(この論文は、2006年6月に行われた「牧師のためのルターセミナー」に発表したものだが、未発表のままであった。今、コロナ禍にあって、実践的に制約を受ける事態になり、私たちルーテル教会においてもさまざまに礼拝、そして、説教、聖礼典について問い直されている。そこで、この論文が何かの役に立つのではないかと思いここに掲載することとした。いささか古くなって見直しも必要かと思いつつ、手を入れる時間もないため、当時のままにすることをお許しいただきたい。)
アメリカ福音ルーテル教会は、約30年にわたって愛用されてきたLutheran Book of Worship(1978)いわゆるLBWに代わって、2006年の秋Evangelical Lutheran Worshipという新しい式文を出版した。この式文の改定は長年の礼拝改革の取り組みの成果である。そして、この式文が編纂されていく過程で、教会全体においてこの取り組みを進めるのに大きな役割を演じた「礼拝のための諸原則」(Principles for Worship)が2002年に出版されている。これは、2001年の1月から2004年の9月までに出版された全10巻の礼拝改革運動を進めていくための文書・資料の中でもとりわけ重要なものといってよい。
この諸原則の項目内容は以下の通りである。
序
言葉とキリスト者の集まり
音楽とキリスト者の集まり
説教とキリスト者の集まり
礼拝の場とキリスト者の集まり
付録 恵みの手段の用い方
学びと応答
この内容に示されるように、この「諸原則」はルーテル教会の「教会」理解、すなわち「キリスト者の集まり」という教会の基本的な理解を通奏低音としながら、礼拝の主要な要素を神学的に検証し、礼拝においてどのようにそれらが用いられ、働いていくのかということの諸原則をあらわそうとするものであることが分かる。キリスト者の集まりは、聖霊によって礼拝に集められ、そこでみことばを礼典によって養われ、またこの世へと派遣されていく、神の宣教の大きな働きの中に動的に参与するものと理解されている。つまり、この文書によって、今回の礼拝改革が、宣教に向かう教会、そこに集い集められ、また散らされていくキリスト者に与えられる礼拝という理解のもとに進められているということが分かるのである。
また、この「諸原則」の付録(Appendix)として収録された「恵みの手段の用い方」(The Use of the Means of Grace)はこの「礼拝のための諸原則」へ発展する基礎となった文献で、1997年のELCAの全国総会で採択されたものである。つまり、この新しい礼拝式文が出版される10年前にその改革を進める神学的指針のはじめの取り組みを行なったことになる。さかのぼるとさらにその6年前に、礼拝改革のための基本的な宣言を総会は採択しており、礼拝刷新の運動が教会全体の時間をかけた取り組みであることを教えられる。
この論文の目的はその指針の出発点にもなった、「恵みの手段の用い方」(the Use of Means of Grace, 以下UMGと略記。)という極めて実践的関心において書かれた指針の聖餐についての記述を検証し、ルターの聖餐理解とどのように共鳴しつつ現代ルーテル教会の直面している課題と取り組んでいるかということを論じようとするものである。
その実践的な課題は、礼拝における聖餐の頻度とか、聖餐式において信徒奉仕者がどのように関わることがゆるされるのか、また小児陪餐の実際の課題などがあげられるだろう。これらは今日の日本のルーテル教会の直面している課題とも共通する課題である。また、アメリカの教会が実際に様々なレベルで他の諸教会とのエキュメニカルな交わりを形成していることや、世俗化した社会の中での教会またその宣教的課題があることもここに反映していることが分かる。それゆえ、日本のルーテル教会がこれから取り組むべき礼拝に関わるもろもろの課題に実際的に取り組んでいくため、多くのことを学び取っていくことができるわけだが、こうした実践の指針の中に、どのような神学的な理解が現れているのかということを、ルター神学という立場で検証することがこの論文の狙いとするところである。
1. 聖餐の主体
まず、ルター派の聖餐理解として、最も重要なことのひとつといってよい聖餐の捕らえ方が最初に示されている。「私たちの主イエス・キリストの食卓において、神は信仰を養い、罪を赦し、私たちを福音の証人へと召し出される。」(UMG31)つまり、この聖餐が、神によってなされるみ業であることをはっきりと述べるのである。
恵みの手段としてこの聖餐について述べているのであるから当然のことではあるが、神の恵みのみ業として理解される。そこには、この聖餐が人によるものではなく、神の主体的な恵みの業であること、つまり、犠牲であるよりも賜物であるという性格を確認しているといえよう。これは、ルターの聖餐理解が中世のそれともっとも明瞭な違いとして提示してきたところである。
確かに、この原則においては明確な言葉によって「犠牲」の側面を否定してはいない。しかし、その原則の背景として示されているところは、明らかに、そして積極的に賜物としての性格を強調している。
ここで、わたしたちはキリストの体と血とを受け、罪の赦しといのちと救いの神の賜物を受け取るのである。これらは、信仰を強めることのために信仰によって受け取られるべきものである。(UMG31A)
この聖餐の行為的主体者としての、神の位置づけがはっきりとすることで、この聖餐が、神の恵みのみ言葉を結びつくものであることが示されてくる。
それゆえ、司式者としては、教会の一致とまた実際の神の働きを示すために、按手を受けた牧師がこの聖餐の司式を行うこともっとも適切であることを示している。牧師が特権的に、そのことによって聖餐式を行う特別な力を持っているというのではなく、むしろ、神ご自身が働かれるということ、また教会の普遍的なつながりをシンボリカルにも示すものとして、按手を受けた牧師がふさわしいと言っているのである。(UMG40A)
そして、また信徒もその必要に応じて、様々な補佐をすることが求められている。(MG41)しかし、ここで重要なことは、信徒による聖餐式の執行ということについても言及されていることである。ある教会で長い期間にわたって聖餐式が行われないままであるというような状況は避けるように、一定の期間について、その特定の場所においてであればよく訓練をされた信徒が聖餐式を執行できるように、教区の司教による権威付けを行うべきとの見解が示されているのである。(UMG40)
ただし、こうした一連の表現には、ルターが示したような全信徒祭司性やすべての会員の持つ聖餐についての同等の権利が委託されるといったトーンは弱いように思われる。現実的に、主教職から司祭・執事という三職に特別の位置づけをもつ伝統的な聖公会との具体的交わりを持っているアメリカの教会の実践的な判断がここに盛り込まれているともいえるだろうか。
しかし、いずれにせよこうした実際には礼拝においてと同様聖餐式の神の主体性、またその賜物としての性格が確認されることは、この聖餐の理解を深めていくための第一のことであるし、そのことから導き出されてくる一致の方向性を示していくものとなっていると考えられる。
追加:
本文中でも特に引用中をつけていないのだが、肝心の The Use of Means of Grace は、現在以下のURL で閲覧もダウンロードも可能となっている。
https://download.elca.org/ELCA%20Resource%20Repository/The_Use_Of_The_Means_Of_Grace.pdf
一応、その内容は以下のようになっていて、その一部、聖餐とところについてはタイトルを訳してみたので、参考にしていただければと思う。
また、「礼拝のための諸原則」(Principles for Worship)も、同様にオンラインで得ることができる。