2013-11-30

『教会とはだれか』

神学生への推薦図書
石居正己の『教会とはだれか』。

                 


現代の日本の教会における宣教というコンテキストの中で、最も必要な神学的考察の一つの結実を著した書。ルター神学に立ち、「教会」という一つの視点を軸に書かれた良書。
礼拝、説教、サクラメント、罪の告白と赦し、職制、宣教、奉仕、教育。極めて実践的かつ本質的な教会理解を丁寧に論述する。信仰者としての私たち一人ひとりが、キリストの体であり、すなわち教会として生かされ、遣わされていることに気づかされる。

正己は専任として大学と神学校での教育にたずさわっている間は、なかなか書物をまとめることがなかったが、引退後、長年の神学研究をまとめて幾つかの本を書くことを計画した。その一冊目がこの本。引退してからも、実際には神戸の神学校や京都地区の牧会委嘱などが続き、十分な著作の時間をとることは難しかったようでもある。この本は引退後約10年の時を経て、ようやくまとめられたものだ。

神学校でも、何度も学習会や授業で取り上げられている。神学生には必読書の一つとして推薦したい。

2013-11-22

隅谷三喜男 『日本の信徒の神学』

日本人としてキリスト教を信仰する。そこでどんな問題に出逢っているのか。信徒にとって切実な課題を信仰の道筋の中で考える。日本の神学の世界は、どうしても西欧の神学の翻訳的な取り組みから抜け出せないところが多い。

隅谷氏の取り組みは意味深い。


               

第一部は、日本人とキリスト教という少し大きい視点から、10編ほどのエッセイがまとめられている。日本人がどういう宗教性をもっているか、またそういう日本人がどのようにキリスト教と出逢い、その信仰にどんな日本的な特徴が見られるのか、そうした問題に向き合って、歴史的なことから現代の問題にまでわたって自由に語り出される。
第二部も、〈日本の信徒〉の「神学」というタイトルで括られたやや短めの10編のエッセイをまとめている。視点は「信徒」が信仰を持って生きるその日常生活、具体的な生きられる信仰の姿に絞られた問題意識を語られる。信徒がどういう問題に出逢っているのか、そこでどんな風に信仰をいきるのか。生きるべきか。社会学的な分析の視点をもって、今日の日本の教会と神学に問題提起を行っている。
「神学」というものが生きられる信仰に奉仕するべきものとするなら、こうした「信徒」の視点は何よりも大切であるし、また「神学」が決して専門家集団の役に立つのかどうか分からないように難しい議論だけに終始するものであってはならないということを知らされる。
神学生は必読の書の一冊。

2013-11-19

『ルターの祈り』

1976年、当時の聖文舎から出版された『ルターの祈り』がリトンから復刊された。
信仰とは何かという問いに、最も単純にそれが祈りであると答えるルター。そのルターが折に触れて祈り、また人に教え、示した祈りが集められたものだ。


いっぱんに「祈り」と言えば、何かを願うこと、祈念すること、強く思うことと言った意味で用いられているかもしれない。しかし、キリスト教における「祈り」は神との対話である。ルターはその対話の相手である神に徹底して信頼を寄せ、その神のまなざしの中に自分が何者であるかを深く受け止めつつ、直面する問題についての助けを求めている。そして、究極的には神の憐れみと愛に生かされていく信仰を求めていると言えるだろう。
一つひとつの祈りのことばに目をとめると、その祈りが祈られた状況に思いをめぐらせる事が出来る。宗教改革者、あるいは偉大な神学者と言うより、一人の信仰者として素直な信仰のことばに教えられることは多い。

2013-11-18

「恐れずに」ルカ19:11〜27

説教「恐れずに」ルカ19:11〜27 (2013・11・10の保谷教会での説教)

 今日の聖書の個所は、イエス様がムナのたとえをもってお話しになられたところです。10人の僕たちが主人から商売をするように勧められてそれぞれ一ムナずつを与ります。主人の命令に聞き従い、ある者は10ムナ、別の僕は5ムナを儲ける。そして主人に報告をすると、その儲けに応じた報いを受け取ります。
 しかし、その中の一人は、
『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』といって、とっておいた一ムナを差し出した。すると、主人は、この僕をしかり、預けた一ムナを取り上げ、他の者に与えます。

 少なくとも、無駄になくしたのではなかったのだから、それなりに一ムナを評価しても良いのではないのでしょうか。商売というのは、儲ける者があれば、失敗する者もあるわけで、大きな借金を抱えることにでもなれば、それは返って主人に損失を与えることにもなる。この僕は、自分が商売の才能がなかったのではないか。危ない橋は渡らずに、預かったものを守るのが精一杯と思ったかもしれません。
 けれど、「それなら」と主人はいうのです。せめて銀行に預けておくべきだったと。イエス様の時代の銀行といっても、実際には両替人か、高利貸しの類いでしょう。あるいは王の財産を管理するなかで、銀行に似た働きがなされたようです。けれど、とにかくそうしたお金を専門に扱う仕事があって、それに預けることでわずかばかりの利益を生む方法があったのでしょう。自分が商売をせずとも、それを託し運用することも出来たはず。つまり、一ムナを預けられたものは、どのようにしてでも、それを運用すべきだと言われているのです。
 一人ひとり預けられる額は一ムナずつです。このたとえを聞く私たちは、マタイ福音書のタラントンのたとえと同じようになにかの才能が与えられているということのたとえとして聞き取ることも出来ますが、誰にも与えられた「いのち」を意味するように聞いてみることが出来るでしょう。皆に等しく与えられたいのち。それは、用いなければ、いのちを生きたことにならないのです。しまっておいては、だめなのです。

 この僕はそれを用いることができませんでした。だから、その一ムナは取り上げられてしまいます。彼は預かったその一ムナさえ、ついに自分のものとすることが出来なかったのです。なにも用いることが出来なかったからです。
 その理由は何かというと、「恐ろしかった」と言っています。一体、彼はなにを恐れたのでしょうか。
 その商売をすることが危険を伴うことでしょう。なにもかも失う可能性のあること。そういう危険をおかすことを避けたのです。失うこと、傷つくことを恐れる思いでしょう。
 しかし、本当に恐れたのは自分の主人のことでした。預けないものを取り立て、まかないところから刈り取る、その厳しさの故に彼は恐れた。それは、すべてを奪い取る厳しさを思わせるこの恐れは、死への恐れのようにも思われるのです。

 私たちは、神様から生きるようにと託されたいのちを生きるのに、この僕と同じように何かを恐れるのかもしれません。何かを目的にして、時間を費やし、人と関わり、自らを注ぎ出す生き方をすればするほど、傷つき、そして、私たちは自らを失うような危険のなかにおかれるのです。あるいは、また自分が何事かに取り組めば、必ずその評価を受けるということになる。どう見られているのか。否定的なまなざしを受けるのは不本意ですし、深く傷つくものです。それらはあたかも自分を失うことのように思われて恐れるのかもしれません。
 
 それはしかし、本当に神様によって託されたいのちを生きることになっていないのではないか。恐れて何もせずに、それを隠していては、もっていてももっていないのと同じことになってしまうのです。だから、恐れずに自らを注ぎ出して、危険を冒しても生きるように。このたとえは、厳しい言葉を通して、生きることの本質を伝えているように思います。
 
 しかし、それでも、私たちはやはり恐れるのです。自分の無力なことを知っているからです。10ムナ、5ムナばかりかわずかでも稼ぐ力がどこにあるだろう。そういう自分ではないし、運だっていいほうじゃあない。いったい、傷つくことも恐れずに、大胆に、自らを危険にさらす勇気はどこから来るのでしょう。

 福音書記者ルカはこの主のたとえによる教えを、ルカ自身に語られた慰めと励ましとして聞いています。ユダヤ人からも、ローマからも迫害を経験しているルカは、神様の救いを待ちわびる信徒たちとともに主のみことばに、いえ、主の働きそのものに励ましと力を受け取って生きているのです。
 その特徴はマタイのタラントンのたとえにはない一つの要素によって、見事に照らし出されています。その要素は、この僕たちに自分の財産を預けて旅に出る主人が、単なる旅に出たのではなく、王の位を受けることのためであったことが記されるのです。それぞれの働きの報告を受けて報酬を告げる王となって還って来た主人は、かねて王になることに反対する者たちに厳しい裁きを語ります。

 しかし僕たちは、王の僕であることにおいて守られています。ルカは、厳しい王の裁きのあることを示していますが、王の僕であるということこそが何よりも確かにそのいのちを保証するものであるということを示しています。僕であることの確かさから、恐れを取り除くように励まされるのです。

 では、一体どのようにして、王の僕であることなのでしょう。
 このたとえは、預かった一ムナを用いることによってのみ、王の僕であることが明らかになるというのです。
 主の僕として、一ムナを、このいのちを用いるというのは、信仰を生きることであり、また誰かにキリストの愛をもって働くことです。ザアカイがそうであったように自らを改めて人のためにもっているものを用い、注ぎ出していく。富める若者に言われたように、貧しい人々のために施し、あの善きサマリア人のように、困っている者があれば助ける隣人となること。主は、そのように自らのいのちを用い、主の愛の実りを求めておられる。
 私たち自身が、そのために自分を注ぎ出すことが出来るかどうか。きっと、私たちは、なかなかそうはなれないとたたずんでいるのかも知れないのです。だとしたら、私たちは主の僕ではないということなのでしょうか。私たちは、自らが何者であるか知らされてくるのです。
 
 けれども、ルカはまさにそこでこそ聞き取るべき福音が示されたのだと、この福音書を記しているのです。つまり、そのたたずむ私たちを主の僕として生かすように、取り戻してくださる。それが実は、私たちの主の愛なのです。それこそが、私たちの主イエスのこの旅の意味なのです。
 イエス様は、これからエルサレムに入られる。このエルサレムにおいて待っているのは受難の出来事です。そこで主は裏切られ、裁かれ、十字架にいのちを奪われる。その苦しみ、その痛み、恐れと不安のすべてを主ご自身が生きてくださるのは、私たちの深い恐れを自らのうちに抱きしめてくださるためです。

 そうして、まさに私たちが傷つき、恐れ、たたずむその場所に主が共にいてくださることになったのです。私たちが生きること、いのちを注ぎ出すこと、ある働きを担うこと、人を愛すること、小さな手を差し伸べる時、そのどんな時にも恐れ、また傷つく、その私たちの心を確かにご自分のものとして、私たちを捉えてくださる。支えてくださる、そして、私の背中を押してくださる。私を主のものとして生かしてくださる。

 福音書を書いているこのルカは、あの十字架を前にして、恐れ逃げ出した弟子たちが新たに生かされた奇跡を見て来ました。その恵みの奇跡をルカは福音書とそして使徒言行録のなかに書き記しています。主を裏切って逃去ったあの弟子たちが、あの恐れのうちに一つの部屋に閉じこもり打震えていた弟子たちが、ゆるされ、励まされ、主の者としていかされ、宣教の働きに生きたのです。おそらく、ルカは、ルカ自身にもこの主の力、勇気、生きる恵みを受け取ったに違いありません。だからこそ、分かち合いたかったのです。このたとえが語られた後の主イエスの旅こそ、私たちを決して見放すことなく、主の僕として生かすための旅であること、そうして主の僕とされる私たちに、恐れず生きるように強く招く主の招きであることをルカは聞き取っているのです。
 
 私たち自身のうちには見いだされない、生きる勇気、信仰の力、注ぎ出す愛の力は、ただ、主がこの私に働いてくださって私を主の者として生かしてくださることによるのです。
 そうして、あなたたちは主の者なのです。あなたたち自身のことについては、何一つ心配する必要はありません。だから、恐れずに、あなた自身のいのちを用いて生きるようにと招き、私たちを生かしてくださる。その主の招きを聞いて、その励ましの中、恐れずに、私たちに与えられた一ムナを、このいのちを用いていく者とされたいと思うのです。

2013-11-11

フロマートカ『神学入門ープロテスタント神学の転換点』

プロテスタント神学を学ぶのであれば、20世紀神学をまなばない訳にはいかない。しかし、この20世紀神学を学ぶには19世紀自由主義神学を知らなければならない。



いわゆる危機神学とも呼ばれたバルトを筆頭とした20世紀初めの神学潮流は、カント以降の理性主義・合理主義を背景とした近代的知性に宗教、すなわちキリスト教信仰の存在意義を「人間」主体において位置づけた自由主義神学の大きな崩壊とそれへのアンチの姿勢のなかで形成されて来た。その神学の転換を見つめ、あの第一次世界大戦で傷ついた人々、また牧師や神学者のなかで、どんな神学的営為が営まれたのか尋ねるには絶好の一冊だと言えるだろう。
 ルターやカルヴァン、ツヴィングリあるいはウェスレー、クランマー。プロテスタント神学の祖に学ぶことは多い。しかし、現代神学の課題にしっかりと向かい合うためには、二千年に及ぶ神学の歴史はもちろんだが、とりわけ私たちの神学の足場を知るべきだろう。21世紀。これからの神学を切り開くために、20世紀神学の大きな転換を学ぶことは欠かせない。そのための入門書として、是非一読をすすめたい。

2013-11-01

ティリッヒ『永遠の今』 神学生の必読書④

 パウル・ティリッヒの三つの説教集のうち最後に出版されたもの。出版後、比較的早く日本にも翻訳が紹介されたものだ。

永遠の今 (1965年) (新教新書)

永遠の今

 パウル・ティリッヒは、組織神学三巻の著作をもって、やや難解な存在論的な神学を展開したことで知られる。その哲学的な言葉遣いは、おそらく関心を持つ私たちの気持ちを萎えさせるかも知れない。しかし、彼の神学は、私たち人間の生きる状況を深く掘り下げ、本来あるべき姿と実際の姿の差異を本質に対する実存の窮境であると見定めながら、そこに問われると問いに聖書のメッセージがどのように答えているのかを深く尋ねる。その相互の関係を「相関の方法」と呼び、新しい神学の形を提示したのだ。
 19世紀自由神学の流れと新しい20世紀の神学的な営為を結びつけようとしたと言ってよいだろうか。シュライアマッハ以来のキリスト教を人間の宗教性の中に位置づけ、意味付けなら、合理主義・理性主義の近代の流れなかで信仰の価値を求めて来たあり方に対して、K・バルトはその欺瞞と人間に対する楽観主義に反対し、神のことばに出発点を置く神学を改めて掲げた。おそらくティリッヒは、そうした歴史の流れをふまえつつも、人間が本当に神のメッセージの前に立つということが起こるためには、メッセージを受け取る私たちのなかに、本当にそのメッセージが必要であるということを掘り下げておく必要があるし、また、必ずその答えを求める人間実存があることを捉えていなければメッセージは届かないという問題意識が彼独特の神学を形成させている。
 今、21世紀を迎えた私たち、改めて、この「相関の方法」を深く学ぶ必要があると思う。難解な神学という印象だが、じっくりと説教集を読むことで、深く教えられることがある。既に絶版だが、古本で手に入れたい。神学生は必読。