2009-09-25

百周年 記念式典



9月23日、日本ルーテル神学校の創立百周年の記念式典と礼拝が行われた。
今から百年前に、日本でルーテル教会がキリスト教の宣教によって神の愛を伝えていくために、日本人の牧師を養成する。そのための神学教育が熊本の地で始められた。1925年に東京の中野区鷺宮に移り、1964年に大学と神学校の体制をつくる。76年にはキリスト教社会福祉コースが設置され、87年に社会福祉学科へと成長する。92年には神学科内にキリスト教とカウンセリングコースがつくられ、これが2005年に臨床心理学科へと発展する。

キリストの与えられる愛と喜びを、具体的に分かち合うために、働き人を養成する。その使命を持って歩んできた百年の歩みを改めて確認することになった。

2009-09-11

マイケル・ルート氏講演

日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学の百周年記念で取り組んだ神学の連続公開講演の一つ。

http://www.luther.ac.jp/news/091117/index.html

この9月4日には、アメリカのサザンセミナリーの組織神学の教授、マイケル・ルート氏を迎えた。講演のタイトルは「エキュメニカルな対話におけるルーテル教会とはーこれまでと将来」。
16世紀の宗教改革以来、たくさんの教派に分かれてきたキリスト教会が、唯一の神をキリストにおいて一致して告白することができるようになる祈りとそのための教会一致の働くことをエキュメニズムという。ルターはもちろん、教会の改革を呼びかけたのであって、教会を割ることを求めもしなかったし、願ってもいなかった。しかし、結果はキリストの福音を確かにするための彼の主張が、後にルター派の教会と呼ばれるようになる群れをつくることになった。宗教改革の陣営はまた、その聖餐の理解における異なる立場において一致を保つことが出来なくなった。つまり、ルター派であることは、歴史的にいえばキリストの福音理解において教会を割ることになってもその神学的な主張を守り抜くことであった。
19世紀以来の信仰復興運動が盛り上がり、ヨーロッパの世界進出とともに世界宣教が進められていく時代にエキュメニズムが展開する。二つの世界大戦を経ることで、この教会一致の運動も楽観的な見通しよりもはるかに厳しい現実認識の中で、しかし、また世界へキリストを証する使命を帯びて展開してきた。その一つの頂点が、おそらく礼拝における聖餐の交わりを実現するようにWCCの「信仰と職制」の委員会によって取り組まれたリマ文書(BEM)とリマ式文の完成(1982年)だろう。しかし、それ以後はエキュメニズムといっても大きな進展が見られないと言われ、エキュメニカル冬の時代とさえいわれる。

ルート氏は、しかし、この時代にこそ、ローマ・カトリックとルター派、またルター派とアングリカン・チャーチの間で生まれてきた新しい成果のあることを指摘しながら、この「冬」の喩は正しくないとしながら、むしろ、この困難な時代は、教派を超えた新しい課題にキリスト教会全体が向かい合っていることを自覚しつつ宣教と神学の新しい協力関係を築かれるべきことを訴えた。「和解された多様性における一致」を目指し、教派的な違いをむしろキリスト教世界全体の豊かさとし、ルター派であることをはるかに大きなキリスト教世界の流れの中に位置付けることを意識すべきと説いた。

講演全体は、いずれ出版紹介される予定である。

2009-07-25

ヨアヒム・リングレーベン氏講演

去る7月13日月曜日、ルーテルの創立百周年記念の連続神学講演会が日本福音ルーテル東京教会で開かれた。講師はドイツのゲッティンゲン大学教授ヨアヒム・リングレーベン氏。「ルターの聖餐理解」について、現代的な視点をもって語られた。
ルターのリアル・プレゼンスの聖餐理解を、神の言葉によるリアリティーの問題とするユニークな視点を展開された。神の言葉が「語られる」とき、そこに神的リアリティーが創造されるという。

http://www.luther.ac.jp/news/090818/index.html

難解ではあったが、ポスト・モダンの神学ということを改めて考えさせられた、素晴らしい講演だった。

2009-07-11

救いをキリストにゆだねて

http://febcarchive.seesaa.net/article/122203911.html#more


7月10日に、FEBCの特別番組 今日を問う「今、自殺と向き合う」で自分が担当させていただいた「救いをキリストにゆだねて」 が放送された。
収録はもうしばらく前のことだったが、このテーマはほんとうに重たいテーマだ。型にはまった言葉ではなく、いま、目の前にいる一人ひとりにどのようにしてキリストを伝えることがきるのか。私が立っているのは課題の前ではなく、そこにたたずむ一人ひとり。

神学の学びが、机上のものにならぬように。

改めて 襟を正している。

2009-06-22

ヴォーリズ展




先日までのパナソニックビルに汐留ミュージアムでウィリアム・ヴォーリズ展が開催されていた。メンタム(メンソレータム)の近江兄弟社を設立した人だが、もともとは英語教師として日本にきた宣教師で、琵琶湖畔での彼の活動は日本人に大きな感化を与えたことで知られる。のちに建築家として活躍し、神戸女学院をはじめ多くの学校、教会、病院や郵便局などを設計している。その設計の美しさにも魅了されるが、彼のキリスト者としての生を深く思わされた。
肌の色だけではなく、ことばも文化・宗教もまったく違った世界である日本に来て、その生活と働きを通して多くの日本人の心を魅了したヴォーリズの遺した作品を、日本におけるキリスト教史の大切な一ページとして考えたい。

2009-06-10

セミナー 発表原稿



むせかえるほどの甘い栗の花のにほひ。雨あがりの道にたちこめて、先を急ぐ足をとめる。
不思議と、遠い昔がよみがえってくる予感が胸の奥でうごめいてくる。その瞬間に、何か大きな御手が自分の歩みを包み込んでいるように感じられて、しばらく委ねてみたりする。



さて、先日から、なんとかならないかと悪戦苦闘中だけれども、これでセミナーでの発表原稿が見られるとよいのですが。




http://docs.google.com/View?id=dhbtdn5z_13d9p8pvfh

2009-06-04

牧師のためのルター・セミナー


毎年、6月の初めにルーテル学院大学付属ルター研究所主催で、「牧師のためのルター・セミナー」が開かれている。今年も1日から3日、昨日まで二泊三日で行われた。場所は、長く御殿場で行われてきたが、ここ数年は三浦海岸で行っている。と言っても、二泊三日ほとんど缶詰で研究発表に学ぶので、どこであってもあまり変わらないといえばそうなのだけれども・・・。以前h、もう少しゆったりとしたスケジュールだったが、最近は、みっちりと取り組んでいるので、結構疲れるものだ。でも、缶詰にでもならないと集中した時間を過ごせないのも事実だから、たまには、こういうのもいいなと思う。
今年のセミナーのテーマは「洗礼」だった。昨年08年は「二王国論」だったが、05年が「教会論」06年に「礼拝」、07年に「聖餐」と取り上げてきて、いわゆるルター研究のなかでも教会という脈絡をもって学ぶ傾向は、うちの大学・神学校の付属研究所としてふさわしいあり方ということがいえるだろう。改めて洗礼の恵みについて深く学び、またその実践的課題についても学ぶことができた。自分の研究発表については、後に詳しく紹介することとしたいが、アメリカの福音ルーテル教会が06年に出版した新しい礼拝書のなかに見る洗礼の神学と実践をレポートし、こうした教会の取り組みを生み出したアメリカの教会と社会の現実を分析した。それは、アメリカでの取り組みを何でも日本に取り入れるのではなく、それぞれの社会や文化、宗教的な現実のなかで、何を教会は必要とし、また伝えようとしているのかという実践の総体をとらえなければ、日本の宣教に本当に生かさる神学にも実践にもならないからだ。
写真は、ルターがワルトブルグに幽閉になりながら、聖書の翻訳に取り組んだ場所。ルターは絶えず神学がどんなふうに実践を生み出して行くのかということに心を砕いてきた。その時代にともに生きる人々に神の言葉を伝えることに生きたといってもよい。ルター派の伝統の中で、何を世に伝え、ともに生きていくことができるのか。それがわたしたちの課題だと思っている。