2020-06-09

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ②

教会、牧師、信徒は何を受け取っているか。

教会がどのように変わったかというと、いまだコロナ禍真っ只中なので、それを論じることは早計だろう。ここ4月から礼拝に集えないということは非常に大きな経験だ。しかもこの季節。聖週間もあり、イースター、そして主の昇天、ペンテコステと続く大事な数週間の礼拝を教会に集えずに過ごしたということになる。このような経験が、信徒の中になにをもたらしているのか。
もちろん、集会も行えないし、バザーなどの行事も行うことができない。当然、教会の活動ということはそういう意味で言えば全体として冷え込んでいる。教会の経済的な問題も含めて、これからの教会のあり方に様々な影響を与えることは間違いない。


               

【苦悩と熟慮】
主日の礼拝を自粛する。およそ教会の歩みの中で経験したことのない判断をどのようにしていくのか。社会の情勢の中、牧師も信徒も苦しんだに違いない。礼拝の中止などということがそもそもあり得るのかと、問わなかった教会はおそらくないといって良いだろう。どのようにしたら、礼拝を続けることができるか。教会そのものに消毒や換気、社会的距離を作るなどの物理的工夫、礼拝の簡素化、聖餐式を行わないことや賛美歌を無くすといったソフトの面での調整などすぐに取り組まれたと思う。しかし、いずれにしても遠くから集まる信徒たちの状況を考えれば、感染の危険がどこにあるかわからない。しかも、個人に自粛を求めても、教会が礼拝を行う限りは絶対に休むことをしない信徒の気持ちがある中で、牧師も役員も苦悩し、熟慮した上で、自分たちの教会のあり方を決めていったことだ。もちろん、中止ということだけでなく、役員とか、特に近隣の方のみの出席する礼拝をまもった教会もある。けれど、これほど礼拝について、教会員の現実について、役員会は話し合い、こんなに祈ったことはないと思うほどに時間を費やしたことだろう。この経験が、これからの教会の歩みに力になるに違いない。

【牧 会】
ただ、そうした現実の中において、牧師にとって、そして信徒にとっても牧会という視点が改めて非常に大きくなってきたと言えるように思う。これまでにまして、牧師は信徒との距離について考えてきたことだろう。毎週礼拝に集うことで、顔を合わせているだけでも、お互いに受け取ったり、渡したりするものがあって、牧師は牧会のひとつにしてきたはずだ。もちろん、それだけで済むことではないのだが、忙しい都会の教会においても、兼任体制で複数の教会に牧師が責任を持つことの多くなっている地方教会においても、週日に牧会的交わりの機会を持つことがほとんどできなくなっている中、礼拝に集う、そして午後の交わりを過ごすということが数少ない牧会の場となっていた現実がある。
ところが、礼拝に集まるということができなくなってみると、改めて信徒一人ひとりとのつながりについて、牧師たちは心を砕いてきたはずだ。もちろん、牧師が訪問をすることも難しい現状だから、手紙や電話、メールなどを使って繋がりを確かめてきただろうし、新しいところでSNSを使っての相互の交わりを実現してきたことだろう。配信されるものが、説教であれ、週報であれ、それをひたすら読むことが、信徒の日課にもなってきただろう。こうしたやり取りに、牧師は細やかな祈りによって、信徒と出会ってきているようにも思う。
もちろん、そうした取り組みに限界がある。全く触れ合うことができずに過ごしている信徒同士、牧師と信徒との関係がある。だからこそ、再会の時が切望される。そういう私たちが教会を再認識しているのだ。

【礼 拝】
 礼拝については、オンラインによる配信ということが多くの教会で取り組まれた。これまでも礼拝や説教の配信に取り組んできた教会もあるが、数で言うと本当に限られたものに過ぎなかった。しかし、今は、主日礼拝に集えないという現状に合わせ、多くの教会でインターネットを利用してそれぞれ自宅にとどまる信徒を支える礼拝、また説教の配信が取り組まれている。ただ、それは教会に集うことができない者たちも、それぞれの場で主の霊的な臨在に繋がれ、結ばれたひとつの主の体にあることを覚えることができるようにとみことばが届けられるものとしての利用ということぐらいに留まって理解されている。インターネットを利用できない方々には、説教原稿と一人で祈り過ごすための手引きなどがとどけられているから、紙媒体で説教を届ける牧会の働きに準じた理解だといって良いのだろう。議長談話では、このインターネットでの取り組みを礼拝と呼ぶとか、そこでの聖餐の可能性などを論じることは控えられている。むしろ、一人ひとりの黙想や家庭での礼拝に益するものとして届けられているのだ。そうでありながら「一人自宅で礼拝を守っていても、それは天地を貫く「公同の教会」につながる主の日の礼拝です」(「牧会書簡」4・11)と、大いに一人で過ごす信徒にキリストに連なる慰めと励ましを語ってもいるのである。
実際、そうしたネットを用いた複数の教会の同時礼拝、あるいは連携の中で届けられる聖餐の設定辞が有効かどうかは、実はこのウィルスの問題が起きてくる以前から、地方教会における複数兼任の体制の現実の中ですでに取り上げられていたアジェンダの一つでもあった。礼拝が、主の招きによって集い集まり、共にみことば(説教と聖餐)に与り、祈りあい、証を分かち合って、また派遣されていくという動的なものであること、また実際の人間の身体的な限界性や有限性を抱えても共に生かされていく礼拝のリアリティによって、教会のコミュニティの形成があるということは、おそらく誰にでもわかることだろう。しかし、様々に制約された現実とそうした現実の中にメディア・テクノロジーがもたらす新しいコミュニケーションの時代、私たちは、一人ひとりを生かす神のみことばの奉仕の力に信頼しつつ、これまでの礼拝に新しく開かれた可能性をむしろ積極的に考えていく時なのかもしれない。しかし、いずれにしても、早計に断定的に語る言葉を置かない慎重さは、現実の対応の中では大切なことだと思う。

【信仰と霊性】
しかし、こうした状況の中で、実は信徒一人ひとりには、教会の本質を問い、自らを捉え直していくきっかけを受け取っているように思う。元気で活動できることで教会の一員として生きる喜びのようなものを受け取ってきた信徒たちが、しかし教会にいくことができないという規制の中で、実は集えないでいる一人ひとりのことへと深く心を寄せるようになってきたのではないかと思うのだ。そして、互いに安否を確認しつつ、会員相互の牧会的祈りが祈られてきた。
また、静かに世界の中にある自らを省みて、会うことのできないでいる信仰の友を思い、また今の世界の苦しみや悲しみに心を置いて、みことばを聞き、黙想し、祈る。そういう時を、それぞれの信仰者が大切に思い主日の朝を過ごされた。礼拝に集い、諸集会を行い、奉仕をし、諸々の活動に元気に参加するということだけでものを見ていたかもしれない自らの信仰生活の姿を問い直し、沁み渡るような信仰を思うようになったのではないか。私自身も、主日の朝早く、みことばに黙想し、祈り、生かされる恵みを受け取ってきた。
もちろん、現実の教会での交わりが薄くなり、教会生活の意識が遠くなり、自らの信仰の弱さを実感する者もあるだろう。そういう状況もまた、私たち自身に神と信仰を問うきっかけであると思って良いだろう。神が一人ひとりを忘れることは決してないのだから。
ただ、ネット上に溢れるようになったたくさんの説教に触れながら、いつしか信徒が自分に心地良いもの、思いを満足させてくれる説教を求めていくような傾向が起こっていないか、注意が必要かもしれない。説教は、喜びも悲しみもキリストを通して分かち合う聖徒の交わりの中、牧師も信徒も共に主の語りかけるみことばに聴くことによって紡がれてくるものだ。もし、私たちが自分を満足させる説教にのみ耳を傾ける消費者になっていってしまったとしたら、信仰も教会も崩れてしまいかねないと思う。
だから、こうした厳しい現状の中で、私たちは、牧師も信徒も、新たなチャレンジを受け取っているといって良いだろう。このウィルス感染そのものは身体的な問題ではあるけれど、それを通して同時に霊的な試練を様々に経験しているのかもしれない。だからこそ、私たちは、主のみことばに生かされる恵みをしっかりと確認し、また分かち合う宣教の働きへの使命を受け取っていくべきなのだろう。

続く・・・

今、神学すべきとき  日本福音ルーテル教会の今を記録しつつ ①

いつの間にか紫陽花の咲く頃となった。鳥たちのさえずりを聞きながら、朝の光を深呼吸する。




今年、新型コロナウィルス感染拡大のもたらしている世界史的な出来事は、おそらく誰の記憶にも残り、また記録されていくことだろう。問題に向かい合いながら、私たちが何を考え、何をしてきたのか。どのような「言葉」が語られたのか。語られなかったのか。おそらく、こうしたことが、あらゆるところで検証されるべきなのだと思う。
教会もまた例外ではない。いや、「ことば」を何より大切にしてきたキリスト教会は、今こそ、私たち自身をしっかりと見つめ、記録しながら、神学をすべき時だと理解する。
この学びの現場は、2020年の日本福音ルーテル教会である。


教会とは何か、礼拝とは何か、信仰は何を受け取って、何を考えているのか。そして、どのような世界を実現しようとするのか。私たち自身の言葉を鍛えるべきだと思う。




まず、新型コロナウィルスの感染拡大の状況の中での、日本福音ルーテル教会がどのように対応してきたのか、全体教会として記録しておきたい。
おそらく、国内感染の増大が見られ、全国の小中学校、高等学校の一斉休校の要請が言われるようになった2月下旬頃から、いくつかの教会で礼拝の持ち方、特に聖餐式の配餐方式などに工夫が始まり、礼拝後の交わりや集会についても注意するような対応が取られ始めたと記憶する。3月に入ると感染拡大の状況に合わせて聖餐式の自粛なども含めて諸々の対応は広まってきて、各地域や教区ごとにその情報を共有、確認する動きが始まってきたといって良いだろう。
3月25日東京都知事の記者会見で「感染爆発の重大局面」ということが言われた、翌26日に、大柴譲治総会議長よる「議長談話」が全国の教会に発信された。



そこでは「すべての命(いのち)を守ること」という原則が示され、同時に地域社会における教会の責任と使命が確認をされ、私たちがその使命に尽力しつつ主のみこころを求めることが示されている。その方針に従い、それぞれの地における主日礼拝の持ち方について、オンラインなどの方法をとることも含め、礼拝堂に集まる形に拘らない、柔軟な対応が工夫されるべきこと、また、牧会の状況の中で、緊急にかつ大勢の人が集まることが想定される葬儀の持ち方についての慎重な対応を求める指針が示された。それ以降、4月9日、5月2日と緊急事態宣言の発出や延長などに合わせて、総会議長は議長談話を各教会に向けて発信している。繰り返し、礼拝に集まることや集会の自粛を強く要請しつつ、医療や福祉の現場にあって援助に従事される方、また病気の方とその家族、生活上の不安や困難を余儀なくされている方々や、孤独の中にある方などのために祈りあうことを勧め、私たちの牧者である主に導かれて「一つの霊的な主のからだ」である教会に皆が結ばれていることへの信頼にたった牧会的な談話を発信た。
そして、5月6日には、緊急事態宣言が解除された場合に「新しい生活様式の中での礼拝」をどのように準備する必要があるかということを細部に渡って示し、再開にあたってはそうした対策をするとともに、その対策をしたことの上での再開であることを明示する責任を語っている。


こうした対応は、全国の教会に対し、礼拝を自粛するという感染症に対する単なる対処方針を示すものではなかった。何よりも主の教会として、神ご自身が仕えてくださる礼拝の本質を確認しながら、教会が教会であることを、集う者たちのためだけのものと考えるのではなく、それぞれの地域社会に対する責任と使命のうちに自覚することを促している。その上で、神を求め、また信頼しつつ、それぞれの教会に自主的な取り組みをするよう要請しているのだ。
すなわち、日本福音ルーテル教会では、一律に律法的にこうすべきであるとか、そのようにせよと強制的な対応が作られたのではなく、それぞれ教会の実情と宣教の現実に合わせた各個教会の主体的判断が求められたということになる。

各教会は、それゆえにそれぞれに与えられた地域社会とそこに集う信徒、またその家族や生活に心を寄せながら、牧師と役員とを中心として独自の判断をしていくこととなった。ほとんど全ての教会で、信徒を集める礼拝を中止したかと思うが、礼拝堂や教会を完全に閉じることを余儀なくされた教会もあれば、会堂はオープンにして祈りの場として提供し、牧師が来会者に牧会を行えるように整えたところもあった。そうして、それぞれの現実にあった教会のあり方を実現してきている。

緊急事態宣言は、5月21日に一部を残して解除され、5月25日には残されていた東京近郊と北海道を含めて完全に解除された。これに伴い、全国の教会はそれぞれ段階的に教会での礼拝や集会を再開し始めている。ただ、東京では6月2日に「東京アラート」を発令したため、都内の教会では慎重な対応が続いているといって良いだろう。

続く・・・

2020-04-18

ナガミヒナゲシに思うこと

ナガミヒナゲシ
駐車場やちょっとした空き地にオレンジ色の綺麗な花を咲かせている。ここ10年ほどで日本中至る所に広がっているので、名前こそ知らなくても、気づかれた方も多いだろう。「これ雑草なの?」「植えたのかと思った」という人もいる。



ググればすぐわかるが、60年ほど前に東京で初めて観察された帰化植物だ。原産は地中海沿岸だが、今や世界中に広がっている。一果実に千粒を超す小さな種子が内包されていて、一本生えたら10万の種子をばら撒くと言われるほどに、繁殖力が強い。しかも、他の植物よりも圧倒的に強い生命力なので、瞬く間に日本中に広がっているのだ。

数年前から、キャンパスの中にもチラチラと見かけるようになった。ちょうど4月くらいから花をつけ始めるので、見つけると根こそぎ引っこ抜くことにしている。というもの、同じ時期に花をつけるカラスノエンドウ、野芥子、鬼田平子、和たんぽぽ、ヒメジオンなどがキャンパスに自生しているからだ。いずれも、キャンパスの中でいわゆる雑草として刈り取られる運命にあるのだけれど、小学生の時からこのキャンパス近辺で育った自分には、これらの雑草はいわばお友達。それらを押しやっていく外来種を野放しにしてはおけなかった。今年も、毎朝、一本、二本と見つければ、引き抜いている。

なんの疑問も持たないというわけでもなかった。ご近所にはすでに広がっていく様子を眺めつつ、ここにもあるなあと目を楽しませてもらってはいるのだけれど、ここだけは守りたい。君たちに入って欲しくないのだよと、引き抜くのは私のエゴではないのかと。

このなんとなく思っていた疑問が、今年はやけに胸に広がる。というのも、これはいわゆる特定外来生物には指定されていないということを知ったことと、実は今の新型コロナウィルスのパンデミックの状況の中で、現代社会の問題とは何かと考えさせられているからだ。
従来の自然を大事にすると言いながら、ある意味で自然に生えてきたものを駆除するのは人間の意図的なことだ。自然じゃないってことでしょうと、まあ言われても、この外来種は自然にはやってこなかったはずと答えただろう。
それは、ちょうどこのウィルス禍がどうして世界的広がりをこんなに急速に展開するのかということと重ねられる。現代の人間のグローバルな往来とあらゆる「もの」が商品として流通する世界が、自然のままなら機会のほとんどなかった植物の世界的な繁殖を可能にしているのだ。そして、武漢にとどまるべき「新型ウィルス」があっという間に世界の病気として広まる。
つまり、そういう現代世界の現実を背景にしているのは、ナガミヒナゲシもCOVID19もも同じことということだ。

その現象の中、このウィルス禍への対応に見出されるのは排他主義だ。感染拡大を抑えるために様々な経済活動が自粛、制限され、それに応じた補償が議論される時、その背後に誰がこの補償をえるのかという分断と切り捨て。普段の収入がどういう状況か、生活保護を受けている人はその補償の資格を初めから持っていないとか、日本国籍を保有するものだけだとか。同じ地域社会の中にともに生きるているということについて、どのように考えるのか。いつも同じことが繰り返し議論されるが、誰も区別なくこの禍の中に置かれているにもかかわらず、何かを排他主義的に切り捨てていこうとする。日本だけではなく、世界のいろいろなところで見られる状況がある。どうしても難民や路上生活者など社会的弱者はここでも支援から遠いものとされ、後回しにされている。
そんな問題を考えていたら、私がナガミヒナゲシを引き抜くことはこれと同じではと、急に心苦しくなったのだ。何を切り捨てているのか・・・

でもなあ。それなら放っておいて、もともとの自生種が追いやられていくのを放っておくのは果たして、どうなのか?人間がわざわざもたらさなければ、追いやられることもなかったのに、あっという間に新参者に駆逐されるとしたなら?
なんとも複雑な問いの中で、それでも一本一本と抜いていく私って・・・

どうやら、このナガミヒナゲシ、特定外来生物に指定されないのには理由があるようだ。つまり、周辺植物を阻害するアレロパシーはそれほど強くないのかもしれないということのようだ。
もしかしたら共生の道があるのかも。

でも、それはやっぱり長い長い時間をかけていくことなのか。
私の短いいのちに見る価値で判断しようなど、なんと愚かなことよ。
それでも、目の前の草花たちを大事にしたいと思ってしまう執着は、
愛ではなくて煩悩、慈悲でなく罪なのかも。。




2020-03-07

揺れる教会〜〜新型コロナウィルス感染拡大の只中で


新型コロナウィルスの感染拡大を防止するという目的で、政府は要請という言葉で、緩やかにしかしはっきりと国民生活の中に自粛を求め、それによって小・中・高の学校の休校のみならず、幼稚園から大学に至るまで臨時の対応へと押し流されているかに見える。
そうした中で、教会でも週日の祈祷会や集会を取りやめたり、また聖餐式のあり方を工夫したり、これをやめたり、さらに主日礼拝そのものを休止するとか教会施設を閉鎖する、など様々な対応が生まれてきている。



もちろん、そうした潮流に懸念の声も多くある。そもそも、その判断が何に基づいているのかと問うものもあれば、教会の使命や本質論から礼拝の中止を嘆くものもある。
私自身もいろいろと思うことがある。けれど、自分の言葉は一度飲み込んだ。まず、聞かないといけない。どういう判断がなされたのか。どんな対応を本当に教会として考えているのか。
それぞれが声を上げ、議論する。いいことだと思う。皆が考えてみたらいい。
でも、多様で良いと思うのだ。こうしなければならないという外面的なことで縛ってみても何にもならない。むしろ、この時にこそ、御言葉にきき、祈り、共に信仰の共同体として生きるということを各教会で考えるべきだと思う。そうして、礼拝の意味も、聖餐の豊かさも、信仰とは何かも、改めてそれぞれが学び、受け取っていく。
一つひとつについて教会は、牧師も信徒も、どう対応するか、そんなに軽々に判断していないし、揺れていると思う。そういう揺れや問い続ける心が大切なのだし、その中で話し合いながら、現代において、自分たちが教会に集うこと、礼拝にあずかることの恵みを今一度確かめるようにして工夫をしたらいい。大事なことは、この時こそ、不安な信徒一人ひとりを孤立化させないように、そして牧師たちもそれぞれがいろいろなことを考えて、手立てを作ること、支え合うことだと思う。
集う信徒の年齢層や地域性によっても異なる思いがそこに見出されるだろうし、悩みがあるのだ。そういう具体的なことを牧師たちは考えている。教団が号令かけてしまって、全国津々浦々で一律のやり方などを決めたり、神学的権威(そんなものはどこにも認められていない時代かもしれないが)がこうすべしと大上段に構えては、本当に必要な宣教、御言葉の喜びと平和を分かち合うこと、教えと学びを深めていくこと、一人ひとりに仕えていくこと、癒しととりなし祈ること、他者のために苦難を負うこと、そうして共に生きていくことの実際は無視されてしまうように思う。(まあ、必要以上の混乱を避けるように教団が決断すべきこともありうるけれど)むしろ、それぞれの地で、牧師と信徒が格闘していることに耳を傾け、祈り支え合う。そして、それぞれのあり方や判断を確認したり、その苦しさを支援する。そういう教団、教会でありたいものだ。どのような時にも、キリストはあなたのそばに あって、それぞれ、一人ひとりを見捨てず、裁かず、悔い改めと恵みのいのちへと導かれるのだから。
今の時代は複雑だし、本当に多様な可能性がある。それだからこそ、この時にこそ、それぞれの地域にたてられ、遣わされている自分の教会の性格を診断しながら、皆でこれからの自分たちの教会や礼拝のあり方、社会との関係、宣教のあり方を見直してみてはどうだろう。

2020-02-27

教職授任按手式礼拝


教職授任按手は、3月20日九州は博多教会で行われる教区総会において行われることとなった。当初の予定は、3月1日に日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)においておこなれることになっていたが、今般の新型コロナウィルスの感染拡大の不安が広がる中で諸々のイベント・行事が見直されていることを背景にして、決断された。



按手を受けるのは、森下真帆。
新年度から同じ北九州、小倉教会、直方教会への赴任が決まっている。九州教区の教職者と信徒たちの集まる教区総会での按手は、ふさわしいあり方の一つだ。
新任牧師の誕生のために、是非、祈ってほしい。


2020-02-26

2020年度 牧会研究会

2020年度も日本ルーテル神学校・デールパストラルセンターは牧会研究会を開催します。
月の第二金曜日の午後1時半から2時間の研究会を1年間、10回のプログラムで準備しています。場所は、新大久保にある、日本福音ルーテル東京教会の会議室。

予定は、下記の通りです。教会、また関連施設に働く牧会者の皆様に実践的な課題にを共に学び、分かち合う時間とさせていただいています。
特に、今年度は、堀肇先生に牧会カウンセリングに重点をおいた5回の講座をお願いしています。心理学を実践的に応用したカウンセリングについて学ぶことができます。きっと、牧師先生方がすでにもっていらっしゃる経験的な知と技術を今一度客観的に捉え直し、分かち合う力を高めることにお役に立てると思います。




  
u 4月10日「日本の牧会のこれまでと課題」(関野和寛)
u 5月8日「家族療法の応用牧会カウンセリング講座1」(堀肇)
u 6月12日「人間のパーソナリティ(気質)に基づくカウンセリング」(ジェームス・サック)
u 7月10日「発達心理学の応用牧会カウンセリング講座2」(堀肇)
u 9月11日「牧会者の危機~失敗と挫折から~」(石居基夫)
u 10月9日「交流分析の応用牧会カウンセリング講座3」(堀肇)
u 11月13日「霊的同伴のあらまし」(齋藤衛)
u 1月8日「フランクル心理学の応用牧会カウンセリング講座4」(堀肇)
u 2月12日「スピリチュアル・ペイン(心の痛み)とそのケア」(ジェームス・サック)
u 3月13日「キリスト教的愛と心理療法牧会カウンセリング講座5」(堀肇)

費用:全10回で二万円。

お問い合わせ、お申し込みは下記まで。
E-mail: dpc@luther.ac.jp

2020-02-10

第54回 教職神学セミナー

第54回教職神学セミナー
日時:2020年2月10日〜12日
会場:日本ルーテル神学校
主題: 「明日の教会のために~わたしたちの教会・神学・神学教育」

21世紀も、もう20年を過ぎようとしている今日、世界は急速な変化を経験していて、政治・経済・文化などあらゆる領域において、今までの常識や考え方が問い直される時代。デジタルな時代に私たちの関係の作り方も生活も大きく変わってしまって、私たちがどのようにこの現実に向き合っていくのか、大きな課題の前に立っている。
教会も例外ではない。福音の宣教は普遍的なものではあっても、その時代と社会に生きる人々に確かな神の恵みを分かち合い、キリストの体としての働きを生きることが問われているのだ。
時代の節目ともいうべきこの時だからこそ、私たちは明日の教会に備えるために、今、私たち自身を問い直したい。





2月10日(月)
15:00〜15:30 開会礼拝
【セッション①】 イントロダクション:ルーテル教会の宣教とミニストリー(職務)
15:30〜16:20 基調講演:石居 基夫 
             「明日の教会のために〜私たちの教会、神学、神学教育(今、何が問題なのか)」
16:30〜18:00 特別講演①:西原廉太  
  「ルーテル教会・聖公会の教会間対話から学ぶルーテル教会の豊かさ」
                   ~夕食・休憩~
19:00〜20:00 講演:永吉秀人、滝田浩之  「JELC第7次総合方策における教会」
20:00~20:30 トークセッション:

2月11日(火)
9:00〜 9:15 デボーション
【セッション②】 「明日の教会像」
9:15〜10:45 講演(1):江口 再起 「ルターの教会論の基本」
            講演(2):立山 忠浩 「ルーテル教会の説教と牧会」
11:00-11:45  トークセッション 
        ~昼食・休憩~ 
【セッション③】 現代世界と宗教の役割
13:30〜15:00 特別講演②:橋爪 大三郎  
        「変わる世界の宗教とルター派」

15:30~16:15 「わたしの教会形成」 参加者発題 
16:15~17:00 トークセッション

2月12日(水)
9:00〜 9:15 デボーション 
9:15〜10:00  「わたしの教会形成(2)」 参加者発題 
10:00〜10:30 トークセッション
【セッション⑤】 まとめ
10:45〜11:30   講演:宮本 新  (仮)「これからの神学と神学教育」
11:30〜12:00 トークセッション 
~昼食・散会~
13:10~14:10  派遣聖餐礼拝