2010-09-19

キリスト者の死生観 III

(JELC三鷹教会みどりのセミナー再録)

1. キリストと共に
どんなに信仰があっても、だれも死を逃れることはできません。しかし、どのようにこの死を生き抜くか、そこにこそ信仰の働くところがあるといってよいでしょう。死を避けるのではなく、確実にやってくる死を克服する信仰は、死が私たちにとって最後的な言葉ではないと知っているのです。キリスト教は、私たちが死を克服することはキリストの十字架の死と復活にのみよることを伝えてきました。ですから、私たちは死を考えることに増して、このキリストの十字架と復活の出来事に出会い、生かされるということが肝心なことなのです。それは、具体的に礼拝を中心とする信仰の生活の中で与えられてくる出来事なのです。
私たちの信仰生活は、洗礼によって始められます。洗礼はキリストと共に死にキリストともに復活の命に与ることだといわれます(ローマ6:4)。ルターは『小教理問答』において、洗礼は一回限りだが、その霊的意味は私たちの日々の悔い改めとともに与えられ、終わりの時あるいは私たちの肉の死によって完成されると教えています。私たちが、実際に罪に死んで復活の命に結ばれて生きるようになるのは、御国の完成の時まで待たねばならないわけですが、むしろ、私たちは自分の今の現実にもかかわらず、神様の御業に生かされていく希望を持つことが許されていると知りたいのです。また、聖餐において、私たちはキリストの体と血をいただき、主と一つとされて生かされます。同時に、御国の祝宴を先取りしつつ、私たちは生きている者も、すでに主に召された者も共に主によって豊かに祝福された交わりにあることを知るのです。そして、何よりも語られる御言葉によって私たちがキリストに導かれ、癒され、慰められ、キリストと共に生かされる出来事の中で、私たちは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)といわれるような信仰の命へと招かれているのです。

 

2. 死への備え
実際に死を迎える時、ルターは何より自分の与った礼典に立ち返り、そこから慰めを得るようにと教えます。私たちは自分の信仰の確かさに立つことは出来ないからです。ただ、神様の御業に信頼をすることしかありません。キリストは死に対し勝利されたのですから、私たちもその勝利に与ることが約束されているのです。しかし同時に、キリストはご自身の受難と死に対してどこまでも従順であられました。キリストの勝利はこの従順な姿の中に、そしてまったく望みの見えないことの中に隠されていたのです。神様の御業への信頼は、まさに勝利への確信と、そしてまた徹底した従順さにおいて、死を克服する力となります。けれども、たとえば椎名麟三は洗礼を受けた時に「これで自分は死にたくない、死にたくないと、じたばたして死んでいってもいいことになった」と言ったといわれます。つまり、私たちは自分が必ずしも強く雄々しくある必要はないのです。すべては、神様が引き受けてくださっているのだから、どんな自分もありのままで神様にゆだねてよいというのが、キリストに信頼することなのです。
具体的には、いつその時がくるかわからないわけですから、準備のしようはないかもしれませんが、逆にいつでもその時が来るものだと備え、御言葉を聞いていくことが大事です。ルーテル教会が、今の式文の最後に歌うシメオンの賛歌は、その礼拝で御言葉を受け、主の救いを見た私はいつでもこの世を去っていくことができるという信仰の告白を表しています。そして、同じ賛歌が葬儀においても歌われます。つまり、毎週の礼拝において、私たちは終わりの時への備えを与えられているということでもあるのです。
もし、病気や体の状態などから、「その時」を近くに感ずることがあれば、特別に注意をしておかなければならないこともあります。この世のことをきちんと整理していくことも一つです。また、とりわけ牧師や教会員とのつながりは大切です。家族や近しい者には、普段から「もしもの時」にはどうするか伝えられるように工夫しておくとよいと思います。教会は、また、いつでも祈りとまた実際的な手だてとを持ってその時に適切に対応するのです。
葬儀がキリスト教式で行われなければ救われないなどということはありません。救いについては、本人と神様との関係の問題ですし、最終的には神様にゆだねる以外にはありません。ですから、葬儀の形式にこだわる必要はないわけです。しかし、キリスト教式で行われる時には特にも信仰を持たない人々にも慰めと希望が分かち合われるように、具体的な配慮も必要でしょう。信仰において不必要に思われることでも、キリスト教の信仰があいまいにならない限り、キリスト教的な方法に変えたり、説明をくわえたりして、できることは大胆に取り入れてもよいと思います。献花は焼香に代わるものとして、日本のキリスト教葬儀の中に定着していますし、弔辞に代わり、故人の思い出を話したり、遺族に対する感謝や慰めを語ったりすることも一般的になっています。

 

3. 異なる信仰の下にあるとき
日本においての一番の問題は信仰を持たないで亡くなった家族についての問題です。信じるための機会が得られなかった者たちについてはもちろん、チャンスはあっても、受け入れられなかったままにその生涯を終えることとなった者もいます。いったい、その人たちは救われないのでしょうか。
キリスト教は「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)と教えています。また、すべての人が等しく救いに与るということを無条件に教えることはありません。キリストによる救いをゆるがせにすることもありません。それらは、しかし、信じることによる救いへの強い招きの性格を表しているのです。神はひとりの滅びも望まれません(IIペテロ3:9)。また、すでに世を去った者についての救いを語るときに、その「救い」とはどういうことが考えられているかということも問題の一つです。キリストにある救いは、信じるものに生きることに対する勇気と希望を与え続けるものです。その希望は死によっても打ち砕かれることのない希望なのです。死んだ者の救いについては、神様にゆだねること以外にありません。その救いは、終末の時、つまり神の国の完成のときにのみ知らされるのです。私たちに確かなことはイエス・キリストによる救いの約束のみです。そして、イエス様ご自身が絶えず心を配ってくださるのは、救いから遠いと考えられていた人々であります。つまり、罪人の救いこそが福音なのですから、私たちは信じることなく世を去った人々の救いを安易に語ることは控えなければなりませんが、これを積極的に退けることは正しいこととは言えないでしょう。教会がキリストの体であるのであれば、この体はどういう人々のところへと出て行き、誰に救いの喜びをもたらすのか。そういう脈絡の中で、亡くなった人々についても考えていきたいものです。
具体的には、異なる信仰の下にあった人々についても、キリストのとりなしを信じ祈りつつ、その人を通しても与えられた神様の恵みを覚えることを、教会的脈絡の中に位置づけることを考えてよいように思われます。何を信じていてもよいのだというのではなく、どんな私たちであっても、神様は恵みと愛をもって招いてくださることを示したいものです。また他宗教に対する寛容と敬意を表すことは、自らの信仰を証することにもなるのです。

 


4. 神の国の証して
私たちが自分の死をいかに克服し、喜びと希望に生かされるか。それは、私の救いの問題です。しかし、この福音は主イエス・キリストの罪と死と悪魔に対する戦いをともに戦い、その勝利に与ることなのです。つまり、これは私の救いであると同時に、この世に与えられる救いの出来事と切り離して考えることは出来ません。ですから、私たちは自らの罪に死んで、キリストの復活の命に生かされつつ、来るべき神の国を証し、正義と公正、また平和を求め祈り、その喜びを分かち合うよう求められているのです。そのようにして、他者の死について私たちが心を砕くことこそ、キリストの命を生きる信仰者の働きなのです。

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