2015年の第一回から隔年で開催してきた臨床牧会セミナーも今期で5回を数える。今年のテーマは「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」とした。
その全体について報告はDPCニュースレター10号に載っているのでぜひご覧いただきたい。そして、そこに掲載されてもいるのだけれど、このセミナーでさせていただいた基調講演を、ここに直接読めるように転載をさせていただこう。長いので3回に分けて、転載したい。少し考察したものなど、それぞれに加えたり、修正をしたいと思っているところもある。とはいえ、新しいものではないので、ニュースレターでご覧いただいていれば、それに越したことはない。
また、当日の発表時にはレジュメのみを用意して語ることはなかった第二部がある。それについては、この連載の後にできる限り文字化してみようとも思っている。これは、全く新しいものとなるので、合わせて読んでいただけると嬉しい。
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基調講演:「暗闇の中で:助けを必要とする牧会者」
「光あるうちに光の中を歩め」。けれども現実は厳しい。牧会者として立たされながらも、 牧師自身が深い闇の中で立ちすくみ、助けを必要としていることを思う。他教派でも私たちの教会・教団でも、牧師たちがさまざまな理由から一時的に牧会の現場を離れざるを得なくなったり、退職となったりするケースも見られる。一律に語ることはできないが、宣教・牧会の現場の厳しさを思い、その「暗闇」を考えたい。
1.「暗闇の中」の牧会者〜教会の現実
私たちが宣教の務めに召されていること。それは、神の福音を宣べ伝え、分かち合うために 他ならない。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ 1:5)と言われるとおり、牧会とはこの世の普遍的な「暗闇の中」において光を灯す務めである。すなわち、牧会者は私たちの罪や悪の現実に向かい合う者である限り「暗闇の中」にあるのは当然のことなのだ。宣教も牧会も、その働きは神ご自身の御業であり、私たちはその 神の働きに用いられ、またその業に共に与るものである。どんなにその闇が深くとも、牧師は神の牧会を目の当たりにし、その証人とされていく。その意味で、暗闇の中にあったとしても、本来、牧会者ほど恵まれた者はない。
ところが、近年私たち牧師・教会を巡る状況は大きく変化してきていて、その闇が一段と深くなってきているのではないかと思う。たとえば、1990 年にはまだ牧師・宣教師の数は教会の数に比して多かったが、今では 3 分の2にとどまっている。このような牧師数の急激な減少のため、牧師たちは全国どこにおいても兼任・兼牧が避けられない。それによって牧会そのものが深刻な危機の中に立たされている。私たちは日曜日の礼拝と諸活動の中での関わりの中で牧会のために必要な情報を得たり、訪問に備えたりするのだが、多忙さはそれを妨げている。
加えて、3 年にも及んだCOVID-19 の影響は、それぞれの教会での活動、とりわけ食事を伴う交わりを失わせ、教会員の相互牧会の機会を減少させた。牧師は信徒の霊的ニーズをなかなか把握できず、そもそも距離を置くことが求められて、訪問は病院、施設、家庭を問わず困難になった。牧師と信徒が共に与る神の牧会そのものが成立しづらくなってしまったのである。
これは、確かに感染症による特別事態なのだが、同時に現代の私たちの生の現実が露わになっているということかもしれない。
今日「孤立する私」が常態化して、本来あるべき教会の「交わり」が成り立たず、信頼どころか関係そのものが失われている。もちろん、 それぞれの地域の各教会ではこれまでどおりの小さな教会の群れが守られており、そこで長く積み重ねられてきた関係は強固に私たちを 結び合わせている。けれど、決して新しい関係は切り結べないままにその交わりは次第に小さくなっていく。長くそれを担ってきた人たちがかろうじて活動を継続しているというのが実情で、世代交代は難しいし、新しい来会者はそれを担っていくほどには教会の交わりにコ ミットできず、おそらく期待もできない。
私たちがこの 3 年間に教会を守るために手にしたリモート/オンラインという手段は、ある意味で個々の信徒・求道者のニーズに応えていくものとなったかもしれないが、この「孤立する私」の現実を打破できたとは言えず、むしろ ますますそれが既成事実となってしまっているのかもしれない。
教会のこの現実は、そこで営まれる牧会の深刻さ、困難さとなっているわけだ。これが今の社会の闇の深さということかと思う。
2は次回に転載する。