2013-08-04

『死を見つめて〜よりよく生きる』

ルーテル厚狭教会で『死を見つめて〜よりよく生きる』をテーマにお話をさせていただいた。「死」という普遍的テーマは、「生きる」ということを深く知る手がかりという性格を持っているが、どちらかと言えば、それについてわざわざ取り上げることは「タブー」とされて来た。しかし、近年は敢て積極的に語られるようになって来たと言ってよいだろう。そうした現代の「死」をめぐる文化を探り、死を見つめることから生を求める今日の日本人のスピリチュアリティーを探りながら、キリスト教信仰における生を深く考察してみた。特に十字架におけるキリストの死と復活が何を私たちの信仰のいのちに与えるのかということを考えてみた。
お集りいただいた方から、すばらしい証をいただき、私自身が教えられ、また導かれた思いを深くした集会だった。

以下、講演のレジュメ。
             
0. 死を知る人間
 宗教、哲学における普遍的テーマとしての「死」
 ソクラテス、プラトン
 パウロ、アウグスチヌス、ルター、パスカル、
 キェルケゴール、ハイデッガー、バルト

1. 「死ぬこと」を積極的に語る文化?
(1)死への備え
  「病院で死ぬということ」「葬式無用論」「平穏死」「エンディングノート」

(2)死を受け止めるスピリチュアリティ 
  「大河の一滴」「葉っぱのフレディ」「千の風になって」

(3)「死」から「生」を問いなおす
   映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)、天童荒太『悼む人』など


2. 現代における「生きること」の課題
   〜天童荒太『悼む人』(文藝春秋 2008)をヒントに 
(1)死者を忘れる=生が軽んじられること?
   「悼む人」が生み出された世界

(2)関係の希薄化
   誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたか

(3)求められる和解
   関係の崩壊と心の傷


3. 生を支える三つの柱
  小澤竹俊『13歳からの「いのちの授業」』(大和出版 2006)をヒントに
(1)時間の柱
   過去から未来へ  (死と時間を超えて)

(2)関係の柱
   家族・友人  (神との関係)

(3)自由の柱
   自立と自律  (魂の自由)


4. 死を見つめること 
  姜尚中『心』(集英社 2013)をヒントに
(1)生きることの意味
   無意味な死と無意味な生?

(2)どこかが間違っている
   正しいことと間違っていること、白と黒、右か左かを弁別できるのか?

(3)自然と人間の知恵
   自然を支配し、コントロールできるか? 相克のなかで 


5. 信仰における生 
(1)愛された人間の生 
   神に愛されて、求められた生 
    (参照:フランクル『夜と霧』)

(2)赦しと悔い改めの生 
   キリストの愛によって、新しく生きる 他者のための生
    (ルター 「キリスト者の自由〜自由と愛に生きる」)

(3)人間も被造物もともに希望に開かれている
   終末の約束が今すでに (ローマ8:22)
   被造物に対する責任も (創世記2:15)

2013-07-27

姜尚中氏の『心』を読む

   
久しぶりに「小説」を読んだ。姜尚中氏の『心』。小説ではあるけれども、姜氏自身が一人の若い青年と出逢い、交流をするのだが、その青年を主人公としたストーリーである。姜氏とのメールのやり取りを軸として、この青年をめぐる出来事が描かれる。登場人物にはきっとモデルがあるのだろうが、全くのフィクション。ちょうど、「3・11」を挟んでのやり取りとなっていて、リアルタイムな話題はこの小説が何を訴えたいかということをよく表している。
 夏目漱石の『こころ』と同名のタイトルで、読み始めるとその手法においてもよく似ていることに気づかされる。漱石の『こころ』も「私」という一人の青年が「先生」と出会い、と「手紙」による交流によって小説を構成されている。最後の章は特に有名で「先生」自身の若い書生時代の人間関係が描かれ、漱石のエゴイズムの探求を示す一遍だ。
 姜氏の『心』では、漱石とは異なり、青年をめぐる人間模様に焦点が当たり、「先生」である姜氏のそれに戻ってくることはない。この青年が親友(「心友」)の突然の病死や東日本大震災での多く人々の「死」と向かい合うことで、「生」を深く捉えていく青年の「こころ」の成長を描く作品だ。
        

この作品のメッセージは「生きろ」ということだろう。
自然と人間、あるいはさらに人間の中の自然と自然をコントロールしようとする人間の知恵、それぞれの要素が深く絡み合っての相克を抱きかかえている現実。自分の自然な感情や思いに忠実であることに身を任せることも、またあれこれと心を配り、幸せを思い描いて妥協や打算も働く人間のこころの働きも、そのどちらかに偏った判断を下すことを避け、その複雑な人間の現実を抱きしめる。
死や生に向かい合う誠実さを持たねばならないが、その誠実さをも相対化して、したたかにしなやかに自分のありのままを、まず愛おしみ、全てを引き受けて生きろと…。

青年は、「死」のちからとの格闘を続け、姜氏とのやり取りを支えにしながら、人間の生きることの深みを捕まえていく。死と隣り合わせにあることへの恐れをはっきりと自覚したが故に、生きることのすばらしさと喜びのあることへと向かっていく力を身につけていく。

姜氏は、今の青年のこころに、どうしても伝えたいメッセージをこの小説に込めている。それは、今はかなわぬ、姜氏自身の「息子」への思いだろう。いや、その息子から受け取ったいのちへのメッセージだったに違いない。

小説として、必ずしも高い仕上がりとは言えないのかも知れないが、この小説のなかにはたくさん学びの「要素」もあるのだ。
大学生に是非読んでほしい。



2013-07-02

『対決から交わりへ』…宗教改革500年をカトリックと合同で

LWFとカトリック教会の国際対話委員会は、義認の教理に関する共同宣言の後、この宗教改革500年をともに「記念(commemorate)」するために準備を重ねてきているが、その特別な行事をともに守るための基本的な合意と方針が一つの文書にまとめられた。

それが From Conflict To Communion 『対決から交わりへ』の文書だ。この訳語が良いかどうかも確認していくひつようがあるが、とりあえず、このように訳しておこう。
少なくとも「communion」という時には、教会の中で単に「交わり」ということが意味される以上に信仰的な一致と共同を成り立たせる関係が意識されてきたし、それはあの信仰者のキリストにおける交わりであり、救いをともにいただく「聖餐の交わり」と結びついて理解されてきた言葉だ。もちろん、未だ両教会のあいだに聖餐の交わりは実現していないし、500年の記念という年を迎えてもなかなか難しいだろう。けれども、それに向かっているのだという意識を強く表した文書のタイトルといえよう。それだけに、この文書の持つ意味は大きい。

既に二年ほど前にこの100ページあまりの文書は委員会において決定されていたようだが、ようやくこの6月17日に正式にカトリック教会とLWFの両教会から公表され、同時に出版、そして、ウェブ上でもPDFファイルで公開された。もちろん、無料でダウンロードできる。下は、LWFによるダウンロードのためのURLだ。

http://www.lutheranworld.org/content/conflict-communion-0

公表が遅れた理由が何によるのかは分からない。しかし、いずれにしてもそれだけ、この文書の持つ「意味」が大きいということを示唆するものではないだろうか。

この文書、日本のカトリック教会と日本福音ルーテル教会のエキュメズム委員会が中心になって、いずれ翻訳されることになろう。ただ、こうした話題を委員会の翻訳作業を待っていては、両教会でこのニュースを受け取り、本当にこの2017年を特別な年として記念する事の準備をするのに遅れをとる。是非、原文ででもみていただける事をお勧めしたい。

基本的には、これまで、特に第二ヴァチカン公会議(1962−65)以降、カトリック教会は諸教会との対話を重ねてきたが、その成果は様々な形となってルーテル教会とのあいだにも大きな新しい関係を結ぶことになってきたわけだが、その一連の流れを確認しつつ、今の時代にともにこの年を憶えるということの意義を確認した文書である。

1999年の10月31日に「義認の教理に関する共同宣言」がカトリックとLWFとで共同調印されて世界に公にされ、大きな共同礼拝を持ったことは記憶にも新しい。たどれば、1980年にはアウグスブルク信仰告白450年、1983年にはルター生誕500年を期に両教会はルターの信仰とまたその神学的関心について、イエス・キリストを証するものとして認め、またカトリック、プロテスタントの遺憾に拘らず、この人物もまたそのメッセージも無視することは出来ないことを確認してきた。

いま、この2017年をともに「記念する」ということは、現代という脈絡の中でルターの宗教改革の出来事を捉え直し、またその意味を深く学ぶことで、あの宗教改革という歴史的な出来事が、現代おけるキリスト教会全体に意味があることを受け止めていこうとするものであることが確認されている。

特に、「2017年の500年記念」ということは三つの脈絡の中で特別な意義があるものとされている。(以下は、原文の翻訳ではなく、私が読みながら考えている所なので、そのようにご理解いただきたい)

1. 現代のエキュメニカルな時代のおける最初の周年記念であるということ。
もちろん、ここでいう「周年記念」百年を単位にしての事であるけれども、1917年との明らかな違いということに着目してしている。繰り返すが、第二ヴァチカン以降、ルーテルとカトリックだけではなく諸教会の対話が進み、具体的な成果もあげてきた。リマのようなマルチラテラルな成果もそうだが、バイラテラルな一対一の教会間でも成果を重ねてきている。そうした流れの中で、この500年という年があるということだ。

2. 次に、グローバルな時代における最初の周年記念であるということ。
これは、やはり20世紀の後半から21世紀になって、グローバル化が進み、地球規模で一つの世界として情報化もすすみ、また経済や政治的にも、また環境的な課題においても東西。南北が一つとなってものを考える時代になっているということであろう。いろいろな宗教世界の存在や対立についても心いためるところが大きいし、また宗教的多元主義も、こうしたグローバルな時代だからこそ生まれてきたものでもある。キリスト教というものが相対化されるのがこの時代の現実でもある。この時代に宗教という視点において、キリスト教会の歴史的な「宗教改革」という問題を捉え、そして、この500年を「共に」するということの意義が確認されているのだろう。

3. そして、あたらしい宗教的運動がおこってきていることと、同時に世俗化の進展ということの両方を体験していること。
現代の複雑さを思わされるが、一方では科学的なものの見方と物質的文明の徹底した世界において、人間の様々な分野での宗教的な役割ということは世俗的な事柄の中で取り扱われるようになってきたし、そうしてより効率的で合理的な世界を求めてきたのかも知れない。しかし、そうした世界の中に改めて宗教的なものの重要性やスピリチュアルな世界への関心も高まり、そうした取り組みが新たな形をとってあらわれていているということでもあろう。キリスト教会のなかでいえば、ペンテコスタルな運動やカリスマテティックなものが世界的に大きな運動になってきていることもあげられる。そういう時代のなかでのキリスト教会の大きなメッセージを示す機会となっているということがかんがえられているのだろう。

歴史的な意義を、教会の脈絡というよりも、より大きな現代の脈絡の中で捉えるからこそ、カトリックとルーテルが「共に」この時を記念するということの特別さを知ることが出来るのだ。

これからも、この文書一つひとつ読みすすめながら、関心のあるテーマを、それぞれにお分ちしたいと思う。

http://luther2017.blogspot.jp/2013/06/500.html


2013-06-24

「死をどう迎え、葬儀をどうする」

 6月22日の土曜日は日本福音ルーテル大阪教会を会場にして、「関西一日神学校」が行われた。招かれて、このテーマでお話しさせていただいた。土曜日にもかかわらず、関西の各教会から70名を超える方々にお集まりいただき、しかも大変熱心にきいていただいた。この問題の関心の高さを思わされた。会場でも、また個人的にもご質問をいただき、全てに十分お応えしてお話しすることはかなわなかったけれども、とても豊かな学びを私自身がいただいた時間だった。

 午前と午後に、それぞれ90分二コマというたっぷりとした時間をいただいたので、午前中の枠では、「私たちの死の現実と信仰」を考えるつもりで、「I. 死にゆくこと、看取ること」と題してお話しさせていただいた。一人称の死、つまり自分自身の死と向かい合うということと、「二人称の死」としての愛する者の死を看取る経験をどのように信仰において捉えていくのか。日本の宗教文化、そして現代という時代の中に生きる私たち自身の課題に迫ることを試みた。死に向かい合う魂の問題を問い、全ての人に見いだせるスピリチュアルな課題、ニーズを掘り起こしながら、キリスト教が伝えるべきものが何か、十字架と復活のキリスト二おける救いの約束と希望を学んだ。
 また、午後の枠は「葬儀」ということを考えるために「II. キリスト教の葬儀」としてお話しさせていただいた。これまで同じようなテーマで学ぶ機会があっても、なかなか90分まるまる話させていただくことがないので、たっぷりとキリスト教の葬儀についておはなしさせていただいた。喪の大切さを考えながら、実際的なことも含めてキリスト教葬儀というものについて学ぶことができた。また、「葬」ということは決して牧師の業ではなく教会での出来事であるので、教会が普段から、何を学び、準備すべきかということについても、少し具体的な提案もさせていただいた。

 関西は、父、正己が人生の終わりの時間を過ごさせていただいたところ。多くの教会でお手伝いをさせていただいた。そして、多くの方々に祈られ、支えていただいてきた。教会の方々へは、葬儀以来、それぞれの教会に私が招かれた時にはご挨拶もさせていただいたけれども、なかなか機会もなかったので、今回は皆さんにご報告もかねてお話することができたことは、私個人としても良い時間をいただいたことに本当に感謝したい。また、父が最後のときまで大切にして生きてきた「教会」に対する思いを、私自身も思い起こしながら、皆さんにお分かちさせていただいた思いもある。キリストにある赦し、慰め、希望に生かされるものでありたい。

 葬儀といえば、先だってBSで放映されたこともあって、映画「おくりびと」が思い出される方も多いだろう。あの本木君演ずる小林大悟の納棺の儀式の美しさにいやされ、生前には長くほどけることのなかった死者と遺されたものとの間のわだかまり、もつれた糸がゆっくりと解けていく、その「時」に魅了された方も多いに違いない。
 実際には、納棺師を依頼するなど滅多にないのが普通。あのような見事な業にお目にかかることは少ない。しかし、逆にいえば、臨終から葬儀、火葬など全ての葬の行程に牧師が寄り添い、祈りを持っていることは、いやしに満ちた日本のキリスト教の葬儀の特徴だろう。
 本木君のような美しい納棺の儀式は出来なくとも、牧師は司式者として場を整え、祈りの言葉、みことばの力によって、癒しのミニストリーを務めあげるもの。その所作もまた洗練された「ことば」においても、ある種の「美しさ」が「葬」という最も深い混沌の闇に神様のみ業を映し出すものとして求められるように思う。牧師はそういう司式者でありたいものだ。





2013-06-05

ルターセミナー 徳善発題を受けて

 この6月3日から5日まで、ルーテル学院大学ルター研究所の主催で、「牧師のためのルターセミナー」が三浦にて行われ、28名の参加者が与えられた。
2017年、私たちは宗教改革500年を迎える。ルター研究所では、この牧師セミナーでは  「宗教改革500年とわたしたち」このテーマのもとに今年から5回のシリーズで「ルター研究」を深めることとした。いま、私たちが「ルター」を学ぶということがどういう意味を持っているのかを問い、また確認しつつ、現代の教会と社会に向けてその成果を発信していきたい。その第一回目が今年のセミナーだ。

(この参加者は例年の約1.5倍。ルーテルのみならず、ナザレンから、また日基教団からも参加者が与えられたことも特筆すべきだろう。教派を超えて、学びと交わりを深める事が出来たことも、この「牧師のための」というセミナーにふさわしいし、それに加えて宗教改革500年に関連したテーマにもふさわしいことだったと思う。)

 このセミナーの第一の発題は、ルター研究所の初代所長で、ながく私たちを導いてくださってきた徳善義和先生で、「ルターの現代的意義を問えば」と題し約1時間の講演をいただいた。それに引き続き私たちは意見交換、討議を行い、これからの私たちのルター研究、あるいは、ルーテル教会の課題を見いだしていこうとした。
 発題そのものはすでに完全原稿にしていただいている。おそらく秋には、他の発題とともに『ルター研究 第11巻』として出版されるはずであるが、発題のあとの私たち参加者の討議も含めて、私がうけとった「生もの」をここに記録したい。故に、これは発題の正確な記録ではない事をお断りしたい。私が聞き、受け取ったものであって、言葉遣いも含めて、先生の発題とは別物である事をご理解しておいていただきたい。
(写真のスタンプは参加者の方からの提供)

 この徳善先生の発題では、ルターがあの時代の中でキリストの福音のために教会の改革を呼びかけた批判原理を、どのように現代のルター神学のなかで捕まえて、時代の課題に取り組むのかという問題提起をいただいた。
 ルター自身の歴史性、ルター研究の歴史性をしっかりとふまえ、ルターの宗教改革を捉える。そうして、今を生きている私たちが現代においてルターを研究し、ルターからまなぶということそのものを批判的に検証する必要がある。つまり、ルターを自分の神学的主張を肯定するために参照するのでは、ルターの改革の意図を生かす事にならない。むしろ、あのドイツの16世紀という時代を批判的に捉えた宗教改革の「批判原理」をもって、現代を生きる自らを検証する。そうした作業を経てこそ、現代という脈絡のなかでルターを継承するということを意義あるものとすることができるのであり、教会の歴史的な責任性を担うことが出来るということだ。
 ルーテル教会がルーテル教会として、ルターの現代的意義を問う時には、ルターの批判的原理のもとで、自らを顧み、今の自分たちはこれでいいのかと問う事の出来る教会でなければならないということだろう。ルターをまつりあげるのではないし、ルターに帰るのでもない。ルターを相対化しつつ、しかし、そこから学ぶ私たちがルターを超えて、この歴史のなかで、明日に向けて新しい一歩を記すことが必要なのだ。

 徳善先生が、まず宗教改革の基本原理という視点の中で取り上げられたテーマは宗教改革的な福音原理の確認の必要性であり、ルターにおけるその展開を「みことば」、「洗礼」、「聖餐」「鍵の権能」、「奉仕者」、「祈り」「十字架」という教会の持つべき七つしるしに見て紹介された。つまり、教会が教会であるという事のために最低限必要な事は何か。一般に、アウグスブルク信仰告白の第7条から福音の純粋な説教と福音に従った聖礼典の正しい執行ということだけが言われてきているかも知れないが、ルターは教会が負っている務め、その働きが何であるのかということを、この教会の「しるし」として述べている。そうした「しるし」を私たちの教会はどのように今持っているのか。その事が問われているということだろう。これらについては、また、改めて考察をしたい。

 これらを前提にして、ルターは人間の生の三分野に(家政 oeconomia、社会 politia、教会 ecclesia)おける諸課題へと取り組むべきことを繰り返し語っているという。徳善先生は、ルターの荒野の誘惑に関する説教やキリストの降誕に関する説教などにおいて、人間がこの三分野において、誘惑や悪魔的な力と戦う者である事を語っているという。つまり、パンの欲望、世俗権力への欲望、宗教権力の欲望との戦いである。家政、社会、教会という三つの区分において、人間は究極的には神の主権と支配のもとにありながら、人間の肉の思いがあらゆる機会を捉えてこれを乱用するのだから、こうした生の諸側面においてキリスト者がキリスト者として向かい合い、担っていくべき課題があることを示された。
 具体的に改革の時代のなかで公にされたルーテル教会のアイデンティティーを形作る事となった改革の告白文書、アウグスブルク信仰告白や小教理問答などが、あの時代に個人的な信仰生活の領域、社会的・政治的な脈略、さらに教会の改革と一致などのその諸領域にどのような意味を持つ者であったかという事を確認しつつ、現代のなかで必要な新たな理解・解説をもっていくことが必要だろうということも確認した。信仰告白文書は、歴史的な告白文書であり、そこに確かにルーテルのアイデンティティーを確認できるものだと思うが、それに新たな私たちの歴史的場所での告白ということが生まれてかまわない。「今、ここ」という状況の中で、私たちの教会が神の前で自らを確認し、公に告白することが求められ、また必要だといわれる事態があるなら、歴史的な一致信条に固執するのではなく、自らの告白を加えていく可能性があるのではないか。

 そして、そこで考えるべき具体的課題は何かについては、私たち自身が改めて「現代」という脈絡のなかで考えるべきことを提案された。参加者の討議の中で出てきたことも含めて、考えられてきたところを以下にまとめてみたい。
 すなわち、「個人の信仰生活」について、また今日の「エキュメニズム」を含む「教会のあり方」についてはもちろん、社会の諸問題への実践的、「倫理的な課題」に対する責任性を自覚し、ルーテル教会、またそこに生きる私たち自身が、自ら問いかけられているものとしてどのようにその課題を見据え、取り組んでいくのか。また、今日、「宗教的なもの、スピリチュアリティー」というような課題が人間にとってどういう意味をもっているのかという問いや必要が言われているのであれば、そこにキリスト教はどのように貢献し、またルター派として発言していくことが出来るのか。これも一つの責任をもっていくべきことであろう。教会に救いを求めてくる方々が複雑化した社会のなかで抱える心の課題への取り組みも、教会としての必要な関わりもあろう。
 いずれにしても、あの宗教改革の時代にキリストの福音を揺るがし、それを曇らせる、様々な働きを社会のなかにも、個人の信仰生活の中にも、そして教会そのものの中にも見いだしたルターが、神と悪魔との戦いの戦線に信仰をもって臨んだとするならば、いまの私たちの「敵」とはなにか。そうしたことを時代の中に感じとり、「非人間化する力」と相対する必要がある。(もちろん、「原子力」の課題もここ具体的な問題の一つだろう。私は常々「核」の問題こそが現代の偶像であり、また悪魔的力とかんがえてきたのだけれども、その事にどう向かい合い、何を語るのかということが今こそ問われているに違いない。)
 16世紀とは異なった今日という文脈のなかで、私たちは誰と共に立ち、何に向かって戦い、何を問い、何を語るものとしてルーサランたらんとするのか。そうした「告白的課題」の前にあることを深く自覚させられた。
 ルターの現代的意義を問うならば、自らが問われるものとなる!





2013-05-24

今、死にゆく時間をともにすること


昨日、日本福音ルーテル社団(JELA)のプログラムの一つ、リラ・プレカリアで表題の副題をつけた講演をさせていただいた。「日本人の死生観とキリスト教信仰」を大きな主題として、現代の日本で死を迎えるということがどういう現実であるのかということを探りながら、そこにキリスト教の信仰はどういう支えを見いだしていくのか、また、その神様の救いの働きへの参与を看取リの中でどんな風に具体的に与えられてくるのか。ということを考えてみた。リラ・プレカリアの音楽の賜物についても、少しだけ触れることが出来た。
以下は、項目レジュメ。

1. 伝統的な死生観(死の受容システム)
(1)自然志向型の霊性
(2)共同体志向型の霊性
(3)母なるもの
2. 現代の「死にゆくこと」
(1)医療技術に囲まれて
(2)失われた共同体(コミュニティーの崩壊)
(3)求められるより良い準備
(4)あらためて問われる伝統的死の受容システム
3. 死にゆく時間を生きるために
☆ 生きることを支える三つの柱
 時間の柱・関係の柱・自律の柱 
 死にゆく時間:全ての柱が弱まる時に信仰は何をみいだすのか
(1)明日を失う
(2)具体的な関係のなかで
(3)死と向かい合う自己
(4)死にゆく者のための時間
4. 死からいのちへ 具体的な関わりをとおして 
(1)分かち合われるみことば
(2)「死」にまさる「いのち」の確かさ
(3)時間的なものから永遠へ

3の始めに紹介したのは、生きることを支える三つの柱だが、これは、小澤竹俊氏による『13歳からの「いのちの授業」』による。小澤氏は在宅ホスピスの現場で多くの患者と家族を支える医師だが、同時にその働きから、「いのち」の大切さ、その意味についての深い問いを学ぶための授業・講演を各地で行っている。





2013-05-16

『私たちの死と葬儀〜キリスト教の視点から』(本のひろば 特別号)

 キリスト教関連の新しい出版を紹介する「本のひろば」の特別号で、死と葬儀に関連して短く書かせていただいた。


 近年は、死や葬儀に関連する本が一般書店からも続々と出版されていて、学ぶことは多い。キリスト教の信仰をもって、私たちがこの現代の日本において「死」や「葬儀」という問題を考える時、大切にするべきことは何か。いったい、私たちは今の時代にどんな風に生きて、そして死んでいくものなのか。
 聖書そのものからキリスト教の死生観や死に関わる教義的な説明をする本も実はいくつも出版されてきているのだが、いろいろなものを読んで、学ぶための一助となればと思って書かせていただいた。一般的なことではなく、自分が死に直面していかざるを得ない。その現実とどう向かい合いながら、信仰を生き抜くのか。どのような希望と約束が与えられているのか、確認することが出来るように書いてみた。また、いくつかの参考にさせていただいてきた本も紹介している。ただ、紹介したい本はもっと沢山あるので、このブログを通しても改めて何冊か紹介していきたい。
 この冊子は一般に販売されるものではないので、キリスト教関係の書店などで、何か本をお求めいただき、お尋ねいただければと思う。(「本のひろば」は、30ページほどの冊子で、毎月発行され、年間の講読料1300円ほどである。)