臓器提供のために生まれ、生かされるクローン人間の存在をあつかうフィクション小説。この前まで金曜ドラマとして放映されていた。(http://www.tbs.co.jp/never-let-me-go/)ご覧になられた方もあるかもしれない。彼ら、彼女らは、その出生がクローン技術、そして、ただ必要とされる臓器提供の目的のために生かされているという存在で、人間であるのに、魂のない存在、人権を持たない存在とされている。そんな設定。映画化されたのは2010年。生命倫理の問題に深く関わるので、是非見たいと関心をもっていた。現実的に、そうした状況が生まれかねないし、あるいは、世界の貧困と格差社会の陰で、クローンではなくても臓器提供を目的に人のいのちが売り買いされることもある。だから、こうした問題を取り上げる中で、どんなふうに人間が考察されるのか、その描き方には大きな関心を抱いたのだ。
けれども、この小説は、そのクローンの人たちの生を描きながら、いのちを生きる意味、人間存在として心をもつことの苦しさ、切なさを問いつづけていて、これは、クローン人間の問題なのではなく、実は、私たち人間がだれでもかかえる問題であることをしらされているようだった。私たちが生きることとは、かならず死に定められた生を生きるということなのだ。その限られた生を生きるということの意味は何か。かけがえのない私という存在は、どこにあるのか。そうした、私たちの魂についての深い問いを投げかけている作品といえるだろう。
小説のなかでは、クローン人間は当たり前のようにその運命が受け止められているし、また、社会全体がクローンとはそのような存在であるということを至極当然としているので、その異常性についていけないところがある。つまり、感情移入しにくいのだ。それだけに、実は問題が深いということもある。ドラマでは、その辺りにも工夫をしているようだったが、違和感そのものが、ある意味で訴えるものでもあると思う。幾つか、気になるテーマとしてみえてきたものは、私たちの生における自由と支配、記憶と希望、教育、芸術、奉仕のもつ意味。
なかなか、問いかけの大きさに比して、答の見えない、救いと慰めを得にくい作品でもある。それでも、だからこそ、実は真実味があるのかも知れない。すべてが見通せているわけではないけれど、そんななかで、ギリギリ私たちの紡ぐことばをもとめているようだった。「ありがとう」という関係を、私たちの現実のなかに持ち得るのか…。問いのままだ。私たち人間のその尊厳を、魂の証を、本当に愛するということがどうしてもできない私たちに過ぎないけれども、「にもかかわらず愛する」という関係の中に見つめようとしているように思われた。