今年も卒業生を送り出す、「神学校の夕べ」が行われます。
日時:2月23日 午後4時から
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 (東京教会)
主題:召命
今年の卒業生は一人。森下真帆(JELC東京教会出身)。
高校卒業後、ルーテル学院大学で学び、キリスト教と出会い、信仰を与えられた彼女が、こうして牧師をなっていく学びを終えられ新しい旅立ちをされること、嬉しく思います。
今を生きる青年にとって、信仰の出来事って、どういうことなのか、きっとお集まりくださった方にも伝わると思います。
どうぞ、おいでください。
翌週の3月1日に按手を受け、4月からは九州は小倉教会、直方教会に働きます。
2020-02-09
2019-07-10
死者の声を聴く〜ドラマ『監察医 朝顔』の初回を見て
少し遅くなった食事を食べながら、つけたテレビのドラマは、久しぶりに心を惹きつけた。主役は上野樹里の演ずる監察医、万木朝顔。彼女の演技は、かつて映画『スウィングガールズ』やテレビドラマ『ラストフレンズ』を見たこともあり、それだけでもこのドラマは面白そうと思ったが、その本当の力に引き込まれたのは、初回の後半だった。
ストーリーの展開は、いわゆる刑事物の類で、不審な死亡事件の謎が検死によって見出される諸々の痕跡によって解明され、解決されていく展開で、もちろんその亡くなった人物をめぐる人間ドラマによって現代を生きる人々、つまり私たちの日常に隠れた様々な問題が浮き彫りにされてくるというものだ。
上野演ずるところの朝顔は、遺体に語りかけ、その体に触れメスを入れることに許しを求めながら、教えて欲しい、聞かせて欲しいと願ってから検死を行う。そんな様子に、死者に対する深い敬意、人間とは何かということについてのドラマの姿勢も見えてくる。すでに亡くなって、言葉を奪われたままのその「人」は、もう実在しない。そこにあるのは「遺体」でしかないのだ。しかし、その死者の遺した体は語り出す。その声に聴き続けることでしか、真実にたどり着くことができない。『遺留捜査』とか『アンナチュラル』とも似た設定で、ドラマとしての構成は王道。時任三郎演ずる刑事万木平はその父親でもあり、その親子のやりとりも面白い。
もちろん、それだけでも、ドラマの面白さは十分に味わえる。ま、ありきたりと言われれば、そうかもしれない。けれど、私がこのドラマに引き込まれたのは、その1時間枠を超える頃、初回延長時間に入ったところだった。このドラマの軸を受け持つ親娘、平と朝顔の背景が描かれる場面。
事件解決となって、久しぶりに朝顔は父、平とともに母の実家の祖父を訪ねる。その道すがら、この二人の親子の背負う背景が見えてくる。それは、この朝顔の母、そして平刑事の妻はあの3・11の被災で行方不明となったままということだ。あの日あの時、たまたま母とともに母の実家に帰省した朝顔は、その道の途中で震災に遭遇。知り合いのおばあさんを案じた母がその様子を見にいき、朝顔を実家の祖父の元へと向かわせる。仲睦まじく、また思いやりのある母娘の、このやりとりが二人の最後の会話となった。津波以後見いだすことのできない母を探し求めて、最後は遺体安置所にも足を運ぶ。しかし、おそらく何も見出せないままなのだ。
その後、朝顔は長く祖父の元を訪ねていない。いや、それができないままであるということが、ここで明らかになるわけだが、まさにその事実がこのドラマに深みを与えている。父と二人での旅に硬い表情の中、回想されるその日の様子にドラマを見ているものが事情を察する。しかし、いよいよ祖父の待つ地の駅に降り立つと、朝顔の様子はさらに硬くなる。動けない。動悸がはげしくなって、もう体を前に進めることはできないのだ。PTSDの症状ということだろう。結局、彼女は約束した祖父の元には行かれず、この駅から一人今来た道を引き返すことになった。
父は、その娘が電車に乗り込むのを見送りながらいう。「一人で大丈夫か。ごめん、ダメなのは父さんの方なんだ。お母さんを探していないと…」具合の悪い娘を一人で帰らせても、この地に残る平には、どうしてもしなければ気のすまないことがある。続く場面では、刑事として持てる捜査技術で、海岸べりを徹底して妻の遺留品を探している平の姿が大写しになる。大事な妻を失った、その時、そばにいることができなかった、後悔とともに、平は妻の「何か」を見出そうと、必死に砂を洗い続ける。彼は、娘朝顔とは違い、八年間、繰り返しこの地を訪ねてそうして過ごしてきたのだ。
この二人を描く描き方が特にも観る者の心を惹きつけたのだが、とりわけ上野演ずる朝顔の中のある「真実」が色々なことを汲み取らせる。(「惹きつけ」られたのは確かなのだけれど、実は、相当に動揺した。見ていてすぐに「これ放送して大丈夫?」という問いに囚われたと言ったほうがいい。描かなければ、伝わらない真実がある。でも、このドラマがいう通りに、まさに傷ついたままにある人々があるのだ。それをいきなりこうして突きつけられるのは、大丈夫?という感覚。八年たったから?でも八年たっても、というのがこのドラマなのだから。ちょっと、何か字幕ででも、注意喚起があってよかったのではないか。)
父は、その娘が電車に乗り込むのを見送りながらいう。「一人で大丈夫か。ごめん、ダメなのは父さんの方なんだ。お母さんを探していないと…」具合の悪い娘を一人で帰らせても、この地に残る平には、どうしてもしなければ気のすまないことがある。続く場面では、刑事として持てる捜査技術で、海岸べりを徹底して妻の遺留品を探している平の姿が大写しになる。大事な妻を失った、その時、そばにいることができなかった、後悔とともに、平は妻の「何か」を見出そうと、必死に砂を洗い続ける。彼は、娘朝顔とは違い、八年間、繰り返しこの地を訪ねてそうして過ごしてきたのだ。
この二人を描く描き方が特にも観る者の心を惹きつけたのだが、とりわけ上野演ずる朝顔の中のある「真実」が色々なことを汲み取らせる。(「惹きつけ」られたのは確かなのだけれど、実は、相当に動揺した。見ていてすぐに「これ放送して大丈夫?」という問いに囚われたと言ったほうがいい。描かなければ、伝わらない真実がある。でも、このドラマがいう通りに、まさに傷ついたままにある人々があるのだ。それをいきなりこうして突きつけられるのは、大丈夫?という感覚。八年たったから?でも八年たっても、というのがこのドラマなのだから。ちょっと、何か字幕ででも、注意喚起があってよかったのではないか。)
震災の後、復興は進んでいるか。それすら、考えさせられるのだが、復興はその土地に生きた人々に何をもたらそうとしているのか。深く傷ついた人々、大切な家族を失った人々の心には、痛みがあり、過ぎ去らないままの「出来事」がある。過去なのに、もう戻ってくることのない過ぎ去ったはずのことなのに。過ぎ去ることのない痛み、苦しみ、そのどうにもならなさ。それは、その人にどのような時を生きさせるものとなっているのだろう。復興は、そのひとの新しい時間を作り出すものなのだろうか。埋め立てられ、変わっていくその土地の姿の中に、探し求めるものが、もう探せないものとなってしまうだけなのではないのか。いや、それでも作り出そうとする復興の姿は一体何を必要としているのだろう。
朝顔は、いまだに解かれることのないこの「出来事」のゆえに監察医として生きる今を生きているのだろう。これがきっと、これからこのドラマの展開の中に、より鮮明に見られるものとなるのだろう。
死者は、確かに「死者」であるに違いないだろう。でも、その「死者」とどう向き合っているのか。そう生きているのか。八年を超える年月を数えても、この喪失に答えを探し続ける人たちのあることを忘れてはならない。
そして、それは、きっとあの大きな災害の中にだけ起こっているのではない。日常の中に埋もれ、流されていく私たちの確かな関係の、あの人もこの人もやがて時がきて、失われていく。その死者たちと私たちはどのように生きているのか。
死者の声を聴く。このテーマがこのドラマにどんな深みを見せるものとなるのか。しかし、ドラマ以上に私たち自身が、何を汲み取っていくのか、試されているようにも思ったのだ。
死者の声を聴く。このテーマがこのドラマにどんな深みを見せるものとなるのか。しかし、ドラマ以上に私たち自身が、何を汲み取っていくのか、試されているようにも思ったのだ。
2019-06-01
「キリスト教の信仰(神との関係を生きること)と交流分析」
日本交流分析学会で、特別講演。自分の専門ではない学会で、冷や汗をかきながら、お話しさせていただいた。
⒈ 信仰を生きるということ
キリスト教の信仰は、何かの信念を持つことや教義を理解し信じ込むことではなくて、生きる神と具体的対話、交流を生きることであると言って良い。その意味で、信仰者一人ひとりは、神からの語りかけに応答して自らの人生を生きるものであり、この神との関係の中に自己自身と世界を受容し、過去から未来に向かう自分自身の歩みを進めていくことになる。
この神関係において、赦しと慰め、癒しを与えられることを「救い」と呼ぶ。つまり、救いは単に天国における死後の平安を意味するのではなく、具体的に生きられる人生へ希望と勇気をもたらす。そして、神の御心としての正義や公平、平和などの価値を求め、自分のためばかりではなく、むしろ他者のために生きることを喜びとする人生を選び、その決断を為さしめていく根源的な力を神から受け取る。
⒉ 交流分析の手法から
この「救い」を生きる状態は、交流分析の基本的構え「I am OK. You are OK.」の状態を生きるということと重なるだろう。交流分析は、具体的な人間関係のあり方(ストロークのやりとり)の中で、こうした「構え」(position)を得ることを見る。その意味で言えば、神との交流もまた、交流分析的に見ることもできるだろう。
神の人間への語りかけには、二種類のことばがある。一つは律法のことばで、人間のなすべきことを命令することばである。もう一つは福音のことばで、これは、私たちに対する絶対的肯定のストロークである。神の本来的な語りかけは福音のことばであって、非本来的な律法のことばに勝り、信仰者一人ひとりを生かす究極的な語りかけとされる。
⒊ 具体的な交流とそれを超える神との交流
この神との交流は、礼拝や牧会などの信仰的な「場」を基礎としながら、具体的には他者を通して与えられるが、その他者である具体的な人間とのやりとりを超える超越的なものとして受け取られるものである。それゆえに、逆に言えば、交流分析において捉えられる具体的な人間関係の姿とその意味を、信仰の世界は一旦超越的な神との関係の中におくことで、新しい姿と意味へと転換するものともなりうるということかもしれない。
⒋ 神のことば(語りかけ)によって、支えられる人生脚本
信仰は、イエス・キリストご自身を究極的な神からの語りかけ(ストローク)として受け取ることであり、信仰者は、自らの人生の物語に、この神の語りかけにより絶えず新しい人生脚本を描きこんでいくことと言えるのではないか。
2019-05-07
絵本「わたしたちだけのときは」
カナダの先住民族に対する同化政策のもと、クリー語を話した人々がことばも装いも自分たちが自分たちである当たり前のことが奪われた。その中で子どもたちがどのようにして自らのアイデンティティ、誇りや尊厳を守ってきたのか。この小さな絵本は、歴史の中に隠されながらも自らが自らであることを生きる権利が奪われていく辛さと、その中で生きることの本当の喜びを守るべきことを教えている。
デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン(著), ジュリー・フレット(イラスト)
世界のいたるところ、そしておそらく歴史上いつも繰り返されてきたことかもしれない。支配被支配の構造の中で苦しみを余儀なくされてきた人々がある。
性別、生まれ、肌の色、部族・民族、言葉・文化・宗教の違い。障害や病気、貧富の差、教育の違い。そうしたものが、差別と抑圧の原因となり、生きることの喜びと尊厳を奪われることが起こるのだ。
力がないから仕方がない、と、そういってしまえば、人間が本当に人間として「共に生きる」価値を失う。数の論理で多数を占めるものが世界のあり方を決めるのは、決して平等でもないし、民主主義でもない。難しいことかもしれない。けれども、諦めずに求めていくべきことがある。守るべきものがある。
デイヴィッド・アレキサンダー・ロバートソン(著), ジュリー・フレット(イラスト)
世界のいたるところ、そしておそらく歴史上いつも繰り返されてきたことかもしれない。支配被支配の構造の中で苦しみを余儀なくされてきた人々がある。
性別、生まれ、肌の色、部族・民族、言葉・文化・宗教の違い。障害や病気、貧富の差、教育の違い。そうしたものが、差別と抑圧の原因となり、生きることの喜びと尊厳を奪われることが起こるのだ。
力がないから仕方がない、と、そういってしまえば、人間が本当に人間として「共に生きる」価値を失う。数の論理で多数を占めるものが世界のあり方を決めるのは、決して平等でもないし、民主主義でもない。難しいことかもしれない。けれども、諦めずに求めていくべきことがある。守るべきものがある。
2019-04-05
石居正己の説教 「湖上を行かれる主」マルコ6:45〜52
私の父、石居正己は日本福音ルーテル武蔵野教会の牧会時代(1959−1969)から、年末にその1年間の説教からいくつかを選んで説教集としてまとめ、ガリ版刷りで作ったものを関係の方、お世話になった方や教え子たちに送ることで、年始の挨拶に代えていた。
三鷹で神学大学、神学校で教鞭をとっていた時代はわからない。しかし、蒲田教会にいた時(「六郷通信」?)、引退して宇治に行ったのち(「尖山報」)も、似たようなことをして多くの方に説教集を送りつけていたのだと思う。
送られた方は、閉口したかもしれないが、しかし、本人の思っていた以上に、多くの方々に喜んでいただいてきたことも事実だと思う。父の死後も、随分そのことに触れて、息子である私が感謝の言葉を受け取ってきた。
片付けをしていたら、父の亡くなる2010年の年始に作って送ってくれたものが出てきた。改めて読んでみたが、埋もれさせておくのは惜しいと思い、jpegにとってみたので、一部を紹介しておきたいとここに記録した。
あぁ 、これが父の説教であり、また神学であったと、改めてその取り組みに学ばされるのだ。どこに出かけても、父に似ていると言われる自分だが、やはり聖書への深い取り組みは追いつけないままかと思うことしきり。
2019-03-01
2019年度 ルーテルの「パイプオルガン講座」
今年も、またオルガンの講座を開きます。
教会のオルガニストとして学びたい方、パイプオルガンに関心のある方。広く、この講座で学んでいただけるようにしています。
本学チャペルオルガニストお二人が講師となってくださいます。
オルガンの講座と同時に、大学や神学校の公開講座で学んでいただくことで、教会の礼拝、聖書、信仰についての学びをしていただけると、きっと豊かな学びをデザインすることができるでしょう。
下記のURLから募集要項も、申し込み書もダウンロードすることができます。
http://www.luther.ac.jp/news/20190130-01.html
教会のオルガニストとして学びたい方、パイプオルガンに関心のある方。広く、この講座で学んでいただけるようにしています。
本学チャペルオルガニストお二人が講師となってくださいます。
湯口依子講師 (火曜・木曜 講座担当)(本学講師・チャペルオルガニスト)
東京芸術大学オルガン科卒、同大学院修了。
ドイツ・ウエストファーレン州立 音楽学校卒。青山学院女子短大講師、
桜美林中学高校オルガニスト。
深井李々子講師 (水曜 講座 担当)(本学講師・チャペルオルガニスト)
国立音楽大学オルガン科卒、フランス・ニース音楽院卒。
東洋英和女学院大学生涯学習センター講師、キリスト教音楽院講師。
東京芸術大学オルガン科卒、同大学院修了。
ドイツ・ウエストファーレン州立 音楽学校卒。青山学院女子短大講師、
桜美林中学高校オルガニスト。
深井李々子講師 (水曜 講座 担当)(本学講師・チャペルオルガニスト)
国立音楽大学オルガン科卒、フランス・ニース音楽院卒。
東洋英和女学院大学生涯学習センター講師、キリスト教音楽院講師。
オルガンの講座と同時に、大学や神学校の公開講座で学んでいただくことで、教会の礼拝、聖書、信仰についての学びをしていただけると、きっと豊かな学びをデザインすることができるでしょう。
下記のURLから募集要項も、申し込み書もダウンロードすることができます。
http://www.luther.ac.jp/news/20190130-01.html
人が人を裁くこと〜〜映画「教誨師」を観て
大杉漣さんの最後の出演作品となったこともあって、どうしても観たい映画の一つだった。
すでに刑が確定して収監されている死刑囚のうち、希望する者が、その「心情の安定に資する」という目的で面会を許されている宗教者と会うことができる。この宗教者が教誨師と言われるのだ。
この映画は教誨師である一人の牧師佐伯保が、6名の死刑囚との面会をしていく、その様子をただ淡々と描いている。実は、ただそれだけの映画で、特にその死刑囚が犯した特定の犯罪の真相に迫るとか、死刑確定の背後に冤罪が隠されていることを告発するとか、そういう類のストーリーは全く描かれない。それぞれにおそらく殺人を犯した罪に問われて、死刑という判決を受けたであろう人たち。その収監されている彼らが彼ら自身の思い、思惑を抱いて教誨師と会う。その姿を描いているに過ぎない。
教誨師は、彼らに犯した罪を悔い改めるように勧める。そういう務めを負っている。もちろん、刑務所としてそういうことを必ずしも期待されているわけでは無い。それでも宗教者としての務めとして、教誨師自身が受け取っているのだろう。実際、この映画の中でも佐伯牧師がそういうことを受刑者に促すような場面もある。そして、洗礼を受ける受刑者もある。しかし、この映画は、決してその宗教的改心のようなものが起こるということを描くことが目的でも無い。
では、いったい、何を描いているのか。
そこに描かれるのは、ごくごく普通の人たちなのだ。異常さと正常。受刑者と一般。それを区別する一線はどこにあるのか。少しだけどこかに思い込みや信念みたいなものがあったり、何となく弱さを含んだ人のよさ、優しさみたいなものがあったり、調子のいい言葉で自分の思いを吐き出したり、なんとか死刑執行を先送りできないかと画策してみたり。そういう一人ひとりのありのままの姿を描いている。現象としてそれを描くだけだから、その本人の心情は、推察するしかない。何を考えているのかは、私たち見ているものには決してわからない。ただ、淡々とそこに起こる人間を見る。そして思い巡らす。
確かに、幾分変わっている人であり、また、傷つきやすい人だったり、悪賢く何かを画策しているようでもあり。しかし、思えば、それはどこにでもいる人間の姿なのだ。そのどこにでもいる人が、きっと、あるときに人の命を奪うという、そんなどうにもならなさの中に生きることになったのだ。
そういう人間を、ただこの収監された閉じ込められた世界の中に描く。
ただそれだけで、人間が人間をさばき、命を奪うというこの事態に問いを投げかけているように思う。
罪を裁く。しかし、現実にはその罪を犯した人が、死刑を受ける。そんなことができるのか。この一人が死刑に処せられることと、私がここにいきていること。その間には、いったいどんな違いがあるのだろうか。
牧師佐伯は、結局、この仕事の中で、自分自身と向き合うことになる。自分は何者なのかという問いを抱く。実は、この映画で一箇所だけ回想シーンが描かれている。それは佐伯教誨師のものだ。そこには、まだ少年時代といっていいほどの頃、ちょっとした経緯(いきさつ)があり、兄が自分を守るために人を殺める場面が描かれる。人が人を殺めるということは、許されないけれども、そういうことが人間の日常の中で起こる。兄を思うこと、自分の中に渦巻く後悔。あるいは、自分の中に潜んでいたはっきりとした殺意。兄の行為は、自分のしたことだったかもしれなかった。
自分もまた、人殺しに過ぎず、刑を受けるものであったかもしれない。人間とはそんなものなのだ。私とはそのようなものに過ぎないのではないのか。
そんな私たちが 人をさばき、死刑に定める。その不遜な私たちの姿が透けて見えるのだ。どこで、あなたはその馬鹿げたありようをそのままにして、そこを立ち去り、自分だけ逃げ出してしまったのか。
私たちは、立ち戻るべきところがあるのではないか。
映画は、淡々と そう問いかけている。
すでに刑が確定して収監されている死刑囚のうち、希望する者が、その「心情の安定に資する」という目的で面会を許されている宗教者と会うことができる。この宗教者が教誨師と言われるのだ。
この映画は教誨師である一人の牧師佐伯保が、6名の死刑囚との面会をしていく、その様子をただ淡々と描いている。実は、ただそれだけの映画で、特にその死刑囚が犯した特定の犯罪の真相に迫るとか、死刑確定の背後に冤罪が隠されていることを告発するとか、そういう類のストーリーは全く描かれない。それぞれにおそらく殺人を犯した罪に問われて、死刑という判決を受けたであろう人たち。その収監されている彼らが彼ら自身の思い、思惑を抱いて教誨師と会う。その姿を描いているに過ぎない。
教誨師は、彼らに犯した罪を悔い改めるように勧める。そういう務めを負っている。もちろん、刑務所としてそういうことを必ずしも期待されているわけでは無い。それでも宗教者としての務めとして、教誨師自身が受け取っているのだろう。実際、この映画の中でも佐伯牧師がそういうことを受刑者に促すような場面もある。そして、洗礼を受ける受刑者もある。しかし、この映画は、決してその宗教的改心のようなものが起こるということを描くことが目的でも無い。
では、いったい、何を描いているのか。
そこに描かれるのは、ごくごく普通の人たちなのだ。異常さと正常。受刑者と一般。それを区別する一線はどこにあるのか。少しだけどこかに思い込みや信念みたいなものがあったり、何となく弱さを含んだ人のよさ、優しさみたいなものがあったり、調子のいい言葉で自分の思いを吐き出したり、なんとか死刑執行を先送りできないかと画策してみたり。そういう一人ひとりのありのままの姿を描いている。現象としてそれを描くだけだから、その本人の心情は、推察するしかない。何を考えているのかは、私たち見ているものには決してわからない。ただ、淡々とそこに起こる人間を見る。そして思い巡らす。
確かに、幾分変わっている人であり、また、傷つきやすい人だったり、悪賢く何かを画策しているようでもあり。しかし、思えば、それはどこにでもいる人間の姿なのだ。そのどこにでもいる人が、きっと、あるときに人の命を奪うという、そんなどうにもならなさの中に生きることになったのだ。
そういう人間を、ただこの収監された閉じ込められた世界の中に描く。
ただそれだけで、人間が人間をさばき、命を奪うというこの事態に問いを投げかけているように思う。
罪を裁く。しかし、現実にはその罪を犯した人が、死刑を受ける。そんなことができるのか。この一人が死刑に処せられることと、私がここにいきていること。その間には、いったいどんな違いがあるのだろうか。
牧師佐伯は、結局、この仕事の中で、自分自身と向き合うことになる。自分は何者なのかという問いを抱く。実は、この映画で一箇所だけ回想シーンが描かれている。それは佐伯教誨師のものだ。そこには、まだ少年時代といっていいほどの頃、ちょっとした経緯(いきさつ)があり、兄が自分を守るために人を殺める場面が描かれる。人が人を殺めるということは、許されないけれども、そういうことが人間の日常の中で起こる。兄を思うこと、自分の中に渦巻く後悔。あるいは、自分の中に潜んでいたはっきりとした殺意。兄の行為は、自分のしたことだったかもしれなかった。
自分もまた、人殺しに過ぎず、刑を受けるものであったかもしれない。人間とはそんなものなのだ。私とはそのようなものに過ぎないのではないのか。
そんな私たちが 人をさばき、死刑に定める。その不遜な私たちの姿が透けて見えるのだ。どこで、あなたはその馬鹿げたありようをそのままにして、そこを立ち去り、自分だけ逃げ出してしまったのか。
私たちは、立ち戻るべきところがあるのではないか。
映画は、淡々と そう問いかけている。
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