2014-01-31

「献身の祈りの夕べ」

 今年の「神学校の夕べ」は、例年とはおもむきを変え卒業生を送り出すための祈りの夕べではなく、献身者が起こされるようにと願い祈る夕べとしての企画となりました。

今年は、ルーテル神学校始まって以来おそらくはじめてのことと思いますが、卒業生のない年となりました。今までも、1名の卒業生というようなことは何度もありましたが、卒業生が一人もいないという年は一度もなかったのです。
 これは、一大事!しかし、これは現実です。神学教育にたずさわる身として忸怩たる思いがあります。
 そして同時に、この事実に、神学生が育てられ、牧師とされていくことが、どれほど神の恵みと導きに支えられてのことであるかということを改めて思わされることです。神学校は、牧師養成を担っているのですけれども、この働きが私たちのわざによるのではないことを深く受け止めることとなりました。私たちの願いや計画を私たち自信がひた走り、そして、ことがなるというわけにはいきません。私たちの考えを打ち砕いても、ただ、神のみが人を召し、導き、養い育て、牧師として派遣されるのです。そして、その神のみ業によく仕えるよう教会は整えられ、神学校をはじめその働きを担うものが遣わされ、用いられていくばかりなのです。
 
 例年、神学校を卒業し牧師として旅立っていく者たちが、み言葉を取り次ぎ、在学生たちはその旅立ちを祝い、皆が主の招きを思い起こし、感謝のうちに祈りつつ、按手と派遣に備えるようこの「神学校の夕べ」の礼拝が守られてきました。ですから、例年学生たちが主体となって、この夕べを準備するのです。
 今年は、卒業生のいない中で、学生たちは是非この時にこそ、「召命・献身」の主のみわざ、そこに起こされてくる私たちの応答の奇跡を思い、その出来事を共々に確認し分かち合っていく礼拝をしたいとこの準備をしています。
 この夕べが、このような形で守られることは二度とない!ことと思います。そう信じつつ、この礼拝へと皆さんをお招きしたい…。
 
 

2014-01-28

神学生必読書 ペールマン『ナザレのイエスとは誰か』

 神学生の時、信仰の課題、神学問題の要は「キリスト論」だと考えたことがある。結局、私たちの信仰は、あの人間イエスを「キリスト」と告白するという奇跡の中に、すべての秘儀があるのだという直観だった。しかし、その後その直観を確かな言葉をもって紡ぐことが出来ていない。それは、自分の生涯の課題かとも思う。
 さて、神学生の時に課題図書として紹介された本の一つにペールマンの『ナザレのイエスとは誰か』がある。ペールマンが神学生のゼミで学生に取り組ませるための資料としてまとめたものだろう。いわゆるキリスト教神学におけるキリスト理解の叙述を展開するというものではなくて、キリスト教以外、ユダヤ教の視点、無神論者の視点、哲学者の視点などからイエスがどのように捉えられているのかという具体的な資料を提示し、それを読んでどう考えるのか、と読者自身に問いかけるような設定になっている。もちろん、ペールマンなりの分析と見解も短く添えられているのだけれど、それは、「イエスはこう理解されるべき」という教義的な教えではなくて、こういう考え・捉え方があるが、その理解に収まり得るかと、反語的に問いかけていくような叙述だ。



神学生には是非読んで、考えてほしい一冊。
 改訂された新版『イエスとは誰か?』には、遠藤周作も取り上げられている。この項にはいささか食い足りない感じが否めなかったが、しかし、海外に遠藤がこのように知られているということには、なかなか考えさせられるところがある。その意味でもこの新版を手にしてもらっても良いだろう。

2014-01-23

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その②

それでは、具体的に教会がその時に対応して、教会としての声明を出すということをどのようにしたらできるだろうか。教会が教会としての立場・見解を表すと言うことは、原則的に教会の総会において決議されたことにおいて表される。

(例えば、最近の例でいうと日本福音ルーテル教会は2012年の5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」を決議している。反原発の声明では、同時期に日本聖公会も総会で声明を採決している。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2012/07/blog-post_10.html )

しかし、例えば今回の首相の靖国参拝が突然なされたような場合、その時に応じて、教会が何かを声明として明らかにするとき、教会の総会を開いている余裕はない。
そうすると、教会は結局実際には時に対応した声明、意見というものを公にはできないのか。

現実には、多くの教会は、そうした場合のために常設の委員会や団体を持っていて、それが教会に代わって声明を公にしている。あるいは、教団を代表する人格(議長や司教、主教など)が声明を出すという具合だ。それで、後から必要ならば、教会の総会で報告承認、もしくは改めて決議をする。そうでなければ、委員会名の声明や個人名の声明ということに留まるということだ。

じゃあ、誰がどういう形でその役割を担うのかということが実際の問題になる。また、教会においてそれぞれの委員会ごと、あるいは個人や団体でもそこにはどういうレベルの違いがあるか。やはり総会で決議されるような場合は最も重たいものと考えられるだろうが、そうでないものについては、どういう序列、教会での重みの違いを認識すればいいのだろう。

日本福音ルーテル教会においては考えてみると、もしかしたら、信仰と職制委員会がそうした役割を総会から委託されていると理解して来た伝統があるかも知れない。この委員会の前身?が信仰告白委員会であったとも聞く。総会で直接選ばれた常置委員会だから、総会閉会中の責任を担う常議員会とは立場を異にしても、自らそうした意見・声明を発信する可能性もあると考える意見もある。
しかし、実際にはそうしたことが規則上なにも決まっていない。また、2002年度の総会で社会委員会が設置されてから、信仰と職制とその委員会役割についてのスミワケの意識が徹底してはいなかった。そして、社会委員会は規約によって委員会独自の活動ということができない仕組みになっていて、実際に必要なタイムリーな働きを担えては来ていない。だから、結局は議長や委員会、委員長がなにがしかのアクションを起こしうるということもはっきりとしていない。だれがいつどういう形で声明を出せるのか、どういう秩序があるのかが今の段階では明らかではないのだ。それが今の日本福音ルーテル教会の状況だ。そうだとすると、今のこの段階で、どこかの委員会が何かを言っても、その根拠も責任も明瞭ではないということになる。

今回、首相の靖国参拝のみならず、社会的政治的な動きに懸念すべきことが起こっているというなかで、信仰と職制委員会はこれに向けて声明を出そうと話し合い、首相にむけた声明案を検討するところまで準備した。しかし、教会の今の状況の中では、まず秩序を整えることが必要だということが改めて認識されたのだ。そこで、常議員会へその旨報告して、声明を発表することを控えたのだ。本当は、なにかアクションを起こすべきときだという強い認識があったが、しかし、結局、このままの状況で何かを発信しても、それは教会のどういうアクションとしても位置づけられない無責任な言いっぱなしのものになるのではかえって良くないだろうと判断されたのだ。

同時に、改めて考えさせられたことは、こうした声明などは、それを公にすればそれでよいというものではない。
声明は一方では、外に向かって表すものだが、同時に教会の中に対して自らの有り様を示すことにもなる。信徒の一人ひとりに向けて、私たちの教会の信仰的な考えからすると、こういう問題について、いま教会はこう考え、こういう訴えをしていくのだということを教会の信徒の人々に呼びかけ、考えてもらうという教育的な働きと言えるかも知れない。だから、教会は、こうした声明を受けて教会のなかでその問題をどう考えるのか学びや意見交換などがなされ、信徒の皆が個人としても市民として国民として考え行動ができるように働きかけることもまた大切なことだ。個人個人の考えを尊重すること、異なる考えがあることを認めること、それでもなお大事にすべきことを一緒に考えること。教会のなかでそうした話し合いがなされていくことをどうつくっていけるのか。それこそが声明を出していくと言うことを内実化する。

さらに言えば、具体的に一般の人々のなかにある考え、その背景にあるムード、問い。それにたいしどのように教会が向かい合い、そこにどんな言葉を持つのか。そうしたことも考えていく必要がある。

だから、この目下の課題について、今、日本福音ルーテル教会は委員会レベルでも声明はまだ出ない。こうした課題を確認し、その課題をしっかり受け止め、取り組む。その歩みを確認できたことはなによりも大切なことと思う。今更と言われるかも知れないが、こういうことをしっかりと考えていくこと、常に確認していくこと。それが責任あるあり方だと学んだ。
(今回、信仰と職制委員会に参加しながら、話し合われ、共有された問題意識をここに記録した。)


2014-01-12

教会が社会的・政治的な問題に関わるとき その①

 安倍首相の靖国神社参拝は、国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、特定秘密保護法の強行採決、武器輸出三原則の緩和や沖縄米軍基地の辺野古移設による固定化など一連の動きと相まって、首相と現政権の進もうとする道行きの危うさを示していることに、多くの教会関係者が憂慮を表して来ている。すでに、別に書いたように、様々な教会が委員会名や教団のしかるべき部署・委員長などの名前で安倍首相に対する抗議声明を表している通りだ。http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/12/5201413.html

 私が、個人的に各教会の抗議声明について書いたものをSNSで紹介したとき、ある方が、こうした教会の反応が公にされると、同じ考えではない信徒にとっては、教会にいづらくならないか。キリスト教が皆そういう考えを持っていると一般の人たちから思われるのは迷惑なことではないかというような意味のコメントをいただいた。コメントは、おそらくご本人がすぐに削除されたので、もう見ることもできず、正確なことばではない。しかし、こうした声が出されたこと、そして、それがすぐに消されたことは見過ごすことのできないことだと私の心に刻まれた。

 信仰者が一人ひとり、政治的な課題について自らの考えを信仰的に表明しているかぎりは、同じ教会にあっても、それはその人個人の考えであって、それぞれ違う意見を持っているかも知れないということは、一般的に理解されることだろう。しかし、教会が一つの声明を出すという場合、外から見れば、その教会に属しているということが、その教会の見解を自分のものと信じる立場にあるという意味に受け取られるだろう。少なくとも、会員としては、その教会に属する自分がもしその教会の表明した見解に一致できない場合に、その教会との関係について悩むに違いない。実際には一人ひとりの考えや思想を教会が強制的に縛るということはあり得ない。けれども、一般的な意味から考えれば、自分の所属する教会が公にした意見を受け容れられないなら、その教会の考えとは違うということを何らかの形で表すことを真剣に考えさせることだと思う。
 
 あのコメントが私に伝えたかったこととは、そういう難しさを感じる信徒があるのだという真実だ。しかし、そのコメントが取り消されたということは、そういう一人ひとりの逡巡、戸惑いを表わしにくいということでもある。それだけ、それぞれの信徒の心の中にこうした割り切れないような、居心地のわるさのようなものが沈んでいるということだろう。

 だから、教会が信仰内容に直接関わることなら、教会を割ることがあっても言わなければならないけれど、社会的・政治的な問題に教会として声明を明らかにするということには慎重であるべきだという考えが一般的だ。教会の一致は福音理解によって一致するのであって、政治的な立場や思想上の違いによって、教会にいづらくなるということがあってはならないし、教会の一致が保たれないことになるとは考えにくいことだからだ。日本福音ルーテル教会は2008年の総会で教会が社会問題に関わって見解を表明するということに関して信仰と職制委員会の見解を決議している。こうした理解をもって、教会は、絶えず少数であったとしても異なる意見や考えを持つ人々について配慮をし、声明などを明らかにすることに慎重さが必要である、としている。

 しかし、一方で教会が教会としてはっきりとした態度表明をすべきときもある。第二次世界大戦下、ドイツでナチズムがユダヤ人迫害の政策を推し進める中、その国家政策に従うドイツ的キリスト者という運動を教会の中に作り出していった。そのとき、告白教会という少数の教会がこれに反対し、国家の政策に対して抵抗運動を展開したのだ。それでも、抵抗し切れずにはげしい弾圧をうけた。そしてナチスは力づくで世界戦略を展開したのだ。しかし、戦争が終わって教会は深い反省を持ち、ナチスに抵抗し切れず戦争の悲劇をもたらしたことへ深い罪責の告白をしている。前にふれたニーメラーは、自分たちが告白教会としてできうるかぎりの抵抗をしたのにも拘らず、その事態を止められなかった責任を、頑張ったけれど力及ばなかった言わず、止め得なかったことを「わたしの罪、わたしの罪、わたしの罪」と告白した。歴史に生きることへの責任意識だ。
 日本の教会にも、同様…とまでは言わないが似たような状況があって、戦時中プロテスタント諸教会が日本基督教団へ合同したこととその教団としての戦争協力に用いられてしまったという深い反省がある。そのことへの戦責の告白は、教団名において明らかにされることはなく、戦後12年経って、教団の議長名で公にされたに留まった。日本福音ルーテル教会は戦後すぐに教団から離脱していたために、この問題については積極的なコミットはできなかったし、しなかった。ただ、このことについては、それぞれの離脱したかどうかに拘らず、プロテスタント諸教会において(おそらく日本基督教団自体もふくめて)、忸怩たる思いがあるかも知れない。しかし、それhどうあろうと、少なくとも同じ過ちは繰り返してはならないということについては異論はないだろうと思う。
 だから、キリスト者は、まして教会は、戦争と平和、基本的人権に関わるような社会的問題に対して、特に社会のなかで弱い立場にある人々のことを自らのこと以上に考えて、信仰の故に特定の見解を表明するということがあり得る。いや、まさに時に応じて、信仰者個人個人のみならず、教会が教会として、信仰的な立場から一定の見解、声明を公にする必要がある場合があるのだ。

 日本のようにキリスト者人口が1パーセントに満たないマイノリティであることは、その意見表明にどれほど社会的な影響力があるのかと問われそうだ。しかし、影響力を持つことだけが、意見表明の意味ではない。自分がどこに立っているのか明らかにするべきときがある。教会がキリストの教会として、この世界への責任、隣人への責任を果たすために、声をあげていくべき時がある。それがどんなに小さな声であったとしても、キリストの教会であるために声にしていかなければならないことがあると思うのだ。
 (この主題については、続きを書く。)



2014-01-04

第48回教職神学セミナー「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」

 2014年2月に予定されている今年度の教職神学セミナーのテーマは「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」だ。



2000年代に入ってから、日本でも「礼拝学」関連の本が次々と発行され、礼拝についての関心が再び高まってきている。それはまた、プロテスタントの各教派で様々な礼拝刷新、新式文の作成などの動きとも関係している。
 こうした傾向は、もともとは19世紀後半から20世紀のあいだにカトリックを中心として起こってくるリタージカル・ムーブメントの大きな流れの中から起こってくるものと考えられよう。その大きな成果は第二バチカンにおける典礼憲章(1963)にも結びつく。また、プロテスタント教会にも大きな影響を与えることとなっている。
 このリタージカルムーブメントの起こりは、はじめカトリックの中世的伝統の確かな継承ということにあったと言えるが、古代教会における諸々の文書の発見と研究が、やがてより古い伝統の回復へとなっていく。そのことが逆にエキュメニカルな礼拝改革運動へと展開していくことにもなったと言えよう。
 こうした礼拝改革の動きは、しかし、そうした「古代」の伝統の回復という衣をまといながら、むしろそのことの中で確かな「現代」への対応が進んでもいる。そして、そういう礼拝が私たちの信仰の内実に深く影響を与えていることを無視できないし、また逆にそれだからこそ、今回復や強調が必要な礼拝の実践ということもあるだろう。
 例えば、聖餐のパイエティというものの回復はその典型だ。礼拝の中心としての聖卓の回復が起こり、同時に信仰の交わりの祝いが回復される。それは、現代における宗教的個人主義の時代には、とりわけ大切な視点だと言ってよい。その流れの中で信仰の道筋や罪の自覚と赦しのパイエティにも変化が起こっていることも確認されよう。大変具体的な課題だからこそ、無自覚に流されるのではなく、その変化が何を意味しているのか確認が必要なのだ。
 そこで、こうしたエキュメニカルな礼拝改革の流れの中で、プロテスタンティズム、あるいはより具体的にルター派神学ということをどう捉え、またそのことから礼拝をどのように考えたら良いのかということが今一度確認される必要がある。そして、この礼拝改革の流れには、漫然と流されるのではなく、主体的に道筋を見いだしていかなければならないと思う。
 第48回教職神学セミナーでは「礼拝改革―変えるべきものと守るべきもの」とテーマを設定し、私たち自身の礼拝への取り組みそのものを問い直してみたい。
 2014年の2月10~13日、ルーテル4教会・教団の教職の継続教育プログラムとして行われる。