2010-01-17

Ministry

昨年の春、キリスト新聞社から創刊された新しい注目の雑誌。

Ministry(ミニストリー 2010年 01月号 [雑誌]

1月号を読んだ。牧師を応援する実践神学分野の雑誌。今月号の特集「『説教力』をみがく」。
編集主幹のひとり平野克己氏がこの特集をまとめられている。
神学校で説教学を教えられいる諸氏の一言は奥が深い。短い文章のなかに、説教者への心得が要領よくまとめられている。実際の牧師たちの一週間の説教への取り組みのドキュメンタリー風のレポートには若い牧師たちも励まされるだろう。なによりも、平野氏による説教の「赤ペン先生」は必見。氏の説教についての深い理解からなされる的確な指示は、説教作りに多くのヒントを与えてくれるばかりでなく、説教を語るということを改めて課題として受け止めさせてくれる。

昨年の10月雑誌の編集会議にも出させていただいたが、私と同世代の牧師たちが、日本中の牧師と教会を元気にしたいという熱いパッションで作っている。素直に、うれしい心になった。教派をこえて、この雑誌が日本のキリスト教界にあたらしい風をもたらすに違いないと感じた。

2009-12-16

提唱 「いのち学」

 キリスト教学科では来年度から「いのち学」を提唱し、関連科目を整理して、カリキュラムを整えることとした。「キリスト教学」という広い学問領域の中に新しい道筋をつけて、研究活動と教育を新たに展開していくことをねらいとしている。
 1980年代ごろから90年代にかけて、ホスピスや終末期医療、あるいは脳死と臓器移植など最先端の医療の現場で向かい合う「死」の問題が多く論じられるようになり、それと同時に日本人の死生観ということに注目が集まるようになった。それから、五木寛之の「大河の一滴」がベストセラーになったり、「葉っぱのフレディー」という絵本がとりあげられたり、最近では「千の風になって」という歌が多くの人々の心に、それとなく自分たちの「死」や「死後の問題」について考えるきっかけを与えたといってよい。昨年(08年)の直木賞作品『悼む人』、また米アカデミー賞の外国語映画賞受賞の「おくりびと」なども、現代の「生と死」に対する深い問いが作品のテーマになっている。いずれも、日常的な人間の「死」を受け止めてきた伝統的な共同社会が崩壊した現代社会の孤独な私たちが、新しく「死」の問題に向かい合いながら、生きることを問い直す深い求めが潜在的な主題であることを考えさせられるものだ。つまり、「死といのち」について問い直したいというニーズが非常に高くなってきているということだと思う。
 従来なら、いわゆる「宗教」がこうした問題に対する答えを提示してきた。しかし、具体的な宗教世界に入るのとは違った形で、「死といのち」を問うていきたいという現代のニーズがあることは確かといえよう。
こうした二ーズに対して、私たちは、「キリスト教学科」こそが、これに応えていく材料も力も、責任もあるのではないかという自覚を新たにし、「いのち学」の新しいカリキュラムを提供することにした。
 すでに開講されていた関連科目に加え、新たにいくつかの科目を用意し、次のような科目を開講する。


①「人間・いのち・世界I」石居    
②「人間・いのち・世界II」石居   
③「いのち学序説」石居
④「食といのちと環境I」上村
⑤「食といのちと環境II」上村
⑥「キリスト教と生命倫理」江藤
⑦「キリスト教と環境倫理」江藤
⑧「福音書におけるいのち」ブランキー
⑨「いのちのキリスト教史」マッケンジー
⑩「キリスト教倫理I」江藤
⑪「キリスト教倫理II」江藤
⑫「神化の教理と永遠の命」鈴木
⑬「スピリチュアリティーと聖書の伝統」江藤
⑭「死生学I」石居
⑮「死生学II」石居
  

隔年開講等も含めてこの15科目ほどをまず用意できるとよいと考えている。
このテーマを神学諸科のインターディシプリナリな取り組みの中で、さらに研究をすすめ、プログラムとして提供していきたい。

2009-12-09

書評「神の仮面」

江口再起著「神の仮面」


神の仮面―ルターと現代世界

これも、「本のひろば」に掲載されたもの。

近年、ルター関連の著作が相次いで出版されてきている。政治・経済・社会的に不安定で、心理的・精神的にも大きな危機を迎える中世末期に、ドイツの片田舎で個人的な試練を体験した一人の修道士ルターは、その深い信仰の思索において、時代の人々が当然としてきた教会の伝統に対し決然と立ち向かって宗教的確信を貫いた。聖書に示されたキリストによる救いへの信仰に基づいて彼は教会の改革を呼びかけたが、それがもたらした改革のうねりは政治・文化・教育など広範な影響を与えることになった。それが新しい時代、近代へと向かう大きな歩みを形作ることになったのである。ルターの宗教改革は、混迷する現代の私たちに、時代の問題性を明らかにし、新しい時代を切り開く神学的思索の重要性と有効性を教える。
本書は、その意味で、いわゆる歴史研究としてのルター研究ではなく、まさに神学的思索が時代をとらえる、ルター的神学の醍醐味を表すものだと言えよう。

著者の江口再起氏は、現在は大学で教鞭をとり、キリスト教関連科目を担当されているが、もともとルーテル教会の牧師である。私が牧師の按手を受けた20年ほど前には、所属の教区行政にも責任を持たれていた。教会の現状と将来に対する鋭い彼の分析は、希望的観測というよりもかなり厳しい内容であったからか、悲観論者とも評された。しかし、統計的資料にも基づいた客観性に裏付けられた分析は、20年経つとそれらのほとんどが、ほぼ正確に現実となっていることがわかる。江口氏の冷静に現実を見据える視点は、その神学の取り組みにおいても基本的に変わらない。独特の着眼と発想をもって、現代世界の諸相に切り込む思索と論述には、思わず読者をうならせるものがある。かつて訪れた書斎には、神学・哲学・思想を中心とした洋の東西の著作家の著作、全集が揃えられ、蔵書の多さはおそらく類を見ないものであったことを記憶する。彼の知識と見分の広さを物語るが、それが氏の著作を下支えする。

一方で「良心」、「義認論」、「二王国論」、「神の仮面」、「隠された神」、「キリスト者の自由」、「罪」、「救済」、「生と死」など、いわゆるルター神学のカギとなるような伝統的な神学概念を取り上げつつ、他方では「グローバル・ヴィレッジ」、「ポストモダン」、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ・ナガサキ」、「デス・エデュケーション」、「スピリチュアリティー」や「サカキバラ事件」など現代世界をとらえる様々なタームを手繰り寄せて、それらを切り結び、大胆かつ自由に思索し、確かに世界と時代を浮き彫りにする。ある意味で、我々が人間の中に自明的に期待してきたであろう良心とか正義への感覚とか、罪の意識などという観念が、すでに意味をなさなくなりつつある今日の現実を見据えつつ、そこに神の関わりをどう見出すのか。ルターの著作・資料にもあたり、また、豊富な神学と哲学の思想を用いつつ、丁寧になされる論述は説得力を持ち、その論理的展開の妙味は読む者を引き寄せる。

現代において我々が神学するということがどういうことであるのか。単に信仰の教理と教会の事柄にのみ専心するのではなく、現代の世界、時代の課題に向かい合い、それに応えていく神学が求められている。それは時代のニーズに合わせる祭司的な営みというばかりではなく、また、むしろ時代を問う預言者的営みでもあろう。神の存在も人間の信仰も前提に出来ない現代の世界に生きる我々が、なお、「神の前」に立つということの意味を問う神学の課題と可能性を、本書によって改めて考えさせられる。

福音への深い信頼の故に、ペシミスティックにも見える江口氏の洞察の奥には、徹底したオプティミズムが流れているのであろう。深い問いの只中に立ちつくしつつも、なおキリスト教信仰に確かな手掛かりを感じさせる叙述には安心感を覚える。本書のような取り組みは、まさにそうした現代の神学的思索の一つの試みだと言えるだろう。

江口氏は、私が神学生の時代から、ルター研究所の研究会や講演などで接することの多かった牧師先生のひとりだった。神学や教会はどういうチャレンジの中にあるかということについて私が教えられた神学者の一人でもある。

2009-11-30

「いのちの倫理と宗教」

ルーテル学院のコミュニティー人材養成センターを通して、本学のそれぞれの学科が、地域の人々、特に専門職にある人たちに向けてキャリア・アップのためのプログラムを提供している。
キリスト教学科では、医療や福祉などの現場で「死」という避けることのできない課題と向かい合う人たちに、死にゆく人と向かい合うということが、どういうことであるのか、ともに学び、考えていただこうと、今回の企画を試みた。

企画は、次のとおり。

http://docs.google.com/View?id=dhbtdn5z_12q8d82cfz

今回は、真言宗の僧侶にもお話しを伺うことができて、なかなか興味深いプログラムになったとおもうのだが、実は企画の初日、私がインフルエンザにかかってしまい、急遽予定を変更することになった。申し訳ない。
それでも、なんとかスケジュールは調整できた。
福祉の現場からの参加が多少多かったが、養護の施設、教育の現場、ホスピスで働いていらっしゃる方などいろいろな方たちが熱心に参加してくださっている。

2009-10-09

書評「神学とキリスト教学」

神学とキリスト教学―その今日的な可能性を問う

「本のひろば」にも掲載したが、この本について少し記しておきたい。

書名には「神学」と「キリスト教学」という二つの学問名が記されて、その学問の今日的可能性を探る内容と推察される。しかし、「はじめに」にあるように、本書が第一義的に「神学」を問うことを目的としたものであり、その問いの中で日本にあって独自の展開をしてきた「キリスト教学」の研究領域もしくは方法が、「神学」の新しい展開の可能性の要となること表す内容となっている。日本基督教学会関東支部、日本組織神学会、および聖学院組織神学研究センターが共催で今年(2009年)の3月に行ったシンポジューム「それは何であるのか―神学とは」における神代真砂実氏、川島堅二氏、西原廉太氏、深井智朗氏の発題と、司会の森本あんり氏のコメントを新たに論文の形にまとめたものである。

テーマは、ハイデガーが1955年におこなった講演「それは何であるか―哲学とは」のタイトルをもじったものである。哲学が「それは何であるか」という存在者の本質を問う学問であるとされているが、その哲学を哲学たらしめるもの、つまり、哲学そのものの基盤を問い返す奥深い講演である。だとすれば、このシンポジュームもまた、「神学」が「キリスト教学」とか「宗教学」との関係でどういう領域と方法論をもって区別されるか、ということを単に論じるのではなく、むしろ、そうした問いを超えて、「神学する」とは何かと、その基盤を問い返すものであったといえよう。それぞれの名で呼ばれる学問の領域で、論者たちが自ら何を、今、問う者であると自覚しているのか、「神学は何をするのか」という問いへの格闘がここに展開するのである。

神代氏は、「教会のための神学」といういわゆる伝統的神学の立場を確認しながら、その神学がどのようにその周りの他の世界に出会っていくのかというより広範なコンテキストとの関わりをキリスト教学、キリスト教文化学の研究領域の役割と位置付け、神学の公開性を論じる。川島氏は従来の宗教学の方法論に疑問を提出しながら、その社会的な役割として宗教の危険性を見抜く「予防学」的な働きを提起している。オーム事件において、果たし得なかった責任への自覚に基づいた議論を展開する。西原氏は、「キリスト教学」が日本的文脈の中で語られてきた歴史経緯をたどりつつ、「西欧的神学の自明性」のない(失った)ところでの、キリスト教の存在意義をより広い視野の中で明らかにしていく課題を見据えている。「キリスト教学」が新しい「神学」の枠組みを提示するものであるとみている。深井氏は、1900年前後にみられる「教会的神学」に対する「学問的神学」もしくは「文化科学としての神学」の運動は、本来対立的なものではなく、むしろ、教会がもつ公共性へと積極的にその神学の責任的領域を広げていく取り組みであることを論じ、「公共の神学」の必要を説く。森本氏は、こうした議論を受け、それに対する的確な批評を加えつつ、神学をする主体の実存的立ち位置の問題と、また信仰の枠組みの外にある人々との問いの共有における神学の可能性に一言する。いずれも、今自分たちが置かれているところで、「神学するということは何か」を真摯に問うものである。 
今日、いわゆるポスト・コロニアルの時代に、それぞれの地域・民族によって営まれてきた異なる文化・宗教のコンテキストの中で、キリスト教がどのようにその福音を分かち合えるのか。その答え方が福音内容をさえ規定してしまうような問いの中に神学は立っている。神学は単に教会に仕えるというばかりではなく、その教会が置かれている文脈そのものを分析し、説明し、問いかける。あるいは、逆に教会とか信仰、救いや神という言葉が、そもそも何を捉えているのか、それに応えていく責任を神に負っている。

本書を読みながら、ルター派の神学校と大学に身を置き、神学とキリスト教学を同時に担当する私は、「律法と福音」の枠組みや「問いと答え」の相関の方法を持ったティリィッヒ神学の可能性などに思いを巡らしつつ、今、日本の神学が新しい時代を生き始めていることを改めて実感させられている。

2009-09-25

百周年 記念式典



9月23日、日本ルーテル神学校の創立百周年の記念式典と礼拝が行われた。
今から百年前に、日本でルーテル教会がキリスト教の宣教によって神の愛を伝えていくために、日本人の牧師を養成する。そのための神学教育が熊本の地で始められた。1925年に東京の中野区鷺宮に移り、1964年に大学と神学校の体制をつくる。76年にはキリスト教社会福祉コースが設置され、87年に社会福祉学科へと成長する。92年には神学科内にキリスト教とカウンセリングコースがつくられ、これが2005年に臨床心理学科へと発展する。

キリストの与えられる愛と喜びを、具体的に分かち合うために、働き人を養成する。その使命を持って歩んできた百年の歩みを改めて確認することになった。

2009-09-11

マイケル・ルート氏講演

日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学の百周年記念で取り組んだ神学の連続公開講演の一つ。

http://www.luther.ac.jp/news/091117/index.html

この9月4日には、アメリカのサザンセミナリーの組織神学の教授、マイケル・ルート氏を迎えた。講演のタイトルは「エキュメニカルな対話におけるルーテル教会とはーこれまでと将来」。
16世紀の宗教改革以来、たくさんの教派に分かれてきたキリスト教会が、唯一の神をキリストにおいて一致して告白することができるようになる祈りとそのための教会一致の働くことをエキュメニズムという。ルターはもちろん、教会の改革を呼びかけたのであって、教会を割ることを求めもしなかったし、願ってもいなかった。しかし、結果はキリストの福音を確かにするための彼の主張が、後にルター派の教会と呼ばれるようになる群れをつくることになった。宗教改革の陣営はまた、その聖餐の理解における異なる立場において一致を保つことが出来なくなった。つまり、ルター派であることは、歴史的にいえばキリストの福音理解において教会を割ることになってもその神学的な主張を守り抜くことであった。
19世紀以来の信仰復興運動が盛り上がり、ヨーロッパの世界進出とともに世界宣教が進められていく時代にエキュメニズムが展開する。二つの世界大戦を経ることで、この教会一致の運動も楽観的な見通しよりもはるかに厳しい現実認識の中で、しかし、また世界へキリストを証する使命を帯びて展開してきた。その一つの頂点が、おそらく礼拝における聖餐の交わりを実現するようにWCCの「信仰と職制」の委員会によって取り組まれたリマ文書(BEM)とリマ式文の完成(1982年)だろう。しかし、それ以後はエキュメニズムといっても大きな進展が見られないと言われ、エキュメニカル冬の時代とさえいわれる。

ルート氏は、しかし、この時代にこそ、ローマ・カトリックとルター派、またルター派とアングリカン・チャーチの間で生まれてきた新しい成果のあることを指摘しながら、この「冬」の喩は正しくないとしながら、むしろ、この困難な時代は、教派を超えた新しい課題にキリスト教会全体が向かい合っていることを自覚しつつ宣教と神学の新しい協力関係を築かれるべきことを訴えた。「和解された多様性における一致」を目指し、教派的な違いをむしろキリスト教世界全体の豊かさとし、ルター派であることをはるかに大きなキリスト教世界の流れの中に位置付けることを意識すべきと説いた。

講演全体は、いずれ出版紹介される予定である。