2011-10-24

「礼拝におけるルターの遺産」

昨日の講演内容を、そのままというより私の理解を交えて、以下に短くまとめてみました。

レイスロップ氏は、「ルーテル教会の礼拝におけるルターの遺産」というテーマで講演されました。ルターは礼拝について特別な権威になったり、絶対的な規範を示すことはありませんでしたが、それは一つの礼拝が絶対的なものと受けとられてはならず、ルターが神の礼拝が多様であること、特に具体的な状況の中に働くものとして自由に開かれたものであることを求めたためというのです。
そして、礼拝についてのルター派的アプローチの方法は、二つの原則「保持」と「批判」とによって言い表わされると話された。「保持」とは長いカトリック(公同の)教会の礼拝にある伝統を受容するということを意味しています。また「批判」とは、キリストの福音が際立つために大胆に伝統の個々の要素についてはこれを再構成したり、削除したり、また再強調することなど、積極的に伝統を批判することであります。

 よく言われるように、カルヴァンらが行なった徹底した礼拝改革とは異なり、ルターは多くのカトリック的な要素を残したわけですが、しかし、それでは、どのような批判原理があり、何をもって伝統の受容をしたのかということが問われます。レイスロップ氏は、そこに四つの批判原理をとりあげられました。

①福音の言葉の明瞭性、礼拝の中心、み言葉の説教と聖礼典の執行がはっきりとその福音を示すもののなっているか。つまり、礼拝の順序、構成を含めてまたそれぞれに扱われる式文などの言葉についても、この視点から批判がなされるわけです。その場合の福音の理解においては、信仰を通して与えられる、キリストにおける神の恵みのみによる義認の教理的理解がその内容を確認する大切なポイントです。

②全会衆の参与
ルターの礼拝理解の中では、すべての会衆がこの礼拝に参与することにあります。み言葉は、人々が分かる言葉で語られます。また会衆が歌う讃美歌によって礼拝の多くの部分が構成されるようになりました。聖餐にはおいては、パンとぶどう酒の二種陪餐をいつでも会衆全体が受け取るようになりました。礼拝は、いつでも集まったすべての人に神様が働かれるので、皆がそれに参与するものであるように整えられるということです。

③強制のないこと、
改革はどんな場合でも、強制されないという原則が、具体的なルターのとった方法でした。福音理解による礼拝の改革は当然勧められる必要があるのですが、それはただ「教えと愛」によるもので、強制されるものではないと言います。強制からはなにも得ることがないというのが原則。時間をかけ教育と愛をもって変革がなされる必要性がルターの基本的なあり方です。

④困窮の中にある隣人へと向かうこと。
ルターにとって、神の言葉、キリストをみ言葉と聖礼典の中に受け取ることとは、すなわちそのキリストによって、私たちのあいだの飢えた者たちや様々な困難をもった隣人へと向きを変えられるということを意味しているのです。
礼拝は、神のミッションへの参与であり、この礼拝から派遣されていく出来事に与ることにほかならないのです。

こうした原則が、ルターが教会の伝統的なものを取り入れ保持をするときにも批判的にこれを変革していくときにも大切にされたものです。ルターは決して新しい教会をつくろうとしたわけではありませんし、新しい特別なこれぞルーテル教会の礼拝式であるという規範をつくりだしたわけでもありません。公同の教会としての豊かな営みを確かな福音理解に基づいて整えたにすぎません。ですから、いろいろなやり方があってよいし、特にそれぞれの文化のなかで営まれる限りはそれに相応しいあり方が工夫されるべきと言います。
また、カトリックの伝統という場合も、16世紀になされていた中世の教会のあり方がすべてではないことも私たちは考える必要があります。現代にいたるまで、教会は教派を超えて礼拝の歴史的研究を進めていますし、実際のエキュメニカルな交わりの中で確認されてきた成果もある。そうした研究と交わりに加わり、その成果をどのように自分たちの具体的なところで表していけるかということに積極的に取り組むことも、「保持と批判」の原則のうちに考えられるべきことなのです。

つまり、レイスロップ氏は、ルターがあの時代に提案したものが私たちの遺産なのではなく、ルターの礼拝への取り組み、そこにある原則、それこそ私たちが礼拝を考えるためのルターの遺産なのだと言います。そして、それはルーテル教会だけのものではなくて、むしろキリストの教会全体のものと言えるだろうと氏の見解を述べられました。また逆に、二千年に及ぶ教会の歴史が、あなたの歴史であることも確かなはず。ならば、その歴史にどのようにつながっているのかを考えるべきことが大切なのではないかと問いかけられているように思いました。

レイスロップ氏は、こうした原則を示しながら、さらに具体的な課題をいくつか挙げられました。つまり、次にあげるものが、ルターの時代に特に強調されたことではないけれども、今のエキュメニカルな議論の中で重要と考えられているテーマになっているので、私たちが公同の教会として礼拝を整えていくときに、非常に大切なものとなってきているということです。

①日々の生活や教会のアイデンティティーにとっての洗礼の重要性。
②洗礼を授けるための洗礼準備期間をその人個人の事柄とするのではなくて、会衆全員で憶えていくような用法。
③毎日曜日の会衆によってまもられる主日礼拝における聖餐礼拝。
④エキュメニカルに用いられている三年周期の聖書日課の使用。
⑤豊かな内容をもつ聖餐設定のためのユーカリスティック・プレーヤーの回復。
⑥受難周聖木曜日からの三日間の典礼の回復。

最後に、礼拝における女性の参与とリーダーシップもまた大切な課題であることに触れられて励ましを与えられました。

以上。簡単にと言いながら、長くなりましたね。

2011-10-22

主の聖餐に与るということについて

G・レイスロップ氏は、日本における聖餐の問題、すなわち非受洗者への陪餐についての質問におおよそ次のように答えられたように思う。文書で受け取っているわけではないので、質問に答えられたことを記憶によって、(ということは多分に私自身のフィルターが掛かっているかもしれません)ここに書いてみます。それは、およそ次のような答えでした。

聖餐のサクラメントは、教会において、洗礼を受けた者たちがキリストご自身を見えるパンとぶどう酒において受け取って信仰が養われていくための恵みの手段です。教会はそのようにこのサクラメントを理解し、整えてきたものです。ですから、基本的にはこの聖餐を受け取る者は洗礼を受けた者以外には考えられていないのです。


ただし、イエス様はいつでも罪人と呼ばれた人々、当時の宗教的な群れの中に入れないでいる人、むしろ神の恵みの外にあると考えられてきたような人々のところへいって、その人々とともに食事をされたのです。キリストご自身、当時のユダヤ人の共同体の外に捨てられ、そこで十字架にかけられます。捨てられた人々、除外された人々に対するキリストの十字架の救いの宣教とはそのような働きです。そうしたキリストご自身のありようを考えるときに、改めて聖餐の交わりにさいして、ある人々を除外するという考えがどういうことであるか考えなおされるということはありうることです。


実際には牧会的な関わりの中で、洗礼を受けていない人が初めてきてこの聖餐の恵みを受け取るために手を伸ばしてきた時に、その人に与えないか問われたら、私自身がその時の司式者であったならば、おそらく、その人に聖餐を分かち与えるようにおもいます。ただし、その礼拝の後にその人には聖餐の意味を教えることと洗礼への招きを必ずするようにします。それが、牧師の務めだと思います。洗礼へまねき、信仰の歩みへと導いていくことが、その人には必要なことです。


いずれにしても、忘れてはならないことがあります。聖餐は単なる食事ではないし、またスナックではありません。これを食べる人はイエス・キリストをいただき、イエス・キリストのからだとなるのです。これを受けようという人には、本来はイエス様がお尋ねになられたように、尋ねなければならないのではないでしょうか。「このわたしが飲もうとしている杯をのむことができるのか」。主イエス・キリストと結ばれその命を生きるということはキリストの受難を受け取っていくこと、その十字架をとるということになるのです。そのことを語らずに、済ませるわけにはいきません。そのことを信仰の道として生きるということを伝えることが牧会の大切な働きでしょう。


G・レイスロップ氏の答えは、聖餐というものへの深い理解と日本という宣教の脈絡の現実の問題に対する配慮を合わせもった示唆に富むものと思いました。単純に、その時に聖餐に与らせてよいかどうかということだけを問題にすることよりも、むしろ、これを受け取る人に対して、(洗礼を受けていても、受けていなくても)本当に必要なキリストの福音とそれによって生かされる信仰を分かち合い、支え合うことができているのかどうかが問われるのです。牧会の務めの重さを改めて示唆されました。具体的な課題は、牧会上の問題なのです。

2011-10-21

G・レイスロップ氏の来日



ルーテル・フィラデルフィア神学校の名誉教授でアメリカ福音ルーテル教会の礼拝学の権威、ゴードン・レイスロップ氏が来日。うちの大学の礼拝で説教をしてくださり、聖餐の式にも加わっていただいた。落ち着いてあたたかな人柄は、エキュメニカルな交わりの中で礼拝学のリーダーシップを取ってこられたことをうなづかせ説得力がある。米福音ルーテルとカナダ福音ルーテル教会が2006年に出版したELWという礼拝式文作成の中心的指導者でもあった。
学校の礼拝学の授業での講義のほかに、公開の講演、ルーテル4教団合同の式文委員会でのレクチャーを頂き、また、ルター研究所の秋の公開講演でもお話しを頂くことになっている。
ルター研での講演の主題は、「ルーテル教会の礼拝とルターの遺産」。
宗教改革は具体的には礼拝の改革でもあったから、ルーテル教会のみならず、キリスト教会が礼拝とはなにか、その本質を問う時には欠かすことのできないテーマだろう。

恵まれたプログラムに感謝したい。

2011-10-04

金木犀の風にふかれて



朝に、懐かしい風がふいてきたので、遠い昔の記憶を追いかけるようにして、その風がどこから来るのかあたりを見回した。
大学のキャンパスのなかに咲いた金木犀。
今年も会えたねというように、どっしりとした幹から伸びる枝先にぎっしりとついたオレンジの花に、私も照れくさいような思いを秘めながら、そっと挨拶を交わした。

後期の授業も始まったキャンパスのにぎわいの前、静かなひとときでした。

2011-09-12

講座「スピリチュアル・ペインと魂のいやし」

2011年度の大学主催の専門職講座「いのちの倫理と宗教」。
今年が三回目です。福祉や医療、牧会などの現場で死に直面している人々に関わる専門職の方々のための講座。

http://www.luther.ac.jp/news/110901_03/index.html



毎年、仏教のお坊さんにも来て頂いて、キリスト教に限らずに宗教が「死」の問題に取り組んできた蓄積を現代の中でもう一度とらえながら、自分たちの身近なところでの「死にいく人々」への援助について深く学んできた。今年は、朝日新聞の「こころ」欄の元編集長菅原伸郎氏に来ていただく。
また、昨年に引き続いて、実際に現場で働いておられる方を招くこととした。山谷でのホスピスケアを実践する「きぼうのいえ」の施設長、山本雅基氏。
現代社会の中で、私たちが「死んでいくこと」の問題を深くとらえながら、ともに助け合う生き方を問い求めていきたい。

2011-09-09

大学生への推薦図書⑩ ミヒャエル・エンデ『モモ』

エンデの代表作『モモ』
豊かさを実現するはずの現代世界(資本主義の世界)が、人間を貧しくする。「灰色の男たち」が、密やかに人間の時間を奪っていく。気づかないうちにその人間性が失われる世界とどう立ち向かうべきなのか。モモを代表とする、子どもたちの持つ可能性を新たに見いだす。
人間とはなにか。時間的存在としての私に気づくことからわたしであることを取り戻す格闘が始まるのかもしれない。



児童文学だけれど、深い思索によって捉えられた真実に出逢うだろう。これを読んで、今を生きる自分という存在、その時間性というものが見えてくる。『時間論』への扉が開かれる。

2011-08-29

『神様のカルテ』・・・か。

09年に出版され、話題になった小説が、映画化されて公開になった。

 

ちょうどこの本の出版の前年に、天童氏の『悼む人』が直木賞を受賞している。「死」の問題がかたちを変えてとりあげられた小説だったのですぐに気になったが、飛びつくのはミーハーにすぎるかと、棚に戻したものだった。映画化決定を見過ごしていたが、公開が近づいてにわかに新聞などにもとりあげられて、思い出した。あわてて、先週本屋に行って手に入れたが、著者の夏川草介氏は本当のお医者さん。
医療の現場では、医者は病気を治し、患者は元気なることが期待されるけれど、現実には、それがかなわないことも多い。実際に、今、人が亡くなるなる時は、ほとんど病院という場所で最期を迎えるのだから、医者が患者を一人の人として看取るということは病院であっても日常的なことかと思う。けれど、改めて現場の医師の書かれたものから、そうではないということが分かる。大学病院は、けっして看取ってはくれないのだ。医者が、一人の患者に向かい合うということは希有なことなのだ。
だからこそ、こうした人間らしい医師の働く場所。その心の声が改めて一つの小説となる。