書館だからと、どなたかに寄贈いただいたものなのだろうか。小さな神学校・大学ではあるけれど、ルターに関することなら、日本ではここで一定の研究成果と資料、また見識とチャレンジを得ていくことが出来ると認められるものであってほしい、またそうありたいという祈りが、一つの形をとったものであるように思う。
 連続の講演会、今年から17年までなら5回にわたるが、現代の教会の宣教という課題に応える、あるいは、そこにチャレンジする講演が期待できるだろう。楽しみでもあり、責任も感じるところだ。ぜひ、おいでいただければと思う。




2013-09-26

神学生の必読書。田川『イエスという男』

神学生の必読書として。
 マルコ研究で著名な田川健三氏によるイエス研究。聖書学者としての類いない研究熱が、氏の極めて強い個性によって一つの形をとったイエス理解の本。
                 

 おそらく、教会ではなかなか聞くことのないメッセージを聞くことになる。
時代、地域、社会のなかに生きた人間イエスを探求しながら、そこでイエスが何をして、何を求め、また何を語ったのかということを浮き彫りにする。聖書学の最新の成果というよりも、田川氏自身の緻密な聖書学的研究の成果を示していると言ってよい。加えて、氏の独自の視点が貫かれた筆遣いは、ユダヤ階級社会の体制に対する逆説的反抗者としてイエス像を描き出し、キリスト教によって著しく神格化したイエス像を糾弾する勢いだ。そうして、イエスの「生」そのものを描き出すことで、本当のイエスとの出逢いの意味を受け取ることができると考えているのだろう。
 独自の視点をどう評価するかは、人それぞれだろう。しかし、キリスト教への徹底した批判的視点を、どのように受け止めるのか。神学生なら、必ず読んで考えるべき書物の一つ。「これ、チャント読んだ?」の質問に、どう応えるか。そこが、もっとも大切なポイント。もちろん、キリスト教を批判するのみで、自ら田川とともにイエス教?、もしくは田川教を自称するなどということになるのなら、なにをか言わんやということだが…


2013-09-23

神学生の必読書① 『キリスト者の自由 訳と注解』

神学生(ルーテル)に向けて、推薦する本を紹介していきたい。
その第一冊目は、徳善義和先生が書いてくださっている、マルティン・ルターの古典的名著である「キリスト者の自由」の翻訳と解説の書だ。

                                                                    

 本書は、はじめ新地書房という出版社から30年ほど前に『全訳と吟味』として出版されたものだ。後に、出版元がなくなって教文館から、もともとの副題であった「愛と自由に生きる」をタイトルにして再度出され、さらに構成を改めて2011年に今の形で出版されたのだったと思う。

 ルターは、当時のアカデミズム世界のラテン語でも神学的著作を続けたが、同時に信仰の事柄を一般の人々とも分かち合うためにドイツ語でも著した。幾つかの著作はその両方で出版されている。1520年に著した「キリスト者の自由」もラテン語、ドイツ語両方で書かれている。内容は基本的に同じものだけれども、言葉の違いは当然に異なるところがあるということだ。ルター本人がもともとどちらの言葉で考え、書き下ろしたのか。これには議論が分かれる。しかし、少なくとも、ルターが母語であるドイツ語で、また一般の人たちにも分かち合うことを考え、書いている場合に、より中心的なメッセージが伝わってくるということもあるだろう。自分たちの言葉で、神様の言葉に取り組む。これはルターの基本的な信仰の姿勢だった。だから、聖書のドイツ語翻訳にも取り組んだ。自分たちの生きている、その生活の只中で、その言葉で神様の言葉を受け取っていく。ここには、神学ということの一番大切なことがあると言ってよいだろう。

 日本でルターの「キリスト者の自由」と言えば、岩波からだされている石原謙氏の翻訳が長く親しまれている。しかし、出版後、佐藤繁彦氏がこれにはかなり多くの批判を展開したらしい。ドイツ語訳といっても、現代ドイツ語からではなく、ルターの時代のドイツ語として読む必要があると言う点とラテン語本文との比較検討、ならびにルター著作全体からその主意を読み取っていくことが必要だということが、佐藤氏の石原氏への批判だった。佐藤繁彦氏はルーテル神学校で長く教えられたルター研究の第一人者だ。これもまた考えさせられることだ。時代の中で、言葉も変わる。その時代のコンテキストを捉えなければ、神学は生きたものとならないのだ。
 
 徳善先生のこの翻訳は、もちろん、16世紀ドイツ語、日本で言えば室町時代の古文ということになるが、そこからの翻訳、またラテン語との比較研究によって、新たな理解も拾い上げられている。
 さらに、その注解の内容は、長い徳善先生の研究と神学校での講義から生まれたと聞いている。教会の宣教という神学の現場や今日の日本というコンテキストにあって、徳善先生が取り組んで来られた成果がこの注解には込められているように思う。

 私が神学生になった年に、最初のものが出版されたので、入学時にいただき、以来の私の座右の書といっても良い。後にFEBCで先生がこの内容を丁寧にお話くださる放送をされた時、お相手役もさせていただいた。(http://lib.febcjp.com/ty101_t/)
 神学生には必読の書。4年生までに、この解説をくまなく読通して、理解を深めてから自らの神学的研鑽を確認し、卒論に取り組んでほしい。

 

2013-09-03

ルターからの贈り物 一日神学校2013

毎年、9月23日に行われる伝統の一日神学校。
今年のテーマは『ルターからの贈り物〜Lutheran Legacy 500 』。4年後の2017年、宗教改革500年記念に備えての企画だ。
                   
                  


プログラムは以下を参照
http://www.luther.ac.jp/news/130725/index.html

午前中、ルター研究所の鈴木浩所長と高井保雄先生と石居でシンポジウムとなる。どんな話になるか自分でも楽しみだ。
ルターの「宗教改革」と言われるけれども、中世西欧のキリスト教的一体世界における歴史的出来事。つまり、むしろ「宗教」という枠組みのなかでの「改革」に留まらない決定的な歴史的変革の出来事というより広いパースペクティブで捉えるべきだろう。

具体的に、それは教会中心的な中世社会の終焉における社会改革運動とも言ってもよいか。ローマ・カトリックという教会の支配と神聖ローマ帝国という世俗の支配の中央集権的な体制は、その基盤を失い、また、新しい個の出現と地方から構造が胎動するなかにおこってくる歴史の産物でもあろう。科学や理性の時代の到来、活版印刷術による新しい情報社会、そして航海術による地球規模の新しい世界の広がり。世界が大きく変わっていこうとするその只中で、決して明るい未来を望むことの出来なかった世紀末の暗い死の影に包まれたルターは、純粋に中世の精神に生きつつ、「この世に生きる」ことの確かさを求めた。だからこそ、それは神との格闘であったし、だからこそ、これは宗教改革なのであった。
やがて、その信仰の軌跡は、神学の基本的な構造を書き直すことになるが、それは確かな形をとって、礼拝の改革、信徒の具体的な信仰生活への変革をもたらしたし、それは教育・福祉という当時の社会における公共のシステムに新しい変革をもたらした。
やがて、これが近世の始まりと呼応する。

ルターからの贈り物とは、単にルターが何を始め、なにを遺してくれたのかという事をあげつらうのでは何にもならない。その時代における人間の最も深い「危機」をどのように生きようとしたのか、そして、また生きる力を与えられたのか。その格闘に学ぶところにあるのではないか。そんな事を考えている。