新海真の「君の名は。」。「秒速5センチメートル」や短編を見て、10代の感性!?をこんなにも率直に描けるのもすごいものだと思っていた。この新作の上映中の人気ぶりが気になって、何度か見に行きたいものだと思ったが、どうにも時間が作れずに断念。
やっと、DVDがリリースされたので、期末の試験期間が終わったその日に、約2時間を楽しみながら、なにか授業につかえるかなと、いろいろ考えながら見てみた。
「いのち学」関連の授業では、身体と心(そして、たましい)の問題を取り上げている。キリスト教的には、身体からたましいは離れて存在しない。死んで、魂だけになって天国に行くというのは、もともとヘブライの思想にはない。そう考えるのは古代ギリシャ哲学、プラトニズムの伝統。この系譜は実はキリスト教の中にもおおいに影響を与えたし、近代デカルト以降の心身二元論にも影響している考え方だ。あるいは輪廻を考えるインド的思考も魂が自我に執着した影のようなものであったとしても、身体から離れたものとして存在すると考えている。人間のいのちを考えるとき、そうした心身二元論、魂だけの存在を積極的に考えることにどんな意味があるかと問う。
(もちろん、キリスト教が魂を語ることに消極的なのではない。ただ、魂だけの存在ということにあまり積極的ではないということだけは確認したい。それは、この身体をもってのみ、その人がその人であるという神の創造の意図が働いていると理解するからだ。身体もこの世も、それが神の創造されたものであるという理解、そしてその肯定がなによりも現実への責任的存在としての人間存在を考える基礎なのだと。21世紀、この世界がウェブで結ばれ、時空を超える自由な魂の行き来を可能にしたとさえ思われる時代。私は、これを「ITプラトニズム」と呼んでいる。そんな時代だからこそ、じつはこの世界と身体を生きる意味を説くべきというのが私の思い。)
すこし、この作品で考えたことをメモしておきたい。
(ネタバレ・ストーリー)
高校生の‘三葉(みつは)’と‘瀧(たき)’は、偶然にもある日魂の入れ替わりを経験する。逆にいえば、年頃の男子と女子が身体の入れ替わりを経験するという、「いかにも」といった設定。東京の都会慣れした‘瀧’と岐阜の田舎育ちの‘三葉’。不思議な魂の入れ替わりは、単なる夢のように一日限りの出来事のようでもあったけれど、実際は繰り返されてそのうちにお互いにそれが夢ではなく、確かに魂の入れ替わがおこっているものと受け入れていく。もっともそれ自体も夢のようなものとして感じられていたかも知れない。入れ替わっている間の約束事も決めながら、それぞれが互いの人生に深く触れつつ、入れ替わったもう一つの人生を楽しんでいく。けれど、そうしているうちに、その入れ替わった相手に深い思いを抱くことになる。淡い恋…のはじまりを予感させる。が、その思いに自分たちが気づいたとき、その魂の入れ替わりがおこらなくなる。
瀧は、どうしてももう一度三葉に合いたいと、自分が入れ替わっている間に見たその風景を絵に描き、それをたよりに彼女を訪ねにいこうと決心する。なかなか見つからないが、やがてその場所は3年前に彗星の割れた片割れが隕石となって落下した場所で町が一つ失われた場所だということが分かる。そして、その相手である三葉は、そこでいのちを落とした被害者の一人と知る。
そのとき、はじめてこの二人の魂の入れ替わりが時空を超えるものだったことが知られるのだ。しかも、つまり、現実には死んだものの魂との交流であったと理解される。
この切なくも不思議な物語は、ここで終わらなかった。瀧は三葉といまいちど魂の入れ替わりをもとめた。自分なら、この惨劇から彼女を救うことができる。いや、彼女だけではなくこの町の壊滅的な災害から町の人たちを避難させることができる。あの時にもどれば…。それをなんとしてもしなければと。
果たして、魂の入れ替わりは起こり、計画は進められるが高校生が現実を動かすことなど遥かに難しく、あきらめかける。が、その最中、三葉と瀧は時空を超えた出逢いを奇跡の時間「たそかれ」に、経験する。そしてふたたびもとの身体に帰った三葉は、おそらく町長である父の力をもって町の救済を成し遂げる。ただその全ては映画には描かれない。しかし、あの被害にあった人々の記録はおそらく書き換えられて、奇跡的に助かったということになっている。そして、そんな魂の入れ替わりがあったことは、すぐに記憶からきえうせてしまう。
ただこの二人の魂は、それでも相手を求めてふたたび奇跡の出逢いを成し遂げてこの映画は幕となる。
〜〜アニメ「君の名は。」を考える〜〜
人の不思議な出逢い。巡り逢い、相手を深く求め、知り合っていくという奇跡。人が生きていく時にかけがえのない人と出会う。その出逢いの中でこそ、人は成長していく。いつもの新海氏のテーマがここでもストレートに語りだされる。
恋愛の不思議には、誰にも覚えがあることだろう。そうした魂の出逢いの奇跡には、隠された、そして決して思い起されることのない魂の交換がある。この映画は、そんなロマンスを描いているようにも思われる。私たちが覚醒し、理性によって自分を秩序立てていることだけが、真実なものなのか。それはそうであっても、もっと豊かな、目に見えない「つながり」を人間の生の奥に見つめている。それがこのファンタジーが見るものを惹きつけるのだろう。
けれど、この映画には、本当はもう一つのメッセージをもっている。というか、ストーリーの展開によって、見ているものは、そこへと誘われるのだ。
死者の霊との交わり。
実は、この物語の深みはここにある。3年のタイムラグがある魂の入れ替わりという、隠されていた設定がこの確かな交わりが現実の世界ではけっして起こりえない二人の出逢いを造り出したのだった。
三年前、彗星の破片隕石落下が彼女を含めた町そのものを消し飛ばしていた。この出逢いは、今は死者となっていた人の魂との交流であったという現実が、次第に輪郭を表してくるのだ。切なさと捕まえようのなさ。
時空を超える魂の行き来は、人間の存在というものへの一つの考えかたであろう。事実、私たちはきっとコンピューターを媒介にしてこのウェブの世界のなかにそうした時空を超越するもの、永遠なるものをかいま見ている。だからこそ、こうした設定がリアルに迫ってくるのだと思う。
この人の魂の交流の不思議に淡いストーリー。過去に戻って彼女らの町が救い出され、そして、その彼女との再会まで果たしてしまうという、ハッピーエンドは、大勢の人たちの満足を造り出したことだろう。これが驚異的な興行成績に繫がったことは間違いない。
しかし、このハッピーエンドへと進ませたことは、いくらファンタジーといってもいただけなかったというのが個人的な感想だ。いや、ハッピーエンドが悪いわけではない。ただ一点。過去を書き換えたこと。これだけは、いただけなかった。
ファンタジーなのだから、なんでも可能でいいのでは?
そうかもしれない。
けれど、やはり過去は変えられないし、死者は生きかえらない。
いくら魂が時空を超えるからと言っても、現実の世界の過去を変えることは出来ない。ここは、どうしても超えてはならないのではないか。
確かに、そうした原則がいとも簡単に超えられていくところが、この「SFファンタジー」というものなのだろう。今までもそうしたファンタジーはいくらでもあるのだ。タイムスリップもの。昔、アメリカのテレビドラマだったが、吹き替えで「タイムトンネル」という番組があったのを思い出す。二人の主人公が過去に行き来するSFだったが、そこでも歴史を書き換えてはならないということがお約束だったように記憶している。むしろ、時間旅行をしたために書き換えられそうになるその小さな違いを修正していくところがドラマ展開だったかと思う。もうさすがに幼少のことだったから憶えていないけれど…。あるいは、バック・トゥ・ザ・フューチャーは90年代の一大SFファンタジーのシリーズとなったのは記憶に新しいか…。
とにかく、時間を超える行き来がもし可能なら、過去を書き換えたいと、思うのはごく当然の気持ちだろう。しかし、それは踏み込んではならないところなのだ。
なぜか。
もしも過去が書き換えられたとして、そうなったとしたら、実際は、もはや書き換えられた過去は存在しないのだから、書き換えられえた事実もなくなるのであって、いっさいは全く異なった世界となるだけなのだ。それをハッピーエンドと呼ぶのは、その書き換えがあったということを知るファンタジーの読み手、ここでは映画を見ている者だけのものになる。そして、それは、実はすべてが虚しく消え去るだけなのだ。
あるいは、ハッピーエンドというのは、その書き換えられる以前のひとりの人生のストーリーという本当に小さな一つの視点から見られたハッピーエンドでしかない。他の生きられた無数のストーリーの幸せは、この書き換えによって、見事にかき消されてしまうということになる。それは、果たしてハッピーなのだろうか。
あるいは、もしそれが可能ということになると、実は過去はいつでも改められる可能性があって定まることがない。皆が、瀧や三葉のように過去を変えることにエネルギーを注ぎだしたらどうだろう。そうなると、もはや新しい時間を刻むことができないのだ。
いや、そういうことを言うとファンタジーが成り立たないでしょうと、言われればその通りなのだけれど…。でも、過去の書き換えは、ファンタジーのなかであったとしても、禁じ手ではないかと思われるのだ。時空を超えるという交流とか出逢い、死者との交流をよしんば可能としても、してはならないこと。過去を書き換えるということは決して出来ないと知るべきなのだ。もっとも、敢えてそれをしてみせるのがファンタジー。そして、そうは出来ない現実を深く考えるように誘うものか。そうであればいいのだが、果たしてこの作品から、そうした問いまで届くかしら。
むしろ、変えることのできない過去、生き返ることのないいのちのせつなさを抱きしめながら、それがありのままに受け止められて、あたらしいいのちの時間を刻んでいかれるようにファンタジーは描かれて欲しい。
瀧は、生き返ることのない三葉のいのちをかけがえのないものとして、誰にも変わることのないその一つの命として、いとしく抱きしめて、それでもなお、自分自身の未来を描いて生きていかれるか。そのための力を得るようなストーリーこそがファンタジーに求められるのではないだろうか。
この映画。彗星の破片が巨大隕石として落下して、町を飲み込んだ壊滅的惨劇をうみだしたという隠し球。しかし、それから8年の歳月がたったというところがラストの現在だ。
見ているものには、あの3・11の映像が二重写しになる。ならざるを得ないはずなのだ。そして、あの地震と津波で失われた命を思い、その魂とのつながりにかけがえのないいのちの切なさを思わずにはいられなかったはずなのだ。
けれど、この現実は、決してあの時にまでもどってやり直すことは出来ないと、私たちは知っている。知っているけれど、あの失われた一人ひとりは、決して虚しく消えたわけじゃない。それぞれのつながりに生きて、その一人ひとりとの出逢いが、つながりが重ねられたはずなのだ。その絆、つながりが私たちのうちに憶えられるとき、そのいのちのかけがえのなさの真実が、より確かな意味を持つことになる。
(憶えていた人が、もうひとりもいなくなるって?そう、だからこそ決して忘れることがないという永遠者の存在に、確かに導かれざるをえないのだが。)
過去は変えられない。だから切なくも、もうかえらない。合うことは出来ない。しかし、それにも拘らず、そのいのち一つひとつへの私たちの感性が開かれるなら、その切実さをもって、私たちは生きている者たちだけではなく、死者もともに生きる明日を切り開くものとなる。
誰もが、限られた時間を生きる。このいのちのかけがえのなさを、やり直すことのできない現実の中でこそ、私たちは知るのだ。
安易に過去を変える誘惑に負けてしまうと、生きる時間はすべて虚しくならないだろうか。書き換えることのできない刻を刻むいのちの切なさ、切実さを、私たちはしっかりと抱きしめたいのだ。
まあ、アニメはそれなりに面白かった。楽しめた。しかし、なんだか、逃げられた感じだったのだ。その何となく残った心の奥の寂しさのわけを、そっとたどってみただけなのだが…長くなってしまった。