2012-07-30

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読む

仏教の詩人といってもよい宮沢賢治の作品、『銀河鉄道の夜』。



いろいろな重荷を背負う孤独な少年主人公ジョバンニが、祭りの夜に体験する幻としての銀河鉄道。それは、生と死を結ぶ不思議な世界でもある。

丁寧に読み解くと賢治の死生観を伺うことが出来る。それは、何か死後の世界についての思弁ではなく、人間が死と隣り合わせの生を生きる不思議と、その孤独な生を生きいく深みにおいて、私たちが生きることの本当の意味を問うものである。

子どもの頃に読んだきりで、長く気になりながらも読まないままにおいたこの作品を久しぶりに読んだ。改めて読むと賢治がまるでキリスト者ではなかったかと思うほどにキリスト教的作品と見える。もちろん、「讃美歌」、「カトリックの尼さん」、「バイブル」、「ハレルヤ」、そして「十字架」などの要素がちりばめられているだけではなく、「ほんとうの幸い」を求め、それが「ほんとうにいいこと」をすることであり、「みんなの幸」になることをもとめつつ、そのために自らを犠牲とし、捧げるという作品の中心的メッセージにおいて、賢治が深くキリスト教に触れていることを示している。

けれども、作品の後半で、たったひとりの「ほんとうの神さま」について議論される場面がある。そこに至って、宮沢賢治がキリスト教や他の宗教の枠組、その教義的理解を超えて求め続けたものがあることに気がつかされる。だから、厳密にいえば、深くキリスト教的色彩を持つが故に、キリスト教そのものへの宮沢賢治の批判的な立ち位置にも気づかされるのだ。

この鉄道の幻の最後の場面で「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」「僕わからない」とやり取りするジョバンニとカンパネルラ。「僕たちはしっかりやろうねぇ」とジョバンニはいう。そのジョバンニの決意こそ、賢治自身がおそらく誰かの死の悲しみを超えても生きていくために自らにおいた決意に他ならないのだろう。

しかし、そのための生きる力は、一体どこからくるものなのか・・・。





2012-07-15

『いのちと環境』

柳澤桂子氏が、生命科学者として放射能の危険について述べている。



いま、放射能についてあまたの本がでているけれども、読みやすく、また信頼性が高い一冊。いまさらながら、放射能の危険がどういうことなのか学び、確認したいなら、まず手に取りたい一冊だ。知らなかったでは済まされないからこそ、今一度私たちの頭を整理しよう。。
このいのちに対する、見えないしかし恐ろしい力を生み出す原子力は、戦争利用であろうと平和利用であろうと、もはやそんなものに人間は頼ってはならないと、はっきりとした態度を広げていくことが必要だ。


2012-07-10

反原発の声、日本聖公会の声明を受けて

日本聖公会が、今年の五月の全国の定期総会で、反原発の立場を明らかにした声明を採択した。
原発のない世界を求めて-原子力発電に対する日本聖公会の立場―」
http://www.nskk.org/province/others/genpatsu2012.pdf

カトリック、ルーテル、聖公会の諸教会がそれぞれの責任機関において今の日本の原子力発電の存続、その稼働について深く危機感を共有している。
カトリック司教団の声明
「いますぐ原発の廃止を ~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

日本福音ルーテル教会 声明 (総会決議
一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を! 日本福音ルーテル教会としての『原発』をめぐる声明」
http://www.jelc.or.jp/data/pdf/201206.pdf
(機関誌『るうてる』4面)

地球環境の保全の視点はもちろん、原子力の利用に際して弱者に犠牲を強いるシステムの問題、将来にわたる生命への影響の問題を看過することはできないと、神様からの委託に応える信仰的立場から明らかにして、原子力にたよらない新しい生き方を求めている。

日本のキリスト教会は、実効的影響力を持つほどに、力を持っていないかもしれないが、この歴史的三教会のはっきりした声明は意義深いものだと思う。
それぞれの教会が草の根の運動をこれからの時代に向けて作り出していくことが、声明を本当の意味で生かすものと成るはず。声明を出して終わりということにならないように我々がここから運動を起こしていく、発言をしていく責任をもっているのだ。

もちろん、私たちはいたずらにこのスローガンを掲げて熱狂するのではない。また、これをいかなる意味においても、信仰の踏み絵にしてはいけない。けれども、このテーマが私たちの大きな課題であることを決して忘れてはならないのだ。現実的な問題を深く捉え、どう判断し、何を今考えなければならないのか。何を選び取るべきなのか。その一歩、そのための足場をこれらの声明が示している。

「反戦・反原爆」の夏が来る。「反原爆・反原発」を声としよう!


2012-07-02

くまとやまねこ

絵本は、子どもの読むものというのは必ずしも正しくない。むしろ、絵本という表現によっていろいろなテーマに迫る一つの形なのだ。
近年、「死」というテーマをいろいろな角度から取り上げる絵本が出版されるようになった。もちろん、それが子どものためのものということでは必ずしもない訳だけれども、子どもにも触れやすいものとして作られた作品は大人が子どもと一緒にその作品を通して、一緒に考えたり、話したりすることのできるものだと思う。



主人公のくまは、大の親友のことりが死んで、ふかい悲しみの中に過ごす。死んだことりを忘れて前向きに生きるように言われても、この悲しみをいやす力にはならない。ただ、時を過ごして、やまねこと新しいの出逢いの中で、くまはことりの死を死として受毛止めていく力を与えられる。死を否定するのではなく、死んだものがどれだけかけがえのない存在であるかということを分かち合うことが、できたからだろう。そうして、死んだことりはしんだものでありつつ、ともに生きるものとして受け止められ、くま自身の新しい歩みが見いだされていく。

静かな絵本だが、「死」の受容、グリーフワークの働きを伝える良書。