2013-10-27

説教「神のことばに」(宗教改革記念日)

説教「神のことばに」(ヨハネ8:31〜38)

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
 自由であること。それは、わたしたちの人間の究極の願いといってよいでしょう。実際わたしたちは、いつも不自由を感じているのかもしれません。あれをしたい、こういうことをしようと思っても、身体的にも、能力的にも、経済的にも、社会的な関係などにもわたしたち自身縛られていること、自由にならないことを知らされるからです。
 そして、それは、「わたしがわたしである」ということ故の限界、不自由なのです。もう少し能力があれば、もっと元気だったらやれたのに、お金があれば良かったのにとか思う。こんな時代に生まれなければ、とか、こういう人と出会っていればとか。わたしたちは、自分が自分であるばかりに、かなり不自由な思いをもっているということなのかも知れないのです。
 本当は、わたしがわたしであるということこそ、かけがえのないことのはずなのに、わたしがわたしであるばかりに、わたしたちは自由でないと感じてしまうのかもしれません。

 さて、イエス様は、ご自分を信じ、従ってくる弟子たちに、「あなたがたを自由にする」といわれましたが、それはどういう意味なのでしょう。わたしたちの日々感じている不自由さについてではないようです。主は、わたしたちがわたしたちでない者になれると言われている訳ではありません。イエス様は、わたしたちを捉えるもっと大きな力があることについていわれているのです。
 イエス様は、罪をおかす者は罪の奴隷だといいます。つまり、わたしたちが罪の虜になっているといわれているのです。
 イエス様の語られたことばを、もう一度見てみましょう。「わたしのことばに留まるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理をしり、真理はあなたがたを自由にする」。
 主のことばに留まること。このことが弟子であるために、まず必要なこととされています。逆に、主のことばに留まらないでいるなら、わたしたちは主の弟子ではないのです。そして、その主のことばに留まらないでいることこそ、わたしたちを神様から引き離す罪の問題なのです。
 「主のことば」とは、なにか。イエス様が、私たちに教えてくださったことは、「神を愛し、隣人を愛すること」です。ヨハネ福音書では、互いに愛し合うべき事を教えられたことが記されます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「わたしがあなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗うように」、主はわたしたちに語られます。「人のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」といわれて、わたしたちを愛することを命ぜられる。
 そのことばに留まるとき、わたしたちは主の弟子となり、真理をしり、真理がわたしを自由にすると、主はいわれるのです。

 そういわれたとたん、これは、わたしたちには無理なことだと、思われて来ます。わたしたちは、そのように生きられないでいるからです。いや、たぶん出来ればそうありたいといいながら、出来ない理由があるのです。忙しいから。こういう事をまかされているからと。自分を不自由だと感じて来たことを持ち出して自分を正当化する理由にさえするのです。もうすこし余裕があれば、力があればと違ったのにと。そうして、わたしたちは、神のことばに留まることが出来ないでいる。まさに罪のとりこになっている。あの良きサマリア人のたとえに出てくる祭司やレビ人こそ、わたしの姿なのです。

 とすると、イエス様がいわれていることは、もうどうにもわたしたちには、関係のないことになってしまうかのようです。わたしは神のことばに留まることが出来ず、主の弟子となれていないのですから、わたしは真理を知ることもできず、罪の力から自由にもなれないでいるの。負のスパイラルですね。
 わたしたちは、あのパウロとともに、一体罪の体からだれが救ってくれるのだろうか。と嘆かずにはいられない。

 宗教改革者マルティン・ルターは、おそらく、その自分が神様の御心から離れてしまっているということを徹底して見つめた人だと思うのです。自分の罪の問題を考えたのです。最も厳しい修道会として知られるアウグスチヌス隠修士修道会の修道士となったルターは、誰よりも熱心にその修道院の生活に取り組んだ一人であったと言えるでしょう。とりわけ、自分の罪についての告解に繰り返し取り組んで、自分の部屋と告解のための部屋を何度も往復したと言われます。つまり、熱心になればなるほど、その熱心さが神様のためというのではなく、自分のため救いのためからではないのかと、自分の罪をおぼえたというのです。
 ルターは、結局、そういう自分中心的な心からどうしても自由になることが出来ない。神様の御心からはなれている自分自身の姿を知るのです。神のことばに聞き、従おうとする他ならぬこのわたし自身が、神様から遠ざかっているものであるのではないか。そう思われる。ここに負のスパイラルがあるのです。ルターはそのどうにもならなさのために、神を憎むほどであったと言います。

 しかし、そのルターは、聖書のみことばに、神のことばにさらに聞き続けました。いえ、神のことばは、そのルターに語り続けられたのです。そして、ルターは気づかされました。みことばに従い得ない自分だからこそ、イエス様がわたしたちのところにおいで下さって、十字架にかかり、わたしたちをゆるし、捉え、生かしてくださったのだ。それが福音であり、それがわたしたちを生かすたった一つの恵みであることを聖書はかたっているのだと。
 今日の箇所でいうなら、自分が神のことばに留まるのではなく、神のことばが、自分にとどまってくださるということなのです。自分が主の弟子であろうとし、みことばに留まろうとしたその時にこそ、わたしたちは、そうなり得ない自分を見いだす。しかし、それこそが、じつはわたしたちの真実なのです。嘘偽りのない姿に他ならない。それがまず知られる。しかし、そればかりではない、その嘘偽りのないわたしを神様はそれでも愛し、赦し、新しく生かすようにイエス様をわたしたちに送ってくださったのです。それが神の真実。
 ルターは、あの中世の終わりに、この神の真実、キリストの恵みのみがわたしたちを救うということ、福音をもう一度教会の中に響かせるために宗教改革の呼びかけをしたのです。
 ルターのこの福音の理解、キリストの救いに生かされた喜びを共に分かち合ってきたルーテル教会の伝統の中で、わたしたちは、いまどのように、この福音を聞いているのでしょうか。

 姜尚中氏、国際政治学者で東大で教授をされていたのですが、この春に「心」という小説を公しました。「心」といえば、夏目漱石を思い起こすかたもあるかと思いますが、実際、その影響があるかもしれません。大学生の主人公と先生である姜氏自身のメールのやり取りが軸となって小説は書かれています。この青年が大の親友を病気でなくします。一緒に生きて来た親友の「死」ということが突然にこの青年の心を捉えます。また、その親友の最後の願い、思いを寄せる彼女への告白を伝えないという裏切りをしてしまうのです。そのこともあって、この青年が親友の死に出逢いながら、自分自身の中にある醜さにも苦しみつつ格闘する。おりもおり、あの3・11の大きな被害が起こり、青年は津波で流された遺体を引き上げるボランティアをします。死を見つめながら、生きるということを深く考え、姜尚中氏自身がメールのやり取りを通した交流をし、そのなかで、この青年の心の成長が見いだされていくという小説です。

 青年は、生きること、死ぬこと、愛すること、そしてその中で自分自身のエゴや、矛盾を感じて生きていきます。悩みながら、青年は、愛したいと思っても、本当に愛する事が出来なかったり、変化もしていく。そういう現実をあるがまま、いまはだきしめて生きていくしかないのだと、この青年はいうのです。
 そうなのだと思う。わたしたちは、結局は愛する事なんか出来ないままでいるのかもしれない、そういう自分を抱きかかえて生きていく以外にない。
姜氏は、この小説を通じて、「生きろ」というメッセージを届けたかったのだと思います。いや、姜氏自身が若くして死んだ息子から残されたそのメッセージを聞き取った小説だったということかもしれません。
 
「それでも、僕は受けいれたいんです」
青年は言った。
すべてを抱きしめていこうとしている。
「その丸ごとが、結局「自分」ってものなんでしょう?」
すべてを抱きしめて、生きるつもりなのだ。(272ページ)

 しかし、いろんな矛盾をした自分をありのまま抱きかかえる力、引き受けていく力は、どこから来るのでしょう。小説はそれを描いてはいませんでした。わたしたちは自分を引き受けていかざるを得ないのだというところでその覚悟が出来た青年の成長を描いて終わるのです。
 
 けれど、わたしたちは、神のことばに聞く者です。わたしたちは知らされます。自分がどのような者か。わたしたちは、本当に弱いものでしかないのです。この自分を抱きしめていかざるを得ない。でもその力は、わたしたちのうちには必ずしもないかも知れない。このすべてを抱きしめる力は、わたしたちにない。過去の罪がわたしを攻め、深い痛みとなり、力を奪いもする。だから、破れてしまうのです。絶望するのです。
 しかし、神のことばはさらに語りかけるのです。その自分自身を抱きしめる力のないわたしたちを主が抱いてくださるということを。あなたをゆるすと。それがもう一つのそして、たしかにわたしを生かす神の真実なのです。弟子たちが、パウロが、そしてルターが生かされた福音、この神の真理とは、このキリスト・イエスの恵みです。そして、その真実が、この限界をもつ、わたしを生きる力となる。このわたしを生きることを喜びとする力を与えるのです。このわたしを引き受ける自由を、与えるのです。
 神のことばにきき、神のことばに留まろうとするわたしたちは、しかし、この神のことばに抱かれ、神のことばがわたしを生かす。
その恵みに信頼をし、このわたしを、精一杯に引き受けて、主の御心への感謝を表していきたいものです。

2013-10-20

「あきらめないで」

説教「あきらめないで」(ルカ18:1〜8)

 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」、と書き出される今日の聖書の箇所は、イエス様が「神を神とも思わず、人を人とも思わない裁判官のたとえ」を通して、弟子たちに熱心に祈るべきことを教えられている、分かりやすい所と思います。ちょうど、ルカの11章のところで、「主の祈り」に続いて、祈ることを教えられている、その箇所とも重なる主題があるように思う。熱心な祈り、執拗に求める祈りに、神様は必ず答えてくださるという約束が語られているのです。

 けれども、実際私たちが経験するところは、「熱心に祈っても、神様はすこしも聞いてくださらないのではないのか」という現実です。ちょうど、私たちは身近なところで大きな災害を繰り返し経験しています。ニュースを見ているという立場であれば、ただ胸をいためるばかりですけれど、しかし、直面している方々には、もっともっと切実な思い、叫びがある。どこにも救いが見いだされないままに、助けをもとめても答えは見えず、絶望が広がる。時が無情に過ぎていく。力を失い、希望を失う。むなしさの中にたたずむ。
そうした現実を私たちが生きるものであることを思う時に、この執拗な祈りへの招き、いやそれに神様が答えてくださるのだということばにはいささか戸惑いを覚えない訳でもありません。

 しかし、今日の箇所は、実はまさにこうした私たちの問いや戸惑いに対する答えとして、わざわざ記されている箇所だというように思われるのです。福音書記者のルカは、直前の17章の後半で、イエス様がファリサイ派の人の問いかけに答えて「神の国」について教えられた直度に語られたものとしているのです。神の国はいつ?
 「神の国」。それは、当時のイスラエルの人々にとっては具体的なユダヤの王国の再建をすぐにイメージさせた言葉ですが、しかし、その意味するところは神様の救いの実現の事です。
 独立を失い、大国に滅ぼされ、支配されている。そうした厳しさを歴史の試練として経験して来た人々は、一体いつになったら神様の救いに与って、心安らかに過ごすことができるのか。そういう切実な思いで、「神の国」を求めて来たといってよい。
 救いの実現への切実な問いを、福音書記者ルカは、自分たち自身の切実な思いとしているのです。この描かれている場面は、イエス様がエルサレムに向かっている、つまり十字架に向かうその旅の途上での教えとして記されています。しかし、書いているルカはその十字架の出来事から40年ほど経って、この福音書を書いています。その時にも、未だに神様の救いは、完成していない。「神の国」へのあこがれとともに、その到来の遅いこと、神様の救いの見えないことを嘆き、「いつになったら救われるのか」という問いが人々の中にある。人々は天に昇られたイエス様がもう一度おいでになる、その主の再臨と終末の救いということがいつ実現するのか、待ちかねているわけです。
 そういう状況にある中で、一体イエス様は自分たちに何を教え、しめされたのか、改めて聞き取るようにと、ルカはこれを書いているのです。
 
 イエス様はいわれます。「気を落とさずに、絶えず祈る」ようにと。まさに気を落とさざるを得ない状況の只中にあって、この励ましの言葉がかたりかけられている。不正な裁判官のたとえをもって、裁判官はこのやもめ求めの声に嫌々であろうと動かされるものだといいます。まして、神は、私たちの叫びもとめている声を聞かないでおられることはない。神様は速やかに求めに答えてくださる。そのことへの信頼を保ち続けるよう「絶えず祈る」ように励まされている。それが今日の聖書の箇所の最初にかたりだされているところです。

 けれども、実は、この聖書の箇所が私たちに示している大切なことは、そこではありません。この箇所の一番おしまいの部分に示されているのです。つまり、絶えず祈り、神様の約束へ信頼するように語り、励ましながら、イエス様は、その最後に何をいわれているかというと、「しかし、人の子が来る時、はたして地上に信仰を見いだすだろうか」と結ばれているのです。イエス様は、弟子たちに対し、私たちに対し、「あなたがたには、最後まで信頼し続ける信仰があるか」と問いかけられているのです。

 本当は、私たちがこの現実の中で、一体神様の救いはどこ?と、いつ?と尋ねているはずだったのです。しかし、その時に、イエス様が私たちに問うている。私たちは問われている者なのです。「その時に、信仰はあるのか」。

 このことばは、「地上に信仰を見いだすだろうか。いや、見いだすことが出来ないだろう」という反語的な表現です。ある意味で、主のまなざしは非常に厳しいものだと思う。
 けれど、それは、イエス様が私たちの現実をよく知っておられるということでもあります。私たちの有り様はきっとそうだろうと思うのです。救いを信じたいのです。あきらめることなく、気を落とさずに、主の救いに信頼をしたい。けれども、どうにも私たちは、疑いや迷い、不安や恐れにとらわれてもしまう。お前たちには、芥子種一粒ほどの信仰すら、みいだされないのではないのか。気を落とし、絶望するものなのではないのかと、主は言われているのです。
 しかし、イエス様はその現実を良く知っておられて、なお、私たちに救いの確かさを語られている。不正な裁判官のたとえでも、このやもめには何か自分に有利に裁判をしてもらう根拠があるか、というとそんなことは最初から全く問題にはなっていません。この裁判官は自分がこれ以上煩わされるのはかなわないと、そのやもめのために裁判を行う。まして神様は、私たちへの愛をもってくださっているのだから、私たちの罪にも拘らず、いや、私たちの不信仰にも拘らず、赦しと憐れみをもっていてくださることを疑うことは出来ないと、いわれる。
 つまり、信仰はないのか、と問われて、私たちにこれが私の信仰ですと申し出られるような確かな信仰なんてないに違いないのです。私たちはそういうものでしかありません。
 あきらめちゃうんですよ、耐え切れないもの。そんなにお行儀のいい信仰者じゃない。「神様どうして たすけてくれないのか。助けてくれなかったのか」と、そういう嘆きを抱かざるを得ないのが私たちなのであって、いつも喜んでいなさいといわれても、どんな時にも喜んで、希望をもってなんていう信仰者のお手本みたいなことにはなれない。
 そうだろう。それが私たちのありのままの姿だと、主はとうの昔に知っておられるということです。
 いや、だからこそ、主はこれから十字架に向かわれるのです。その私たちを絶望の只中で、捉えてくださるために。生かすために。神様は、イエス様は、そういう不信仰な私であることを知っているからこそ、私をどこまでも捜し求めてくださっている。あきらめないでいらっしゃるのは、わたしたちではなくて、神様のほうなのです。
 私たちが神も仏もないものだと、あきらめ、叫びたくなる、その現実の只中においで下さって、私を捉えてくださる。
 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、叫ぶ、その私たちの場所にイエス様がいてくださる。それが十字架の意味です。それこそ、私たちをどこまでもあきらめない、神様の御心だといえるだろうと思う。それが私たちに救いをもたらすイエス・キリストの真実・信仰(ピスティス)なのです。
 私たちを求め、私たちが信仰をすら失う、その場所にイエス様がいてくださる。私たちがあきらめと絶望のなかにある、その時にも、私たちをあきらめ、見放すことのない神様の愛がある。
 それがルカもまた聞いていた、主の最も大きな慰めであり、希望であったに違いない。あのエルサレムの神殿がローマの侵攻によって崩れ落ちていく絶望感の只中で、ルカの心に尚働く慰めと力。それこそが、すでにあの十字架においてしめされた救いではなかったかと、ルカは私たちに対する神様の速やかな答えであること、この絶望の只中に見いだすことの出来る神様の愛の確かさに気づくように促しているといえるでしょう。
 私たちの信仰が失われていくような、救いの見えない状況の只中で、私たちの信仰への問いかけとともに、「たとえあなたがあきらめようとも、私は決してあなたをあきらめることはない」とイエス様のみことばが、その真実がこの福音から響いている。

 この恵みの声に包まれ、新しい一週間、主に生かされてまいりましょう。

(日本福音ルーテル刈谷教会での奉仕)


2013-10-06

「看取りの心と場」

毎年開催される、ルーテル学院大学、コミュニティ人材養成センター主催の講座「いのちの倫理と宗教」。今年の主題は「看取りの心と場」です。

http://www.luther.ac.jp/news/130919/index.html

 「ホスピス」など終末期医療ということが注目されるようになって、死と向かい合うということが特別に意識されはじめたのは、80年代の終わり頃からでしょうか。90年代、山崎医師による『病院で死ぬということ』が出版され、某テレビ局アナウンサーが自らガン闘病を公にしたことも「死」と向かい合うこと、最期をどのように「生きる」のかという課題、その可能性を広く考えさせる事にもなったように思います。かつては、家で家族に見送られて死ぬことが当たり前だったかもしれませんが、現代は病院で最期を迎えるということが一般的であればこそ、そのあり方について改めて問い直すということになってきたのです。
 しかし、近年はまた逆に病院で死ぬという事ばかりが選択肢ではなく、ホスピス的なことも含めて在宅での終末期のケアを実現することや、住み慣れた施設のなかで最期をすごすというような取り組みも多く見られるようになって来ました。超高齢化社会は、すべての人を病院で看取るほどの余裕もないからこそ、今一度、生涯の終わりを日常の延長のなかで迎えられるような仕組みが考えられているという事かもしれません。
 そこで、こんにちは「看取り」ということも多様な「場」が考えら得れるということになってきました。そうしたそれぞれの「場」において、本人、家族の中にどういう心の状態が見られるのか。そのことにどのように寄り添い、また援助する事ができるのか。そういった問題を考えてみたいと思っています。
 講師には、医師であり牧師である黒鳥偉作氏、ホスピスでソーシャルワーカーとして働く吉松知恵氏を迎え、江藤直純神学校長と私、石居も加わって一緒に考えていきます。
11月18日までに申し込みを!



2013-10-02

神学生必読書。アウレン『勝利者キリスト』

神学生の必読書。
グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』。研究の基礎は贖罪論の類型論的研究だ。古典的贖罪論、法廷論的贖罪論、そして主観的贖罪論。キリスト教神学史をたどり、この三つのタイポロジーによって、キリストの十字架による贖罪理解の特徴を捉える研究だ。こうしたタイポロジカルな研究は、ルンド学派の特徴のひとつ。この研究をもとに、中世末の宗教改革者ルターの贖罪理解について、それが通常理解されて来た法廷論的な理解よりも、古典的なものによっていると主張し、大胆に切り込む。

勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究

もちろん、単純に古典タイプといっている訳ではない。そこにルターの独自の視点があることを明らかにしたアウレンの貢献が見られるのだ。
こうしたアウレンの見解に対し、同じルター研究の第一人者の一人アルトハウスは異なる見解を提示することになる。ルター理解を進めていくうえで、非常に重要な論争と言っても良いだろう。
 すでに80年以上前の研究だが、この研究の重要性は変わらない。ルター研究という意味でもこの書は勧められるけれども、タイポロジカルな研究が、神学の深みを探る醍醐味を教えるものでもあって、神学生には必読の一冊。