2016-11-20

「今、見えないものを曇りなき眼で」@本郷教会

 今年の3月11日のルターナイツに20分という短い時間でお話した、「今、見えないものを曇りなき眼で」〜宮崎駿の問いかけを受けて3・11以後を生きる〜を、今日は本郷教会で80分バージョンでお話しさせていただいた。
 レジュメとしてお配りしたものを記録としておきたい。お話ししながら、改めてアシタカが身に負った「のろい」のしるし(スティグマ)の意味を考えさせられている。



 新しい理想の未来(時代の中で差別され、人として認められないままの一人ひとりが人間として尊ばれるための世界)を築くというエボシ御前が、その実現のために自然を切り開いていくことを可能にするため放った石火矢の一発の鉄つぶて(自然の非神話化、生産のための資源として対象化し、搾取する)。その一発が「ナゴの守」(自然のいのち)に取り返すことの出来ない傷と死の苦しみ与えた。それが、あのタタリガミ(異常な荒ぶる神)を産み出した。自然と共に活きるエミシ村を襲うのは筋違いといっても、自然の不思議な連鎖に特別な意志も論理もない。「鎮まりたまえ」といっても容易におさまることのない、その恐ろしい勢いを食い止めようとしたアシタカは、死に至らしめる「呪い」をみにうけてしまうのだ。不条理なことこの上ない。しかし、まさにそれが真実な姿だ。
 3・11の災害は自然の驚異をとことん思い知らせるものであったが、他方、その時に伴った災害は、自然にたいして人間の文明が与えた決定的な傷であった。自然は苦しみもだえている。それは、いったいどれほどの大きな犠牲を産み出すものであったのだろう。スティグマを身に負うこと。その不条理は、どんな手だてをしても、簡単には救われることはないのかも知れない。けれども、「曇りなき眼」で、その真実をつぶさに見ることだけが、「癒し」につながる可能性という。私たちへ託された使命。宮崎氏の問いかけ。
 「もののけ姫」が1997年に公開されたというのは、なんと予言的なことかと思いもするが、ある意味では、3・11のもたらしたことは予測されたことでもあるということなのではないか。
 私たちは、キリストの信仰において、この問いかけに真っ正面から向き合わなければならないだろう。私たちは、「キリストの十字架のしるし」を身に負うものだからだ。
          
人間の愚かしさは、この矛盾をわかっていても、飽くことなき欲望と利潤をもって自らを豊かなものとし、全てを支配しようという誘惑からのがれられないことなのだ。それによって、私たちは、本当は助け合い、自らの肉の肉、骨の骨と尊重するべき他者との関係に破れをもち、憎み争うものとなってしまった。聖書は、そうした私たちの姿をアダムの堕罪として記す。その罪の結果、その子たちもまた関係に破れを増幅させ、羨みと憎しみをまして、カインはアベルの血を流す。大地はさらに呪いを吸い込んでいく。そして、大地はもはや作物を産み出すことがなくなり、カイン(人)は地上を彷徨うものとなった。

 「もののけ姫」のアシタカは関係をつなぐ存在だ。彷徨いつつも、それぞれの生の真実に触れようとする。「曇りなき眼」で見極めようとする。エボシが自分の生い立ちの中に抱えていた苦しみから、しかし、「理想」を目指す新しい歩みをとった真摯な思いを受け取る。人間に恨みを満ちつつも、人間である自分の宿命を抱えたサンが、森の神々こそ、小さな人間をもその一部とするはるかに大きないのちの営みの確かさを守るものと知っている、その真実をアシタカは受け止めている。そして、どんなに刃を向けられても、「そなたは美しい」といって、サンのいのちの尊厳を慈しむ。そして、エボシのタタラバと神々の森とが共に生きる道を求め続けるのだ。
 映画の最後は、サンとの再会を誓い、今はそれぞれの場所に留まって、しかし、繰り返し、新しい道を探ろうとする。このように、そこに踏みとどまる力はどこから来るのだろう。彼に与えられた「スティグマ」が、不思議な「力」になっているのかも知れない。けれど、本当は、「力」に頼る愚かさをこそ、エボシの姿に描いたはず。宮崎のなかには、なお解けない問いが残されている。
 
 カインの末裔としてのしるし…私たちは、その苦しみの中にあるのか。けれど、神は私たちを決してあきらめない。こんなにも、神から遠く、御心にそぐわない私を愛し、求め、赦し、生かしてくださる。絶望の中に希望をもたらすように、ご自身がこの絶望の只中においでになっている。それがイエス・キリストの出来事が示す啓示なのだ。けれども、ここには「無力さ」のみがある。人間の「弱さ」がある。十字架の愚かさ。そこに、ただ、他者とともに、他者のために生きる十字架のことばがある。
 このことばに与るものは、自らにキリストを、その死といのちを、その十字のしるしを新たに与えられる。無力さ、よわさ。しかし、愛すること、つながることにこそ言葉を持っている。赦しの中に生きる道。赦されて、赦しへ。長い、長い道のりかも知れないが、その確かな歩みの中に生かされていく。だから、このしるしを負うものは、共に、あの方の御心にむかって歩むのだ。


 
「今、見えないものを曇りなき眼で」
     〜宮崎駿氏の問いかけを受けて、3・11以後を生きる〜

1.自然と私たち
(1)驚異の自然
   美し国、いのちの豊かさ、神々の世界

(2)自然の驚異
      台風、地震、津波… 荒ぶる神

(3)自然への驚異
   平和利用という神話の崩壊

2.アシタカのスティグマ
(1)宮崎駿の問いかけ
   ファンタジーを通して、語る強いメッセージ

(2)目に見えない世界の大切さ
   合理主義・物質主義の中で見失われていくもの
  
(3)人間文明と自然の相克関係
   理想社会を求める文明と神々の世界
   「ともに生きる道はないのか」
 
3. 十字架のしるし
(1)土の塵から形づくられたものは
   神のようになろうとした欲望、関係の破れへ
   呪いがおかれた大地、流された血

(2)十字架において
   人となられた神を知る、破れの只中にあって
   自らを裂き、罪の赦しと和解をもたらす

(3)矛盾の只中を生きる
   あらゆる悪に耐えつつ、絶望しない
   この身に負う「キリスト」の死といのち、使命をともにする

2016-11-13

『キリスト者の自由』における悪の問題   〜現代社会に生きる魂の問い〜

ルター研 「秋の講演会」での私の講演メモです。当当日配布のレジュメに書き足していたものです。                
  
『キリスト者の自由』における悪の問題 〜現代社会に生きる魂の問い〜

1.問題意識:「自由」とはなにか。
 中世の終わり、近代前夜の胎動の中、ルターは「キリスト者の自由」をいう。「自由」は近代を象徴するもの。けれども、ルターはキリスト者となってはじめて得られる「自由」を語る。キリスト者となることによって与えられる自由を語ることは、現代を生きる私たちにどのような意味があるのか。

(1)現代人の自由。
   不自由のない現代は「自由」を求めないか。
   ITプラトニズムの時代 。時空を超える。身体性を超える。自分を超える。
(2)「自由主義」の行き詰まり?
   「自由」は近代の指標の一つ。しかし、その原理が自由な競争世界を資本主義のも
   と展開し格差を産み出す。近代のもう一つの指標である「平等」が揺らぐ。
   排他主義、保護主義の台頭、力による支配を求める時代。
(3)「何をしてもよい」自由。善悪の判断が超えられている?
   自由な個人。自己責任を求める世界。個人の欲望を満たす消費社会。人間関係の希
   薄化は、社会の中での共通の価値観や倫理の感覚を弱くする。「良心」が薄らぐ。
   あからさまに、「なぜ人を殺してはいけないか」 が言葉になる。
私たちは、自由を満喫しているようだが、本当の意味で「自由」なものなのか。

2.ルターにおける自由と悪
 一般に中世において「自由」が語られてきたのは、人間の「自由意志」の問題。しかし、ルターが語るのは「魂の自由」。しかし、プラトニズムのように魂だけの自由を語るのではない。むしろ、信仰における魂の自由がこの世に肉を持って生きる新しい生き方、愛と奉仕に生きることを実現する。
(1)自由の問題
   アウグスティヌス以来の中世の伝統⇒ルネサンスにおけるあたらしい人間
   こうした人間中心的なオプティミズムは、人文主義へさらに近代へとつながってい
   く。人間賛歌と自由意志⇒エラスムス自由意志について:ルターとの論争。
(2)悪の問題
   ルターの奴隷的意志の強力な主張⇒すなわち、罪意識の徹底!
   「悪い欲望」 に囚われていること。いっさいの虚しさ。
(3)キリストの勝利
  キリストの十字架⇒逆説的な力。 
  魂はみことば(キリストの福音)において満ち足りる  
  
キリスト者は、確かに、この勝利に与っていて、完全に魂の安らぎを持っているが、魂だけの存在になるわけではない。だから、この世界においては「愛と奉仕」を積極的に生きる。しかし、そのことは、必然的に悪魔の支配にいつもさらされ続けるということでもある。そして、そのことからの完全な自由は死と復活のときまでは得られない。それゆえに、義人にして同時に罪人!


3.現代の「悪」の力とキリストにある自由
 罪・悪の支配と神の支配の二つの世界を同時に生きている。その同時性に耐え、なおかつキリストのみ業への参与をいきることが求められ、またそのように生かされているのがキリスト者であると言えるのだろう。
(1)罪と悪の具体的な支配のもとにある人間
  ① 人間共同体・自然関係
    功績主義・成果主義による関係の破壊
  ② 組織的・社会的構造的悪と個人 
    関係の抽象化と無責任 弱者とマイノリティへのしわ寄せ
  こうした悪の支配を象徴するような「核」の問題。「核」そのものは、絶対悪ということまでは言えないかも知れないが、これを用いる人間には、戦争利用にしろ、平和利用にしろ、これを確かにコントロールする力は無い。逆に、これによって支配されるだけということが現実ではないか。
 ただ、その現実を変えていくことには、理想を叫び、それを絶対善として求めるだけでは解決しない。むしろ、時間をかけてこの矛盾を抱きかかえる以外にないのかもしれない。
(2)一人ひとりの魂を包む暗やみ
  ① 関係の希薄と生きる意味の喪失
    あらゆる人間関係の希薄さ 隣人への無関心 
  ② 欲望の増殖と虚無
    経済活動はそれゆえほとんど重要な意味はなく、虚しい。
  ③ 「暗やみ」「鬼畜」 聖なるものの喪失
    暴力と破壊衝動 死の欲動、憎悪のエネルギー 
(3)「キリスト者の自由」
  矛盾を抱えている自分を受け入れ、「すべてを抱きしめて生きる」 ために 
 この現実のなかで、ただ「キリストとともに」 というルターの主張!
  ① みことばを受けることのなかで
    律法:「わたしたちのいっさいが無」
    福音:「わたしたちにひつような全てが与えられる」
    「すべてのものが働いて益となる」
  ② 無力さのなかで
    キリストと共に十字架を生きる 
    苦難を引き受けることと他者のための生へ

  一人ひとりが小さなキリストとして、このみことばを生き、とりなしと証
  しによって、みことばを分かち合う。
  悪の支配する現実に耐え、なお確かな安らぎを受けて、
  終末に約束された、神の国(支配)における正義と公平、平和を見通して
  神のみ業への参与へと応答する。  

2016-11-09

アイドル体験

 今年の大学の学園祭に、ひさしぶりに外部からのアーティストを招いてのコンサートが開かれた。どんなアーティスト?って、アイドルだという。生ハムとサラダじゃなくって、「生ハムと焼うどん」。ほかに、「ハッカドロップス」と「IRIS」も出演。
 えっ!と驚いたのはマルチコート前の行列。学生やその保護者、はたまた大学近辺の一般の方とは明らかに様子の違う面々が、午後の1時半からのステージのために、朝の十時過ぎくらいから少しずつ集まってきた。お昼になる頃には、長い列を作っていた。
 ああ、これはステージのためか〜。プロのアーティストを呼ぶってことは、こういうことなのね…くらいに思っていただけなのに。

 しばらくすると、うちのチャプレンがチケットを5枚手にしてやってきて、これ、先生もいかないかと、私のことを誘うではありませんか。いやいや、どんなかな〜と思っていたけれど、自分がその席にすわるなど思いもしないことだったので、ん〜〜〜っと思ったものの、まあ、そういうのも面白いかなと。1時20分に待ち合わせ。
 しばらく用事をしてから、約束の時間にマルチコート前にくるとすでに行列は皆会場に入って準備万端。そっと、5人で場所を確認、席についた。

 はじまる。ハッカドロップスがギターを弾きながら歌い上げていく。ん〜?これは演歌か、と思うべく昭和の歌謡曲のような楽曲は、50代後半の耳には心地よい懐かしさでこころを満たしてくれた。
 
 続くIRISはマレーシアの女の子。日テレ系のあるバラ番で「NIPPONの優しき旅」というコーナーがあり、それに出演していたというので思い出した。とにかく、一生懸命と明るさと、けなげさが歌声にのって心に優しい。ん〜。いいね〜。

 で、いよいよ「生ハムと焼うどん」の登場。いきなり、会場の雰囲気が変わる。いつの間にか上着をとってオレンジのTシャツが会場いっぱいにいるのだ。あれっ、そんなだった?皆さん、これをまっていたのか〜。そうだったのか。会場は指定席なので、前から後ろまでまんべんなく散らばっているが、あの行列はまさにこの二人のJKアイドルの「追っかけ」?ああ、これがいわゆる「おたく」ともいわれるような方々? ふたりが歌うのに、見事に「あいの手」をいれ、声をあげ、お決まりの振り付けで一斉に応える。ワ〜。えらいものを目撃している。

 公式HPは以下のとおり。
     http://namaudon.tokyo/

 しかし、上手い。東と西井ンパネ〜ってやつだ。
古い言い方だけれどコント仕立てで舞台が見事に演出されていて楽曲を盛り上げる。ちょっと下ねただけれど、嘘がないホンネトークを軽快に演じてみせる。女の子の「裏側のホンネ」みたいなものをわ〜といっちゃうから、聞いている者は、笑いながら自分たちのこころの何かをデトックスするのだろうか。
 ドリフの「8時だよ」的なお定まりを思わせるけど、それよりも高校の文化祭的な「のり」を会場はみな了解済みで、お約束によってこれをサポートする。もちろん、恥ずかしがることも悪びれることもないストレートで元気いっぱいな二人は会場と一体になって自分のなすべき役を見事に演じてみせてくれる。途中で、会場からお客をも舞台にあげて、それなりにイジリ、ちょっとディスっても楽しませる。
 走り回り、座席を舞台に変えて盛り上げると、波打つ会場。あ〜、見ているというか、この会場に居ればもはやみなで作る舞台なのだ。
 この一体感か。なるほど、いい歳をしたおじさんもおばさんも、「アイドル」に夢中になるというのがわかる。わかってしまう。
 あぁ、最初に会場が動き出した時は「わ〜、ひく〜」と思っていたはずが、まずい、心がどんどんもっていかれちゃうのだな、これが…。応援したくもなる。
 二人がいなけりゃ成り立たないけれど、むしろ、会場のみんながいなけりゃ成り立たないということでもある。そうして生まれていくこの異空間にみんなが一つの時間を描き出す。だから、集まった者たちに満足感、達成感を与えるのだ。もう一度、経験したいと、思うだろうね。これは・・・。そうして「追っかけ」にもなるだろう。「次は、どこでやるの?」「またいこう!」と思わせる。
 高校を今年卒業したばかりでしょう?これだけの台本を作り上げて、自ら演じ、全てをセルフプロデュースのエンタメ力はすごい。

 そして、ふっと心をもっていかれるのはなぜかと…。現代のストレス社会の中で管理され、自分らしさよりも成果を求められ、居場所を見出せなくなる私たちが、その心のひとときの存在感をこの一体感の中に見出すものなのかも知れない…と思ったりしている。だから、きっとその要素は誰の心にもすでに潜んでいるということか。無縁だなどと思い込んでいるほどに遠い存在ではないことは間違いない。

 というわけで、この体験は私にとって、非常に貴重な「アイドル体験」となったわけだ。