2021-08-16

デール記念講演会「たましいの安らぎ」藤井理恵氏

日本ルーテル神学校附属研究所デール・パストラル・センターでは2014年の設立以来、ケネス・デール先生のお名前を冠しての講演会を開催してまいりました。これは、困難な時代に生きる私たちが互いに支え合い、共に生きるために、何を考え、大切にしていくのか、ともに学ぶための講演会です。


残念なことにはCOVID19をはじめ諸般の事情により、2019年度と2020年度は開催がかないませんでした。

けれども、このたびこのような状況下ではありますが、今この時にこそ、お話をお伺いするにふさわしい講師をお迎えし、オンラインでの講演会を開催いたします。



淀川キリスト教病院ホスピスのチャプレンとして「死の現実と向き合う方々」に寄り添い働いておられる藤井理恵先生から、神の恵みが働くことによって与えられる「たましいの安らぎ」についてお話を伺います。先生は、昨年同じタイトルでの著書を出版されています。




2021年10月2日 午後1時半から3時半、Zoomを用いたオンライン講演会です。


急速に拡大する感染症は、私たちの日常を奪い、またいのちを奪う勢いをとめません。けれども、そのいのちを守り、また支え、祈ることもまた、休みことなく働いています。ひとりの人をケアすることが確かなたましいの安らぎに結びついていく実践がどのように紡がれていくのか。


牧会の現場にある牧師、隣人に寄り添う信徒、また大切な方をなくされ悲しみの中にたたずむ方にも、ぜひお聞きいただきたく、ご案内申し上げます。





専用申し込みにリンクするサイトは以下の通りです。

https://www.luther.ac.jp/lutheran/news/20210629-01.html


お申し込みをいただいた方に zoom参加に必要なID、パスコード、URLなどを差し上げます。





2021-08-09

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 6

6.   その他・実践の課題

実施においては各個教会の伝統を重んじてといわれる。ルター派的な穏健で緩やかな実践課題を示している。たとえば、小児倍餐の問題では、子どもがどのくらいの年齢に達したときに初陪餐を迎えるのかというきわめて実際的な課題であるが、これも一応の指針を出しつつ、地域教会の実情から出発するように配慮がなされている。ちょうど、ルターが一種陪餐から二種陪餐の適切性を論じつつも、実際の改革においては、急進的な方法を退けたことが思い起こされる。

また、この指針では、陪餐者のアルコール依存症やアレルギーなど困難がある場合の一種陪餐の可能性も述べている。(UMG44C,D)それを積極的にすすめているのでないにしろ、たとえ一種であっても不十分ではないことをはっきりと述べるのである。これも、ルターの二種陪餐の主張と方向は全く逆ではあるけれども、基本的にルターの考えに沿っているといってよい。[8]

しかし、同時にそのことが現場の中の単純な多様性ということで解決のつかない問題になってきていることも事実であろう。神学のひとりあるきではなく、実践と共に現場から発想する、もしくは現場を神学することが大事なことだと確認したい。



[8] ルター「キリストの聖なるからだ」著作集1集 1巻 636ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 5

5.   宣教の働きへ

エキュメニカルなコンテキストがこの新しい指針において重要なものであると同時に、宣教のコンテキストが積極的に取り入れられていることはきわめて重要である。とりわけ、そのことをこの指針全体に、つまり、単に聖餐のみならず、みことばと洗礼と聖餐という恵みの手段全体にかかわっていることとして「第IV部 恵みの手段とキリスト教の宣教」という独立した項目をもって書かれているところには大きな意義がある。すなわち、みことばとサクラメントは、そこに集うキリスト者の集まりにおいて「神がその教会を宣教へと力づける」(UMG51)というのである。このことによって、神の恵みの手段がわたしたちを神ご自身の働きへと生かす目的を持つことを明瞭に示しているといえよう。

ここで、聖餐に限って読み取ってみると、次のようなことが言われていることは、聖餐のコイノーニアとしての性格を基礎としながら、さらに一歩踏み込んで、なにが課題となってくるのかということを大変鮮やかに浮き彫りにする。

 

聖晩餐はキリストの体と血によってわたしたちを養い、また、この地上で飢えに苦しんでいる人々があることにわたしたちの気づきを与えるのである。礼拝からの派遣は、感謝のうちに、わたしたちを、神の聖なる賜物においてわたしたちが見たものから、神が愛されたこの世へ仕えることへとわたしたちを送り出す。(UMG51A

 

このサクラメントが、単にそこに集うものに対する恵みの手段であるということにとどまらず、その働きを通して、その恵みに与ったものたちをさらに巻き込みながら、神ご自身の宣教が力強く進んでいくように、世界に対する神の恵みの働きそのものであるということのようでさえある。

 さらに、この神の恵みの働きの聖餐に与る私たちがどのように生かされていくのかについて、この指針は次のように言う。

 

恵みの手段としての聖餐は、神が憐れみと罪の許しを与え、わたしたちの日々の務めとこの世における働きへと信仰を生み出し強めたもうメシアニックな祝宴が、神のこの世界すべてに実現される正義の日を望むようにわたしたちを駆り立て、そして、来るべき永遠の命への復活への確かなそして堅い希望を与えるものなのである。(UMG54

 

 サクラメントに与るものが、この世の課題に心向けるように動機付けられ、そして、希望をもってその課題に生きていく新しい生への招きがこの聖餐の礼典の本質となっているのである。

 また、この礼典の終末論的視点が強調され、神の救いのみ業が、宇宙論的広がりを持ち、全被造物の救いがこの礼典において祝われ、また教えられていることが指摘されていることは興味深い(UMG54A)。こうした視点は、宗教改革の当時には十分に展開されたとはいえない側面であろう。しかし、現代のわたしたちが直面をしている深刻な問題にかかわって、この礼典のもつ包括的な救いの視点を明らかに示すことが意図されているのである。

 そして、この終末論的希望に基づいて、キリスト者一人ひとりが向き合っていくこの世の具体的な問題との取り組みを、ルターの著作を参照し、神の愛された世界の中に実現していく愛の交わりと具体的な分かち合いのコイノーニア的性格に基礎付けながら述べている(UMG54B)。この世のさまざまな問題や困難に対して、神の普遍的な恵みのみ業から生かされるキリスト者が「戦い、働き、いのり、そして、もしそれ以上にできないということであるとするならば、心からの共感をすべきである」ことが示されるのである。

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 4

4.   エキュメニカルな課題

すでに、アメリカのルーテル教会はカナダ・ルーテル教会、モラビア教会、アメリカ聖公会、改革派教会、およびキリスト合同教会とフル・コミュニオンの関係をもち、またカナダ合同教会、合同メソジスト教会とカトリック教会とエキュメニカルな対話をもっている。そうした実際のエキュメニカルな対話の成果と実践の中で、ユーカリスティック・ホスピタリティーの原則を明示している。 (UMG49

さらに、他教会の聖餐への参加については次のように言う。 「キリスト教会の普遍的本質のゆえに、ルーテル教会員はキリスト教の他の教派の聖餐(感謝の祭儀)に参加してよい。」(UMG50

つまり、このルター派の聖餐の実践は単に各個教会の場所において、キリストの恵みを受け取るということだけを示すのではない。むしろ、普遍的な教会の一致を示し、具体的に食卓の一致、フル・コミュニオンの聖餐の一致をエキュメニカルな対話のめざすところとして位置づけるのである。(UMG50A

ここで重要なことは、聖餐のコイノーニア(交わり)の理解をはっきりと位置づけているところである(UMG36A)

ルターは、とりわけその初期において「交わりとしての聖餐」の理解をもっていた[5]。この理解は、後期においてはやや後方に退いたといえるが、しかし、ルターからなくなってしまったものではない。その実際の交わりの姿が、この礼典に参与するものに具体的な恵みであるばかりではなく、また一つのしるし、約束、そして課題としてのコイノーニアを示すものとなるといってよいだろう。その点で、ここでコイノーニアとしての聖餐の性格を明らかにしていることはルター的な神学に基づいているということがいえる(UMG38C)。ちなみに、赤木氏によれば、カルヴァンの聖餐理解は、キリストを交わりにおいてみているが、ルターはキリストの現在を客体的・対象的に捕らえると比較している[6]が、その指摘は必ずしも妥当なものとは言いがたい。むしろ、キリストとの交わり、またすべての聖徒、キリスト者との交わりが聖餐の本質であることが考えられている。

このコイノーニアの理解こそ、エキュメニカルな教会の対話の中での聖餐の持つ課題をよく示しているといえよう。実際、WCCでは1993年サンチャゴ・デ・コンポステーラで開かれた、第5回信仰職制世界会議で、コイノニアがクローズアップされ論じられるようになったという。神田健次によれば、そこでは、およそ三つの側面が論じられているといっている。第一に聖餐の交わり、第二に、人間共同体が内包している差別や分断を克服する、コイノーニアの包括性。そして、第三に教派分裂を止揚する、相互陪餐の課題である[7]。キリストを中心とした教会の一致は、まさにキリストを分かち合い、そのからだとされた一人ひとりのキリスト者が確かにそれぞれに違いを認めつつも、必要な部分として尊重しあい、主の愛の証と実践を生きることなくしては、起こらないだろう。それだけに聖餐における一致を求める姿勢を明確に示していることは意義深いことだといえよう。

 



[5] ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」第11巻 「結論するところ、このサクラメントの実は交わりと愛とであって、これによって私たちは死やいっさいの災難に対し力づけられるのである。この交わりは二様である。一つは、私たちがキリストおよびすべての聖徒たち≪との交わり≫にあずかることであり、いま一つは、すべてのキリスト者をして、いかなる方法においてであれ、彼らと私たちにできるかぎり、私たち≪との交わり≫にあずからしめることである。こうして、自分自身の利己的な愛はこのサクラメントによって根だやしされ、あらゆる人間の共通の利益となる愛を導入することになる。こうしてまた、この愛の変化によって一つのパン、一つの飲み物、一つのからだ、一つの共同体ができるのである。これがキリスト教における兄弟としての真の一致である。」657ページ。

[6]赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文官 2005年 102ページ

[7] 神田健次『現代の聖餐論:エキュメニカル運動の軌跡から』 日本基督教団出版 1997271274ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 3

 

3.   信仰によって受け取る

ルターは、聖餐論の展開のなかで、キリストの現在をとりわけその物質的な要素と結びついた見えるみことばの客観性として論じているのだが、同時に、これが執行され、あるいはそれを受けるという行為によって自動的に救いへの効力となるような事項的効力を否定している。これは、中世の私唱ミサに見られるように、司祭がミサを捧げる行為そのものが功績として救いに役立つものとする考えに反対したものである。このサクラメントは、信仰において一人ひとりに受け取られなければならないのである[4]

この「恵みの手段の用い方」の実践指針においては、聖餐が洗礼を受けたものがその信仰において受け取られるということをはっきりと述べている(UMG37)。具体的には、聖餐に与ることを堅信と結びつけてきた教会の実践を改めたことを確認し、小児陪餐を奨励する実践的課題を見ているといえよう。ただ、その場合に、洗礼を受けたことが自動的に聖餐をうけるということにならないように、注意を喚起している。つまり、聖餐は、その年齢に応じた聖餐の理解をもって受け取ることが必要ということである。もちろん、聖餐が形式ばかりになるのと同様に、信仰が単なる知的な承認となることも避けられなければならない。ただ、信仰がその聖餐のうちに与えられる神の賜物に対する信頼を表すことがなければならない(UMG37F)。そのための教育的な取り組みを強調する。洗礼前の準備教育で、聖餐についても教えられるべきであることを明言している(UMG37A)。また、嬰児や子どもが洗礼を受けた場合、保護者と洗礼親にその教育にかかわる責任があることを語る(UMG37E)。

こうした実際の意図とは別に、たとえば未受洗者に陪餐するといった、日本の一部のプロテスタント教会で実践されている問題に対し、この洗礼を受けた者への陪餐の原則ははっきりとした指針であることは間違いない。

また、日本の現状とも重ねて考えるべきもうひとつの問題として、未受洗者に対する言及は極めて実践上の配慮に満ちている。

 

もし、未受洗の者がキリストの現在を求めて聖卓へ進み出て、誤って配餐を受けた場合、その人物もまた牧師も恥をかくことのないようにすべきである。むしろ、キリストの愛と憐れみの賜物がほめたたえられるのである。そして、本人が教会の信仰を学び、洗礼を受け、その後に信仰において聖餐に与るように招かれる。(UMG37G

 

アメリカのルーテル教会において、さまざまな文化・宗教の伝統を背景にした人々への配慮が重要になっている現状を反映し、こうした初めて教会に来た人々への対応を配慮したことが明文化されたことは意義深い。日本のような宣教地では当たり前のことでといえば、そうではあるが、こうした意識がどのように教会の中に位置づいているかは、なおさら大切な視点である。実際には、教会に慣れている者たちだけの実践になってしまっていないだろうか。開かれた教会であるために、具体的にどのような対応ができるか、十分に配慮していく必要があるだろう。

そして、小児陪餐については、さらに詳しく踏み込んで言及している(UMG38)。初陪餐の年齢については、さまざまな教会の実践を踏まえ、なお検討を要するとしながら、それぞれの教会で一貫したポリシーが作られる必要を述べている(UMG38C)。



[4] ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」第11巻 653ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 2

 

2.   キリストのリアルプレゼンス

第二に確認されることは、キリストのリアルプレゼンスの問題である。神の恵みのわざ、賜物としてのサクラメント理解に加えて、ルターの聖餐理解のいわば中核であり、また宗教改革陣営でもっとも深刻な論争となったキリストの現在の理解がここに示される。 

「この礼典において、十字架にかけられよみがえられたキリストが現在し、そのまことの体と血とを、食べ物と飲み物として与えられた。この現在は、神秘である。」(UMG33

ここで注意したいことは、キリストの現在がこの聖餐の出来事に結び付けられ、同時に物素としての食物と飲み物、パンとぶどう酒に結び合わされているということである。この二つを、区別することなく一息で言い切っている。つまり、この聖餐においてキリストが現在されるということは、単純にパンとぶどう酒としての「物」として存在するということを言っているばかりではなく、むしろそれを与えたもう行為者としてのキリストの現在を含んでいるということであろう。しかも、聖餐におけるキリストの現在は、その礼典のさまざまな名前が示すように(UMG36)、聖書の中のさまざまなキリストの祝福の食事の主がその行為者として現在するということであって、単に物としての対象としての現在ということに限定されていない。

赤城善光は「ルターおよびルター派は、くりかえしキリストの実在を力説したが、その場合、リアリティは客体的・対象的リアリティとして把握されていたのではあるまいか」[2]という。たしかに、ルターの言い方を見るならば、スコラの実態変化の教理を明確に退けているにもかかわらず、この「物」としてのパンとぶどう酒においてキリストが現在するというリアリティへ固執している。

しかし、それは単純に、キリストをそこにおいて客体化もしくは対象化しているのではないかというのであれば、おそらくはっきりと否定しなければならないだろう。ちょうど、キリストご自身が礼拝され、あがめられるためではなく、むしろ、仕えるために来られたのと同様に、ルターは聖餐においてキリストの現在が起こっているのは、むしろ、それによってキリストが私たちの信仰のために働き、仕えてくださっているというのである。つまり、そこでも主体はキリストご自身なのであって、そして徹底的に「私のため」「私たちのため」に働かれるのである。

赤木のような誤解を、ある意味ではっきりと否定する見解といってもよいだろう。さらに、ルターは、聖餐においてキリストは礼拝の対象というのではなく、むしろ、キリストがわれわれを犠牲としてささげられるとまで言う[3]。これは、物素に結びついた意味でのキリストの現在について語っているところではないが、この聖餐の私たちに対するキリストの主体性を明確に言い表すものであるといってよい。つまり、聖餐においては、神の救いの恵みにわたしたち一人一人を与らせるためのキリストのみ業が起こっていることを示しているのである。そうであれば、確かにそれは礼拝されることもありうるであろうが、しかし、むしろ、そのキリストの働きのリアリティを受け取ることが、キリストのリアルプレゼンスという表現の持つ意味だというべきであろう。

また、その現在の「どのように」は神秘という。

 

キリストの現在の「どのように」は、他のいずこにおいてもと同じように、このサクラメントにおいても、説明されえないままである。サクラメントにおいては見える媒介物が用いられていてさえも、この現在は隠されたままなのである。この地上の要素は、神的現在にふさわしい媒体であり、かつまた、これ、すなわち私たちの生活の日常的な物がすでに始まった新しい創造に参与してもいるのである。(UMG33B

 

この「どのように」を説明不可能なことというのは、カトリックのスコラ神学による実体変化の教理に反対しつつ、パンとぶどう酒がキリストのからだと血「である」ことを主張したルターの立場を示している。キリストがまことの人でありつつまことの神であること、あるいはキリストによる義認のもとで罪人である私たちがそのままに義人であるということと重ねて考えることができるだろう。パンとぶどう酒は、そのパンとぶどう酒であるままで、しかし、同時にキリストの体と血なのであるという信仰の神秘を表している。

さらに、そのキリストの現在の神秘とともにここで着目したいのは、このパンとぶどう酒が聖餐のつまり、復活のキリストの体と血に用いられているということが、新しい創造に対するこの世の物質の参与として描かれているということである。この終末論的な視点が明確に示されることで、聖餐の本質をより大きな神の救済の道筋のなかに位置づけるものとなっている。つまり、この聖餐の恵みの中には、単に罪の赦しというわたしたちの個人的な救いの次元ばかりではない、いわゆる終末の待望とまたそこでの全被造物に対する救い、つまり宇宙論的な救いの次元が開かれていることが示されているということになる。ルター自信にこのような視点がどれだけ明瞭であった言及は極めて重要といえよう。

 



[2] 赤木善光『宗教改革者の聖餐論』教文官 2005年 102ページ

[3] ルター「新しい契約、すなわち聖なるミサについての説教」第12巻 168ページ

アメリカの礼拝についての具体的な指針としての「恵みの手段の用い方」における聖餐理解 1

 (この論文は、2006年6月に行われた「牧師のためのルターセミナー」に発表したものだが、未発表のままであった。今、コロナ禍にあって、実践的に制約を受ける事態になり、私たちルーテル教会においてもさまざまに礼拝、そして、説教、聖礼典について問い直されている。そこで、この論文が何かの役に立つのではないかと思いここに掲載することとした。いささか古くなって見直しも必要かと思いつつ、手を入れる時間もないため、当時のままにすることをお許しいただきたい。)


  アメリカ福音ルーテル教会は、約30年にわたって愛用されてきたLutheran Book of Worship1978いわゆるLBWに代わって、2006年の秋Evangelical Lutheran Worshipという新しい式文を出版した。この式文の改定は長年の礼拝改革の取り組みの成果である。そして、この式文が編纂されていく過程で、教会全体においてこの取り組みを進めるのに大きな役割を演じた「礼拝のための諸原則」(Principles for Worship)が2002年に出版されている。これは、2001年の1月から2004年の9月までに出版された全10巻の礼拝改革運動を進めていくための文書・資料の中でもとりわけ重要なものといってよい。

この諸原則の項目内容は以下の通りである。

 

言葉とキリスト者の集まり

音楽とキリスト者の集まり

説教とキリスト者の集まり

礼拝の場とキリスト者の集まり

付録 恵みの手段の用い方

 学びと応答

 

この内容に示されるように、この「諸原則」はルーテル教会の「教会」理解、すなわち「キリスト者の集まり」という教会の基本的な理解を通奏低音としながら、礼拝の主要な要素を神学的に検証し、礼拝においてどのようにそれらが用いられ、働いていくのかということの諸原則をあらわそうとするものであることが分かる。キリスト者の集まりは、聖霊によって礼拝に集められ、そこでみことばを礼典によって養われ、またこの世へと派遣されていく、神の宣教の大きな働きの中に動的に参与するものと理解されている。つまり、この文書によって、今回の礼拝改革が、宣教に向かう教会、そこに集い集められ、また散らされていくキリスト者に与えられる礼拝という理解のもとに進められているということが分かるのである。

また、この「諸原則」の付録(Appendix)として収録された「恵みの手段の用い方」(The Use of the Means of Grace)はこの「礼拝のための諸原則」へ発展する基礎となった文献で、1997年のELCAの全国総会で採択されたものである。つまり、この新しい礼拝式文が出版される10年前にその改革を進める神学的指針のはじめの取り組みを行なったことになる。さかのぼるとさらにその6年前に、礼拝改革のための基本的な宣言を総会は採択しており、礼拝刷新の運動が教会全体の時間をかけた取り組みであることを教えられる。


この論文の目的はその指針の出発点にもなった、「恵みの手段の用い方」(the Use of Means of Grace, 以下UMGと略記。)という極めて実践的関心において書かれた指針の聖餐についての記述を検証し、ルターの聖餐理解とどのように共鳴しつつ現代ルーテル教会の直面している課題と取り組んでいるかということを論じようとするものである。

  その実践的な課題は、礼拝における聖餐の頻度とか、聖餐式において信徒奉仕者がどのように関わることがゆるされるのか、また小児陪餐の実際の課題などがあげられるだろう。これらは今日の日本のルーテル教会の直面している課題とも共通する課題である。また、アメリカの教会が実際に様々なレベルで他の諸教会とのエキュメニカルな交わりを形成していることや、世俗化した社会の中での教会またその宣教的課題があることもここに反映していることが分かる。それゆえ、日本のルーテル教会がこれから取り組むべき礼拝に関わるもろもろの課題に実際的に取り組んでいくため、多くのことを学び取っていくことができるわけだが、こうした実践の指針の中に、どのような神学的な理解が現れているのかということを、ルター神学という立場で検証することがこの論文の狙いとするところである。

 

1.   聖餐の主体

まず、ルター派の聖餐理解として、最も重要なことのひとつといってよい聖餐の捕らえ方が最初に示されている。「私たちの主イエス・キリストの食卓において、神は信仰を養い、罪を赦し、私たちを福音の証人へと召し出される。」(UMG31)つまり、この聖餐が、神によってなされるみ業であることをはっきりと述べるのである。

恵みの手段としてこの聖餐について述べているのであるから当然のことではあるが、神の恵みのみ業として理解される。そこには、この聖餐が人によるものではなく、神の主体的な恵みの業であること、つまり、犠牲であるよりも賜物であるという性格を確認しているといえよう。これは、ルターの聖餐理解が中世のそれともっとも明瞭な違いとして提示してきたところである[1]

確かに、この原則においては明確な言葉によって「犠牲」の側面を否定してはいない。しかし、その原則の背景として示されているところは、明らかに、そして積極的に賜物としての性格を強調している。

 

ここで、わたしたちはキリストの体と血とを受け、罪の赦しといのちと救いの神の賜物を受け取るのである。これらは、信仰を強めることのために信仰によって受け取られるべきものである。UMG31A

 

   この聖餐の行為的主体者としての、神の位置づけがはっきりとすることで、この聖餐が、神の恵みのみ言葉を結びつくものであることが示されてくる。

それゆえ、司式者としては、教会の一致とまた実際の神の働きを示すために、按手を受けた牧師がこの聖餐の司式を行うこともっとも適切であることを示している。牧師が特権的に、そのことによって聖餐式を行う特別な力を持っているというのではなく、むしろ、神ご自身が働かれるということ、また教会の普遍的なつながりをシンボリカルにも示すものとして、按手を受けた牧師がふさわしいと言っているのである。(UMG40A

そして、また信徒もその必要に応じて、様々な補佐をすることが求められている。(MG41)しかし、ここで重要なことは、信徒による聖餐式の執行ということについても言及されていることである。ある教会で長い期間にわたって聖餐式が行われないままであるというような状況は避けるように、一定の期間について、その特定の場所においてであればよく訓練をされた信徒が聖餐式を執行できるように、教区の司教による権威付けを行うべきとの見解が示されているのである。(UMG40

   ただし、こうした一連の表現には、ルターが示したような全信徒祭司性やすべての会員の持つ聖餐についての同等の権利が委託されるといったトーンは弱いように思われる。現実的に、主教職から司祭・執事という三職に特別の位置づけをもつ伝統的な聖公会との具体的交わりを持っているアメリカの教会の実践的な判断がここに盛り込まれているともいえるだろうか。

   しかし、いずれにせよこうした実際には礼拝においてと同様聖餐式の神の主体性、またその賜物としての性格が確認されることは、この聖餐の理解を深めていくための第一のことであるし、そのことから導き出されてくる一致の方向性を示していくものとなっていると考えられる。


追加:

本文中でも特に引用中をつけていないのだが、肝心の The Use of Means of Grace は、現在以下のURL で閲覧もダウンロードも可能となっている。


https://download.elca.org/ELCA%20Resource%20Repository/The_Use_Of_The_Means_Of_Grace.pdf

一応、その内容は以下のようになっていて、その一部、聖餐とところについてはタイトルを訳してみたので、参考にしていただければと思う。 

The Use of the Means of Grace 
内容
Preface: The Triune God and the Means of Grace
三一の神と恵みの手段
Part I: Proclamation of the Word and the Christian Assembly
 みことばの宣教とキリスト者の集まり
Part II: Holy Baptism and the Christian Assembly
 洗礼とキリスト者の集まり
Part III: Holy Communion and the Christian Assembly
 聖餐とキリスト者の集まり
Part IV: The Means of Grace and Christian Mission
 恵みの手段とキリスト者のミッション(宣教・使命)
この内容からも分かるように、この文書が「諸原則」の基礎的な文献となり、一貫したテーマが現れていることがすぐに見て取れる。
この中から具体的にはパートIII の聖餐についての指針を中心に紹介したい。
その中身は以下のような項目になっている。
31    聖餐とは何か
32    イエス・キリストが聖餐を与えられた
33    イエス・キリストはこのサクラメントに真に現在される
34    聖餐礼拝は、みことばと典礼的食事の両方を含む
35    聖餐式は毎週祝われる
36    聖餐式は多くの名で呼ばれる
37    聖餐は洗礼を受けた者に与えられる
38    初陪餐の年齢は多様でありうる
39    聖餐式はキリスト者の集まりにおいて起こる
40    牧師(教職者)が聖餐式を司式する
41    信徒奉仕者は多くの働きの中で仕える
42    準備が勧められる
43    聖餐は神のことばと祈りによって聖別される
44    パンとぶどう酒が用いられる
45    配餐は一致と尊厳を示す
46    司式者はそれぞれの礼拝において配餐を受ける
47    パンとぶどう酒は重んじて扱われる
48    教会は参加できなかったものに聖餐を準備する
49    この教会ではすべての受洗者が招かれる
50    ルーテル教会はキリストの食卓の一致を待ち望む

また、「礼拝のための諸原則」(Principles for Worship)も、同様にオンラインで得ることができる。



[1] V. ヴァイタ『ルターの礼拝の神学』岸千年訳 聖文舎 1969年 4382ページ