2024年4月2日 ルーテル学院大学・大学院、日本ルーテル神学校の入学式が行われた。
2025年度以降の学生募集停止を決定したため、これが大学・大学院と神学校の合同で行われる最後の入学式となった。
その入学式でのメッセージは、マルコ福音書16章6・7節。
若者は言った。「驚くことはない。
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。ご家族・保護者の皆様にもお祝いを申し上げたい。
先日の説明会にもおいでいただいたことでしょう。先週、3月の終わりには、大学の重大な決定の突然の公表、お知らせもあって驚かれたことと思います。
それでも、皆さんには、この大学での学び、研究に、気持ちを新たにして、今日ここにおいでくださったことと思います。教職員一同、皆さんをお迎えできたことを、嬉しく思います。
この大学のニュースがHPで公表されたあと、SNS上ではさまざまに反響がありました。卒業生たちは、みな驚きと寂しさを隠さない。母校が無くなるのかと嘆きの声が届きます。そして、その卒業生たちの口にのぼってくるのは、いろいろなこの学舎での思い出でもありました。それは、卒業生一人ひとりの中にあるルーテル学院の存在感だと言って良いと思います。福祉施設で責任を負っていらっしゃる方たちがあり、病院や学校で心理職として働く人たちもいます。会社勤めで頑張っている方がおられる。カウンセリング業をされている方もある。研究職についている方もあるし、中には写真や演劇など芸術分野に進んでいる人もある。子育て真っ最中の人、親を看取り、自分もそろそろ老後に備えるという方。多くの卒業生たちが、ルーテルの日々を懐かしく心において、自分自身を振り返って、母校がなくなるのは寂しいと口々に声をあげている。
このキャンパスで教員との学び、実習先で入所者やクライエントさんと出会い、友人と過ごし、サークルを立ち上げ、ボランティアに出かけ、学園祭で盛り上がり、一緒に食べて飲んで語り合った日々が、それぞれの人生の歩みの原点となっているのがよくわかる。「ああ、うちの大学は、一人ひとりの人生の原点となるような経験をしていただけた大学、愛された大学なのだ」と改めて思いました。
私自身も40年ほど前に学んだ卒業生ですが、一学年30名、全学で120名に満たないほどでしたが、学生が皆で大学生活を作り上げていったような日々でした。
それでは、このルーテル学院の原点は何か。そこにはルーテル教会の宣教、ミッションがあると改めて思う。
本学は1909年、九州熊本の地でルーテル教会の牧師養成の神学校として始まった学校です。しかし、神学校が大学になったということは一つの側面に過ぎません。教会は、この神学校を作る7年前、1902年には佐賀県で最初の幼稚園をつくります。これは九州全体でたった4つしか幼稚園がなかった時代です。幼児教育が認識され始めるようになり、その後、小城、久留米、博多、箱崎と各地で幼稚園を建てていきます。また神学校の設立の2年後の1911年に九州学院を、そして1926年には九州女学院、今の九州ルーテルを設立する。教育事業を展開していきました。
そして同じ1920年代、これら教育事業とともにルーテル教会は熊本に慈愛園という社会福祉施設をつくりました。貧困の中に置き去りにされていく子どもたちや女性、高齢者のため、障がいを持つ人たちの施設も含め複合型の社会福祉施設を作っていく。関東大震災直後は、東京でも老人ホームと母子施設を作っていく。
ですから、ルーテル教会の日本での宣教は、ただ教会を建ててキリスト教を伝え信徒を増やすということではなかった。むしろ、社会において、すべての人が与えられたいのち、それぞれの人生を、喜びを持って生きることができるように神の恵みを分かち合うことを考えたわけです。そして具体的な困難な状況の中にある人々に、教育と福祉によってその必要ニーズに応えていく、社会を築いていくことを使命、ミッションとしてきた。
これが私たちルーテル学院の原点ですね。だから、今日、対人援助という専門においてこの大学の教育・研究を実現してきた。
でも、もう一歩進めて、このルーテルのミッション、使命はつまり宗教改革者マルティン・ルターの信仰に根ざすところにあると確認しておきたいのです。それは、聖書に証しされているイエス・キリストのいのちに生かされていくところにある。イエスは、聖書の時代、社会の中で貧しくされた大勢の人々、重い皮膚病を患う人、精神を病む人、女性、こども、死に直面する一人ひとりと出会い、寄り添い、神の恵みを共に生きるように働かれた。その人たちの生きる苦しさ、悲しみ、痛みは、今と同じように、本来共に生きるはずの人間社会の問題だったでしょう。だから、その社会そのものを問うようにイエスは宣教をしたわけです。そして、そのことのゆえに、当時の宗教的政治的権力によって十字架にかけられ命を奪われていったのです。
けれど、そのイエスの働き、問いかけにこそ真実があり、救いがある。このイエスの働き・いのちこそが希望なのだという告白が、キリスト信仰となっていったのです。
お読みいただいた聖書箇所は、マルコという人が書いたイエスの宣教の記録の最後のところです。イエスの復活の朝の出来事が記されている箇所。ちょうどおとといがイースター、イエスの復活を祝う礼拝が世界中の教会で守られ、多くの教会でこの聖書箇所が読まれたと思う。
イエスのいのちは、十字架の死において終わらないと、復活を伝える。他の福音書は、蘇ったイエスが墓に駆けつけた女性たち、あるいは弟子たちに直接に会って、語りかけられたとか、一緒に食事をしたと証言する。けれど、マルコはそのようには描かないのです。マルコは空っぽな墓だけを示し、死の中にイエスはいないと告げる若者の言葉を伝えている。
イエスのいのちの力を、現実の死と、そこに経験されている不安、虚しさと恐れとに対比させているのです。
そして、あなた方はガリラヤでイエスに会えるという。ガリラヤとは、かつてイエスが宣教を始められた場所。弟子たちとともに過ごし、大勢の病人や悪霊に取り憑かれた人を癒し、貧しい人、しいたげられた人たちに語りかけ、神の恵を分かち合い、ともに生きた場所。いわばイエスの宣教の原点なのです。
マルコはそのガリラヤに行けばイエスに会えるという若者の言葉で、福音書を締め括っていくのです。そうすることで、マルコはイエスの復活を、何か信じるべき宗教的観念にしてしまわないで、ただ、あのイエスのいのち、その生の姿、働きこそが、皆を新しく生かすのだと呼びかけ、またそのイエスのいのちの力へと招いているように思う。イエスの宣教そのものを辿ることで、この世界の現実があるにもかかわらず人間として生きる喜びと、何を大切にすべきかがわかるのだと伝えている。おそれと不安に震えている私たちに、この招きが語られた。
ルーテルの宣教も、この大学での学びも、この呼びかけへの応答だと思う。そんなイエスの働き、いのちの意味を深く問いつつ学ぶということ。いやむしろ、イエスによって私たち自身が、あるいは今この世界そのものが問われていくところにルーテルの人間理解と対人援助の学びは立っていると言っていい。
なぜ豊かな世界で貧困のために飢える人があるのか。なぜ戦争をし、大勢の子どもたちが犠牲になっているのか。どうして苦しんでいる人が見捨てられるのか。いのちと尊厳が奪われ、あらゆるところに苦しさがあるのか。お前は何をしているのか。
そういう問いかけの中で、世界を考え、私の生き方を見出していくところに、この大学でのキリスト教主義の歩みがある。
社会の方は、そんな問いに向かい合うより、現実によって全てを押し流そうとするでしょう。「しょうがないんだよ」って。でも、その仕方のないと思われるようなことも、変えられないことではありません。押し流す力に抗って、初めて事が動いていく。人権の問題、人種差別に対する考え、女性や子どもの権利、あるいは障がいを持つものも持たないものも共に生きるノーマライゼーションも20世紀の後半に取り組まれ、21世紀の今は、ハラスメント問題、ジェンダーのこと、ポリティカル・コレクトネスなど。まだまだだけど、前進してきたこともたくさんある。それは問い続ける力があるからです。
聖書は、問いかけるのです、私たちに。だから、このチャペルを中心としたルーテルでの学びはチャレンジです。私たち、皆さん自身も、きっとたくさん問いかけられることでしょう。同時に、今の世界の中に、このルーテルのような大学の学びとそこから出ていく私たちの存在と働きが、きっと問いかけとなっていくだろう。
そして、この問いかけこそが、私たちを、この世界を変えていくのだと思う。いや、変えていくような問いかけを生きていかれるように、この大学で学んでいってほしい。実践と研究はその問いによって鍛えられ、新しい支援を実現するのです。
ルーテル学院へ、ようこそおいでくださいました。神の祝福と恵が皆さんの歩みを必ず導きます。自らを問いつつ、新しい世界を切り開いていくような学びを、共にしてまいりましょう。
さあ、「新しい始まり」です。 ご入学、おめでとうございます。