2010-10-26

神のみ顔 (10・17説教)

説教「神のみ顔」 ルカ18:1-11

今日の聖書の箇所は、一番初めにイエス様がいわれているように「気を落とさずに、絶えず祈らなければならないこと」が教えられています。
たとえは、たいへんわかりやすい。神を畏れず、人を人とも思わない不正な裁判官もしつこく嘆願するやもめによい裁きをする。「まして、神は」、必ずやご自分の民の熱心な祈りを聞かれるはずではないか。と言われるわけです。たとえは、非常に大胆で、神様と私たちとの関係が、「不正な」裁判官とやもめの間のやり取りにおいて語られることになっているわけです。つまり、裁判官の憐れみ深さやその正義に対する揺るぐことのない態度が、憐れなやもめに良い裁きをもたらすというのではありません。そうではなく、やもめのしつこさに辟易をした裁判官がうるさいのでやもめに都合のよい裁判をしてこれ以上困らせることがないようにしたというのです。もちろん、先ほども言いましたように、これは直接の喩ではありませんで、こんな裁判官でさえそうなのだから、まして神はご自分の民が叫び求めるのを放っておくことはありませんと語られているわけです。
しかし、いずれにしても、これは熱心な祈りの必要性を教えていると思われています。途中であきらめてはならないと。
しかし、このことばによって、私たちは自分たちの思いや願いが神様に応えてもらえないことがまるで自分の信仰の、熱心さのたりなさのように考えてしまわないだろうか。私たちの祈りが切実であればある程、実は私たちはそのことを深く思わされてしまいます。いろいろな問題の中で、どれだけ必死に祈ったか。祈らなかったか、それによって私たちの救いが決定される。お百度を踏むということが日本では古くからなされてきましたから、その祈りの熱心さをどう表すかということで、私たちの祈りの効果が表れるのかもしれない。思いが通じる、願いが届く。そのために熱心さを私たちはどこかで必要なことだと思っていますし、かなわなければ、その熱心さが足らなかったと感じさせられる。自分の信仰が足りなかったとそこで気落ちする。

さて、このイエス様の教えは、そうした熱心さへの招きだったのでしょうか。
いや、実際、このしつこいほど祈るという喩のほうから考えると、そういう印象がないわけではありません。けれども、イエス様が言われているのは、聴かれなかった、自分の熱心さが足りなかったと思う、その時にこそ、気落ちをせずに祈ることへの招かれているのではなかったかと思うのです。この教えは、祈りへの招き。あきらめないことへの励ましです。その根拠は、神様の確かさにある。救いを求めるあなたの祈りを、必ず聞き届けられるという神様の約束を教えられているのです。
祈りの招きは、たとえば詩編の27編の中でも歌われていました。
 詩編27編7-
主よ、呼び求めるわたしの声を聞き 憐れんで、わたしに答えてください。
心よ、主はお前に言われる。
「わたしの顔を尋ね求めよ」と。
主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。

こうした招きがないなら、実際私たちは祈ることが出来なくなってくる。実際、誰にたいして、何を、どう祈るのか私たちは知らないのです。だから、まず神の確かな約束の中で、祈りへの招きがあることを私たちは憶えておきたいと思うのです。

しかし、そうした招きが私たちを支えるのだとしても、どうして神様がこの祈りに「すぐに」お答えくださらないのかと、やはり私たちは心穏やかではない自分を持て余しつつ、時をすごさなければなりません。神様はなぜこの私の願いにおこたえくださらないのだろうか。自分はそれほど身勝手な願いを祈っているというのだろうか。もし、そうであればいくらでもそのことを改めます。そんな思いで祈っても、いっさい私の願いは聞き入れられていないし、答えもない。そういう時間に投げ込まれるのが私たちなのではないでしょうか。あの旧約のヨブがそうであったように、私たちの嘆きは神様に簡単には聴きいれられていないかのように思わされるのです。
 その時にこそ、実は、イエス様の大胆なあのたとえが現実味を帯びてくるのかもしれません。確かに、救いの確かさは神様の約束の中にある。そして、イエス様は、神様が速やかにさばいてくださると、教えてくださっている。そうなのだ。私たちの信仰の知恵はそういう。けれども、現実には、神様は私たちにはまるで不正な裁判官であるかのように、何一つ私のためにはしてくださらない、いや、これでは正義が通らないと思わされるものなのです。なぜ、神様はこのことを放っておかれるのか、と問わずにはいられない。「速やかに」と言われたはずではないのか。「いったい、いつまで・・」と叫ばざるを得ない。そうした問いをにぎりしめている。


神様は、なかなか私たちの思うようにはお答えくださらない。だから、ここで私たちの信仰の格闘が始まるのです。いや、もしかしたら、もう、うち沈み、信仰を失い、あきらめていくのが私たちなのかもしれません。神などはじめからいるわけもないと、私たちはあきらめてしまうのではないでしょうか。
今日の旧約の日課では、ヤコブがヤボクの渡しで神様と格闘したことを記しています。ヤコブは父と兄を欺いた、自分の犯した罪のためにふるさとを離れなければならなかったのですけれど、そのふるさとに戻るように神様から命じられ、自分を憎んでいるだろう兄エサウとの再会を前に、おそらくは不安と恐れに包まれていたと思う。その彼に神が訪れるのです。そして、その神と戦ったという出来事が創世記に記されているのです。
じつは、信仰というものは不思議なもので、私たちがそれを求めているのかと言えば、そうではなく、神様の方がいつの間にか私たちを捉えておられる。そしてそこに信仰の格闘が始まると言えるのかもしれません。
神様による祈りの招きは、恐れと不安、絶望のただなかにある私たちを捉えるばかりか、神様ご自身が私たちと組みあってくださることをこのヤコブの記事は教えている。私たちが自分から祈ることもできないその時に、神様が私たちと格闘してくださるのです。
「なぜ、どうして」という、この祈りの格闘は、私たちが信じていくというその信仰において避けがたいばかりではなく、むしろ、私たちがその信仰をさえ忘れたたずんでいるときにも神様によって望まれていることでもあるかのようです。それは、いったいどうしてでしょうか。
それは他でもなく、神様が私たちを信仰によって望みとよろこびのうちに新たに生きるようになることを求めておられるからです。
ヤコブの格闘の物語は、神様が私たちを祝福してくださる、その物語なのです。物語はあたかもヤコブが神様と戦ってその祝福を獲得したというように語られているのですが、実は大変不思議なことを思わされます。ヤコブはこの格闘の末に、神様に勝利して、その祝福を手に入れているようなのです。「神と人と戦って勝った」。だからこそ、祝福を手に入れている。ところが、実際はどうなのでしょうか。
彼は腿のつがいを外されています。本当はそこで勝負あったのです。ヤコブはこの戦いの中で相手に組み伏せられている。ヤコブの負けだったのではないでしょうか。にもかかわらず、神は勝利をヤコブに与えられている。
その戦いの中で神に負けるということの中でこそ、ヤコブは勝利をたまわっているトいえるのです。

私たちは、信仰がどのようなものなのかということをここで、よくよく知らされてくる。私たちは、神様がこの現実を変えてくださること、それを願い、その願いどおりになったら、この神様との格闘に勝利して、祝福をうけると考えていないでしょうか。なんとかして、自分の思い通りの答えを期待するのです。しかし、神様は、私たちが期待するようには現実をたちまちにしてひっくり返すような奇跡は起こされないのです。そこでは、私たちの理解を超えた神様の御心が実現をする。だから、実は私たちは組み伏せられているのです。
けれど、その現実のただなかで、主は私を尋ね、私に出逢ってくださっている。私と組み合い、無力に負けてくださるようにしてまでも、私に出会ってくださる。そして祝福を与えてくださっている。そうして、私たちにこの現実の中を生きる勇気と力を与えられるのです。
私たちは、その苦しみや恐れ、悩みのただなかでこそ、私たちを尋ね求める主の御顔に出会うのです。私たちの願った奇跡はありません。しかし、この主の御顔は、現実を生きる私を決して一人にしない。ヤコブと戦った神はイエス・キリストの十字架において、徹底して私たちの苦しみを知ってくださいました。また、神と戦ったヤコブの信仰をあのキリストの十字架が徹底して生きられました。そして、キリストは神の御心を受け取られました。

その主が変わらぬ現実にたたずむ私を尋ね、共に生きてくださる。その祝福を与えられるのです。そこに私たちは生きる希望と勇気を与えられる。神様がこの現実を生きる私を確かに知ってくださり、確かに愛してくださり、いとおしんでくださり、ここを生きることのために共にいてくださって、この私がここに生きるものであるということのかけがえのなさを知らせるからです。
そして、この主が共にいてくださるというただそのことが、私に新しい生き方を与えてくださるのです。自分のためではなく、誰かを愛し、誰かに喜びを分かち合うものとなることを私のうちに実現されるのです。その御顔において、私たちは生きることの意味をいただくのだと思う。
現実は変わらない、しかし、現実を生きる私が変えられる。神様の御心に服するということにおいて、私たちは、敗北ではなく、信仰の勝利をいただく。私たちの思いではなく、神様の御心が私に実現することを受け取っていくとき、本当に神様が私を通して働かれるいのちをいただくことになるのではないか。悲しみにしずみいくときに、私を捉え、新しくして、主に生かされる喜びを分かち合うものとされる。そのとき、私たちは他には代えがたい自分自身を生きる意味を主の御顔の内に頂くのです。
この礼拝において、私たち一人ひとり、主の御顔に照らされ、新しいいのちをいただいて、それぞれの重荷を負う、生活の現実の只中へ、しかし、神が、私たちを愛されているのだから、安心をして、私たちもまた神と隣人とを愛する新しい生き方を主に頂き、喜びを持っていかされて行きたいと思うのです。

2010-10-24

ぼくがぼくであること

                 

『人間・いのち・世界』という学部の専門科目で「私が私であるということ」という授業を提供している。私たちは、「人間」という抽象的な存在ではなくて、生まれた時からさまざまな身近な人や物との一回的な関係の中で生きる「私」として生きるものであることを学ぶ。授業では宮崎駿作品の「千と千尋の神隠し」なども用いて、私たちがその成長の過程で私が与えられている関係をどのように自分のものとしながら、「私」になるかということを学んでいる。
そんな授業を担当していたから、アマゾンの検索でこの本の題名を発見したとき、購入しようとカートに取り置いていた。先日、別の本を注文するのでまとめてカート内の本を注文したため、昨日届いて思い出した。
山中恒作の児童文学だが、大人が読んでも面白い。というか、1969年が初版だが、その時代を色濃く映す作品は、今の小・中学生の実感からは遠いかもしれない。だから、この時代に少年時代を過ごしたものだからこそ分かるということがあるのかもしれない。もちろん、子どもから思春期に向かう成長過程で自分と社会との関係を家族という軸をばねにして見出していくのは、時代を超えた課題でもある。誰もがこの課題に出逢い、大人として成長していくのだろうし、そうしてきたのだ。だからこそ、ドキドキしながら、この作品に共感する。

成績の良い優等生ぞろいの兄妹のなかで一人出来の悪い6年生の「秀一」は、口うるさい母親や生意気で要領のいい妹との成り行きから「家出」をしてしまう。たまたま事件の目撃者となるのだが、夏休みの間、「夏代」という女の子と老人の家に泊まる。その経験が秀一には大きな成長のきっかけになる。「冒険」と「秘密」は、秀一に新しい「自由」への予感を与えるが、同時に「責任」を持つことを教える。作者は、社会というものをつくり、成り立たせていくもののはじまりが何であるかを子ども時代の感覚でとらえさせようとしているように思う。

大人の庇護のもとで育つ子どもは、いつこの世界を生きることの主体として成長するのか。人間のずるさやわがままさ、自分勝手さは大人も子どもも実は変わらない。親や教師の権威には本当に正義があるか。限界のある生を生きることの哀しさを抱えながら、どうやって自分が自分としての主体を獲得するのか。「秀一」のように自分をよく考え、素直さと謙虚さを忘れずに、なお自分がその時を耐えつつ「自分」として立っていく足取りを、自分のうちに少しでも確認できるだろうか。いつの間にか、空っぽの大人の面子と権威を仮面としていないかと省みる。

2010-10-14

みんなで葬儀

「Ministry」誌の秋号が発行された。
特集をお手伝いさせていただき、天童荒太氏との対談も収録されている。

http://www.ministry.co.jp/

礼拝、牧会、リタージーなどについて諸先生方に執筆していただき、私自身も葬儀にかかわるQ&Aに応えながら、改めて「死」に直面する牧師のミニストリーについて深く考える機会となった。

「死生学」などを学んでいるといって、今回の特集でも私の書いた拙文を多用していただいたが、改めて「死」を語ることのおこがましさを実感している。私たちが出会うのはいつでも、まったく新しいその人だけの「死」なのであって、一般化することの出来ない個別性、一回性を持ったものだ。そこには一切の予断の入る余地のない「出来事」としての「死」がある。私たちは、そこでただ一切を神にゆだねるべきなのだ。
だからこそ、牧師が牧師として何か踏み越えてならない一つの線を踏み越えないようにしながら、同時に神を想うこころを確かに神に向かわしめること、そして、神がまた、私たちに示されること、働かれることの真実を御言葉において取り次ぐべき不可能をどうしても担わされる奇跡を牧師として謙遜に受け止めることを願って、この特集にあたらせていただいたつもりではある。
しかし、それでもなお、不遜なことばがあれば、それを清めて益としていただけるように願うばかりである。

ただ、今回、この特集でご協力いただきながら、執筆してくださった諸先生と心が重なるような内容になっていたことに何よりもうれしく思わされた。それぞれの専門の領域で葬儀をしっかりと取り上げていただいたことで、読み進むうちにカノンの曲を聞くがごとくに同じいくつかのテーマが繰り返されているように思われた。
全体として、良いものができたのではないかと思う。

是非、実践的に用いていただければと思うし、また、実践の中では、本誌に書かれたことを批判的にこえていって主ご自身の働きがそこに現れるものを共有していってほしいと願う。