2010-11-23

聖霊降臨後 最終主日

11月21日 日曜日、大阪の豊中教会での説教です。
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説教『主のみ名によって』

今日は、教会の暦でいいますと、聖霊降臨後の最終主日となっています。来週は、待降節アドベントを迎え、クリスマスに備えていく。教会の暦はこの待降節が一年のはじまりですから、今日が一年の終わりの主日です。この日には、教会では伝統的に終末のこと、終わりのことに関して書かれている聖書の箇所が読まれています。
終わり、終末といっても、もちろんそれはいわゆる世界の破滅についてではなく、歴史の終わり、目的、目指すところゴールについてといった方がよいと思います。一年の終わりに、私たちのすべてが目指すところについてのみことばを聞く。いや、神様が約束される救いの出来事について私たちはみことばを聞いている。神がつくられたこの世界、そして私たち自身を、まさしく神のものとしてふさわしく神様は完成される。神の国の実現、その約束と希望が示される。それが終末に関するみことばであります。

しかし、今日のみことばを聞くとわかりますように、その希望の出来事について語られるイエス様のみことばは、むしろ混乱を語ります。実際おそらく当時の人々にとっては考えられないような出来事が語り出されている。それは、まず神殿の崩壊がおこるという預言から語られるのであります。確かに、私たちはこの預言が西暦70年、歴史的な出来事となったことを知っています。あるいは、多くの古代の遺跡がそうであるように、この神殿が壊れたということを重ねて思い浮かべるかもしれません。ましてや、ユダヤ人でもなんでもない私たちには、この神殿の崩壊という言葉の切実さは想像できないのかもしれない。
けれども、実際当時のこのイエス様の語られるところを耳にした人々、弟子たちを始めユダヤの人々にとって、この言葉がどれだけ衝撃的なことであったかと思う。彼らの日常はこの神殿によって守られてきたのです。神殿は、神様と彼らイスラエルの人々との確かなつながりを確認する場でありました。祈りと犠牲をささげる場所、神様の祝福をいただき、讃美の声を上げ、また時には深い嘆きが叫ばれるところでもあったでしょう。そして、そういう宗教的な儀式、行為はすべてイスラエルの人々の日常の生活に密接に関係しているものでありました。
つまり、この神殿は当時、神様とのつながりを最もよく確認するものであって、存在の基、もしくはアイデンティティーだといってもいい。だからこそ、当時世界中に散らされていたユダヤ民族、ディアスポラと呼ばれた人々にとっては、一年に一度、あるいは一生に一度は巡礼すべき場所と考えられていた。それが崩れ落ちるというわけです。
そう思うと、この主の語られる言葉の切実さを改めて思わされます。それは、私たちにも、時に自分の生きてきた世界が崩れ落ちるような出来事に出合うことがあるからです。突然の事故や災害、あるいは病気ということが私たちを襲う。あるいは人生の失敗や挫折。極ささいなことのようであっても、自分を大きく揺るがすことだってあるのです。自分がそれまでこれが当然の世界だと、これが自分だと考えてきたもの、自負してきたものがすべてガラガラと崩れていくということを私たちは経験するのです。そういう私たち自身の経験こそが、私たちにこの神殿崩壊の預言の切実さを教えます。
なぜ、救いの出来事への約束であるはずなのに、このような恐ろしいことが起こらなければならないと語られるのか。
確かに私たちはよく知っているのです。形ある物は必ず壊れる。生まれ出た命に終りがあるように、すべての物ははかないものなのです。しかし、なぜ、このことが私に起こらなければならないのか。なぜ、今、起こらなくてはならないか。受け入れられないのです。それでも、私たちは無情にこの神殿の崩壊を目の当たりにし、自分自身がくず折れていく只中にあるということが起こるのです。
主はさらに、続けてさまざまな争いやあるいは悪しきことが次々に起こることを語られます。そして、迫害があなた方を襲うだろうと。迫害とは、壊れてしまった世界のただ中で、私たちを責め立てる力です。迫害は、迫害するものが正義を振りかざして、信仰者、その信仰を間違っていると責め立てるのです。こうしたことが、神様が救いをもたらす時に私たちに起こらねばならないこととして語られているのであります。
どうしてなのだろうか。なぜ、こんなことになるのか。私たちは、恐ろしいほどに、不安になるものです。救いに至るまで、私たちはもっと安らかに、満たされたものとして、その時を迎えたい。そう願っているのです。そうした願いを持つ私たちに、神殿の崩壊預言は、いったい何を示しているのだろう。こうした出来事は、まるで神様が私を省みてはくださらないのかと、思わされるような出来事です。やはり、神様などいなのではないのかと、底知れない虚しさを感じさせられる出来事があるというのです。
私たちは、この神殿崩壊の預言は、あの当時のユダヤ人にとっての出来事として語られているのではなく、私たちの経験する最も大きな試練について語られていると知るのです。いったい、なぜ主はそのようなことを仰られるのか。

主は言われます。主の名によって立とうとするものは迫害されるが、「忍耐によって、あなた方はいのちを勝ち取りなさい」と。
「忍耐せよ」といわれるのかと、うなだれてしまいそうです。私たちは、この「試練」の時に、耐えらるのだろうか。「それは無理です」と、私たちはそう叫び出したいほどです。神の国が私たちに実現をするという、その時まで耐えることができるだろうか。私たちは、なお一層、恐れの中に立ちすくむ。
救いの約束、神の国の実現を語られるときに、この怖れと苦しみと悲しみの出来事があるといわれることを私たちはどう考えたらよいのだろう。私たちは、そのことに思いめぐらしても、なぜ、そうであるのかということに答えはないのです。「どうして」と、尋ね求めても、神様は応えてくださらないのです。私たちは、神様の御心のすべてを知ることは許されていないのです。

けれども・・・逆にいえば、私たちが深い悲しみの中にある時にこそ、私たちははっきりとこの約束を主が語られたことを思い起こすことができます。私たちは、思いに反してであうことその苦しみの時にこそ、イエス様が約束されたことばだけが私たちのよりどころであることを知るのです。

そして、大切なことは、これが私たちの受けるべきさばきであるとか、罪ゆえの罰なのだとは一言も仰られてはいないということです。私たちは思うのです、自分の足りなさ、信仰のなさ。至らなさ。だからこそ、この耐えがたい苦しみは、自分の問題なのだと。けれども、主は、そのことをいっさい言われない。それは、私たちの罪は主ご自身が負ってくださったからなのです。それが、私たちの救いです。私たちは主のみ名によって、生かされたのです。

だからこそ、主は言われます。「あなた方の髪の毛一本でさえ、失われることはない。」私たちが、この時を「耐える力」は、この主の約束の言葉にこそあります。私たちは、その時には、あたかも自分のすべてが崩れ行くと思わされる。けれども主は言われるのです。あなた方の何ものも失われない。むなしくされない。それは、主があなたを愛され、主があなたを捉え、主があなたを抱き、守られるからです。

パウロは言いました。私たちは洗礼によってキリストにむばれている。キリストともに葬られ、キリストのいのちに生かされている。私たちは、キリストをこの身に負っている。だからこそ、四方から艱難を受けても、倒されない。それは、キリストご自身が私たちを負ってくださったからなのだ。

そうなのです。私たちが神様と結ぶのは、それは、私の確かさの故ではありません。キリストが私と共におられるからです。いや、ただキリストが私に生きるということだけが私を本当に生かす者だとパウロは言っています。私たちと神様との関係、結び付きは、私たちの手によってつくられた生活でも、立派な神殿でもありません。私たち自身の知恵も、業績も、あるいは、立派そうな私たちの信仰も、それが私たちを助けるものではないのです。そうではなく、主ご自身があなたと共におられるという、たった一つの約束。それだけが私のすべてを支えます。ただ、その恵み、神の言葉によってのみ生きるものであるように、私たちはこの神殿が壊されるという出来事の中で招かれ、生かされていくのかもしれません。その生のただなかで、私たちには証をするものとされていくといわれます。
私たちはその生活のただなかで、証をするものとされるといわれます。何を証するのか。キリストによってのみ救いがあるという私たち自身を証するのです。そして、必要な証の言葉はその時にこそ与えられるといわれます。つまり、私たちは、この悲しみや苦しみの時にこそ、私たちは耕され、心柔らかにされて、主のみことばを、その救いの恵みを深く、しみとおるように頂いていくに違いない。
そうして、主の者として生かされるあなたは、決して虚しくならない。神の御心の実現するその時に、神様の御心からもっとも遠くにあるこの私を、しかし、それでも神の者として離さない主がおられるからです。その約束、いや、その出来事が私たちを支える。私たちを試練の時に忍耐をあって生きるものとしてくださるのだ。
その約束を私たちはイエス・キリスト名、主のみ名によって与えられています。主のみ名によって洗礼を受け、主のみ名によって祈る者とされている。だからこそ、私たちはこの時を耐えるものになる。

今日も、主のみ名によってこの礼拝に集められ、この神の国の実現を先取りして、この教会の交わりを与えられています。そして、私たちは主のみ名によって遣わされます。
悲しみも苦しみも、こういうことは起こるにきまっている。しかし、それがあなたへの最終的な言葉ではありません。主がすべてを私たちのために整えてくださいます。この問題のただなかでこそ、みことばを深く聞き。生かされる者となるのです。確かな主の救いを待ち望み、今を耐え、キリストがともにいてくださる約束にしっかりと生かされていきたいのです。

2010-11-17

『さよならエルマ おばあさん』

 この本は、Ministry誌でも紹介された。
エルマおばあさんにかわいがってもらっているスターキティという名の猫が、病気になったおばあさんの最期の一年を見守る記録という形で書かれた写真による記録絵本といえる。
おばあさん本人が自覚をして、「その時」に備えていく。表情、眼差し、愛する人々との関係がありのままに映し出されていく。エルマおばあさんの生きてきた人生を深く感じさせられるのと同時に、哀しいからこそ尊く、切ないからこそ祝福された私たちの限りある生の不思議を想う。


写真家の大塚敦子さんが、偶然の出逢いを通して知りあったエルマおばあさんを「看取り」ながら残した記録は、単なる写真ではなく、その向こうに深い愛の眼差しを感じることができるものだ。
様々なお話しや絵本でも「死」を取り上げるものが見られるけれども、生きられたいのちの重みを静かに受け取りつつ、「死んでいくこと」に寄り添うようにせまっていると思う。

2010-11-13

「いのちの倫理と宗教 ―死の選び方と看取り方」

今年もルーテル学院大学のコミュニティ人材養成センターの企画で、表題のプログラムが持たれる。
今日と来週の二回の講座。内容は下記の通り。


「いのちの倫理と宗教―死の選び方と看取り方」

私たちは、その人生の歩みがそれぞれに違ってはいても、皆等しく、必ずその歩みを終える「死」を迎えます。誰もが避けて通ることは出来ない「死」をどのように迎えるのか。私たちは、自らの選びで生まれ出てきたのではないのと同じように、「死」についても「時」や「場所」を自由に選べるわけではありません。しかし、他方、「いよいよの時」のために自らが選んでおかなければ、不必要な延命治療など「望まない生」を負わされていくことも起こりかねません。
「死の選び方」とは、実際には自分自身の生涯を「自分らしく」「自分のものとして」、最期の時まで「どう生きぬくのか」ということに向けて、どう備えていくのかを考えるための言葉です。そして、そうした一人ひとりのかけがえのない生涯の歩みをどのように実現し、終わりまで支えていくのかは、本人はもちろん、家族や関係の者たちが共に考えていかなくてはならない「看取り」の課題でもあります。
福祉や医療などの現場で、「死」の問題は絶えず隣り合わせであるばかりではなく、その問題を通してもう一度「生きる」ことをいかに支えていくのかということを考える視点を新たにしていくことにもつながります。
この講座は、本学キリスト教学科が企画し、仏教・キリスト教それぞれの宗教者を講師に迎え、死を迎える本人、その出来事に直面する家族の課題やニーズ、その人々を支える者にとって何が大切か、何を備えておくべきか等について、倫理的、宗教的あるいは広くスピリチュアルなものの役割を含めて学ぶ目的として開催いたします。講義とグループ・ディスカッションを通して、皆で学び合い、考えていく内容です。

【日時】 2010年11月13日(土) 13:00-17:00
2010年11月20日(土) 13:00-17:00 (全2回 8時間)

【講師】
松田 卓(亀田総合病院 チャプレン)
菅原 建(浄土真宗厳念寺住職)
江藤直純(本学キリスト教学科教授・日本ルーテル神学校長)
石居基夫(本学キリスト教学科准教授、キリスト教学科長) 

2010-11-01

宗教改革記念礼拝


今年の宗教改革記念礼拝は、九州の日本福音ルーテル博多教会にまねかれた。
恵まれた交わりをいただいた。
午後には福岡地区の5つの教会が合同でオープン・チャーチ・プログラムとして講演会を企画してくださり、「ルターの宗教改革と現代」というテーマでお話をさせていただいた。

博多のとなり、箱崎教会は私の父が若いころに赴任した教会で、当時のつながりを持った方々も集ってくださったこともあり、本当に豊かな交わりをいただいた。講演に続く分かち合いのプログラムでは、各教会の方々に少しずつお話をいただいたが、そこに苦労しながらも、教会の地に足をつけた活動や伝道の働き、奉仕などの実りがあることをお聞かせいただき、改めて、教会の交わりの暖かさを深く覚えたことだった。