今週、15-18日の4日間、ルーテル学院大学・神学校では教職神学セミナーが開かれた。。
テーマは「中高年と再生―人生の危機と信仰の歩み」。
やや硬い感じのタイトル。しかし、このセミナーで改めて「団塊の世代」についての実際を教えられ、また自分の世代との比べつつ、あの世代がいまの時代に大量に引退時期を迎えているという現実について考えさせられている。
あの「団塊の世代」は、自分の世代のちょうど一回り上になる。だから、いろいろな意味で自分たちがぎりぎりあの世代の影響を受けてきたといえるかもしれない。中学になったころにあの浅間山荘事件の連日の報道にくぎ付けになった自分は、大学生になってもうすっかりと時代は変わってしまっていたにも拘らず、学生運動の残り火のようなものを味わい、当時学生たちとしのぎを削った経験を話してくれる教授たちから、いい意味でも悪い意味でも『「学生運動」の後』を教えられてきた。社会の問題に鋭くきりこむイデオロギーの崩壊後の、自分たちの世代が90年代前半のあの「オーム真理教」をはじめとする新しい宗教を求めた中心的世代である。時代はポスト・オームとなって、宗教という衣を嫌い、スピリチュアリティーを求めるようになったわけだから、この世代間の相違はそれなりに興味深い。
しかし、江口氏は「団塊の世代」を生きた一証人として、自分たちがあの時に立ち向かっていた問題は、実は社会の問題ではなくて、今につながる時代の生み出してきていた内面的な「空虚さ」の問題だったと述懐された。これは、なかなかに深い考察だ。あの「団塊世代」との断絶の中で、自らを感じてきた世代としては、突然に親近感を覚えてくる。ならばと振り返るとき、ある種の憧れのような感覚と批判的な視点をもって見てきたあの世代に対する遅れ・・のようなものは、何のことはない逆に早すぎた彼らの世代の問題とも見えてくる。
さて、そうであれば、同じ時代を生きている我々が「中高年」という人生の節目に、どんな「ことば」をキータームとして神の言葉を聞き取るものなのだろうかと、改めて問い直したいのだ。
2010-02-20
2010-02-11
書評「人物でたどる礼拝の歴史」
「本のひろば」に掲載の紹介文
人物でたどる礼拝の歴史
礼拝学関連の出版が続き、近年その研究の充実ぶりには目を見張るものがあるが、そうした各種の研究書の中で、本書は、おそらく最も読みやすい礼拝学のイントロダクションにあたると言ってもよいだろう。現在に至るキリスト教二千年の歩みの中、欠かすことなく守られてきた主の礼拝が、どのような歴史的な変遷をたどってきたのか。礼拝の歴史に深く関与した人物に着目しつつ、礼拝の神学と実践の宝庫としての歴史に近づく一冊である。季刊誌『礼拝と音楽』に7年間にわたって連載されてきたものを中心に纏められたものであるだけに、とりあげられたトピックや人物のみならず、執筆陣の充実ぶりも壮観な印象である。
新たに書き下ろされた二項目を加えた全二十六項目は礼拝史のなかの全てのトピックを網羅するとは言えないのかもしれないが、使徒教父の時代から現代までの広がりの中で重要な項目が十分押さえられている。一つひとつの項目は、コンパクトではあっても、洗練され、凝縮された叙述なのは連載の故だが、執筆者の苦労と同時にその力量を思わせる。それぞれに深いかかわりをもった人物を初めに紹介する手法は、その時代、ことにもそこに生きる信仰者の姿を浮き彫りにしてくれる。「まえがき」にもあるように、礼拝はどんな時も個人のものではないけれども、まさにそこに生きる人々、「共同体の業」(レイトゥルギア)であればこそ、その時とところに生きた具体的な人物が感じられるところで、その共同体の姿も生き生きとして見えてくる。礼拝の神学の展開や実践的発展を歴史的に視るというよりも、その一つの時代に何が求められ、信仰者がどのように礼拝によって生かされていったのか、その時代と場所に焦点が絞りこまれていくことで、礼拝の豊かさを再度確認させられる叙述である。
読者は、読みやすく興味のあるところから自由に読み始めることができるだろう。しかし、読み始めたなら、必ずや他の項目にも目を注ぎたくなる。ローマ・カトリック、聖公会、ルター派、改革・長老派、メソジスト、バプテスト、あるいはピューリタンや敬虔主義の礼拝。今日の多様な教派にかかわる礼拝の源泉をそれぞれに見出すばかりではなく、その源泉が二千年の教会の歴史の中に改めて位置づけられることで、一つの教派的伝統がより大きなキリスト教会全体の伝統の豊かさとなることを思わされる。
日本についても、キリシタン時代やプロテスタント宣教初期の礼拝の様子を紹介していることは見逃せない。特に、日本最初のプロテスタント教会の礼拝が鎖国時代の17世紀にさかのぼるというくだりは、新しい研究の成果でもあり、宣教百五十年を祝ったばかりの読者には胸躍るものがある。
また、西方の伝統ばかりではなく、日本ではあまり一般に知られてこなかった東方正教会の礼拝伝統についても垣間見ることができたことも特筆すべきことだろう。近年ビザンティンの伝統が紹介されているところだけに、同じキリストの教会としての具体的な交わりと相互の理解がより進むように願うところである。読者には、この異なる伝統の具体的なイメージが伝わりきるものではないかもしれないが、その深い敬虔に改めて興味をそそられることになる。
リタージカルムーブメントやエキュメニカルなリマ式文、あるいはヒム・エクスプロージョンなども取り上げられて、現代の礼拝につながっている大きな潮流見ることも出来る。近年のアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどのコンテキストから起こっている賛美や礼拝、新しい神学と実践の動きについては、もう少し時間を置いてから紹介されるということになろうか。
いずれにせよ、本書によって、礼拝に招かれ、礼拝から派遣されるダイナミズムの中にこそ、私たちの信仰の生があることを今一度教えられるのである。
人物でたどる礼拝の歴史
礼拝学関連の出版が続き、近年その研究の充実ぶりには目を見張るものがあるが、そうした各種の研究書の中で、本書は、おそらく最も読みやすい礼拝学のイントロダクションにあたると言ってもよいだろう。現在に至るキリスト教二千年の歩みの中、欠かすことなく守られてきた主の礼拝が、どのような歴史的な変遷をたどってきたのか。礼拝の歴史に深く関与した人物に着目しつつ、礼拝の神学と実践の宝庫としての歴史に近づく一冊である。季刊誌『礼拝と音楽』に7年間にわたって連載されてきたものを中心に纏められたものであるだけに、とりあげられたトピックや人物のみならず、執筆陣の充実ぶりも壮観な印象である。
新たに書き下ろされた二項目を加えた全二十六項目は礼拝史のなかの全てのトピックを網羅するとは言えないのかもしれないが、使徒教父の時代から現代までの広がりの中で重要な項目が十分押さえられている。一つひとつの項目は、コンパクトではあっても、洗練され、凝縮された叙述なのは連載の故だが、執筆者の苦労と同時にその力量を思わせる。それぞれに深いかかわりをもった人物を初めに紹介する手法は、その時代、ことにもそこに生きる信仰者の姿を浮き彫りにしてくれる。「まえがき」にもあるように、礼拝はどんな時も個人のものではないけれども、まさにそこに生きる人々、「共同体の業」(レイトゥルギア)であればこそ、その時とところに生きた具体的な人物が感じられるところで、その共同体の姿も生き生きとして見えてくる。礼拝の神学の展開や実践的発展を歴史的に視るというよりも、その一つの時代に何が求められ、信仰者がどのように礼拝によって生かされていったのか、その時代と場所に焦点が絞りこまれていくことで、礼拝の豊かさを再度確認させられる叙述である。
読者は、読みやすく興味のあるところから自由に読み始めることができるだろう。しかし、読み始めたなら、必ずや他の項目にも目を注ぎたくなる。ローマ・カトリック、聖公会、ルター派、改革・長老派、メソジスト、バプテスト、あるいはピューリタンや敬虔主義の礼拝。今日の多様な教派にかかわる礼拝の源泉をそれぞれに見出すばかりではなく、その源泉が二千年の教会の歴史の中に改めて位置づけられることで、一つの教派的伝統がより大きなキリスト教会全体の伝統の豊かさとなることを思わされる。
日本についても、キリシタン時代やプロテスタント宣教初期の礼拝の様子を紹介していることは見逃せない。特に、日本最初のプロテスタント教会の礼拝が鎖国時代の17世紀にさかのぼるというくだりは、新しい研究の成果でもあり、宣教百五十年を祝ったばかりの読者には胸躍るものがある。
また、西方の伝統ばかりではなく、日本ではあまり一般に知られてこなかった東方正教会の礼拝伝統についても垣間見ることができたことも特筆すべきことだろう。近年ビザンティンの伝統が紹介されているところだけに、同じキリストの教会としての具体的な交わりと相互の理解がより進むように願うところである。読者には、この異なる伝統の具体的なイメージが伝わりきるものではないかもしれないが、その深い敬虔に改めて興味をそそられることになる。
リタージカルムーブメントやエキュメニカルなリマ式文、あるいはヒム・エクスプロージョンなども取り上げられて、現代の礼拝につながっている大きな潮流見ることも出来る。近年のアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどのコンテキストから起こっている賛美や礼拝、新しい神学と実践の動きについては、もう少し時間を置いてから紹介されるということになろうか。
いずれにせよ、本書によって、礼拝に招かれ、礼拝から派遣されるダイナミズムの中にこそ、私たちの信仰の生があることを今一度教えられるのである。
2010-02-09
「いのち学序説」の計画
2010年度にキリスト教学科は「いのち学」という枠組みをつくって、神学の各分野から「いのち」の問題を深くとらえ、研究して行こうという取り組みを準備している。これは、神学が教会のために教会の信仰内容を説明するということだけではなく、現代の課題に神学が正面から向き合っていくことと、その成果を世界に問いかけ、また投げかけいこうとするものである。
現在、準備に取り掛かっている2010年度の新しい授業。
次のようなシラバスを用意している。
シラバス
「いのち学序説」
【履修の条件】
特にないが、クラスでのディスカッションに積極的に参加する者に限る。
【内 容】
現代社会における「死といのち」の諸問題を見すえ、キリスト教の視座からこれに取り組んでいくことをともに学んでいく。授業は、講義とクラスのディスカッションによって進められる。
1.イントロダクション・いのち学
2.いのちのはじまり
3.いのちの喜び
4.労苦と苦難
5.病と障がいを負って
6.科学・医療といのち
7.他者とともに生きる
8.求められる和解
9.いのちは誰のものか
10.死と魂
11.死後の世界
12.自然の中にあって
13.いのちと宗教
14.まとめ
【評価】
クラスでの発表・発言、提出物と前期末の試験、もしくはレポートによる。
【テキスト】
テキストは特にない。
参考書は、その都度クラスで紹介するが、森岡正博『生命学をひらく』、東京大学出版会の『死生学』シリーズなど。
現在、準備に取り掛かっている2010年度の新しい授業。
次のようなシラバスを用意している。
シラバス
「いのち学序説」
【履修の条件】
特にないが、クラスでのディスカッションに積極的に参加する者に限る。
【内 容】
現代社会における「死といのち」の諸問題を見すえ、キリスト教の視座からこれに取り組んでいくことをともに学んでいく。授業は、講義とクラスのディスカッションによって進められる。
1.イントロダクション・いのち学
2.いのちのはじまり
3.いのちの喜び
4.労苦と苦難
5.病と障がいを負って
6.科学・医療といのち
7.他者とともに生きる
8.求められる和解
9.いのちは誰のものか
10.死と魂
11.死後の世界
12.自然の中にあって
13.いのちと宗教
14.まとめ
【評価】
クラスでの発表・発言、提出物と前期末の試験、もしくはレポートによる。
【テキスト】
テキストは特にない。
参考書は、その都度クラスで紹介するが、森岡正博『生命学をひらく』、東京大学出版会の『死生学』シリーズなど。
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