2013-09-27

ルター研 「秋の講演会」 2013

 10月20日、ルーテル学院大学ルター研究所主催で秋の公開講演会が開かれる。
日本福音ルーテル大岡山教会を会場として、午後三時半から開かれる予定だ。
               (場所=http://www.jelc-ohkayama.org/map.html
今年の総合テーマは『宗教改革500周年とわたしたち』。春に行われた研究所主催の牧師のためのルターセミナーと同じテーマで、これから2017年まで、毎年このテーマでセミナーと講演会を連続する。その第一回目ということになる。
 今年の講演者は、徳善義和先生と江藤直純先生のお二人。
徳善先生の講演タイトルは、「日本におけるルター研究の歴史」、
江藤先生の講演タイトルは「ルターの宣教の神学と今日のルター派の宣教理解」。



今年、つい先日、ルーテル学院大学の図書館の未整理資料から、歴史的な書物が発見された。1630年印刷のルター訳新旧約聖書。一般にメリアン聖書と呼ばれるものの本物。美しい挿絵入りで、これを見るだけでも楽しい。どんないきさつでこれが図書館に存在することとなったのかは、未だに謎のままだが、日本ルーテル神学校の図書館だからと、どなたかに寄贈いただいたものなのだろうか。小さな神学校・大学ではあるけれど、ルターに関することなら、日本ではここで一定の研究成果と資料、また見識とチャレンジを得ていくことが出来ると認められるものであってほしい、またそうありたいという祈りが、一つの形をとったものであるように思う。
 連続の講演会、今年から17年までなら5回にわたるが、現代の教会の宣教という課題に応える、あるいは、そこにチャレンジする講演が期待できるだろう。楽しみでもあり、責任も感じるところだ。ぜひ、おいでいただければと思う。




2013-09-26

神学生の必読書。田川『イエスという男』

神学生の必読書として。
 マルコ研究で著名な田川健三氏によるイエス研究。聖書学者としての類いない研究熱が、氏の極めて強い個性によって一つの形をとったイエス理解の本。
                 

 おそらく、教会ではなかなか聞くことのないメッセージを聞くことになる。
時代、地域、社会のなかに生きた人間イエスを探求しながら、そこでイエスが何をして、何を求め、また何を語ったのかということを浮き彫りにする。聖書学の最新の成果というよりも、田川氏自身の緻密な聖書学的研究の成果を示していると言ってよい。加えて、氏の独自の視点が貫かれた筆遣いは、ユダヤ階級社会の体制に対する逆説的反抗者としてイエス像を描き出し、キリスト教によって著しく神格化したイエス像を糾弾する勢いだ。そうして、イエスの「生」そのものを描き出すことで、本当のイエスとの出逢いの意味を受け取ることができると考えているのだろう。
 独自の視点をどう評価するかは、人それぞれだろう。しかし、キリスト教への徹底した批判的視点を、どのように受け止めるのか。神学生なら、必ず読んで考えるべき書物の一つ。「これ、チャント読んだ?」の質問に、どう応えるか。そこが、もっとも大切なポイント。もちろん、キリスト教を批判するのみで、自ら田川とともにイエス教?、もしくは田川教を自称するなどということになるのなら、なにをか言わんやということだが…


2013-09-23

神学生の必読書① 『キリスト者の自由 訳と注解』

神学生(ルーテル)に向けて、推薦する本を紹介していきたい。
その第一冊目は、徳善義和先生が書いてくださっている、マルティン・ルターの古典的名著である「キリスト者の自由」の翻訳と解説の書だ。

                                                                    

 本書は、はじめ新地書房という出版社から30年ほど前に『全訳と吟味』として出版されたものだ。後に、出版元がなくなって教文館から、もともとの副題であった「愛と自由に生きる」をタイトルにして再度出され、さらに構成を改めて2011年に今の形で出版されたのだったと思う。

 ルターは、当時のアカデミズム世界のラテン語でも神学的著作を続けたが、同時に信仰の事柄を一般の人々とも分かち合うためにドイツ語でも著した。幾つかの著作はその両方で出版されている。1520年に著した「キリスト者の自由」もラテン語、ドイツ語両方で書かれている。内容は基本的に同じものだけれども、言葉の違いは当然に異なるところがあるということだ。ルター本人がもともとどちらの言葉で考え、書き下ろしたのか。これには議論が分かれる。しかし、少なくとも、ルターが母語であるドイツ語で、また一般の人たちにも分かち合うことを考え、書いている場合に、より中心的なメッセージが伝わってくるということもあるだろう。自分たちの言葉で、神様の言葉に取り組む。これはルターの基本的な信仰の姿勢だった。だから、聖書のドイツ語翻訳にも取り組んだ。自分たちの生きている、その生活の只中で、その言葉で神様の言葉を受け取っていく。ここには、神学ということの一番大切なことがあると言ってよいだろう。

 日本でルターの「キリスト者の自由」と言えば、岩波からだされている石原謙氏の翻訳が長く親しまれている。しかし、出版後、佐藤繁彦氏がこれにはかなり多くの批判を展開したらしい。ドイツ語訳といっても、現代ドイツ語からではなく、ルターの時代のドイツ語として読む必要があると言う点とラテン語本文との比較検討、ならびにルター著作全体からその主意を読み取っていくことが必要だということが、佐藤氏の石原氏への批判だった。佐藤繁彦氏はルーテル神学校で長く教えられたルター研究の第一人者だ。これもまた考えさせられることだ。時代の中で、言葉も変わる。その時代のコンテキストを捉えなければ、神学は生きたものとならないのだ。
 
 徳善先生のこの翻訳は、もちろん、16世紀ドイツ語、日本で言えば室町時代の古文ということになるが、そこからの翻訳、またラテン語との比較研究によって、新たな理解も拾い上げられている。
 さらに、その注解の内容は、長い徳善先生の研究と神学校での講義から生まれたと聞いている。教会の宣教という神学の現場や今日の日本というコンテキストにあって、徳善先生が取り組んで来られた成果がこの注解には込められているように思う。

 私が神学生になった年に、最初のものが出版されたので、入学時にいただき、以来の私の座右の書といっても良い。後にFEBCで先生がこの内容を丁寧にお話くださる放送をされた時、お相手役もさせていただいた。(http://lib.febcjp.com/ty101_t/
 神学生には必読の書。4年生までに、この解説をくまなく読通して、理解を深めてから自らの神学的研鑽を確認し、卒論に取り組んでほしい。

 

2013-09-03

ルターからの贈り物 一日神学校2013

毎年、9月23日に行われる伝統の一日神学校。
今年のテーマは『ルターからの贈り物〜Lutheran Legacy 500 』。4年後の2017年、宗教改革500年記念に備えての企画だ。
                   
                  


プログラムは以下を参照
http://www.luther.ac.jp/news/130725/index.html

午前中、ルター研究所の鈴木浩所長と高井保雄先生と石居でシンポジウムとなる。どんな話になるか自分でも楽しみだ。
ルターの「宗教改革」と言われるけれども、中世西欧のキリスト教的一体世界における歴史的出来事。つまり、むしろ「宗教」という枠組みのなかでの「改革」に留まらない決定的な歴史的変革の出来事というより広いパースペクティブで捉えるべきだろう。

具体的に、それは教会中心的な中世社会の終焉における社会改革運動とも言ってもよいか。ローマ・カトリックという教会の支配と神聖ローマ帝国という世俗の支配の中央集権的な体制は、その基盤を失い、また、新しい個の出現と地方から構造が胎動するなかにおこってくる歴史の産物でもあろう。科学や理性の時代の到来、活版印刷術による新しい情報社会、そして航海術による地球規模の新しい世界の広がり。世界が大きく変わっていこうとするその只中で、決して明るい未来を望むことの出来なかった世紀末の暗い死の影に包まれたルターは、純粋に中世の精神に生きつつ、「この世に生きる」ことの確かさを求めた。だからこそ、それは神との格闘であったし、だからこそ、これは宗教改革なのであった。
やがて、その信仰の軌跡は、神学の基本的な構造を書き直すことになるが、それは確かな形をとって、礼拝の改革、信徒の具体的な信仰生活への変革をもたらしたし、それは教育・福祉という当時の社会における公共のシステムに新しい変革をもたらした。
やがて、これが近世の始まりと呼応する。

ルターからの贈り物とは、単にルターが何を始め、なにを遺してくれたのかという事をあげつらうのでは何にもならない。その時代における人間の最も深い「危機」をどのように生きようとしたのか、そして、また生きる力を与えられたのか。その格闘に学ぶところにあるのではないか。そんな事を考えている。