2017-08-28

ルター研 宗教改革500年「秋の講演と音楽の夕べ」

ルター研究所の秋の講演会
今年は、宗教改革500年記念として、「講演と音楽の夕べ」を企画している。
場所は、日本福音ルーテル東京教会、日時は、10月31日午後7時から
宗教改革記念日の夜に贈る、特別企画だ。例年はこの日に東教区の記念礼拝があるが、今年は礼拝のほうは11月4日の、これまた特別な企画で行われる。これは、別にご案内したい。とにかく、この記念日に、講演と音楽で改革の意義を深く味わいたい。


講演は二つ。竹原創一氏「95ヶ条の今日の意味」と鈴木浩所長「宗教改革の核心」
ルター研究の第一人者のお二人だ。
加えて音楽は、
J・S・バッハのカンタータ80。ムジカ・サクレ・トウキョウ(山田実指揮)。


2017-08-23

シンポ「宗教改革とポスト近代」

宗教改革500年を記念する行事が、この秋には目白押しだ。特にプロテスタント系の大学や学術会議、教会では、競っているわけではないだろうけれども、同種の講演会や集会が組まれている。

それぞれに興味深いし、特に海外から招くこととなっているその分野研究での世界的第一人者と呼ばれる先生方の講演会は、普段なかなか聴くことができないので、是非にこの機会を生かして学びを深めたいものだ。

しかし、やはり私たちはこの日本においてこの歴史的な節目を迎えているという特殊性の中から思索を深めるものでありたいと思う。その意味でも、各種の研究者らが協働で企画を考えたりシンポジウムが開かれたりしていることは、非常に重要だと思う。
日本基督教学会第65回学術大会(2017年9月29日〜30日・場所ルーテル学院大学・神学校)も、2日目午後のプログラムにおいて、特別な企画を組んでいる。

シンポジウム「宗教改革とポスト近代」(9月30日 14:00~16:30  )は、神学畑からだけでなく、より広い視野から宗教改革の意義をとらえ、今、この宗教改革500年を迎える意義を問うものだといってよいだろう。
 

シンポジスト:大澤真幸氏(社会学者)
       江口再起氏(ルーテル学院大学)
       深井智朗氏(東洋英和女学院大学)
       西原廉太氏(立教大学)

大澤真幸氏は学会員ではないし、キリスト者でもない。キリスト教を専門にしているかというとこれも違うと言ったほうがいい。しかし、キリスト教についての深い関心に裏付けられながら歴史、特に近代の問題を深く学んでおられる。
江口再起氏は、ルーテル教会の牧師としての勤められた後、キリスト教学、特に歴史と組織神学を専門としてこられた。『神の仮面』にも見られるようにルター神学を基に現代社会を深く考察されてきた。
深井智朗氏は改革派の神学的な立ち位置から近現代を問い、積極的に 著作を出してこられた。近著「プロテスタンティズム」は、保守的ルター派と第二世代のプロテスタンティズム の二重構造から近代を切り開いて見せる。
西原廉太氏は日本聖公会の司祭としてアングリカニズムの研究を深めつつ、現代世界 のエキュメニズムの研究と実践に大きな貢献をされてきている。教会の現実を踏まえつつ、教派を超えての交わりにキリスト教の豊かな広がりと可能性を求めている。
 

この方々に、今の課題を見定めていくために「近代」をどのように捉えるのか、またそこで宗教改革とは何かを語っていただけると思うだけで、わくわくする。私たちが時代の曲がり角で、改めて、キリスト教の可能性をみいだすことになるだろう。

宗教改革は中世末の出来事といってよいと思うが、ここは「近代」の黎明でこのすぐあとにヨーロッパの新しい時代がはじまる。近代を呼ばれるが、いわゆる「モダン」。20世紀末には、この「モダン」の世界状況は終焉を迎えたと考えられ、いまは「ポスト・モダン」の時代とも言われる。
では、モダンとは何か。未だ中世に属する宗教改革の契機の中に「モダン」を捉える何があるのか。それを超えるということは、何を意味しているのだろうか。



2017-08-07

2017一日神学校 宗教改革500年「ルターのこころを現代に」

今年も例年のように一日神学校が計画されている。今年も、9月23日!土曜日・祝日。
しかし、例年とは違う。今年は宗教改革500年を記念する年だ。
  

 今からちょうど500年前、ドイツに生きた一人の修道士マルティン・ルターは時代を生きる人々に対し、神の恵みのことばを行き渡らせようと改革の呼び声をあげた。中世末、ペストの流行や飢饉などで死が蔓延する時代、そしてまた新しい産業の胎動が社会全体を大きく変えようとしている不安定な時代。恐れや不安が人々のこころを捉えていた。
 ルターは、一人ひとりが、神に生かされるいのちを生き生きと喜びをもって生きることができるように、共に支え合い、仕え合う世界の実現を望んだのだ。それは、単に宗教とか教会という枠の中の改革という事ではなく、公的な社会の中で教育や福祉を整えていく具体的な「かたち」を形成していく責任を自覚した取り組みとなっていく。この改革の運動が西欧全体に大きな影響を与え、苦難を伴うこともあったが、新しい時代を切り開いていく原動力となったといってよい。

 宗教改革500年目の今年、私たちの「一日神学校」は改めてこのルターのこころをうけとっていきたい。

 神の恵みを深く知り、世界のなかに、また人々のこころと生活のなかに、その恵みを守り実現していくことに、ルターはこころを砕いたのだから。私たちルーテル学院、大学と神学校は、そのルターの精神を引き継ぐことで、21世紀の現代を生きる人々の苦悩に応えていく使命をもっている。キリストの恵み、教えに学びながら、神と世界、人間といのちの理解を深め、この使命を実現していく取り組みを、この「一日神学校」でみなさんと共に確認させていただきたい。
 
 今年も、どうぞこの「一日神学校」においでください。
 

アニメ「君の名は。」 を見て…

 新海真の「君の名は。」。「秒速5センチメートル」や短編を見て、10代の感性!?をこんなにも率直に描けるのもすごいものだと思っていた。この新作の上映中の人気ぶりが気になって、何度か見に行きたいものだと思ったが、どうにも時間が作れずに断念。
やっと、DVDがリリースされたので、期末の試験期間が終わったその日に、約2時間を楽しみながら、なにか授業につかえるかなと、いろいろ考えながら見てみた。

 「いのち学」関連の授業では、身体と心(そして、たましい)の問題を取り上げている。キリスト教的には、身体からたましいは離れて存在しない。死んで、魂だけになって天国に行くというのは、もともとヘブライの思想にはない。そう考えるのは古代ギリシャ哲学、プラトニズムの伝統。この系譜は実はキリスト教の中にもおおいに影響を与えたし、近代デカルト以降の心身二元論にも影響している考え方だ。あるいは輪廻を考えるインド的思考も魂が自我に執着した影のようなものであったとしても、身体から離れたものとして存在すると考えている。人間のいのちを考えるとき、そうした心身二元論、魂だけの存在を積極的に考えることにどんな意味があるかと問う。
 (もちろん、キリスト教が魂を語ることに消極的なのではない。ただ、魂だけの存在ということにあまり積極的ではないということだけは確認したい。それは、この身体をもってのみ、その人がその人であるという神の創造の意図が働いていると理解するからだ。身体もこの世も、それが神の創造されたものであるという理解、そしてその肯定がなによりも現実への責任的存在としての人間存在を考える基礎なのだと。21世紀、この世界がウェブで結ばれ、時空を超える自由な魂の行き来を可能にしたとさえ思われる時代。私は、これを「ITプラトニズム」と呼んでいる。そんな時代だからこそ、じつはこの世界と身体を生きる意味を説くべきというのが私の思い。)
 すこし、この作品で考えたことをメモしておきたい。
 

 (ネタバレ・ストーリー) 
 高校生の‘三葉(みつは)’と‘瀧(たき)’は、偶然にもある日魂の入れ替わりを経験する。逆にいえば、年頃の男子と女子が身体の入れ替わりを経験するという、「いかにも」といった設定。東京の都会慣れした‘瀧’と岐阜の田舎育ちの‘三葉’。不思議な魂の入れ替わりは、単なる夢のように一日限りの出来事のようでもあったけれど、実際は繰り返されてそのうちにお互いにそれが夢ではなく、確かに魂の入れ替わがおこっているものと受け入れていく。もっともそれ自体も夢のようなものとして感じられていたかも知れない。入れ替わっている間の約束事も決めながら、それぞれが互いの人生に深く触れつつ、入れ替わったもう一つの人生を楽しんでいく。けれど、そうしているうちに、その入れ替わった相手に深い思いを抱くことになる。淡い恋…のはじまりを予感させる。が、その思いに自分たちが気づいたとき、その魂の入れ替わりがおこらなくなる。
 瀧は、どうしてももう一度三葉に合いたいと、自分が入れ替わっている間に見たその風景を絵に描き、それをたよりに彼女を訪ねにいこうと決心する。なかなか見つからないが、やがてその場所は3年前に彗星の割れた片割れが隕石となって落下した場所で町が一つ失われた場所だということが分かる。そして、その相手である三葉は、そこでいのちを落とした被害者の一人と知る。
 
 そのとき、はじめてこの二人の魂の入れ替わりが時空を超えるものだったことが知られるのだ。しかも、つまり、現実には死んだものの魂との交流であったと理解される。
 この切なくも不思議な物語は、ここで終わらなかった。瀧は三葉といまいちど魂の入れ替わりをもとめた。自分なら、この惨劇から彼女を救うことができる。いや、彼女だけではなくこの町の壊滅的な災害から町の人たちを避難させることができる。あの時にもどれば…。それをなんとしてもしなければと。
 
 果たして、魂の入れ替わりは起こり、計画は進められるが高校生が現実を動かすことなど遥かに難しく、あきらめかける。が、その最中、三葉と瀧は時空を超えた出逢いを奇跡の時間「たそかれ」に、経験する。そしてふたたびもとの身体に帰った三葉は、おそらく町長である父の力をもって町の救済を成し遂げる。ただその全ては映画には描かれない。しかし、あの被害にあった人々の記録はおそらく書き換えられて、奇跡的に助かったということになっている。そして、そんな魂の入れ替わりがあったことは、すぐに記憶からきえうせてしまう。

 ただこの二人の魂は、それでも相手を求めてふたたび奇跡の出逢いを成し遂げてこの映画は幕となる。

  


〜〜アニメ「君の名は。」を考える〜〜
 
 人の不思議な出逢い。巡り逢い、相手を深く求め、知り合っていくという奇跡。人が生きていく時にかけがえのない人と出会う。その出逢いの中でこそ、人は成長していく。いつもの新海氏のテーマがここでもストレートに語りだされる。

 恋愛の不思議には、誰にも覚えがあることだろう。そうした魂の出逢いの奇跡には、隠された、そして決して思い起されることのない魂の交換がある。この映画は、そんなロマンスを描いているようにも思われる。私たちが覚醒し、理性によって自分を秩序立てていることだけが、真実なものなのか。それはそうであっても、もっと豊かな、目に見えない「つながり」を人間の生の奥に見つめている。それがこのファンタジーが見るものを惹きつけるのだろう。

 けれど、この映画には、本当はもう一つのメッセージをもっている。というか、ストーリーの展開によって、見ているものは、そこへと誘われるのだ。
死者の霊との交わり。
 実は、この物語の深みはここにある。3年のタイムラグがある魂の入れ替わりという、隠されていた設定がこの確かな交わりが現実の世界ではけっして起こりえない二人の出逢いを造り出したのだった。
 三年前、彗星の破片隕石落下が彼女を含めた町そのものを消し飛ばしていた。この出逢いは、今は死者となっていた人の魂との交流であったという現実が、次第に輪郭を表してくるのだ。切なさと捕まえようのなさ。

 時空を超える魂の行き来は、人間の存在というものへの一つの考えかたであろう。事実、私たちはきっとコンピューターを媒介にしてこのウェブの世界のなかにそうした時空を超越するもの、永遠なるものをかいま見ている。だからこそ、こうした設定がリアルに迫ってくるのだと思う。

 この人の魂の交流の不思議に淡いストーリー。過去に戻って彼女らの町が救い出され、そして、その彼女との再会まで果たしてしまうという、ハッピーエンドは、大勢の人たちの満足を造り出したことだろう。これが驚異的な興行成績に繫がったことは間違いない。

 しかし、このハッピーエンドへと進ませたことは、いくらファンタジーといってもいただけなかったというのが個人的な感想だ。いや、ハッピーエンドが悪いわけではない。ただ一点。過去を書き換えたこと。これだけは、いただけなかった。

 ファンタジーなのだから、なんでも可能でいいのでは?
 そうかもしれない。

 けれど、やはり過去は変えられないし、死者は生きかえらない。
 いくら魂が時空を超えるからと言っても、現実の世界の過去を変えることは出来ない。ここは、どうしても超えてはならないのではないか。

 確かに、そうした原則がいとも簡単に超えられていくところが、この「SFファンタジー」というものなのだろう。今までもそうしたファンタジーはいくらでもあるのだ。タイムスリップもの。昔、アメリカのテレビドラマだったが、吹き替えで「タイムトンネル」という番組があったのを思い出す。二人の主人公が過去に行き来するSFだったが、そこでも歴史を書き換えてはならないということがお約束だったように記憶している。むしろ、時間旅行をしたために書き換えられそうになるその小さな違いを修正していくところがドラマ展開だったかと思う。もうさすがに幼少のことだったから憶えていないけれど…。あるいは、バック・トゥ・ザ・フューチャーは90年代の一大SFファンタジーのシリーズとなったのは記憶に新しいか…。
 
 とにかく、時間を超える行き来がもし可能なら、過去を書き換えたいと、思うのはごく当然の気持ちだろう。しかし、それは踏み込んではならないところなのだ。
なぜか。
 もしも過去が書き換えられたとして、そうなったとしたら、実際は、もはや書き換えられた過去は存在しないのだから、書き換えられえた事実もなくなるのであって、いっさいは全く異なった世界となるだけなのだ。それをハッピーエンドと呼ぶのは、その書き換えがあったということを知るファンタジーの読み手、ここでは映画を見ている者だけのものになる。そして、それは、実はすべてが虚しく消え去るだけなのだ。
 あるいは、ハッピーエンドというのは、その書き換えられる以前のひとりの人生のストーリーという本当に小さな一つの視点から見られたハッピーエンドでしかない。他の生きられた無数のストーリーの幸せは、この書き換えによって、見事にかき消されてしまうということになる。それは、果たしてハッピーなのだろうか。
 あるいは、もしそれが可能ということになると、実は過去はいつでも改められる可能性があって定まることがない。皆が、瀧や三葉のように過去を変えることにエネルギーを注ぎだしたらどうだろう。そうなると、もはや新しい時間を刻むことができないのだ。
 
 いや、そういうことを言うとファンタジーが成り立たないでしょうと、言われればその通りなのだけれど…。でも、過去の書き換えは、ファンタジーのなかであったとしても、禁じ手ではないかと思われるのだ。時空を超えるという交流とか出逢い、死者との交流をよしんば可能としても、してはならないこと。過去を書き換えるということは決して出来ないと知るべきなのだ。もっとも、敢えてそれをしてみせるのがファンタジー。そして、そうは出来ない現実を深く考えるように誘うものか。そうであればいいのだが、果たしてこの作品から、そうした問いまで届くかしら。

 むしろ、変えることのできない過去、生き返ることのないいのちのせつなさを抱きしめながら、それがありのままに受け止められて、あたらしいいのちの時間を刻んでいかれるようにファンタジーは描かれて欲しい。

 瀧は、生き返ることのない三葉のいのちをかけがえのないものとして、誰にも変わることのないその一つの命として、いとしく抱きしめて、それでもなお、自分自身の未来を描いて生きていかれるか。そのための力を得るようなストーリーこそがファンタジーに求められるのではないだろうか。

 この映画。彗星の破片が巨大隕石として落下して、町を飲み込んだ壊滅的惨劇をうみだしたという隠し球。しかし、それから8年の歳月がたったというところがラストの現在だ。
見ているものには、あの3・11の映像が二重写しになる。ならざるを得ないはずなのだ。そして、あの地震と津波で失われた命を思い、その魂とのつながりにかけがえのないいのちの切なさを思わずにはいられなかったはずなのだ。

 けれど、この現実は、決してあの時にまでもどってやり直すことは出来ないと、私たちは知っている。知っているけれど、あの失われた一人ひとりは、決して虚しく消えたわけじゃない。それぞれのつながりに生きて、その一人ひとりとの出逢いが、つながりが重ねられたはずなのだ。その絆、つながりが私たちのうちに憶えられるとき、そのいのちのかけがえのなさの真実が、より確かな意味を持つことになる。

 (憶えていた人が、もうひとりもいなくなるって?そう、だからこそ決して忘れることがないという永遠者の存在に、確かに導かれざるをえないのだが。)

 過去は変えられない。だから切なくも、もうかえらない。合うことは出来ない。しかし、それにも拘らず、そのいのち一つひとつへの私たちの感性が開かれるなら、その切実さをもって、私たちは生きている者たちだけではなく、死者もともに生きる明日を切り開くものとなる。
 誰もが、限られた時間を生きる。このいのちのかけがえのなさを、やり直すことのできない現実の中でこそ、私たちは知るのだ。
 
 安易に過去を変える誘惑に負けてしまうと、生きる時間はすべて虚しくならないだろうか。書き換えることのできない刻を刻むいのちの切なさ、切実さを、私たちはしっかりと抱きしめたいのだ。

 まあ、アニメはそれなりに面白かった。楽しめた。しかし、なんだか、逃げられた感じだったのだ。その何となく残った心の奥の寂しさのわけを、そっとたどってみただけなのだが…長くなってしまった。



2017-06-20

神学校修養会 牧師になるとき、幼稚園の園長になる?

 日本ルーテル神学校では、毎年5月か6月に神学生修養会を企画している。
 今年のテーマは「教会と諸施設」、6月18〜20日に行われた修養会では特に幼稚園・保育園の働きについての学びをいただいた。



 現在、日本福音ルーテル教会は全国に48の幼稚園・保育園を設置している。教会が120程だから、半分とは言わないけれども三分の1以上の教会が幼稚園・保育園の関係を持っているという計算になる。そして、実際の現任教職が100名弱、出向を除けば80名あまりの教職数だとなると、二人に一人は幼稚園・保育園との関係を持つというような勘定になる。つまり、日本福音ルーテル教会の牧師となると、その生涯で幼稚園・保育園を全く経験しないということはめずらしいことなのだろう。もちろん、それぞれ一つひとつの園によって、牧師の関わリの仕方はさまざまだ。園長になるばあいもあれば、理事としての責任をもったり、あるいはチャプレンとしての働きのみであったり。それでも、牧師館にすむことになれば施設管理等の責任は免れないだろう。
 教会は信徒を中心とした教会の活動だが、幼稚園・保育園ともなれば一般社会に開かれた公的な事業である。しかも、生活を抱えた職員を複数雇用してその労務管理などの責任も負いながら、その職員に働いてもらって日々の事業内容としてのキリスト教保育の実現し、具体的な対象である子どもたちとその保護者に深い関わりを持つということになる。
 牧師となるための神学教育においては、理論的にも実践的にも教会の神学を学ぶ訳だし、牧師になることの召命ということは、おそらくそうした幼稚園・保育園に関わるということとは全く異なるものであろう。それでも、現実には、そうしてひとたび牧師になれば、教会を営む、あるいは福音に基づいた礼拝の説教や聖礼典の執行ということとば別に加えてこうした教会の責任の中におかれる事業体の責任をもっていくことが少なくないということだ。
 一昔前であれば、そうした事業体は、事業体を主に担い、運営していく信徒が中心を持ってきていたかも知れない。海外からの宣教師とその宣教師についていった志を持つ教会員によって担われるようにしてはじめられた幼稚園・保育園は少なくない。ところが、いまや幼稚園・保育園を長く支えてきた信仰者がその次の世代に引継ごうとしてもその引き継ぎができないという現実を抱えている。クリスチャンではない多くの職員のなかからその力を持つ人材を得ることができればまだいいが、それすら出来にくいという現実に直面してきている。そういう時代だ。だから、牧師に対する現実的な期待は高くならざるを得ない。
 
 実際、今年の春卒業した三人の新卒の牧師たちはいずれも幼稚園・保育園と関わりのある教会だった。新任で兼牧で、施設がある。そんなことはめずらしいことでもなくなり、避け得ないこととなっている。では、神学校はそれに応える教育を行えているのか。それは難しい。限られた時間のなかで牧師となるための教育は、それだけでかなりの時間を必要としているのだ。後は現場でオン・ザ・ジョブ・トレーニングとしてもらわねばならないのだ。
 けれど、そのためのオリエンテーションも必要だろう。神学校が牧師を育てる責任を持つという時に、現代社会のさまざまな課題に取り組む神学的な力を身につけさせていきたいが、やはり、今の自分たちの教会が展開している福祉、保育・教育という事業についての責任を考えなければならないだろう。
 今回、三人の講師の先生方を通して、この課題を学ぶ機会と出来たことは、非常に有意義だった。

 

2017-06-14

ルターの宗教改革500年と福祉・教育

 宗教改革は、今から500年前、1517年10月31日、ルターが95ヶ条の提題をもって、当時の教会がキリストの福音を曇らせていないかと改革を呼びかけることにはじまる。前後して、ルターは聖書を基にして教会と信仰生活の教え、実践についての改革の考えを示していく。信仰者一人ひとりが福音の喜びに生かされるためには、その時の教会のあり方に疑問があったということだ。しかし、この改革の運動は単なる神学論争なのではなく、西欧のキリスト教社会全体に新しい市民社会の成立を準備するような大きな運動となった。

 ルターは教会を聖職者が働く組織ではなく、信徒一人ひとりがキリストのみことばに生かされるという全信徒祭司(万人祭司)の考えによって、教職も信徒も霊的に区別なく、信仰者が基本的に隣人に愛をもって執り成し、仕えるものとした。どのような職業、また立場も、家庭や社会において愛を持って生き、働き、隣人のために仕えることが、神に求められたベルーフ(召命)であると教えた。その意味で、いわゆる聖職者だけが聖なのではなく、皆それぞれの生活の中で聖いものとされ、神と人に仕えるものと考えたわけだ。キリスト教と世界、聖と俗とを分けるのではなく、まさにこの俗なる世界の只中に神の働きを信仰において表すようにと考えたといってもいいだろう。ルターは修道院を廃止した。

 そして、ルターは社会の具体的な課題として、実際に社会で困窮する貧困者の問題にいち早く着目して、そうした人々を共同基金によって援助する仕組みを整えるように市惨事会や領主に訴えていくこととなった。もともと福祉的働きは修道院によって担われていたわけだから教会の働きということでいえば新しさはないが、ルターは修道院という特別な霊的階級を認めず、むしろキリスト者一人ひとりがそうした働きを生きるものと考えた。それゆえ、社会全体の課題として社会的弱者を支援していくということが考えられるようになる。

 また、教育という点においても同様で、まだ子どもは小さな大人というくらいにしか考えられなかった時代に、ルターは子どもという存在の特別な意味を認めている。子どもは、男女の差別なく、聖書を自ら読むことと、神のみこころに従い、社会・家庭での良き市民として貢献するものとなるよう教育することが必要であり、社会はその教育を与える義務を持つことを明らかにしている。

 もちろん、こうした福祉や教育が西欧世界全体に整えられるのには時間も必要だし、近代市民国家の成立を待たなければならないこともある。けれども、少なくとも教会の宣教は、信徒一人ひとりが、神のみこころに生きて、社会の中で困窮する人を助け、また次世代を育てていく責任を社会の課題として受け止めていくように準備した。宗教改革は、単に礼拝や信仰の刷新ということに留まらず、教会として福祉や教育という働きを担うものであることを信徒一人ひとり自覚させたといえよう。

 ルターの宗教改革500年を迎える時、こうした教会の宣教が、今日の福祉や教育の原点となったことを確認することは意義深いことであろう。

2017-06-08

ルターとバッハ オルガンコンサート

 今年は、ルター宗教改革500年ということで、もろもろの行事が行われる。わけても、ルター宗教改革がもたらした文化・芸術の分野での企画は数は多くないが関心は高い。先だって東京と大阪の会場で行われたルーカス・クラナッハの「500年目の誘惑」も多いに関心を集めた。クラナッハがルターと同時代人というばかりではなく、ルターの友人として沢山の肖像画を描いていることはあまり知られていなかったかも知れないが、宗教改革の時代とその時代的・文化的背景や影響に触れることのできるものだ。もう一人、画家であり、多くの木版画で知られるアルブレヒト・デューラーもルターから多くを学び、福音を伝える聖画を残している。
 クラナッハやデューラーはルターと直接の親交があった芸術家たちだが、時代がくだってルターとは直接の面識はないが、それでもルターの著作に多くの学びを得た芸術家のひとりが、音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハである。



 バッハといえば「音楽の父」とさえ呼ばれ、18世紀に最も活躍した音楽家のひとりでバロック音楽の巨匠だ。このバッハは、ドイツ、ライプツィッヒの聖トマス教会カントールであると知られているが、もちろんルター派の教会で幼い頃からルーテル教会の中で育ったのだ。ルターは教会の改革を神学的な側面で推し進めたばかりでなく、具体的な教会生活、わけても礼拝を大きく改革したのだが、会衆が礼拝そのものにおいて共にみことばに生かされていくように、会衆賛美歌を導入したことはよく知られている。いわゆるコラールと呼ばれるものだ。それまで、特別な訓練を受けた修道士、聖歌隊が礼拝での賛美を担当していたのだが、ルターは会衆こそがこの賛美歌を歌うことで、みことばを受け、共にそれを口にして礼拝から派遣されていくようにと、会衆歌としての讃美歌コラールを礼拝のなかに位置づけた。自ら作詞作曲もしているが、当時の民衆のなかで親しまれていた流行歌のようなメロディーにのせて神の福音を歌詞に歌うものが沢山つくられるようになった。それが、会衆の歌う賛美歌のはじまりだ。
 このコラールによって育ったルーテル教会育ちのバッハは、自らまた沢山のコラール編曲、作曲を行った。そして、彼は音楽家としてルターの福音理解に立って、それを音楽によって皆で神の恵みに生かされていくように作品をつくり続けたといってよいだろう。ルターの著作集を書斎においていたバッハは、折りに触れてルターと対話しつつ、神の深い恵みを音楽のなかに求め表している。その表現力に圧倒される。

 さて、そのバッハの音楽に触れる機会の一つとして、ルーテル学院は特別のオルガンコンサートを企画している。昨年、チャペルに与えられたパイプオルガンについての感謝とそのお披露目の意味も込めながら、企画している。
詳しいことは、下線の引いてある下のタイトルをクリック。曲名なども紹介している。申し込み方法も、ここで確認。

 宗教改革500年「ルターとバッハ オルガンコンサート」

ルーテル学院のオルガニスト湯口依子先生によるコンサートだ。
先着200名さまの要予約。

追加:素晴らしいコンサートでした。湯口先生に感謝。
   コンサートは二部構成で、前半はルターのコラール。後半はルターの教理問答に基
   づく選曲でした。

今回、短〜く、「ルターとバッハ」についてお話する機会を与えられて,少し整理しながら調べていくと、やはりオルガン芸術そのものがルター宗教改革によって生まれてきたということがよくわかった。
 会衆が教会に集い、賛美を歌う。このコラールの誕生が以後の教会音楽、そしえオルガン芸術に決定的な影響をあたえたのだ。つまり、会衆の賛美が当然となれば、これを支える伴奏を行うオルガンが必要とされたということだ。宗教改革から百年くらいかかって、次第にこうした会衆の歌うコラールとその賛美を支えるオルガンという対応がしっかりと位置付いてくる。シュッツ、シャイン、シャイトらが1600年代のオルガン芸術をコラールをもとに確立させてくる。そして、また会堂全体に響きわたり、会堂がが丸ごと楽器になるようなオルガンが作られるようになる。アルプ・シュニットガーらオルガンビルダーが登場する。そして、このオルガンが用いられて、礼拝のために賛美歌を支えるということと同時に、その賛美歌をアレンジして礼拝の前奏曲や後奏曲が作られたのである。
 やがて、パッヘルベル、ベーム、そいてブクステフーデらの世代が出てくることとなったのだ。このブクステフーデこそ、バッハの師といってよいだろう。
 ルターが宗教改革を行い、礼拝改革を行って、会衆みんなで歌うコラールを作らなければ、こんなに素晴らしいオルガンの楽曲もパイプオルガンさえも発達しなかった、ということようだ。