(JELC三鷹教会みどりのセミナーの再録)
1. 「私の死」
私たちが「死ぬ」ということはある意味では当たり前のことですが、これを当たり前と言ってすませていることはできません。トルストイが短編『イヴァン・イリイチの死』で見事に描き出したように、「人間はだれでも死ぬ」ということと、「私が死ぬ」ということとはまったく別のことなのです。そして、実際私たちは皆、「私が死ぬ」というこの抜き差しならないことに直面しているのです。その「抜き差しならなさ」に、日本的霊性・宗教性は答えているのでしょうか。つまり、やがて自然の命の流れのなかに帰るという考えや、共同体の中に形を変えて行き続けるというような死生観は、この「私の死」に救いを与えているのでしょうか。
この問題は、簡単に答えを出すことの出来ない問題です。しかし、少なくとも日本的霊性においては「私」という存在を自然の中に、あるいはまた共同体の中に消していく傾向があります。そうすることで「私の死」を超えていこうとしているといえるのかもしれません。けれども、それで「私」の問題は本当に慰められるでしょうか。慰められない「私」は、「怨霊」になる以外にないのかもしれません。
2. 罪と死
パウロ以来、(あるいはアウグスチヌス以来)もちろん、キリスト教の歴史の中ではもっぱら「死は罪の値」として考えられてきました。しかし、その伝統にあっても「私の死」を直接に神の裁きとは呼ばないで、「罪によって神から離れた魂は肉体を治める能力を失い、その結果として魂が肉体を分離するのが死だ」という説明をしています。それは、たしかに「死」を「罪の結果」としていますが、その切実さはありません。
宗教改革者ルターは、こうした伝統の中で、ある意味最も深く「私の死」の問題に取り組んだ一人といえます。それは、ルターが「自分の死」を神様との直接的な関係の中で見ているからです。つまり、ルターによるならば、「私の死」は第一に「神の怒り」として理解されるのです。肉体からの魂の分離、つまりいわゆる肉体の死は、死の本当の姿の影に過ぎません。死の本来の姿とは、私の罪に対する神様の怒りであり、裁きなのです。つまり、神様との人格的な関係の中で、そして、「私の罪」との関わりの中で、死の問題が問われているのです。それはあくまでも、「私」の問題なのです。消えてしまう存在に過ぎない「私」なのではなくて、裁かれるべき「私」の問題を見据えています。神様の前に、私の存在はゼロでなく、マイナスなのです。そんな「私」の存在こそが実は私の深い嘆きの源です。ですから、この問題は私の「死」によって解決はしないのです。神が裁きたもうのです。
しかし、神様は裁くだけのお方ではありません。「私」をまた裁くことにまして、愛してくださいます。それがイエス様の十字架の愛の御業にほかなりません。どうしようもない「私」が、かけがえのない「私」として愛され、生かされる。それが十字架を通して与えられる「赦し」の奇跡なのです。私たちはこの赦しの中でこそ、「私の死」に対する救いと慰めを与えられるのではないでしょうか。もし、私たちがこの「赦し」を知らないなら、たとえ肉体は生きていても、恐れと不安、また悲しみと嘆きの中で、喜びのないものとならざるを得ないのです。
3. 悪と死
それでは、キリスト教は「死」あるいは「死者」をどのように理解しているのでしょうか。キリスト教では「死」について大きな二つの理解の筋道をもっています。
第一に、「死」は人間の被造物性を現しています。永遠なるものは神様以外にはありえないのです。古代ギリシャの考えは「霊魂不滅」で、人間は永遠な魂を持っている存在と考えられました。キリスト教はそのように考えません。神様に造られ、与えられたこの世での命を生きることにこそ意味があり、尊いものなのです。けれども、その命は、神様のように無条件に永遠な存在ではありえないのです。「死」は土のチリから造られた人間の有限性・被造物性を意味しているのです(創世記2:7)。これが、聖書的な意味での「自然死」の考え方であります。人間が、年老いて死ぬということはごく自然な出来事として考えられているという側面があるのです。
第二に、キリスト教においては「死」は人間の罪の結果として理解されてきました。パウロが「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:22)といっている通りです。私たち人間は神様に「よきもの」として造られたはずでしたが、神様に逆らい、罪を犯しました。それゆえに、「楽園」からは追放され、「死」を恐れて生きるものになっています。人間の罪こそが被造物全体を「虚無」に服せしめたのです。
この二つの考えはそれぞれに異なる強調点を持っているといえます。しかし、共通するところは、神様との関係の中で私たちの命が考えられているという点でしょう。そして、とりわけ第二の点、つまり罪とのかかわりの中で私たち「死」を考えることが重要な問題になっているのです。
4. キリストによる救いは、キリストとの一致によって
「死」を考える時に、私たちは本当に「私」の問題に気付かされます。そして、その「私の問題」は私が死によって消え行くことなどでは解決されない問題なのです。私たちが本当に赦され、「私の死」が克服されなければなりません。「私」が愛されていること、「私」の存在に意味があることを、キリストの十字架と復活の出来事において知らされなければなりません。私たちは自分自身がやがて消え行くむなしいものと思って、なお今を生き抜くことは出来ないからです。
ルターは、もう一つ大事なことを言っています。すなわち、私たちは、このキリストの十字架の恵みを、ただ自分自身の苦難と十字架をとおしてのみ受け取ることができるのだというのです。つまり、それは自分のためではなく、他者のために生きること、神様を証すること、その苦しみの中でこそ、キリストを受け取っていくことになるということです。キリストと一つになること。しかし、それは具体的な信仰の生活の中で神様から私たちに与えられることなのです。そしておそらく、自分の意図に反してさえも与えられてくるのです。
そうしたキリスト者としての信仰の歩みを通して、私たちは実際にキリストの恵みに与り、「私の死」を克服するのです。つまり、自分に死んで、キリストに生きることが私たちに実現されていくのです。
5. 実際の「死」を迎えて
私たちは、信仰にあって死を迎える時、その「死」はもはや私たちを滅ぼす力ではありません。ですから、その死は「眠り」にたとえられます。私たちが朝起きたときに、眠っていた時間を知らないように、この眠りとしての死から私たちは復活の命に覚めるのです。そして、目覚めた時は天の祝宴が用意されています。信仰にあるとき、私たちの死はもはや、不安や恐れの中にはありません。そのような死を死ぬことは「祝福された死」です。
ルターは具体的に、こうした「祝福された死」を死ぬために、目前に死が迫ったなら、「死」そのものを見ず、キリストを見るように勧めています。「祝福された死」は私たち自身によるものではなく、キリストが分かち与えてくださるものだからです。
それでは、その眠りの間、私たちはどこにいるのでしょうか。私たちは、それがどこか知りません。ただ、神の言葉に休んでいるということがいえます。そうであれば、私たちはキリストを証する神の言葉とともに、死んでも生き、働くものであるかもしれません。実際、すべての聖徒たちはキリストとともにいつでも慰めを人々に運んでいるといわれるのです。死んで「証人」に加えられるということは、まさにそうした意味であると思います。
私たちは、あの罪人と共に「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいる」と約束されて、死を迎えるのです。それは、キリストとともにある永遠の命の約束なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿