2010-09-19

キリスト者の死生観 I

(2003年JELC三鷹教会みどりのセミナーで行った連続勉強会の再録)


1. 現代の「死」の論議
十数年前まで「死」について語ることはほとんどタブーでした。今日でもおそらく基本的にはそう変わらないのかもしれません。しかし、たとえば「ホスピス」を中心とした終末期医療また医療技術の発展とともに「死」の問題はにわかにさまざまなメディアで論じられるものとなりました。「臓器移植」とともに「脳死」問題が論議されるようになったのは、ここ十年のことです。かつては、家の中で年老いた者、病気になった者は死んでいきました。そのように身近な出来事であった「死」を、病院や特定の施設、一連の葬儀システムの中に追いやってきたのが現代です。その一方で、高齢化社会・医療技術社会を迎えて、「死」の問題が改めて論じられるようになってきているのです。そして「死」を論じながら、「いかに生きるか」ということが、実は同時に問題になっているのが現代の「死」をめぐる状況だといってよいだろうと思うのです。その課題に、答える議論がどれだけなされているでしょうか。

2. 日本人の死生観とキリスト教
たとえば、梅原猛や山折哲雄などは「日本的宗教性や霊性」の現代的な意義を主張し、日本的死生観が西欧的な人間中心あるいは個人主義的世界に必要とされているのだといいます。さらには、他人の臓器をもらってまで生き延びようとするのは、「聖餐(キリストの体と血をいただく)」や「聖心信仰(キリストとの心臓交換)」といったキリスト教世界から生まれたもので、日本人の心にはそぐわないとまでいうのです。
このように「日本的なもの」と、「西欧的なもの」あるいは「キリスト教的なもの」とを単純化し、対比させて論議をすることには注意が必要です。しばしば、それは一つの意図に基づいて描かれていて、客観的な批判に耐えることの出来ないものです。「臓器移植」の問題を「他人の臓器を取って生きる」と単純化はするのはまったく誤った考えです。むしろ、自分の一部を捧げて一人の命を助けるという点を見るならば、個人主義というのとはまったく違った面を語ることになるはずです。
確かに、日本人には独特の感じ方、考え方があります。自然の中のありとしあらゆるものの中に命(タマ)があり、それは大きな流れの中に循環していると考えられています。個人の命が終わったとしてもそれですべてが終わりということにはならない。むしろ、自然のままに生きて、自然のままに死んでいこうとするのが日本人のありようで、その中で、自然全体の大きな命の流れのなかに一つとなっていくという考えがあります。「大河の一滴」(五木寛之)という表現は、見事に日本人の死生観を言い表していると思います。他方で、日本人は家を中心とした共同体に生き、また死んでいくという気持ちがあります。日本人は、死んだ者も生きた者も一つの共同体の中に含まれていて、死はその身分を変えるだけで、絶対的なものとはなっていないのです。仏壇にある祖先の「タマ」も食事を共にするし、家の者はその仏前にいろいろな報告もするのです。「生まれ変わり」といわれることとか、名を継ぐという習慣も、命の連続性を共同体の中に持っている事をあらわしています。生きている者は死者をよく「供養」をし、死んだ者の「タマ」は生きている者を「守り」、「祝福」する。「おじいちゃんが守ってくれている」というのは当たり前に聞かれる言葉です。
そうした日本人の心からみると、キリスト教は人間中心で、個人主義的ということになるのでしょうか。キリスト教は、神中心であります。確かに人間は神様の言葉を聞くものとして特別な存在ではありえますが、聖書は人間を他のすべてのものとともに神の被造物としています。決して、人間中心ではありえません。また、キリスト教は、神の民であることを旧約の歴史に引き続いて大事に考えてきています。隣人に仕える、愛の信仰は決して個人主義ではありえません。

3. キリスト教の「死」の理解の基本
それでは、キリスト教は「死」あるいは「死者」をどのように理解しているのでしょうか。キリスト教では「死」について大きな二つの理解の筋道をもっています。
第一に、「死」は人間の被造物性を現しています。永遠なるものは神様以外にはありえないのです。古代ギリシャの考えは「霊魂不滅」で、人間は永遠な魂を持っている存在と考えられました。キリスト教はそのように考えません。神様に造られ、与えられたこの世での命を生きることにこそ意味があり、尊いものなのです。けれども、その命は、神様のように無条件に永遠な存在ではありえないのです。「死」は土のチリから造られた人間の有限性・被造物性を意味しているのです(創世記2:7)。これが、聖書的な意味での「自然死」の考え方であります。人間が、年老いて死ぬということはごく自然な出来事として考えられているという側面があるのです。
第二に、キリスト教においては「死」は人間の罪の結果として理解されてきました。パウロが「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:22)といっている通りです。私たち人間は神様に「よきもの」として造られたはずでしたが、神様に逆らい、罪を犯しました。それゆえに、「楽園」からは追放され、「死」を恐れて生きるものになっています。人間の罪こそが被造物全体を「虚無」に服せしめたのです。
この二つの考えはそれぞれに異なる強調点を持っているといえます。しかし、共通するところは、神様との関係の中で私たちの命が考えられているという点でしょう。そして、とりわけ第二の点、つまり罪とのかかわりの中で私たち「死」を考えることが重要な問題になっているのです。

4. 「生きること」と「天国」
精一杯生きたなら、その行き着く先として「極楽」「浄土」を無条件に望む日本人に限らず、死後に行く場所として「天国」が思い描かれるのは人間の自然な願いでしょう。聖書にも、「天国」が語られています。けれども、キリスト教でいわれる「天国」は、わたしたちが死んだ後に行く場所として描かれているのかどうか、よく注意しておく必要があります。イエス様は「神の国」とか「天国」ということばで、神様と私たち人間との関係をお話になられています。生きている者も、死んだ者も神様との正しい関係の中にあることで「天の国」にあると考えられているのです。
つまり、大事なことはまず私たち一人一人がどのように神様とのかかわりの中に生きているかということになります。そして、聖書は私たちの神様との正しい関わりを、イエス様を通して与えられるものとしています。天国は私たちが死んだ後に行く場所なのではなく、イエス様とともに私たちのところにやってきた出来事なのです。イエス様は言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25・6)。つまり、「死」はイエス様との交わり・一致において、克服されたものとなるのです。生きることの結果「天国」に行くのではなくて、「天国」を生きるのです。
そして、このイエス様との関係の中で私たちは、第一に罪の赦しが与えられるのです。そして、このイエス様とともにあることで、私たちは神様と隣人に仕える者、愛する者とされるのです。そのような神様の出来事が恵みとして与えられるところに、「天国」があるといえるでしょう。キリスト者の死生観は、まさに「キリストの愛に生かされる」ところにこそあるのです。
  

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