2013-08-28

るうてる法人会連合 第10回総会

昨日と今日(8月27−28日)はるうてる法人会連合の第10回総会が大久保の日本福音ルーテル東京教会を会場に開かれ、それに出席させていただいた。
基調講演には白浜で自殺者救済の働きを展開されているバプテスト教会牧師の藤䉤庸一氏を迎えることが出来た。http://jimotoryoku.jp/shirahamarn/
藤䉤氏が語られた実践を支える枠組みは、必ずしもルーテルでのモデルになる訳ではないかも知れない。しかし、とにかくその実践そのものは、目の前にいる助けを必要としている人に手を差し出すその働きが、周りの人たちを巻き込むようにしながら、展開をしていく。それを担う確かな情熱を、「覚悟」という言葉で表現された氏の思い、その信仰の姿に学ぶものは多いだろう。

講演の後、法人会連合がどのように新しい課題に向かい合っているのかを問い、考えていくためのシンポジウムがあって、私も参加させていただいた。今のルーテルの学校法人、特にルーテル学院大学が今どんな働きを展開しようとし、またどのような課題を持っているかということについても話させていただいた。福祉法人を代表しては、東京老人ホームの高橋睦氏、教会を代表して白川道生氏がそれぞれ発題を行った。

ルーテル教会は、1893年に日本での伝道を開始し、全国に教会を生み出して来たが、それとともに幼稚園や保育園、福祉施設、学校などをつくり、教育、福祉の分野で先駆的な働きを築いて来た。こうした様々な働きは、その専門性をもってより良い世界を実現することを目指していると言ってよい。信仰の言葉で言うなら、「神の国と神の義」の実現に向けてそれぞれが働いて来ていると言ったら良いだろうか。

例えば、ルーテル学院大学であれば、対人援助の専門職の養成ということを目指し、福祉や心理の分野で働く人材を養成している。人間やいのち、世界についてのキリスト教的な理解を持って、人々が人生のなかで様々な問題にぶつかり、生活や心、魂に大きな痛みや困難を抱える時に、その一人ひとりを援助することが出来るような人材を育てることを目指している。
つまり、教育は人材育成、福祉では具体的にいろいろな困難のなかにある人々、孤独や苦しみの中にある人々を支え、ともに生きるようにはたらいている。

教会は宗教法人となるが、教育については学校法人、福祉の働きは福祉法人という日本の法律的な枠組みの中でその存在が規定されているし、独立した働きである。
その働きの多様さと全国の広がりは下のHPで確認される。
http://www.lutherans.jp/

こうした様々な働きは、いずれも神様のみことばによって具体的な人々のニーズを見いだされたところで、とにかく人々を助けようという思いが形になっていったものだ。
保谷にある東京老人ホーム、またベタニアホームという母子施設も1923年、今から90年前の関東大震災で多くの人々が被災して、居場所を奪われてしまっていたので、その人たちを助けようという働きがその始まりである。ルーテル教会がそれぞれの施設をつくり、その思いと働きを継続的な責任ある形として来たのだ。

今、諸施設も学校も、信仰者によって全てが運営されている訳ではない。クリスチャンでない人々も、あるいは異なる信仰を持つ人たちも、ともにその働きを担ってくださっている。しかし、そういう様々な人々と一緒に働くことで、教会のなかに神様から示された働きが形になり、それぞれの地域社会また日本の中で大切な働きとなっている。
そうしたことをルーテルの仲間としてお互いに確認し合い、今の日本、世界に必要とされていることは何か学び合い、また新たな展開をつくっていく必要があるのではないかと、その協働を目指したものがこの「法人会連合」だ。

今回、この法人の第10回の総会に出席させていただき、私自身は大学教育と言う現場で、いま働きが与えられているが、全国のこうした働きと結びついていることを誇りに思うし、また、そこで必要とされている問題にしっかりと向き合い、自分の研究と教育に生かしていく必要があることに自覚が与えられた。

現実は厳しく、教会も教育や福祉の現場も、その働きを継続することにはいろいろな課題に直面している。その苦しい現実の中でどのような意味ある働きを続けるのか。その働きに結ばれていることへの喜びややりがい、あるいは誇りといったものを確認出来る法人会連合でありたい。そのために、私たちはそれぞれの現場で、責任を担う、当事者であることへの「覚悟」を持たねばならない。




2013-08-18

聖公会ールーテル合同礼拝 2013

 2013年9月14日の土曜日、日本聖公会と日本福音ルーテル教会とのエキュメニカルな交わりと宣教協力の具体化のために、合同の礼拝をいたします。
 2008年のペンテコステに聖公会とルーテルの国際的な対話の諸文書が翻訳出版され、その記念として合同礼拝が聖公会の聖アンデレ教会で行われました。それから、早いもので5年が経ちます。委員会レベルの対話では聖餐に関する学び、実践的な交わりを重ねています。また、両教会の神学校でも継続的な交わりを持っています。しかし、より具体的に、そして実際的な宣教の協力を考えてゆくためには、より多くの交わりを各地域で展開して行く必要があると考えて来ました。

今回は、日本福音ルーテル教会の東京教会を会場にして、合同の礼拝を行います。こうした積み重ねが、それぞれの地域に教会での交わり、合同礼拝などの取り組みを生み出してゆければよいと考えられています。
 2017年に宗教改革500年記念の年を迎えますが、ルーテルとカトリック、ルーテルと聖公会、そして聖公会とカトリックそれぞれの対話・協働の働きが重ねられているので、この年には3教会の合同の礼拝も行えたらと願っています。おそらく、そのための具体的な取り組みが来年度には実現することになるでしょう。
 21世紀を迎えて、国とか文化を超えた交流が常識となる一方で、経済的な格差問題を軸に分裂・分断、対立・争いが絶えることなく繰り返されています。キリスト教の中から、今の時代にむけて一致・協力、平和などのメッセージを具体的に示してゆくためにもエキュメニズム(教会一致運動)の責任は大きい訳ですが、そのためにもこの合同礼拝の取り組みが、一つのステップを踏んで行くものと考えたいのです。

2013-08-15

8月15日に 「平和」へ向けて生きる

多くの戦争犠牲者のことを憶え、平和への思いを新たにする日。

ここのところ、死者との交わりについて書かれたものを数冊続けて読んだ。
姜尚中氏の『心』、いとうせいこう氏の『想像ラジオ』、そして、森岡正博氏の『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』。いずれも、死者の声を聞こうとしている。それを求めている。あるいは、そのことが、生きることを問い直し、本当に大切なものを取り戻す一歩になると訴えているようだ。

 戦火のなかで、一体、どんな声が叫ばれたか。どんな思いが断ち切られたか。
 それは、私たちと同じ日常を生きていた一人ひとりの魂の声なのだ。

私たちは、今日、改めて、私たちは誰とともにこの生を生きているのか、思い起こしたい。それは、ただ「生きている」人々の事だけではなく、すでに「死んでいる」人々も含めて、私たちのいのちがどこからつながり、どんな思いや祈りを引き継ぎながら、生きているのかという意味で、私たちが、誰とともに生きているのか、問うてみるということだ。

お父ちゃんやお母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。おじさん。おばさん。具体的なつながりの中で、思い起こしながら、この生を、「今、生きること」を受け取っていきたいのだ。

戦後63年、原爆を、戦争を知らない世代は、日本の公教育ではすっぽりと近・現代が抜け落ちていて、本当に戦争の恐ろしさを知らないで育って来た。しかし、3・11の大きな災害と事故は、大規模ないのちの危機について深く考えさせることになった。若い世代も、改めて大量のいのちが奪われる恐ろしさを感じはじめている。生きることの価値を今一度確かめようとしている。だからこそ、今、私たちは何を求めているのか、自分の問いをまず確かめよう。

世界規模の経済的危機が、おそらくナショナリズムを喚起している。権力者は格差社会の鬱憤を仮想の敵をつくる手法で、相も変わらず、こうしたムードをあおろうとしているかのようだ。国際的な関係の中で演出される危機。それは真実なのだろうか。

私たちは私たちの問いを確かめ、私たちの求めているものが何かを確認しよう。「いのち」から「平和」へと結びつけ、世界の人々、民族、文化、宗教が共に生きることへと、私たちの軸足を運ぼう。そのために私たちが聞くべき声はどこにあるのか。

そういえば、少しまえに、葬儀礼拝の問題を論文で取り上げた時、その一番最後に死者との連帯ということを書いたことを思い出した。石牟礼道子氏の『苦海浄土』をひきながら、死者の声を聞くことを、私もまた強く考えたのだ。

http://ci.nii.ac.jp/els/40006997569.pdf?id=ART0001236055&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1376519187&cp=

けれど、そこで私は単なる死者との連帯で終わるのではなく、キリスト者は、まずこの人間的な私たち自身、生きているものも既に召されたものも、主のとりなしと浄めが必要であることを忘れてはならないと記した。私たちの、生(なま)の思い、生(なま)の声はまた、あまりに人間的で、怒りや憎しみの連鎖と化すこともあり得るからだ。

そうだ。単に死者の声を聞くだけではない。その先に、何よりも確かな、主の声を聞く。あの十字架に死にたもうお方の声を聞かねばならない。あの十字架で私たちを死んでくださり、そして、復活のいのちへの道を示されたお方。その声に聞く。それは、決して他の大勢の死者の声をないがしろにすることではない。他でもなく私たち全てを死んでくださったお方なのだから。そこからが私たちの新しい、軸足の定まるところと心得たい。

平和を願い、私たちがそのために何を生きるか。そのことを、今日、あのお方と考える。

2013-08-14

『生者と死者をつなぐ』(森岡正博)ということ

 生命学を提唱し、「いのち」の問題に真摯に向かい合う森岡氏のエッセイ集。
 半数近くは、2010年度に書かれたものだが、半分は3・11を経験した私たちが「生きる」ということについて抱く深い問いと困難を正面にすえながら書かれたエッセイだ。
 
                    

 「誕生肯定」「哲学的アニミズム」など新しい概念を用いながら、これまで宗教的な言葉でのみ語られてきた「生きること」の深みにある問題への答えを模索する。森岡氏は、宗教を否定はしないがそれ以外の道で確かな言葉を、自分の頭で考えながら、紡いで行かなければならないという使命感にも似た思いを持っている。かねて「無痛文明」という言葉によって、現代社会の文明批判を展開して来た思いも改めて確認しつつ、私たちの世代が経験してきた「いのち」への問いに取り組んでいる。
 以前紹介した『宗教なき時代を生きるために』に記されているように、氏は決して宗教嫌いではない。しかし、敢て宗教を選ばない道を選んだと言う。だからこそ、「死」という現実を見据えながら、生きる意味を問い、死をこえた「いのち」の豊かさをみいだそうとする営みは「生者」と「死者」との交流、その共生の形を見いだす試みに至っている。「脳死」の問題に深く関わってきた氏の視点は、単なる科学的な生命活動や活動主体としての個人に留まるのではなく、他者との関係の中でこそ生きるものである人間の生の「まるごと」を見ようとする。
 はじめて示された「哲学的アニミズム」という視点は、未だ熟していないが、どんな風に結実してくるだろうか楽しみでもある。
 
 

2013-08-09

『想像ラジオ』(いとうせいこう)の描く世界

 想ー像ーラジオ。DJアークによる軽快なトークとやや古いナンバーを聞かせてくれる番組は、死者たちの、死に切れない魂が交流する世界を描き出す。3・11のあの被災者の断ち切られた生の現実に、あの時圧倒された私たちは、二年半を経て、「復興」という言葉の中で何をみているのか。いつの間にか何か大切なものを忘れていないか。そんな問いかけを「死者の声を聞く」というテーマをもって、想像の世界を描くことで発信した作品といえるだろうか。

                 

 生きとし生ける者、死という現実によって必ずこの世での生を終えなければならない。しかし、その「死」という現実に直面するのは、その死にゆく本人ばかりではない。私たち人間の特殊性は、「共に生きている」という一事にある。だから、関わりの中にある人々は、一人の死の現実に共に直面するのだし、共に部分的に死んでいく。別の見方をすれば、死んでいくものは、その一部の生をまた生きている人々のなかに遺していくのだともいえる。
 もちろん、かけがえのない一人の「いのち」の問題を軽々に他者との関係の中に解消してしまったら、その「個」の「生」の唯一性が軽んじられる危険がある。だから、その人、一人の「いのち」であるという客観性、その自然、その尊厳性を見失ってはならない。けれども、私たちが「関係的存在」としてあるという事もまた忘れてはならないのだと思う。そして、そうした関係のなかで、私たちは生から死という事実の重みを見つめながら、死者は既にないものとするのではなく、死者も共にあるという単純で素朴な私たちの感じ方を大切にしてよいのではないか。死んだ者を軽んじることは、結局は生きる者を軽んじることにもなる。
 そんな死者と共にあるという言い方が、「つまらない」感傷、執着や未練だとして、単なる思い出の中に閉じ込めずに、おそらく人間の文化は長い間その死者とともにある世界を日常としてきたのだろう。現代は、いつのまにか、この世界は生者のものだけになってしまったし、「個」人主義的になってしまったし、そうしていつのまにか「人間」を軽んじる世界になってしまったのではないか。
 この仏教でいえば、中有とか中陰という生者が死者の世界へ移っていく間の状態であろうか。日本の神道的な言い方では、死んだものの霊が新しく、また荒々しい「荒魂」状態から和らいだ「和魂」へと移行する間の時か。せいこう氏は作中で、「魂魄この世にとどまりて」という状態であると描く。
 ただ、こういう世界を描くことで、私たちの存在を深く見つめ直し、生きるということの奥深い「魂の問題」を捉えている。第二章のなかで、作者自身が登場人物を通して、このように死者の声を聞くという言い方が、本当に生きることの現実の問題に答えるのか、また死者とその死を深く受け止めようとしている家族の思いに土足で入り込んでいくことにならないか、など議論して見せてくれるのも重要だ。

 (その不思議な世界にたつ視点は、読むものをある意味では拒絶するだろう。5章立てになっているが、それぞれの描かれる世界がなにかということも、つながりや組み立ても分かりやすくはないかもしれない。でも、分かるということではなく、感じることから読み進むほうがふさわしい。小説としては、なかなかの完成度に感じた。姜尚中氏の『心』や2008年の天童荒太『悼む人』にも似た問題意識を感じたが、独特な手法は、好き嫌いが分かれるかも知れない。)
 
 「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者をだきしめていることができなくなった。それはなぜか?」
 死者の声を聞く想像力こそが、未来の世界を拓く創造力となるという問題意識は、なめらかなDJアークの語りを包む悲しみのベールへの共感から生まれるのだと思う。


2013-08-04

『死を見つめて〜よりよく生きる』

ルーテル厚狭教会で『死を見つめて〜よりよく生きる』をテーマにお話をさせていただいた。「死」という普遍的テーマは、「生きる」ということを深く知る手がかりという性格を持っているが、どちらかと言えば、それについてわざわざ取り上げることは「タブー」とされて来た。しかし、近年は敢て積極的に語られるようになって来たと言ってよいだろう。そうした現代の「死」をめぐる文化を探り、死を見つめることから生を求める今日の日本人のスピリチュアリティーを探りながら、キリスト教信仰における生を深く考察してみた。特に十字架におけるキリストの死と復活が何を私たちの信仰のいのちに与えるのかということを考えてみた。
お集りいただいた方から、すばらしい証をいただき、私自身が教えられ、また導かれた思いを深くした集会だった。

以下、講演のレジュメ。
             
0. 死を知る人間
 宗教、哲学における普遍的テーマとしての「死」
 ソクラテス、プラトン
 パウロ、アウグスチヌス、ルター、パスカル、
 キェルケゴール、ハイデッガー、バルト

1. 「死ぬこと」を積極的に語る文化?
(1)死への備え
  「病院で死ぬということ」「葬式無用論」「平穏死」「エンディングノート」

(2)死を受け止めるスピリチュアリティ 
  「大河の一滴」「葉っぱのフレディ」「千の風になって」

(3)「死」から「生」を問いなおす
   映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)、天童荒太『悼む人』など


2. 現代における「生きること」の課題
   〜天童荒太『悼む人』(文藝春秋 2008)をヒントに 
(1)死者を忘れる=生が軽んじられること?
   「悼む人」が生み出された世界

(2)関係の希薄化
   誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたか

(3)求められる和解
   関係の崩壊と心の傷


3. 生を支える三つの柱
  小澤竹俊『13歳からの「いのちの授業」』(大和出版 2006)をヒントに
(1)時間の柱
   過去から未来へ  (死と時間を超えて)

(2)関係の柱
   家族・友人  (神との関係)

(3)自由の柱
   自立と自律  (魂の自由)


4. 死を見つめること 
  姜尚中『心』(集英社 2013)をヒントに
(1)生きることの意味
   無意味な死と無意味な生?

(2)どこかが間違っている
   正しいことと間違っていること、白と黒、右か左かを弁別できるのか?

(3)自然と人間の知恵
   自然を支配し、コントロールできるか? 相克のなかで 


5. 信仰における生 
(1)愛された人間の生 
   神に愛されて、求められた生 
    (参照:フランクル『夜と霧』)

(2)赦しと悔い改めの生 
   キリストの愛によって、新しく生きる 他者のための生
    (ルター 「キリスト者の自由〜自由と愛に生きる」)

(3)人間も被造物もともに希望に開かれている
   終末の約束が今すでに (ローマ8:22)
   被造物に対する責任も (創世記2:15)