2012-07-15

『いのちと環境』

柳澤桂子氏が、生命科学者として放射能の危険について述べている。



いま、放射能についてあまたの本がでているけれども、読みやすく、また信頼性が高い一冊。いまさらながら、放射能の危険がどういうことなのか学び、確認したいなら、まず手に取りたい一冊だ。知らなかったでは済まされないからこそ、今一度私たちの頭を整理しよう。。
このいのちに対する、見えないしかし恐ろしい力を生み出す原子力は、戦争利用であろうと平和利用であろうと、もはやそんなものに人間は頼ってはならないと、はっきりとした態度を広げていくことが必要だ。


2012-07-10

反原発の声、日本聖公会の声明を受けて

日本聖公会が、今年の五月の全国の定期総会で、反原発の立場を明らかにした声明を採択した。
「原発のない世界を求めて-原子力発電に対する日本聖公会の立場―」
http://www.nskk.org/province/others/genpatsu2012.pdf

カトリック、ルーテル、聖公会の諸教会がそれぞれの責任機関において今の日本の原子力発電の存続、その稼働について深く危機感を共有している。
カトリック司教団の声明
「いますぐ原発の廃止を ~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

日本福音ルーテル教会 声明 (総会決議)
「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」
http://www.jelc.or.jp/data/pdf/201206.pdf
(機関誌『るうてる』4面)

地球環境の保全の視点はもちろん、原子力の利用に際して弱者に犠牲を強いるシステムの問題、将来にわたる生命への影響の問題を看過することはできないと、神様からの委託に応える信仰的立場から明らかにして、原子力にたよらない新しい生き方を求めている。

日本のキリスト教会は、実効的影響力を持つほどに、力を持っていないかもしれないが、この歴史的三教会のはっきりした声明は意義深いものだと思う。
それぞれの教会が草の根の運動をこれからの時代に向けて作り出していくことが、声明を本当の意味で生かすものと成るはず。声明を出して終わりということにならないように我々がここから運動を起こしていく、発言をしていく責任をもっているのだ。

もちろん、私たちはいたずらにこのスローガンを掲げて熱狂するのではない。また、これをいかなる意味においても、信仰の踏み絵にしてはいけない。けれども、このテーマが私たちの大きな課題であることを決して忘れてはならないのだ。現実的な問題を深く捉え、どう判断し、何を今考えなければならないのか。何を選び取るべきなのか。その一歩、そのための足場をこれらの声明が示している。

「反戦・反原爆」の夏が来る。「反原爆・反原発」を声としよう!


2012-07-02

くまとやまねこ

絵本は、子どもの読むものというのは必ずしも正しくない。むしろ、絵本という表現によっていろいろなテーマに迫る一つの形なのだ。
近年、「死」というテーマをいろいろな角度から取り上げる絵本が出版されるようになった。もちろん、それが子どものためのものということでは必ずしもない訳だけれども、子どもにも触れやすいものとして作られた作品は大人が子どもと一緒にその作品を通して、一緒に考えたり、話したりすることのできるものだと思う。



主人公のくまは、大の親友のことりが死んで、ふかい悲しみの中に過ごす。死んだことりを忘れて前向きに生きるように言われても、この悲しみをいやす力にはならない。ただ、時を過ごして、やまねこと新しいの出逢いの中で、くまはことりの死を死として受毛止めていく力を与えられる。死を否定するのではなく、死んだものがどれだけかけがえのない存在であるかということを分かち合うことが、できたからだろう。そうして、死んだことりはしんだものでありつつ、ともに生きるものとして受け止められ、くま自身の新しい歩みが見いだされていく。

静かな絵本だが、「死」の受容、グリーフワークの働きを伝える良書。







2012-06-21

日本のキリスト教受容の問題

錦糸梅が、鮮やかに梅雨の陽射しの中に輝きます。

京都文教大学の臨床心理学科の秋田巌教授のお招きをいただいて、「日本におけるキリスト教受容あるいは非受容について」というタイトルで講演をさせていただいた。
秋田先生は、ユング派の精神心理学のご専門だが、日本ではいわゆる「西欧」の様々な精神療法が盛んに紹介され、用いられているのだけれども、そうした学説や方法論が果たして日本の文化・社会という西欧とは全く異なる文脈の中に生きる日本人に本当に有効なものなのか。また、日本人の心性というものをもっとより深くとらえることがなければ、そうした西欧のものを用いるにしても不十分であったり、誤解が生まれてくる可能性もある。おそらく、そうした問題意識から、日本の心理療法が取り組む日本人の精神のその背景を深く探る研究をされ、様々な専門家を招かれているようだ。特に今回は「宗教と日本的精神性」という主題のもとで、キリスト教と日本人の関係についての学びをされたいということで私にお声をかけていただいた。

http://www.kbu.ac.jp/kbu/gakugaimuke/120620-rinsho/index2.html

1時間10分ほどの講演の後20分ほど秋田先生との対談となった。
講演は、はじめに日本においてキリスト教が受容されているのか、いないのかという問題から考え始めた。一方でクリスチャン人口が1パーセントを超えないという現実を見据えながら、他方ではキリスト教が教育や福祉などに果たして来た役割やクリスマスやキリスト教式結婚式が多くの人々に好まれていることなどに日本的な受容の仕方があることをお話しした。つまり、受容されているという側面と、少しも受容されないというその両側面がある。この日本的な受容の仕方こそが、日本人の精神性によるものではないかというところが、まず出発点。
続いて、16世紀キリシタン時代のキリスト教受容、19世紀の明治以降のキリスト教受容の特徴を示した。日本におけるキリスト教受容ということの問題を考えるとき、この二つの時代のあり方を見ることは非常に重要。キリシタン時代にはおそらく日本人の3パーセント弱近くにまでキリスト教が広まったともされる。日本人は宣教師からも道徳的で理性的なその人間性が高く評価されていたことも興味深いが、民衆また下層武士階級に急速に広まった理由はキリスト教の新しい神観念とその人間理解であったことは重要。宣教師の実践に裏付けされた一人ひとりを平等に重んじる人間観は当時の人たちへ、福音を具体的に伝える力であっただろう。およそ、250年にわたる迫害があり、明治期からのキリスト教が没落武士階級とインテリ層へと浸透したことはキリシタン時代とは全く違った日本におけるキリスト教の性格を形成してきていると考えられることなどを概観した。
次にキリスト教が出会った日本の文化・宗教性を探ってみた。特にキリスト教との関連で語られてきた課題を丸山真男、遠藤周作、R・ベネディクト、イザヤ・ベンダサンなどをあげながら整理し、仏教、神道などの具体的宗教の奥にある日本人の宗教性をたどる方法をとった。いつものように自然志向型の霊性と共同体志向型の霊性の二つが基盤にあることをお話しして、そして、現実にはその歴史の中で、それぞれの政治的支配権力の下にある状況がその日本人の精神性に大きな影響を持っていることを示した。
最後に、現代日本中でキリスト教が受容されるという場合の可能性と課題についてお話をした。いわゆる伝統的な日本的宗教性が根こそぎその基盤を失ってくるような現代のなかで、日本人の中にどういう精神的課題があるのか、そこに向けてキリスト教の持っている福音が何を示すものかということと、また具体的にそうした深いもんだいに応えていくためにも、一般的な意味でキリスト教がまず示していくべき課題、例えば正義や平和への具体的な貢献、現代社会への倫理的な提言、また特に自然や環境を含めた現代の課題に答えていくべきキリスト教の枠組みというものをしっかり示すこと必要のあることをお話しした。
全体は短い時間で消化不良となってしまったが、いずれ論文としてまとめることにしている。



2012-06-09

脱原発にむけて



野田首相がその必要性を表明し、大飯原発の再稼働に向けて大きく舵が切られた。
その安全性は何によって保証されるのかは明らかでない。というよりも、福島の事故について、十分な検証もなければ、被害について補償さえ手が付けられず、今も大勢被災者が自らの家に帰ることさえできない汚染が続いている中で、どうして、「絶対」という言葉を何回も使って、新たな被害を生まないなどという決意を口にすることができるのだろうか。

日本福音ルーテル教会は、この5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を」という声明を採択した。その全文が「るうてる」6月号に掲載された。以下のpdfファイルの4ページ目。
http://www.jelc.or.jp/data/pdf/201206.pdf

私たちが、神の創造された世界に対して保全の責任を持つことを根拠として、いのちを守る重い課題を受け止めることを自覚した声明になっていると思う。実際に過疎の地域社会と社会的弱者に犠牲を強いる仕組みは、たとえ原発稼働そのものが仮に一応無事になされたとしても、到底容認できるものではない。原子力エネルギーを利用しようとする限り燃料加工から廃棄物の処理に至まで、放射能の汚染はさけることができない。その影響は甚大だ。
声明のなかで、「原発が人間のいのちへの途方もない脅威であり、いのちと両立しえない存在」と明言していることは重い主張だ。

また、実際にこの原発のない社会を選び取るためには、私たちが現在享受している生活をそのままにできないことも自覚して自らの生活を見直し新しい生き方を求めていくことを述べている点も重要なポイントだ。
この声明を出発点として、原発をめぐる様々な課題に具体的にどのように取り組むことができるのか学び、考えていくという表明は、単に原発反対というだけではない継続的に自分たちの問題としていこうとするものだ。

自分たちの教会の声明(もともと信仰と職制委員会から出された答申がベースになっている)で、我田引水ということではないが、教会と社会に向けて現したものとしては、意義深いものだと自覚している。しかし、この声明に満足するのではなく、これからの取り組みこそが大切なのだ。

2012-05-18

もっと「ふしぎな」キリスト教

キリスト新聞社出版教会季刊雑誌『Ministry』。創刊から丸三年、リニューアルされて装いも新たに13号がついに発売された。
今回の特集は『もっと「ふしぎな」キリスト教:教会よ、応答せよ!!』だ。

http://www.ministry.co.jp/contents013.html

20万部を超える売り上げで、新書大賞を受賞した、橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の『ふしぎなキリスト教』。あまたの批判や批評が飛び交う中で、この雑誌がわざわざ取り上げるからにはそれなりの理由がある。つまり、この本をどう読むかということを超えて、これだけの売り上げを上げているということそのものをどう読むのか。メタな分析にただ終始するのではなく、さらに一歩踏み込んで教会への提言を含めた読み応えのある雑誌となっている。

今回から新たに西原廉太氏、濱野道雄氏と共に新編集委員の一人として加わり、特集のための座談会にも参加させていただいた。その記録が収録されている。雑誌掲載は、ぐっと圧縮されているが1時間半にも及んだ座談会は本当に話していても楽しく、キリスト教宣教の課題に迫った内容の濃いものだった思う。ここからスタートする、本誌のあたらし編集の方向性をある意味で示すものとなったようにも思っている。

いくつか新しい連載もはじまった。その一つも担当させていただいている。

付録は、これまで特集で取り上げた説教者の生説教のDVDだったが、今回からはキリスト教に関係する名画のDVD。第一回は「ベン・ハー」だ。十回まで、このDVDを集めるのも楽しみの一つといえよう。乞うご期待。

2012-04-09

イースターヴィジル

イースターヴィジルは復活を祝う通夜礼拝だ。



イースターといえば、日曜日の早天礼拝が一般的なあり方かと思われるかもしれないが、教会の伝統においては、この通夜の礼拝が大切にされてきた。
実際、イエスの復活は週の初めの日の朝と記されているが、明け方早くマグダラのマリアをはじめとする女性たちが駆けつけた時に、見出されたのは、すでに主イエスが復活されてそこにはおられなくなった空の墓である。つまり、主のご復活はその前に起こっている。復活そのものを祝うというなら、「朝早く」以前ということになる。土曜日の日没に安息日は終わり、十字架の出来事から三日目が始まる。その宵から明け方までの間に、主の復活の出来事があったことになるわけだ。
ただ、イースターヴィジルはもちろんその主の復活の出来事の「時」をとらえようとして生まれた礼拝というわけではない。もともと、大きな祝祭日を祝う時、ユダヤの伝統としての一日の始まりを日没とする考えを引き継いで今日では前日の夕べとなるその日のはじまりからの礼拝を祝うということになったわけだ。その形を今日に残しているのはクリスマスのイブ礼拝になる。クリスマスは12月25日。その礼拝を前夜の一日のはじまりから祝うのがイブ礼拝ということになっている。
また、実際に大きな祝祭を祝う時には当然それにともなう準備にさいし、一つひとつ祈りと御言葉と黙想をもって行っていく習慣がそのまま礼拝となったといってもよいだろう。伝統的には、このヴィジルこそもっとも大事な礼拝と考えられ、この礼拝において洗礼の準備を終えたものが受洗し、信仰の奥義と告白のことばを確かに受け取り、初めての聖餐に招かれるのであった。

今現在、日本福音ルーテル教会はイースターヴィジルの式文を全体として統一された形式のものを持っているわけではない。現在三鷹教会が神学校と共同で行っているヴィジルにもちいているものが、どのようにしてつくられたのか定かではないが、次のような構成になっている。
1.光の祝祭
2.み言葉
3.洗礼
4.聖餐
5.派遣

光の祝祭の部では、会堂の外、玄関わきにたき火を起こし、そこから火をとってパスカキャンドルにともして礼拝堂まで行進をして、キリストの光の到来を暗闇の中に迎えて、闇に勝利、死に対するいのちの勝利の救いを象徴する。




み言葉の部においては、旧約聖書から神の救いの歴史をたどるように七つの朗読がなされる。
七つの聖書箇所は①創世記1:1-2:4a、②創世記7:1-5、11-18、8:6-18、9:8-13、
③創世記22:1-18、④出エジ14:10-31、15:20-21、⑤イザヤ55:1-11、⑥エゼ36:24-28、
⑦エゼ37:1-14
一つひとつの朗読において、詩編が歌われるか、もしくは適当な讃美歌が歌われ、一定の時間の黙想が続き、祈りが祈られる。
そして、続いてローマ6:3-11が使徒書の箇所として読まれる。洗礼の出来事がキリストの死と復活に与り、罪が滅ぼされて永遠の命をたらすものであることを確認するのである。

また説教もここで話されるので、説教のために復活のテキストが福音書から読まれる。


洗礼の部は実際に洗礼式が行われるのとは別に教会員全員が洗礼の意味を今一度思い起こすように洗礼の水を棕櫚の葉などによって会衆に振り掛ける儀式が整えられている。

聖餐の部と派遣は通常の礼拝に準じている。

今の形は大分簡略化していて、全体で約2時間ほどの礼拝となっているが、実際は御言葉の部においての一つひとつの黙想にはもっと時間をかけておこなうのが本来の姿だろう。

また、洗礼も、この時に実際の洗礼式が行われるのが伝統的な祝い方だ。レントの期間に準備を重ねて、この日に洗礼を受ける。ちなみに、このレントの期間にBのマルコ年であるにもかかわず主日の日課がヨハネを多く取り上げたのは、この洗礼準備の時に受洗者のみでなく、会衆もみなその準備を過ごすための日課だそうである。つまり、A,B,Cのどの年でも、ヨハネを読み、洗礼準備の時を過ごし、すでに洗礼を受けている信徒もみなこの洗礼の意味を受け取っていく。

こうして、主の復活が確かな救いの出来事として「私」に与えられた恵みであることをいただき、喜びと感謝のなかにイースターの本当の意味を祝うのである。