2014-03-30

日本ルーテル神学校の新しい歩みへ

 2014年、日本ルーテル神学校は新しい教育をスタートさせる。
 大学が、これまでの3学科から1学科5コース制へと改めるおおきな改革を実現させた。それに伴って、
 神学校もまた、新しい歩みをはじめていく。

           

 もちろん、これまでの神学校での神学教育・牧師養成の伝統を全く違うものに変更するということではない。むしろ、目指されて来た伝道・牧会者、またキリスト教指導者の育成を、現実に即しつつ新しい時代へ向けて具体化していくための新たな展開を目指していく。

 まず、これまでは、大学と神学校の一貫した6年間を神学教育として位置づけていたが、大学はこの改革においていわゆる神学教育のカリキュラムを神学校にすべて移して、大学レベルで学ぶように、キリスト教の基礎と文化や社会との諸関係、そして「いのち学」を軸とした「人間理解」「人間論」の方に傾斜させたカリキュラムとしている。神学校は大学を卒業した基礎力に上に4年間の神学教育を専門的に実現する。
 もう少し説明するなら、神学校の神学教育の専門性は今まで以上の教育の質をもつが、まずは大学レベルの教育機関において、よく学んできておいてほしいということだ。牧師になるということは、キリスト教信仰の深い理解と高い指導力が求められることはもちろんだが、現代社会の様々な課題について学び、現代を生きる人間と社会の課題、いのちの問題などに深い理解をもっていなければならない。その幅広い教養と専門教育を大学において修得することで、神学への取り組みを深めてもらい、実際の教会の牧会に実践的な力を発揮してもらえるように考えたと言ってよいだろう。
 そのために、これまでのように大学の3・4年を神学校の1・2年として二重在籍とする制度はとらない。神学校は神学校の4年間で、教会での奉仕者、牧師を養成するべく、多様な教会のニーズにこたえ、社会への宣教を担うことのために、集中した専門的なプログラムとして今一度整えていくことになる。

さて、そのこと以上に大切なこと。
 神学校は、教会全体が神さまによって生かされ、宣教を新たに展開していくことができるように、教会の働きに仕えたい。その宣教は、「ルーテル」においては具体的には教会での「伝道」と共に、「教育」と「福祉」の分野において社会全体を神様のみ心の実現へと整え、様々な困難をもつ人々への奉仕の業を担うことによって展開してきた。九州は熊本に拠点をおいて、教育機関や福祉施設を生み出してきたのは「ルーテル」の宣教の働きである。
 だから、神学校は単に牧師を養成するということにとどまらないで、この具体的な宣教を支え、新たな時代にむけて展開していく指導的な力を持つ人々を養成する使命を持っているのだ。教育は学校に任せ、福祉は施設に任せるというのではなく、いずれも教会の大きな働き(宣教)の一つなのだから、そのことに理解と責任を持ち続けられるように神学教育の中に新しい質とプログラムとを実現させなければならない。そして、それは牧師や現場で働く信仰者への継続的な教育をどのようにつくることが出来るかということでもある。

 そのためには、神学校は、教会、あるいはそれぞれの宣教の現場(学校や施設、幼稚園・保育園など)と共に、現代の宣教の課題を共有し、協力しながら神学を深め、教育の質を実践的な意味でも深めていくことが大切なこととなるだろう。
 例えば、「教育や福祉施設でのチャプレンシーとはなにか。」そうしたことも、具体的な課題の一つのなる。現場から今一度学び、神学をしていく。そんな研究・教育の機関として神学校を整えたい。
 
 


2014-03-29

2014年度 新しい「ルーテル学院」の始まり

今年のルーテル学院大学・大学院、日本ルーテル神学校の入学式は4月1日、火曜日の午後2時から。

           いよいよ、新しいルーテル学院の始まりだ!


今年度、ルーテル学院大学は大きな改革をすることになった。今までのキリスト教学科、社会福祉学科、臨床心理学科の3学科から人間福祉心理学科のもとにキリスト教人間学コース、福祉相談援助コース、臨床心理コース、地域福祉開発コース、子ども支援コースの1学科5コースになる。

   http://www.luther.ac.jp/reorganization/

 三つの学科はそれぞれの教育・研究を展開することで、教会の牧師やキリスト教の指導者、社会福祉士や精神保健福祉士、あるいはカウンセリングの働き、さらに大学院をとおして臨床心理士など、様々なニーズをもつ人々を支えていく専門職養成を目指してきた。
 今回の改革では1学科にすることによって、それぞれの専門的カリキュラムを総合し、学際的な学びを可能にし、また総合的な力をもって学生一人ひとりが将来の進路・キャリアを目指して学びを形作っていくことができるように工夫を試みたものだ。実際に対人援助の現場においては、個別的な専門性によってその人の必要に答えていくことはもちろんだが、そのニーズをもっている人の立場に立つと、それぞれのそのニーズそのものは多岐にわたるし、複合的なニーズを抱えている。つまり、自分の専門のみの知識では対応することは出来ない。そして、多様な専門職との連係・協働のためには、学際的な学びをすることが必要となってきている。

 学生の立場になって考えれば、大学に入る時点で専門についての知識もイメージも充分に形成されているわけではない。関心がある学びを続けたら、いったいどういう仕事に結びついていくのかということには具体的な将来像を結べないでいることもある。大学で学びながら考えるものだし、自分の適性についても気づきが与えられるものだ。
 そこで、1学科5コース制の体制をつくり、コース選択を2年次までに決定するという方法をとることにした。キリスト教の人間理解を基本として、いろいろなニーズをもつ私たちの社会のなかで、対人援助の専門職としての自己形成・キャリア形成を可能にする。そんな教育を実現したい。それが、新しいルーテルの形を生み出している。

  「誰かのために働きたい!」「何かの役に立ちたい!」そんな思いを形にするのが、ルーテルの教育だと思う。

 



2014-03-23

イースターヴィジルを

毎年、日本ルーテル神学校は日本福音ルーテル三鷹教会との共催で、イースターヴィジルを祝う。今年も、4月19日(土)の夕6時から平岡仁子牧師司式、李明生牧師説教でこの礼拝がまもられる。


 伝統的には、受難節の間に洗礼の準備を行い、このヴィジルで洗礼を与えられ、最初の聖餐にあずかることとされた。パウロが示したように、洗礼が主の死と復活にあずかる出来事であるのだから、この十字架から復活へと向かう「時」にこうした伝統が守られるようになったことも至極当然なことだろう。
 聖木曜日の洗足礼拝、聖金曜日の受苦日礼拝、そしてこイースターヴィジルはキリスト教会の中で、もっとも大切にされてきた一連の礼拝だといってよい。洗足や受苦日は週日でも古くから日本でも守られてきたと思うが、ヴィジルの礼拝はそれほど定着しているわけではない。もちろん、伝統的な教会としてカトリックと聖公会ではよく祝われている。
それでも、すべての教会でではない。ルーテルでは、おそらくこの三鷹のチャペルで行われているのが唯一だと思う。
 関心のある方は是非一度おいでいただいて、式文もお持ちかえりいただけると良いのでは。

この礼拝については、以前詳しく紹介したので参照されたい。
http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012_04_01_archive.html


2014-03-03

「ルターの礼拝改革と私たち」④

基調講演の最後の部分は、今日の礼拝改革の流れと、そこでの課題を考えた。礼拝は、現実の教会の宣教のコンテキストで具体的な課題がある中で、そこに必要な改革の目的を見いだしているからこそ、改革がなされていくものだ。初めにアメリカのルーテル教会での取り組みにおける課題を整理し、そして、いま私たちがどういう課題を見ているのかということを取り上げた。以下は、そのレジュメ。

4.私たちの礼拝改革へ
  ☆1920世紀 リタージカル・ムーブメント
  ☆現代の宣教の課題
   ELW アメリカルーテル教会の新しい式文改訂
   ①宣教というコンテキストに基づいた教会と礼拝の理解
   ②エキュメニカルな交わりと神学的な対話
   ③現代という文脈の中で、神学的な課題
   ④信徒の礼拝への参与についての考えと実践

現代日本に生きる私たちの教会は、どんな課題の前にあるか?

(1)自分のためだけではなく、宣教的な視点で
   次世代を考える
   日本の文化・社会のコンテキストに生きる人々への招き

(2)洗礼・聖餐の敬虔は日本においてどう生きるか。
   洗礼の意味
   聖餐式での具体的な課題 

(3)鍵の権能は
   罪の理解と赦しの宣言
   礼拝なかでの実践的な方法

(4)会衆に働き、会衆が働く礼拝
   礼拝への信徒の奉仕ということだけではなく
   礼拝を通した神の働きに生かされていく信仰

(5)教会の具体的な課題
   新しいメディア ⇄ 複数の教会を一人または複数の牧師によって
   小児陪餐・陪餐教育と初陪餐、堅信の実質的な意味
   聖週間の礼拝
   
(6)エキュメニカルな流れにおいて
   改訂共通日課の使用 (一致して「みことば」に聴く)
   具体的な交わり 共に礼拝をする

「ルターの礼拝改革と私たち」③

3.教会(聖徒の交わり)における礼拝
礼拝は、確かに神による私たち人間へのみことばによる救いのみ業である。しかし、神はそのご自身の奉仕において、人を用いられるのだ。教会はキリストのからだとして、この神の奉仕を自らのものとして負っている。だから、礼拝は神の奉仕である故に、信仰者が他者のために奉仕し、共にみことばの奉仕を分かち合い、取りなし合うものとされることであると理解されるべきだ。だから、具体的にはこの礼拝に集められた人々はそれぞれにこの神の礼拝の業に参与するものでもある。
(1)すべてを分かち合う・祈り合う
交わりについては最初の聖餐についての説教「キリストの聖なる神のからだの尊いサクラメントについて」のなかで強調されたものだ。キリストが貧しいものや苦しんでいる人々のすべてをご自分のものとされたことから、この交わりの中にあるものは、その苦しみや痛みを自分のものとして、祈り、行動する。つまり、この交わりの中で、キリストによって生かされる者たちは、互いにその喜びも悲しみも痛みも分かち合い、祈り合う。互いに重荷を負い合うものなる。そればかりか、世界中の困窮を自らのものとして祈り、取りなし、そして、この礼拝からそのものたちのために行動するものとされていく。それらは、この交わりの中心に私たちのために働くキリストご自身がおられ、私たちがそのキリストに結ばれ、キリストのからだとして用いられるからに他ならない。

(2)会衆としての礼拝への参与
ルターは礼拝において、具体的な会衆の参与を実現している。それまで、礼拝は聖職者のものだった。賛美も聖歌隊のみが歌うものであった。しかし、ルターは会衆の讃美歌を導入し、実際に多くの讃美歌を自らつくっている。ルターによれば、讃美歌は会衆の説教と言われる。神のみことばは歌うことでその人の口にのり、互いに聞き合うものとなる。また、礼拝を後にした後もそのみことばは歌として携えられる。こうして、みことばがその人のものとなり、その人はからだにみことばを刻み、憶え、そしてそれによって生かされることになるのだ。 
礼拝で、なにか役割を持つということだけが礼拝への会衆の参与なのではない。むしろ、礼拝全体において会衆が生かされ、みことばに生きる生き生きとした参与があることこそが礼拝の豊かさであると言ってよいだろう。
   
(3)他者のために
礼拝は、基本的に神の賜物として理解される。それがルターの礼拝理解の基本的な筋道だから、犠牲ということばはあまり用いられない。けれども、私たちが神からなにか受け取る為に捧げるべきものではないけれども、むしろ、いただいた恵みと賜物に対し、賛美・感謝を捧げることは当然のことである。私たちは、「われわれ自身とわれわれがもっているものすべて」をささげるのだ。実際、ルターもそのようにいい、私たちが何かを捧げるのではないが、キリストが私たちを取り上げ、感謝し、私たちをすべて神に捧げてくださるという意味で犠牲ということばが用いられるべきだという。
こうして、捧げられる私たちは、神の働きのために用いられる。ちょうど、取るに足りない二匹の魚と五つのパンが多くの人々を養ったように、私たち自身は、祝福され、多くの人たちの必要を満たすように用いられていくのだ。
だから、その意味で、集められた物質的な犠牲も、貧しく、困窮している人々のために用いるのである。

(4)新しい信仰者を得る
ルターは、礼拝に集う人々にとって、神の恵みがよく働くように礼拝が整えられるべきことを考えているが、同時に、「そこでこのような礼拝を、若者たちのために、また、たまたま来合わせた一般の人々のためにもつことは、最上である。」(『ドイツミサ』445
とのべる。つまり、礼拝を単にいま現在いる人々のためのものなのではなく、次の世代の人々の為にも、また初めてその礼拝に参加するような人々のためにこそ、整えられるべきとしているのだ。
礼拝の改革は、いま自分たちが満足していればそれで良いというものではない。むしろ、絶えず、新しい人々を招くために、まだ礼拝に来ていない人々がみことばによって生かされるように、これを整えることが必要ということだろう。

(5)地域にねざして
ルターはそれぞれの牧師に取り組みによって、礼拝が整えられるべきだとしていて、ルーテル教会の歴史においても決して標準的な、画一的礼拝様式をつくって来なかった。しかし、それはもちろん、礼拝がどうでも自由でよいというのではない。礼拝の基本的な神学が具体的な形を決定するものであることはいままで見て来た通りだ。その上で、工夫がそれぞれになされるべきである。それは、実際にその礼拝に集う人々のもつ文化のなかで洗練されるべきだと言ってもいい。
ただし、ルターは例えばドイツ語のミサをつくったといってもラテン語のミサをなくすことはしなかった。それは、世界中どこでも共通のことば、理解をもつことができるからだ。つまり普遍的なもの、そして、教会の一致、礼拝における交わりと理解を大切に考えていたからだといえよう。
礼拝は、それぞれの地域に根ざし、固有の文化を背景にしながらそこに生きる人々にみことばが理解され、受け取られるように工夫すべきであるのと同時に、普遍的なもの、時代や場所を超えた神の働きを共に受け取り、分かち合うエキュメニカルな交わりを実現し、またそれを先取的に、終末論的に実現していくものでもある。

   

2014-03-02

「ルターの礼拝改革と私たち」②

2.福音が働く具体的なかたち 

(1)説教、二つの聖礼典(洗礼、聖餐)
福音は、私たちにキリストの救いを約束し、今を生かす神の力に他ならないが、それは、具体的にみ言葉として働くもの。それは、みえないみ言葉とみえるみ言葉である聖礼典を通して私たちに働く。
①ルターは、「神の言が説教されなければ歌いも朗読も集まることもしないほうがましである」というほどに、礼拝の中心として神のことば、そして説教を位置づけている。説教は、単なる聖書の解説ではなく、私たちへの神の語りかけである。
②見えるみことばとしてのサクラメントもまた礼拝の中心。中世の教会は七つのサクラメントをもって生まれたときから死に至るまで信仰者の生涯を導く霊的ケアのシステムを用意した。ルターはこのサクラメントを定義し直し、イエスの命令と約束、そして具体的な物と結びついた形のものをサクラメントとした。しかし、そればかりではなく、例えばそれまで原罪の赦しのためとされてきた洗礼は、キリスト者の生涯にわたる神のゆるしと救いの始まりとされ、死と復活によって完成される終末論的理解をもって、全生涯にわたる神の確かな救いのサクラメントと理解された。この洗礼のサクラメントは信仰が私たち人間の業ではなく、神ご自身の働きとして私たちのうちに働き続ける恵みであることは、ルターにとっての救いの確かさを示すものと理解された。礼拝において、この恵みを確認できるとよい。
③聖餐については、中世のミサの改革として、もっとも大きな変化をもたらす物であったと言ってよい。司祭が人間の罪の償いのために繰り返し捧げるキリストの犠牲として理解されてきたミサ(聖餐)が、ルターにおいては、キリストご自身が私たちをゆるし、永遠の命へ生かすためにご自身を与えてくださる賜物として理解される。 ここで、私たち人間の側が捧げる行為の主体でなのではなく、神が私たちにキリストを与えてくださるという神の行為としてのミサの理解が示される。説教が非常に重んじられたとはいえ、主日の礼拝で聖餐が行われない礼拝をルターは考えていない。
具体的な形としては、聖餐の設定の言葉や祈りがこれまで司祭だけが神に対する言葉として祭壇に向かい語っていたものが、会衆に向けてはっきりと語られるようになることや、会衆がキリストのからだであるパンのみではなくキリストの血であるワインもいただく二種陪餐が実施されたこと、また、実体変化という説明をやめてただ、キリストの約束のことばに基づいたキリストの現在が理解されることや、この聖餐において教会の普遍的な聖徒の交わりが確認されることなど、ルターの聖餐理解は、実際の礼拝における実践的な改革となったし、また礼拝に集まる信仰者の敬虔に深く関わっている。
 
(2)悔い改めと罪のゆるし 
①ルターは、イエスがその宣教のはじめに「悔い改め」を命じられていることから初め懺悔もまたサクラメントに数えたほどに、サクラメントに準ずる大事なものとして、悔い改めと罪の赦しの宣言をキリスト者の信仰になくてはならないものと考えている。ルターの宗教改革の出発点とされる95ヶ条も贖宥券の効力の問題を論じながら、キリスト者の生涯が悔い改めの生涯であることを伝えている。また、洗礼の霊的意味はこの悔い改めとゆるしにおいて日々新たにされてくることを教えている。それゆえ、これが信仰者の生活の中に与えられることは重要である。
②神のみことばの本来の働きは福音であって、人を救い・生かすのであるが、好みことばは律法と福音という二様の働きをもって私たちに働く。その時、律法は私たちの罪を明らかにし、責め立て、福音に生きるよう導くのである。それゆえ、私たちがこのみことばに出逢う礼拝において、悔い改めと罪の赦しをいただくことは何よりも大切なことである。ルターは、当時のミサの習慣もあって、公的礼拝のなかで具体的に懺悔とゆるしの宣言をもつ式文を用意していない。しかし、公的な告白の式文は改革の進む中で考えられるようになったと言ってよい。
③ルターは、教会のしるしとして「鍵の権能」を大切なものと数えている。それは、教会のしるしであり、特に教会の職務として牧師の権能とされているわけではない。それゆえ、牧師がその働きを具体的な形で担うことはあり得るし、またそのために牧師は召され立てられると言ってよいが、この鍵の権能によって、一人ひとりの信仰者を罪から解き、むしろキリストに結ぶことが教会のわざとしてまもられることを考える道筋は大切なことだと理解される。
こうしたことを合わせ考えると、今日、この罪の悔い改めと赦しの宣言をどのように保ち、実践的に一人ひとりに恵みとして働く道をつくるかということは礼拝を考えるために重要なことだと理解される。

(3)教育的意味
ルターは、礼拝において「最も大きくて、最も重要な部分は、神の御言を説教し、教えることである」(『ドイツミサ』428)という。神のみことばは一人ひとりに対する語りかけに違いないが、そのみことばが確かにその人の人生に意味あるものとして切結ばれる為には、聞くものが深くそのみことばの意味に導かれる必要がある。礼拝は、それに参与するものに様々なあり方で教育的に働く。繰り返し歌われる式文の言葉、祈り、朗読される聖書、歌われる讃美歌。ルターは、「ドイツ語の礼拝では、素朴で平易なよい教理問答が必要である」(同424)と言っている。教理問答は、単に洗礼の準備会でのみ用いられるものではない。また、一つの形になったものだけをいうのではない。むしろ、みことばに向かい合う者の問いに、平易に答えるというそのやり取りこそが真の教育と言えるだろう。説教を含めて、礼拝のなかにその教育的意味が実現することが考えられることはみことばを一人ひとりに届ける為にもっとも重要なことであり、必要なことと憶えたい。

(4)その他 福音に仕えるために
神のみことばによる救いの働きが、たしかに人々に分かち合われるように、ルターは、そのことを非常に大切に考えている。それが当時の礼拝の「形」を整えていくことになる。例えば、聖書をドイツ語に翻訳することはそのための大切な働きの一つだ。それまで、聖書はラテン語に翻訳されたものしかなかったが、ルターはワルトブルク城にかくまわれている間にドイツ語への聖書翻訳を完成させている。また、礼拝そのものにおいても、それまでラテン語のみで行われていたミサをドイツ語によって民衆に分かるようにしたことは、礼拝が誰の為のものであるのかということをもっとも明瞭に示したと言ってよい。
さらに、ルターの書いたドイツ・ミサを読んでいくと、礼拝のなかにあった祭壇の配置に対し、聖餐を人々と共にいわうように聖卓を配置すること、さらにその礼拝空間のなかで、司式者がどこにたち誰の方を向くのかという所作、さらに言えば式服が華美になり過ぎることを戒めることなど、礼拝の基本的な考え(神学)が具体的な形になっていくように工夫されていった。