2012-03-31

「わたしの教理問答」

FEBCで、新番組を担当させていただくことになった。
番組名は「いちじく桑の木登り~わたしの教理問答」。なぜ、「いちじく桑の木登り」なのかについては、第一回の放送の中で取り上げているが、下のFEBCのHPを見ていただければと思う。



キリスト教において、私たちは何を信じているのか。その信仰の内容について、聖書をたどり、また教会の歴史の中で深められてきたものをくみ取りながら、私たちの信仰を確認していく番組となるように願っている。限られた時間枠であることもあって、「教義学」のように詳しく展開することは目的としていない。むしろ、私たちがキリスト教の信仰ということを今一度確認しつつ、一つひとつの問いの中でキリストとの出会いに導かれていることを知っていきたい。




水曜日の夜、9時48分から22分ほどの番組。第一回は4月4日。いつものように、吉崎恵子さんにお相手をお願いしている。いわゆる「信仰入門」ともいえるが、長く聖書に親しみ、自分の中に自然と息づいている信仰を、今一度見つめていくものとなるだろう。
乞うご期待。





2012-03-30

NCC総会礼拝

2012年3月26・27日の二日間、日本聖公会聖アンデレ教会において、日本キリスト教協議会の第38回総会が開かれた。
総会二日目の朝の礼拝を信仰職制委員会・委員長の私と神学・宣教委員会の大宮溥委員長と二人で担当するよう依頼され、大宮先生と年頭に打ち合わせ、準備をさせていただいた。

礼拝は、テゼ共同体の祈りと賛美を用いて、「一つになって」というテーマにさせていただいた。
震災と原発の事故によって被災の人々はばらばらにされ、その生涯が切り裂かれる経験の中におかれていることを私たちもまたともに経験している。そして、一般の社会の中で「絆」や「つながり」が求められ、助け合い、支えあうことが改めて見つめなおされている。それは、今回の被災によって特にクローズアップされた問題だけれども、現代の日本社会が特に20世紀後半から直面させられてきた問題なのだ。神と人との間が私たち自身の罪によって切り裂かれるとき、人と人、人と被造物が分裂し、その深い痛みを負わされている。この分裂の中にあって、結び合い、一つとなることを祈っていきたかった。

また、実際に被災された方々を憶えること、また特に生と死の境を異にせざるを得ず切り裂かれた痛みを憶え、主から慰めと力が与えられるように祈りたいということ、そして、この現実の中で、だれもキリストによって見いだされないものはないと信じ、祈りを合わせていきたいと願った。

そして、NCCがキリストのミニストリーの中に生かされるものとして、こうした切り裂かれている現実の中で信仰の一致と協働を主の恵みのうちに証しするものでなければならないし、そうありたいと思い、このテーマを持たせていただいた。(そして、一番私自身が大切に思っていたことは、この現実に責任のある私たちの罪の告白だった。)

大宮溥先生にはローマ書8章18-30節から御言葉を取り次いでいただき、「共に生きる」と題して説教をいただいた。NCCのおかれている「今」を深く考えさせられ、また励まされた説教をいただいた。

加盟の各教会、団体の代表者にろうそくを灯して、聖卓の前に進み出ていただき、祈りを合わせ、神様からの赦しと祝福をいただく、感謝の部を設けさせていただいた。

教会が聖公会の聖アンデレ教会であったので、あのアンデレが五つのパンと二匹のさかなを持った少年を主の前に連れてきたように、私たちがそれぞれに持っているものは役に立つとも思われないようなわずかであっても、それを主が受け取られ、神への感謝とともに祝福し、用いられるときに大きな働きに生かされていくものであることを象徴的に表させていただいた。


NCC、日本キリスト教協議会は、日本のプロテスタント諸教会の教派を超えたエキュメニカルな働きを担うものである。エキュメニカルな働きの一つの軸は信仰の一致ということである。歴史の中で、それぞれの状況の中で生まれてきたプロテスタント諸教会は、しかし、同じキリスト教会なのだ。その信仰を一つの信仰として、互いに理解を深めキリストに従う一つの交わりとして自らを表していくことができることを目指している。
今一つの働きの軸は、この世界の中で信仰に基づいて他者のために奉仕をする、実践的な働きについての協働である。
こうしたNCCの働きは、日本にあるばかりではなく、世界中に存在する。世界規模の団体としてはWCC、世界教会協議会がある。日本のNCCはこのWCCの働きを受けながら、日本におけるプロテスタン教会諸派が一致と協働のために話し合い、活動を担っていくものとなっている。キリスト者としての多様な活動、運動がこのNCCを軸にして生み出されてきた。

しかし、この新しい21世紀を迎えて、NCCはその組織そのもののあり方について大きな曲がり角に立っている。加盟の教会、団体をはじめ、各委員会が今改めて自らのあり方について考えなければならないのだと、痛感させられた総会だった。

そうであればこそ、本当に主の前に立つものであること、憶えたいと思い、この礼拝を企画させていただいた。
主の恵みに生かされたい。


2012-03-12

3・11 カトリック・NCC合同祈祷集会


いつの間にか、梅が咲いて、春の足取りを思い起こさせてくれている。
一年前も、同じように春をたくさん感じ始めた3月11日、午後2時46分。
東日本大震災が東北を襲った。続く津波の脅威は、すべてを根こそぎさらっていった。制御のきかなくなった原発からは放射能が流れだした。

あの日から一年。
カトリック教会とNCC(日本キリスト教協議会)の合同主催によって「東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会」が全国で持たれた。
東京では、四谷麹町の聖イグナチオ教会にて行われた。

礼拝の式文は次の通り。
http://ncc-j.org/uploads/photos/25.pdf

会堂にいっぱいの人が集まり、岡田武夫大司教と輿石勇NCC議長との合同司式で執り行われ、岡田司教から御言葉をいただいた。

礼拝の終わりに現地での活動報告。被災のお一人ひとりに寄り添うことの大切さと難しさ、しかし、主の働きがもたらされるために用いられることについて深く深く思いめぐらし、浅薄な自分の祈りが導かれた。
ともに祈ること。教派を超え、宗教を超えて、この日にささげられた祈り。この祈りから、私たち自身が整えられ、神の働きのなかに生かされていく。そうありたい。





2012-03-05

教職授任按手式礼拝 2012年3月

今日3月4日は、日本福音ルーテル教会の教職受任按手式礼拝。
竹田大地氏と乾和雄氏の二人が按手を受けられた。
神と教会からの委託が「手を置いて祈る」という行為に伴う聖霊の付与において、それぞれを教会の職務へと召し出す。厳かな儀式の中に、受按者の信仰が改めて神によってとらえられ、召し出される恵みの出来事にあずかった。

大勢の方々が集い、この喜びを分かち合うことができた。
西日本福音ルーテル教会の教職で、神戸ルーテル神学校の校長、正木牧人氏が駆けつけてくださった。お忙しい中、この近畿福音と西日本のルーテル教会の牧師養成を担う神学校校長がおいでくださったことはことのほか意義深いことだ。
今回按手を受けられた乾氏は三年と一学期の間、神戸の神学校で学ばれたのだ。中学の教頭を勤め上げた後、献身を決意、学ばれることになったが、神戸に住まいがあり、ご家庭の事情もあって神戸から離れずに研鑽をつまれることになった。ちょうど2002年に神学校の複線化が憲法上認められていたことを初めて利用されるケースとなったのだ。こうして、実際に牧師が育てられ按手を受けられたことは何にも代えがたい喜びである。最後の仕上げとして、7か月のインターンと臨床牧会訓練をしっかりと東京の神学校でおさめられてのこの日である。教会の祈りが重ねられて、実現したこの歩みの尊さはいかばかりも欠けたるところはない。

教会は宣教者を求めている。それが育てられる道の多様なあり方は教会にとって、勇気を与えるものであったし、実際によい証となっている。

今後、この制度が活用されていくとするならば、もう少し神学的な確認を積み重ねないとならないとも思う。特に神戸の神学校との更なる交流と神学的な話し合いがなされ、日本におけるルーテル教会の教職養成にともに力を合わせていくようにしたい。

神学校の明日を切り開くためにも、乾氏の足跡は非常に大きな意味を持ったことだと思う。

多くの祈りがこのお二人を支え、また歓迎し、ともに生かされていく喜びを分かち合い、受け取っていた。
主に感謝します。



2012-03-03

神学校卒業聖餐礼拝 2012年春

東京教会での「神学校の夕べ」も終え、按手礼拝をまつこの3月1日の木曜日に、日本ルーテル神学校の卒業聖餐礼拝が行われた。実は、毎年はこの卒業聖餐礼拝の翌日が大学と神学校の合同卒業式なのだが、今年は学事暦の関係で卒業式は一週間あとになった。


今年、一人の卒業生と一人の特別学生の終了にあたって、主の宣教の働きへと召し出される御言葉をいただき、神学校のすべての課程を終えた学生たちに特別の派遣の祝福が与えられた。

この礼拝は、いつも受難節にあたるということもあって聖壇には特別なレリーフが置かれる。チャペルの大きなレリーフ「派遣」と同じ作者カイテン宣教師の作の「十字架に釘づけられた主の手」。

この手は、祈りの手であり、弟子たちを招いた手、貧しい人々へさし延ばされた手、祝福された手、病人を癒しをされた手、宮清めのために激しく人々を追い出された手、ラザロを墓から呼び出された手、復活ののちにはトマスに差し出した手だ。

この手が、弟子たちを派遣する。卒業生を送り出すこの日に、私たちが主の手によって生かされ、主の手によって支えられ、主の手を生きるようにここから派遣されていくことを憶える。
何よりも、私のために ここに釘づけられた この手がある。

この手が、ご自身を裂いて、この聖餐式に分かち合ってくださった。

さあ、ここから出かけていこう。




2012-03-01

「カトリック諸宗教対話」から考える

カトリックとNCCとの間で毎年開かれる対話集会、その第29回の集会が2月28日に四谷のイグナチオ教会ヨセフホールで開かれた。
今年のテーマは、「『カトリック教会の諸宗教対話の手引き』について」。
2009年に出版された、同書の解説をいただきながら、今日のカトリック教会が他宗教についてどのような姿勢を持っているのか、また、具体的な現実のかかわりの中でどういう問題があるのかなど、キリスト教会と他宗教との関わりということについて、大わ変興味深い発題をいただいた。

 

http://www.cbcj.catholic.jp/publish/other/jissen/jissen.html

信徒の信仰生活では、当然のことながら、親せきや地域のかかわりの中で必然的にキリスト教以外の宗教に関わることがある。どのように対応するべきか、非常に具体的な問題について、カトリック教会が指針というか、手引きを明らかにしているのだ。
発題は、フランコ・ソットコルノラ司祭と園田善昭司祭。本の内容にそって解説をいただく形式ではあったが、ソットコルノラ司祭が基本的な神学的な取り組みについて話され、園田司祭は具体的な問題にかかわっての発題だった。
具体的課題は、たとえば冠婚葬祭で他宗教とかかわる場合のことあるいは地域のお祭りや正月のお飾りなど、日本の生活習慣の中にある宗教性とのかかわりの中でクリスチャンとしてどのように対処すべきかというもので、これは大いに役立つ。

第二バチカン以降の他宗教への新しい対応の在り方をわかりやすく解説された。
カトリックの基本的な考え方は、包括主義といえよう。他宗教にも真理の契機があることを認めつつも、キリストがない限り、救いは教会以外にはない。結局は唯一の真理と救いはカトリックにあるので、他宗教の中にも良いものは認めるけれども、回心がおこならない限り救いはあり得ない。けれども、他宗教との対立はさけ、忍耐強く対話を続ける。
しかし、結局対話において、変わるべきは常に相手側であって、教会には変わる必要はないというのが基本的な考えであるようだ。

けれども、他宗教のなかに、カトリック(キリスト教)よりも優れたものはないのか。
たずねると、
実践のなかでは、カトリックの真理への接近に大いに役立つもので、自分たちの伝統の中にはなかったり、あるいは時代とともに見失われてきたものもあるので、現在の宗教間対話がカトリックにいろいろなよい影響を与えることはあるという答え。

でも、ここからが問題なのだ。たとえば実践において、仏教の禅において、自らを無とするやり方がある。仏教にはキリストがないし、十字架の贖いがないわけだから救いは求められないけれども、この実践には、自らを無にして神様の御心に満たされる方法を示唆されるという。たとえば、キリスト教におけるケノーシスとも重なるという。
これなら、実践的ななにか。方法論の援用ということにとどまりそう。

でも、園田司祭の発言は非常に微妙な展開を見せた。
つまり、他宗教にみとめるべきことが単に実践的な問題だけなのか。キリストの真理が最終的・決定的なものであることをゆるがせにせずとも、キリスト教、カトリックがその真理についてただ一つの絶対的な理解を今すでに持っているということが言えるのか。神学の中に真理理解の発展ということがあるとするなら、現在の神学の言葉は部分的なものでしかない。つまり、歴史の中で相対的なのだ。キリストの真理をすべて言葉にしつくし、絶対的な表現を持っているとはいえない。絶対的でないのであれば、相対的な理解にとどまる。ならば、もしかすると他宗教の真理理解に、部分的であるとしてもより優れたものがないとは限らないのでは・・・と。
これは、大変微妙な発言。カトリック的インクリューシヴィズムは、歴史主義において相対化されてくるようにも思えるのだ。
ここをもう少しお聞きしたかったところだが、限られた時間を思い、これを掘り下げることはできなかった。しかし、園田司祭が、他宗教との長い対話のなかから、注意深く発言されたその言葉は、なかなか重たいものだ。キリスト教の相対性を語るとしても、キリストの絶対性は疑うことはない。それでも、謙遜に、しかし、確かな信仰を生きながら、真摯に信仰を異にする人々と向かい合う知性を思わされた。