2011-12-12

熊沢義宣『キリスト教死生学論集』

キリスト教的視点に立って「いのちと死」について学んでみたいという人には、必読の書。
     
              

内容は二部構成で、前半第I部が「キリスト教死生学」、後半は「福祉の神学」についてと二つのテーマを深めているわけだが、どちらも神学的な人間理解のうえに成り立っている。
「キリスト教死生学」では、石原謙、金子勇男を手がかりにしながら、ルターの「死の理解」に深く学び、キリスト教における「死」の問題を教義学的に学ぶ試論に始まり、しかし、同時に現代の「心の病」の問題や生命倫理、あるいは「ターミナルケア」の課題など実践的にも深くまた幅広く考察されている。熊澤先生本人が病床にあって書かれたエッセイも含まれていて、人生の大問題としての「死」と向かい合う信仰者としてのまなざしに学ぶべきは多い。特に、「罪」と「死」の関係、また、その救いとしての十字架と神の愛について語られる言葉は、紋切り型の叙述ではなく、「いま、神学する」ということの意味を深く受け止めさせてもらえる。
「福祉の神学」は、長年の「ディアコニア」研究に裏打ちされた叙述で、キリスト教社会福祉とは、何かということを深く教える。「愛のボディーランゲージ」や「救いのパントマイム」といった表現のなかで、「福祉」が信仰に生かされた者が人間として共に生きる喜びを分かち合い、他者に奉仕する務めと理解される。さらに言えば、社会のなかで弱い存在は、その弱さ故に「宝」であり、人間世界を「競争社会」から「共存社会」へと変える特別な役割と価値を与えられ、祝福されていると論じる。
キリスト者として、「福祉」に生きることの基本を教えられる。

(書きかけのままにしてあったもの、書きあげて、公開しました。2013.9.05)



『十字架につけられた神』を読む

久しぶりに、学生とモルトマンを読み始めた。

http://www.shinkyo-pb.com/2008/07/18/post-766.php

今は、オンデマンドで購入することができるらしい。

学科の学生が、授業を聞いている中で、是非に読んでみたいと個人的に取り組み始めたので、「課題研究」で取り組んでいる。(この「課題研究」というのはルーテル学院大のキリスト教学科のみが持っている講座の一つで、いわゆるインデペンテント・スタディーのこと。希望に合わせて教員と一対一の授業をつくり課題に取り組んで一単位を取得することができる。)
今から四十数年前、60年代末から70年代の神学の格闘を改めて確認しつつ、しかし、確かに新鮮な、あるいは今の私たちの状況を深く考えさせられるような神学著作にゆっくりと取り組むことになった。学部の学生には、やや難解だろうが、神学の取り組みに関心を持ってくれたことがうれしい。

学部と神学校で「教義学」の関連諸科目を担当し、教えているけれども、なかなか、現代の問題に向かい合うような授業にまでうまく展開できていないことをいつも実感している。どうしても、伝統的な教義学項目を、順番に聖書的根拠や教理史をたどりつつ、教理・教説の説明のようになってしまいがちだ。もちろん、授業の展開の中では、日本の宗教性の問題や現代の教会の問題、あるいは思想・文化のなかでの神学のことを話したりしているけれども、限られた時間ではどうにもならないジレンマを感じている。また、実際に学部においては、キリスト教学科といえども教会に行ったこともない学生もクラスにいることも事実なので、こうした授業をどう展開するかについてはいつも自問自答のくり返しだ。
ただ、取り組みの中から、なにか生まれてくる。そういう経験を沢山してきたのも事実。教会に導かれていく学生があることはなににもましてうれしい。(大学の授業である限り、伝道しているわけではないのだけれども。)そして、とりわけ専門の領域で、関心をもってもらえるのは喜びだ。

自分の研究に時間がとれないと思いつつも、こうした学生との学びの時間は、自分の中に今一度神学の喜びを思い起こさせてもらえる大切な時とも思っている。自分が考えてきたこと、自分が取り組んでいることをもう一度確認させてもらえるような読書の時間だ。

教会・神学とこの世、社会のつながり。そこに働く信仰。
内向きな現在の教会の姿勢を改めて考えつつ、そこにある問題への深い洞察をしていく視座を与えられるように思う。