2018-08-29

2018年度:一日神学校 「あなたと共に」 

毎年恒例の一日神学校、今年の開催は9月24日(月)の振替休日です。
今年のテーマは「あなたと共に」。


教会の礼拝では、司式者と会衆が交互に「主が、あなたと 共におられるように」と挨拶を交わします。この挨拶は、も ちろんわたしたちの間で交わされるものですが、同時に神様 の祝福を祈ることばでもあります。
本当に短いことばのやり取りですが、そこで相手が持って いる困難や悲しみ、あるいはそのときに抱えている責任や働 き、その人の人生に対して神の恵みと導きを祈るものだと 言ってよいでしょう。そして、その祈りの応える神の恵みの み業の中に、わたしたち自身が用いられ生かされていくもの でもあるのです。 ルーテル学院大学、神学校は、主に仕え、人に仕える他者 支援の専門職を養成します。誰かの生活、心、魂の問題に寄 り添い、神様の恵みを分かち合うものとして生かされていく のです。そして、それはきっと、誰かのためというより、「あ なたと共に」と呼びかけ合い、わたしたち自身が共に生かさ れていくということなのです。

 私、石居も午後に講義をいたします。
講義タイトルは「共に生きる」ための神学。
 宗教改革 500 年の記念を終え、いま、新しい時代にこの世に福音を宣べ伝える使命をわたした ちはどのように生きるのか。ルターの神学に学びつつ、わたしたちの教会の宣教の業を神の 大きな恵みの働きのなかに捉え、わたしたち自身の信仰の生活を考えてみたいと思っています。
 現代社会のさまざ まな課題のなかに生きる人々と共に生きるための神学を皆さんと共に学びましょう。


「あなたと共に」と生きる恵みを分かち合う、今年の一日神 学校へ、どうぞおいでください。

全体のプログラムは、以下の通りです。






2018-08-13

「大切な人を看取るために」

ディアコニア講演会の企画。
「大切な人を看取るために」
日時:2018年9月2日午後2時から4時
場所:特別養護老人ホーム ディアコニア(静岡県袋井市山崎5902-167
主催:日本福音ルーテル新霊山教会
後援:社会福祉法人デンマーク牧場福祉会

私たちは、かつては大きな家族として何世代かが一緒に生活をともにして、老いや病でこの世の生涯を終えていく者たちを看取り、その死を受け止めてきた。そうして、今与えられている生の時間の限りあることも、またその時が来れば思いのままにならない不自由を経験しなけらばならないことがあることも、きっと自然に知ることだった。そうして、その命を生きる重みを知ってきたのだろう。
だから、いざ、自分の順番が来たときにも、自分の死を自然な中で受け取って来たし、看取ることも日常の中にそれを成し遂げて来たに違いない。
けれども、現代社会では様相は全く違っている。私たちにとって、私たち自身の「死」の姿は「病院」の中に委ねられ、隠されてきたのだ。死の覚悟もできていないし、看取るといっても、何をどうしたらいいのか、右往左往してしまう。
最期の時を、在宅で、あるいは施設や病院で過ごしていく家族に、私たちはどう向かい合うべきなのか。
ともに考え、学んでいきたい。


こうした、講演会の要請には、できるだけ応えていきたいと考えている。けれど、むしろそれぞれの現場での実践をともに研究したり、学んでいきたいと願っている。研究会のような形で、1年に一度でも企画したいということがあれば、ぜひに学ばさせていただければと、願っている。

2018-08-10

「霊的な力」の問題 ②

「霊的な力」ということを、私たちはどのように考えるべきか。

 こういう言葉は誤解を生みやすい。特に、日本の文化社会の中では、「霊」を私たち自身の霊魂ということを表すのと同時に、祖先の霊とか、守護霊とか、そうした目に見えない「霊」の存在ということを思い浮かべやすい。そして、そうしたさまざまの「霊」に包まれるようにして、人間にある種の特別な「霊能力」のようなものが与えられると考える傾向が強い。それは、目には見えないけれども、実際のこの世界の様々な現象を左右するような力のことだ。「霊」との特別な交流を通じて、現実を動かしていくような「力」というような意味であろう。だから、「霊的な力」は霊視、予言、物体移動、幽体離脱、また降霊、憑依などの超自然的な能力を考えてしまうのだ。
 実際、オウム真理教でもそうした特別な能力が修行によって得られると教えた。麻原の座禅姿の空中浮遊などもその典型だろう。




 しかし、キリスト教信仰において、私たちが「霊的な力」ということを考えるときには、そうした超自然的特殊能力のようなものを考えるわけではない。
 ものすごく単純に言えば信仰そのもののことをいう。聖霊の賜物。コリント一12章1〜11節にあるような、信仰の益となる働きをもたらす力であり、具体的には教会を立てていく働きを担い、キリストの体として連なるものとして神がわたしたちに働いて、わたしたちを生かすということなのだ。ガラテヤ書5章には、聖霊の実として「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が数えられている。けれども、こうした言葉にしてしまった途端、「霊的な力」と言われるところのものが、頭でっかちな理屈の中に閉じ込められてしまうように思う。つまり、これらの聖書的な言葉は、間違いなく「霊的な力」を示しているし、説明にもなる。けれど、そこに止まる限り、決して、本当にはその力の豊かさが見えづらくなるように窮屈に感じてしまう。


 生き生きとした、感性。
 こうして、説明を始めると、途端にそうした霊的なものから遠のいてしまうようなもの。しかし、確かに、私たちが信仰において与えられる感謝と喜びの湧き出てくるところ。そういう出来事が私たちのうちに生み出されてくることこそ、「霊的な力」を見出すところであると思うのだ。

 人と人とが、ふれあい、支え合うところに見出される優しさと安心感。共感するときに震える心。あの赤い夕焼けを見て心にしみてくるような懐かしさ、暖かさ、柔らかさを受け取り、また分かち合う自然な振る舞いやことば。本来私たち人間が共に生きるように与えられた、何気ないいのちの支え合い。繋がり。私たちはそうした与えられていた自然を
自己の罪のゆえに歪め、失ってしまっている。それなのに、この素晴らしいふれあいと繋がりは、恵みによって、導かれて私たちのうちに動き出す。
 そのほんの一瞬。罪でしかない私を破り、溢れ出てくるように感じられてくる何か。
そこに「霊的な力」の場があるのだ。私のものではなく、私をその働きの場とする「霊的な力」の存在。

 2000年前、イエスにおいて最もはっきりと示されたものだ。貧しい人々に深く関わり、病人を癒し、悪霊を追い出すような働き。皆がその小さな出来事の中で、「霊的な力」を味わったに違いない。

2018-08-01

「霊的な力」の問題 ①


あれだけ多くの信者を獲得したオウム真理教。教祖麻原の個人的な権力による悪しき支配が、教団を狂気の集団としてしまったわけだが、しかし、そもそもあの新興宗教団体になぜ、あれほどの信者が、しかも科学者や医師、弁護士などの理性的エリートたちが入信していったのか。

私のこのブログを読んでくださった一人の方*が、ご自身の見解を送ってくださったのだが、そこには次のように書いてあった。

「しかし、このような人物に騙された多くの若者がいたとういうことは、その教えに一定に魅力があり、それが当時の時代状況に適合していたのであろう。」

この教団の「魅力」は、一体なんであったのか。いろいろな形で今回の事件をうけてこの教団信者の実際については報告も出てきているわけだが、実際にみえてきていることはわずかでしかないのだろう。だから、一概にこの教団の魅力が何であったのかと断定的に述べることはできない。しかし、想像するところ、やはりそこには麻原の持っていたカリスマティックな言動によって人心が捉えられていったことだとが大きかったと推測される。

教団に何かを求めてきた一人ひとりは、社会への問題意識も含めて、自分が生きる現状に対し何らかの行き詰まりとか疑問をかかえていた。その彼らに対して、まずかなりはっきりとした受容的、肯定的なコミュニケーションを持ったこと、そして同時にその自己の問題性をすこしでも好転させていくための自己改革について具体的な修養プログラムを与えていること。その取り組みへの動機付け、また成果に対する報酬をしっかりと示していったこと。また、信徒同士に競争意識をもたせることなどの手法、麻原自身が模範となって取り組みの目標とすべき姿を示していたことが多くの信者を教団へと駆り立て得る力であったと思う。
 
そう思うと、これらの手法が人間の心理を見事に捉えたものであったというだけでのことと理解される。
けれど、そこでとどまっていると、「なんだ、やっぱり奴らの勧誘が手の込んだわなみないなものだったということで、正統なものが受け入れられないということは普通のことだ」ということになり、ひいては、「受け入れられないというところに、正当性というか真実があるとも言える」などというへんな理屈に堕していく可能性がある。
そんなことでは、結局、主の福音を求めのある人たちに届けることへの責任が果たせていないという現状にあぐらをかいてしまいかねない。



先ほど紹介した寄せていただいた意見は、次のように続いている。

「そしてこれらの若者の魂の渇きに答えられなかった既存宗教にも責任があろう。 私の信仰するキリスト教では何が足りないのだろうか。教義が難しい、外国の宗教で日本人の感性に合わないなどいろいろな考え方があろう。しかし私が一番足りないと思うのは、霊的な力だと思う。いくら論理を積み重ねても宗教を信じることはできない。」

「霊的な力」。キリスト教、特にプロテスタントの諸教会では、説教重視で、「言葉」の宗教とさえいわれる。しかし、そのことばに霊的な力があるのか? わたしたちに求められる「霊性」とは、いったいどのようなものなのだろうか。このあと、すこし考えてみたい。


*このお方、許可をいただいた。
  藤原 学 様(日本基督教団金沢教会信徒)