2010-10-24
ぼくがぼくであること
『人間・いのち・世界』という学部の専門科目で「私が私であるということ」という授業を提供している。私たちは、「人間」という抽象的な存在ではなくて、生まれた時からさまざまな身近な人や物との一回的な関係の中で生きる「私」として生きるものであることを学ぶ。授業では宮崎駿作品の「千と千尋の神隠し」なども用いて、私たちがその成長の過程で私が与えられている関係をどのように自分のものとしながら、「私」になるかということを学んでいる。
そんな授業を担当していたから、アマゾンの検索でこの本の題名を発見したとき、購入しようとカートに取り置いていた。先日、別の本を注文するのでまとめてカート内の本を注文したため、昨日届いて思い出した。
山中恒作の児童文学だが、大人が読んでも面白い。というか、1969年が初版だが、その時代を色濃く映す作品は、今の小・中学生の実感からは遠いかもしれない。だから、この時代に少年時代を過ごしたものだからこそ分かるということがあるのかもしれない。もちろん、子どもから思春期に向かう成長過程で自分と社会との関係を家族という軸をばねにして見出していくのは、時代を超えた課題でもある。誰もがこの課題に出逢い、大人として成長していくのだろうし、そうしてきたのだ。だからこそ、ドキドキしながら、この作品に共感する。
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成績の良い優等生ぞろいの兄妹のなかで一人出来の悪い6年生の「秀一」は、口うるさい母親や生意気で要領のいい妹との成り行きから「家出」をしてしまう。たまたま事件の目撃者となるのだが、夏休みの間、「夏代」という女の子と老人の家に泊まる。その経験が秀一には大きな成長のきっかけになる。「冒険」と「秘密」は、秀一に新しい「自由」への予感を与えるが、同時に「責任」を持つことを教える。作者は、社会というものをつくり、成り立たせていくもののはじまりが何であるかを子ども時代の感覚でとらえさせようとしているように思う。
◇
大人の庇護のもとで育つ子どもは、いつこの世界を生きることの主体として成長するのか。人間のずるさやわがままさ、自分勝手さは大人も子どもも実は変わらない。親や教師の権威には本当に正義があるか。限界のある生を生きることの哀しさを抱えながら、どうやって自分が自分としての主体を獲得するのか。「秀一」のように自分をよく考え、素直さと謙虚さを忘れずに、なお自分がその時を耐えつつ「自分」として立っていく足取りを、自分のうちに少しでも確認できるだろうか。いつの間にか、空っぽの大人の面子と権威を仮面としていないかと省みる。
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やはり、「秀一」への共感をいまの子どもたちに求めるのは難しいだろうと思いだした。いまどきの子どもたちは、実はもっと内面化しているようにおもう。社会の矛盾には早くから冷めていて、妙に優しい半面、人間関係においては真正面からぶつかることよりも、表面的な気遣いでお茶を濁す。赤裸々な思いをぶつけることは、危険なことと思っている。それだけに、生身でぶつかる喧嘩は避けつつ、陰湿なやり取りの中に屈折した思いを込めるのかもしれない。
返信削除3年前のNCCとカトリックの対話集会で「若者の居場所」というテーマで短い発表をしたとき、一緒に話してくださった講演者(東京YMCA秋田氏)は、今の若い子たちは「尾崎豊」を理解できないのだといわれたのを思い出す。大人たちの矛盾をお行儀よく受け止めているが、結局問題を自分の中にため込んでいるのか。
本当に、自立した主体を求めたあの時代のある種の少年像「秀一」は、今や現実離れしてその姿は異様なものと見られるのかもしれない。