この2月13日から16日まで第46回教職神学セミナーが代々木のオリンピックセンターを会場に開かれている。ルーテル4教団から牧師たちが集まり、神学校教員や講師を含め総勢で30名弱の参加者がある。テーマは「説教」。昨年から三年シリーズで取り組んできている二年目である。
第一日目には、昨年講談社から『ふしぎなキリスト教』という新書を出版された橋爪大三郎先生を迎えて、教会にはじめてくる人々と教会の中で教会員に向けて語られる説教との接点について、新鮮な刺激ある発題をいただいた。
私自身は、この初日を逃してしまったので、残念でならないが、いただいたレジュメだけでも、本当にいろいろと考えさせられる。
今回のテキストではなかったけれども、この本は教会に来ていない、一般の人たちに対するキリスト教入門、キリスト教を紹介する目的で書かれている。そこで用いられる言葉や考え方と教会の中で用いられる言葉、あるいは前提となっている考え方には大きな差があるというのだ。その差について考えなければ、牧師の説教はコミュニケーションできないものになってしまう。
よく言われることではあるのだが、牧師の言葉は説教という特別な古典芸能になってしまうのではないか。そうなってしまうと、もはや実は会員にも解説がないとわからないものになってしまいかねない。もっと言えば、聞く人々との対話のない説教は、もはや牧師の独り言に陥ってしまうのではないか。自らの説教を吟味して、その言葉が今生きている人々へ届く言葉かどうか、牧師は研鑽をつまなければならない。
二日目からは、昨年に引き続き、教団の平野克己先生を招き具体的な説教セミナーを開いている。参加者はそれぞれの自分が教会でした説教を持ち寄るが、その中からヴォランタリーに数名が実際に参加者の前でその説教をしてもらう。第一印象から語り始め、具体的な分析と批評を皆でしあいながら、説教を黙想し、説教をつくり、説教を語ることの試練と喜びを分かち合う。
こんな豊かな交わりと、セミナーを体験できることはめったにない。
牧師にとって説教は日々の孤独な取り組みであるし、赴任してしまうとなかなかほかの人の説教を聞くチャンスも少なくなる。いろいろなタイプの説教を実際に聞くことは、それだけでも貴重な体験だが、そこから与えられる気づきは、自分の説教を改めて見直していくよい機会となる。
やや厳しい批評が語られるときも、私たちがともに説教の務めに召されているからこそ、一人ひとりの参加者の成長につながるための熱意と愛を共有する場となっていることを実感させられるのだ。
このプログラムは、来年までかと思うと残念でならない。形を変えて継続できるとよいのだが。
いま、教会の牧師は改めて説教に真摯に取り組むべきことを使命とせねばならない。
その自覚を促したいとと思うのは、自らのことを含めて、説教が弱くなっていると思わざるを得ないからだ。いったい、牧師は本当に喜びを持ってキリストを分かち合っているか。その一つ一つの礼拝が主との出会いの出来事となっているのか。
聖書の解説や、単なる再話ではなく、キリストが証され、キリストご自身が語りかけてくださる御声をともに聞くことができるように、教職が何を準備するのか。プロフェッショナルな技を磨くべきだろう。
こういうチャンスをこれからも継続して生かし続けられるとよいとおもう。
2013年度 第47回神学セミナーは⬇
http://mishii-luther-ac.blogspot.jp/2013/02/47.html