2018-03-01

「アナと雪の女王」を観て

 もう数年前になるけれど「アナと雪の女王」大ヒットしたのは、「ありのままに」という主題歌のメッセージ性とその音楽的な浸透力によるといってよいかもしれない。現代社会を生きる人々にとって、この単純なメッセージに癒された人も多いということだろう。 
 しかし、この作品は単なるヒット作ということでは済まされないような話題作、問題作であったことも記憶にとどめておくべきだろう。なんと言っても、ディズニーの映画としては今までにあまり例を見ないような作りになっていたと思う。 それは、いわゆる「シンデレラコンプレックス」的ストーリー展開を打ち崩すものであったということだ。「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「美女と野獣」などの代表作に見られるような、お姫様と王子様のハッピーエンドではないということだ。 



 
ストーリーの展開は、実はそうしたお姫様王子様の物語を意識的に裏切るように組み立てられている。本論に入ってからの前半の中心を彩る形のアナとハンスの恋愛物語は、王子ハンスの裏切りによって、その期待をひっくり返す。そして、その間に伏線を貼りながら、後半に展開するアナの危機を救うであろう相手役クリストフの存在も、彼の「真実の愛」のキスがアナのいのちを救う鍵かと、そのクライマックスを期待させながら、ギリギリでかわされる。その点においても、ディズニーのテッパンを見事に裏切る一作として、この映画の特別な意味を考えさせられるのだ。 

  主人公は二人姉妹。エルサとアナ。全編を貫く主役はおそらく妹アナで、ストーリー展開の軸となる。けれど、その背後でこの物語を成り立たしめるのは、姉エルサの王女としての成長がカギとなる。特殊な能力を持つエルサが、しかし、その現実を受容してほんとうに自分を生きるように成長する。 ストーリーの最後に「真実の愛」が、この姉妹の関係の中に描かれるわけだが、はじめから一筋なアナではなく、むしろエルサの成長というか改心こそがポイントになる。つまり、理想的な愛の形などというものがどこかにあるのではなくて、恐れながらも自分の相手を想う確かな思いにまっすぐに生きることができた時、その「真実性」が見出されてくるということでもあろうか。理想の王子様に包まれるところに愛の形があるのではないのだ。むしろ、相手のためだけをただ想い願うアナのとっさの行動と、それに応えて涙するエルサの深い想い。この愛によってこそ、全てを凍らせた世界が溶かされる。 
 これだけでも、いわゆる 理想として描かれる王子と王女のラブストーリーではなく、姉妹の愛の中に「真実の愛」を描きつつ、人間にとって生きることとは何かと問いかけるのだ。 
 その意味でいえば、エルサの魔法の魔法の力で生まれた雪だるまのオラフ(幼いときの姉妹が仲睦まじい頃作った雪だるまのイメージが重なっている)が、自らを犠牲にして溶けてなくなりながらもアナを救おうとする場面は、(エルサの隠された思いでもあるアナへの真実でもあろうか)大事なメッセージを持っているのだ。しかし、その愛を生きるオラフという存在(雪に過ぎない)のなんと儚いものかということも暗示的だ。人間の中に見られるのは、いつも狡猾な計算によって自己の利益を求める、はるかに打算的なものでしかないのだとも言える。しかし、この儚く、なきに等しい「真実」を忘れてはならないと作品は訴えるのだ。 

  さて、真の主人公でもあるエルサ。彼女は生まれながらに魔法の力を持っている。あらゆる物を凍らせる不思議な力だ。小さいうちは、無邪気な遊びの中にそうした隠された力があることが現れても、誰も気がつくことはないし、傷つくこともない。  ところが、ある時、感情が余ったか、その力が思わぬ形で妹アナを貫く。トロルの魔法を解く力を借りてアナは一命を取り止めるが、エルサの「魔法の力」は、他者を傷つけるものだと知られる。親は、それを隠すようにと命じるし、本人が最も驚きながら、その自分を隠すことが生きる術と心得る。交わりを断ち、閉篭もることで、誰も傷つけまいとする。誰からも望まれる「良い子」であるためには、それが唯一自分にできることと、エルサは、自分を押さえ込んでしまう。この特別な力の発露さえ起こらなければ何事もないはずなのだが、彼女の成長とともに、実はその力ははっきりと現れるようになるし、また、本人は、これをコントロールすることができない。

  そうして年月を過ごすが、両親を事故で失い、エルサはやがて後継として自立しなければならない年齢となる。ところが、他者との関係を最小限にすることでしか生きることはできないと思い込んできたエルサには、この一国の王女となるには壁が大きい。何とか、「魔法の力」が現れさえしなければと努力はするが、結局それが無駄なことと知ることになる。エルサの身体の成長は、「魔法の力」をも大きなものとしていたわけだが、隠し、抑え込むことで対処しようとしてきた彼女には、もはや手に負えるものではなくなってしまっていたのだ。

  エルサは、一人城を出て山に登り、そこに氷の城を作って全く一人で生きようとする。  この時に歌われるのが、「レット・イット・ゴー(ありのままに)」だ。人から離れてさえいれば、自分のありのままの感情もその魔法の力も自由に用いることができるとエルサの覚悟が示される。もちろんそうして関係を絶ったところに、本当の自由があるというのは幻想だ。むしろ、一切の関係を奪われているという不自由さのマントをまとっているのだ。
  この歌は、LGBTのカミングアウトの歌として解釈され用いられているそうだ。確かに、その視点は面白い。(エルサに生まれながらに与えられた特別な力はジェンダーの固有性と重ねられるのか。隠して生きることを強いられること、成長するにつれそれを隠すことはできなくなることなどなど考えさせられることは多い。)
 しかし、単純に自分のありのままの肯定ということが、このストーリーの結論ではないし、この歌もこの場面で歌われる意味と、映画のラストで歌われるところでは、同じことばが歌われたとしても、全く違った意味になることだけは知っておきたい。 
 例えば、このエルサの不思議な魔法が他者を傷つけるものだというそのことが、なぜ、エルサがエルサ自身であることを諦めなければならなかったのか。エルサは自らを隠すことでのみ、生きることが許されると思い込んできた。しかし、隠しようもない自らの命の発露を持ち得るために一人の城を築いてみせた。しかしその孤独もまた、自らが誰であることでもなくなってしまうことではなかったか。エルサがエルサであるということは、他者との関係によってそのかけがえのない ただ一人のエルサその人となり得るのだ。 

 愛すること、愛されることから遠ざかることでは、エルサはエルサとなり得ない。彼女の固く閉ざした扉を叩き続けた妹アナの存在は 何よりもエルサをエルサとして生かす象徴的な存在だったわけだ。そして、実はこうしてエルサがエルサ自身であることを失っていくことは、ただエルサだけの問題なのではない。エルサの深い孤独の剣は、アナのいのちさえも奪う呪いでもあったのだ。 

 物語は、初めに書いたようにこの二人の間の深い関係性の中で「真実」なる関わり(愛)へ呼び出されるカイロスに焦点が当てられているのだった。その真実を求め合う関係は、やはり傷つけることを避けられないこともあるだろう。けれど、もはや「良い子」であることではなく、真実の自分として傷つけ傷つけられても、その真実を求め続けることに覚悟を決めなければ生きられない。「レット・イット・ゴー」は、そうした新しい覚悟の中に歌い直されているように思う。

2018-02-27

教職授任按手式礼拝 2018・3

日本福音ルーテル教会 教職授任按手式が3月4日の日曜日、午後7時から、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂にて行われる。



今年、日本福音ルーテル教会で按手を受け、牧師となるのは3名。それぞれ、先の常議員会で任地も発表された。
多田哲さん(豊中教会出身)の赴任教会は東教区の日本福音ルーテル日吉教会。野口和音さん(熊本教会出身)は同じく日本福音ルーテル長野教会、そして松本教会。森田哲史さん(田園調布教会出身)は東海教区の日本福音ルーテル新霊山教会。

教会では、伝統的に教会の職務に当たるものが選び出され、派遣されて行く時には、先に任にあたってきた責任をもつ者たちが集い、その選ばれた者の頭に手を置いて祈り、聖霊による賜物を祈願し、教会の委託を示して祝福をしてきた。 この按手によって、それぞれの職務へと召され、用いられていくわけだ。

頭に手を置くことは、限られた人たちによるのだけれど、集うものたち皆が心を合わせて、彼ら一人ひとりを祝福し、祈っていただくことで、教職となっていく恵と使命を新たに心に受け取っていくことだろう。大勢の皆さんがおいでくださることを願っている。

http://jelc-news.blogspot.jp/2018/01/2018.html



2018-02-13

2017年度 神学校の夕べ

今年も、「神学校の夕べ」で新しい卒業生を送り出す季節となった。

日時は、2018年2月25日 午後4時から
場所は、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂(東京教会:新大久保)
テーマは「かけら」。


2017年度の卒業生は、多田哲さん(JELC豊中教会出身)、野口和音さん(JELC熊本教会出身)、東谷清貴さん(JELC松山教会出身)、森田哲史さん(JELC田園調布教会出身)の4名だ。
 4年前、それぞれの人生の歩みの中で、神様の呼び声を聞き、新しい歩みを牧師への召命として受け止めて神学校へ入学してきた。以来4年間、神学校での学びを深めてきたのだ。宣教の困難な時代、これからの教会を担う新しい人材を神様からいただけることは、本当に大きな恵みだ。しかし、その招きに応えていく一人ひとりにとっては、楽なことは何一つない。しかし、もちろん、この招きのなかで生かされていく喜びは、それに増して大きい。4年間の神学校の学び、教会での実習や研修のなかで、その喜びを味わいつつ、改めて主の召しを受け取り直して歩んできたことだろう。
 そして、彼らは、また新たに自身の生涯にわたる主の導きを実感していることだと思う。だから、彼らは皆、それぞれにこの主の召しに応える歩みの途上にあるといってもよいだろう。
 いま、神学校卒業の節目を迎えるが、主の召しを聴き続ける歩みが重ねられていくことになるのだ。彼らの証しする主の語りかけを、この夕べに聞いていきたい。
 
 そして、彼らのあらたな門出を祈りをもって祝していただければと、願っている。
 

2018-02-10

石牟礼道子の言魂

 石牟礼道子さんが逝った。


 かつて、大学生の頃、ゼミで取り上げられた『苦海浄土』をはじめて読んで、引き込まれた。もちろん、水俣の問題を深く考えさせられたことだったし、現代社会の複雑な姿をはじめて学んだ。けれど、それ以上に、私にとっては引き込まれるような彼女のことばの力に出逢ったことが非常に大きなチャレンジだった。
 たとえば、『苦海浄土』のなかにあった一文は、未だに自分に問いかけることばとして噛み締める。幾つか自分が書いたものにも引用してきたし、授業でも必ず紹介する。それほど大きな衝撃をうけたのだった。読んだ当時は、そんなふうに自分を捉えていくものだとは、思っていなかったかも知れない。でも、何かの予感に、心が高鳴った。石牟礼道子はこう書いている。

  「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私
   は、わたしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねば
   ならぬ。」

 大学生の自分は、教会にも通わない似非クリスチャンだったかもしれないが、それでもキリスト者であるという自覚を持たなければ、まわりの「民青」の連中との距離が保てなかったのだろう。そんな程度で、熱心でもない信仰を後生大事に抱えているだけだった自分に、宗教とは何かということを本当の意味で問いかけてきたことばのひとつだったようにおもう。宗教というものの役割を改めて社会構造の問題と重ねて考える視点を受け取っていったといってもよいかもしれない。(これについては、後に神学校に入って田川を読んだときに聖書の世界との関係で学び直す。でも、比較にはならないが、ことばの力と言う意味に限って言えば、僕にとってはもちろん、石牟礼の方に軍配があがる。)
 僕の薄っぺらなキリスト教信仰に、チャレンジすることばだった。石牟礼道子のことばには力がある。それは、現代に生きる哀しみと、どうしようもなさを抱えている私たちの姿を決して怯むことなくあからさまにする迫力なのだ。人間存在の深みにある「業」、あるいは「原罪」ということを捉えていくような力だと言ってもよい。それが、彼女のいう「現代の呪術師」たるゆえんか。深い魂のことばが紡がれる。

 彼女が逝った。
 しかし、彼女のことばは生きている。これが、「言霊」というものだろう。彼女のことばは小説とか詩とかの領域を超える。いや、それらの芸術の極みには必ずや宗教的な「祈り」に近いものがみえてくるということか。でも、やっぱり僕にとっては、彼女は小説家でも、詩人でもない。現代の呪術師なのだ。

 誰とともに生きるのか。誰の祈りをとりなすのか。たちまよう魂のうめきを聞き、寄り添うものであり得るか。自分の歩みは遅々として進まないが、現代のなかでの「祭司」である意味を自分なりに模索している。

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180208005487.html

2018-01-08

教職神学セミナー「平和:現代世界への宣教の視点から」




 今年も、日本ルーテル神学校では、2月の13〜15日の二泊三日で教職神学セミナーを開催する。今回のテーマは「平和:現代世界への宣教の視点から」とした。
 宗教改革500年の節目をそれぞれに憶えて、私たちは時代の苦悩に応える福音宣教への思いを新たにしてきた。そして、11月23日、長崎で行われたカトリック教会と日本福音ルーテル教会の共同記念では「平和を実現する人は幸い」をテーマとして現代における宣教的課題に共同・協働していくことが憶えられた。今、ポスト500年を迎えて、あらためてこの課題にしっかりと向かい合っていきたいと思っている。
  
    


 現代の深い苦悩は、世界全体のなかにうまれてきた格差の深刻さが原因となり、人間関係が深く傷つけられ、切り裂かれていることに由来する。自分を守るために、他者を排除し、あるいは自分に都合よく他者を支配、利用しようとする。そこに対立も分断もうまれてくることになる。ナショナリズムということばかりではなく、なにか行き場の無い怒りのようなものが渦巻いていて、自分ファーストでなぜ悪いと開き直る。共に生きる隣人を選び、限定して、身近な苦悩に目をつぶる。
 「民は民に、国は国に敵対」し、あるいはテロや戦争の影が身近に迫っているかに騒がれるけれども、それ以上に、日常的に人々のいのちや人権がないがしろにされるような現実が見出されている。いじめや虐待、ヘイトスピーチ。ハラスメント、ネット上の炎上や「たたき」なども、じつは平和を崩壊させていく私たちの深刻な内実だ。
 私たちの宣教と牧会の現実にどのように向かい合うのか。いったい、どのように平和をつくりだし、いのちを守る、私たちの福音宣教の意義と可能性を見出すことができようか。

基調講演:宮本 新(日本ルーテル神学校) 「現代の宣教と『平和』」
聖書研究:大串肇 (日本ルーテル神学校) 「平和」旧約聖書から学ぶ
     原口尚彰(フェリス女学院) 「平和」新約聖書から学ぶ
講  演:望月康恵(関西学院大)「平和と人権:ジェンダーの視点から」      
     内藤新吾(ルーテル稔台教会)「教会と平和」
     藤原佐和子(東北学院大)
      「平和の使者を育てる: アジアにおけるエキュメニカル教育に向けて」

ルーテル教会の教職者は、それぞれの教団、教区での申し込みをお願いしたい。
ルーテル以外の諸教会からも是非一緒に学んでいただければと、願っている。
ルーテル外の方は三日間全日程参加で2万円の参加費となっている。(宿泊別)
問い合わせはルーテル学院までお願いしたい。

詳しい日程は、以下のとおり。

テーマ「平和:現代世界への宣教の視点から」
  2月13日(火)
    15:00〜15:30 礼拝
    16:00〜17:30 基調講演「現代の宣教と『平和』」 
                宮本 新(日本ルーテル神学校 専任講師)
    18:00〜    レセプション
    
    14日(水)
    午前
    9:00〜9:15 デボーション
    9:15〜10:30 「旧約聖書神学から『平和』を学ぶ」 
                大串肇(ルーテル学院大学教授)
    10:45〜12:00 「新約聖書神学から『平和』を学ぶ」 
                原口尚彰(フェリス女学院大学教授)
      昼食・休憩    
    13:30〜15:00 「平和と人権:ジェンダーの視点から」
                望月康恵 (関西学院大学教授)
    15:30〜 分科会:「平和」をめぐる説教と牧会
         4グループに別れて
    
    15日(木)
    9:00〜10:15 「教会と平和」
                内藤新吾(日本福音ルーテル稔台教会牧師)
    10:30〜12:00  
       「平和の使者を育てる: アジアにおけるエキュメニカル教育に向けて」
                藤原佐和子(東北学院大学 専任講師)
      昼食・休憩
    13:30〜14:30  まとめ 石居基夫 (日本ルーテル神学校校長)
    14:30〜15:30  派遣聖餐礼拝  
                説教 齋藤衛(日本ルーテル神学校准教授)
 

2017-12-18

『咲いていること』

 
小さな絵本の紹介です。クリスマス用に小さなプレゼントを紹介して欲しいとリクエストがありました。もう、少し前の出版なのですが、すてきな絵本です。ご紹介します。

                   

 『咲いていること』
 一つひとつの頁に、一粒の種が花を咲かせる小さな物語が描かれています。小さな花の小さな物語は、「ただ、そこに咲くだけ」の出来事をたんたんと語ります。その場所に招かれて、そこに咲くこと。種は自分で選ぶことも決めることもできないのですが、それが誰かの慰めや、いやしになるようにと与えられた、その種の存在の意味として受け止められていくのです。とくべつ、何かをするわけではありません。気づかれないままに終わるかも知れない一輪の花なのです。それでも、そこにいのちを咲かせます。
 
 渡辺和子さんの「おかれた場所に咲きなさい」や、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の物皆自得にも通じるものがあるでしょうか。みことばの種のことかもしれませんし、私たちのいのちの不思議のことかもしれません。ルターのベルーフ(召命)の考えもみることも出来るでしょう。
 でも、むしろ、この語られた物語をしずかに味わってみていただければ、それでいいのです。子どもから大人まで、だれにとっても読みやすい絵本です。読みながら、きっとこころの奥にひびいてくるものがあるに違いありません。自分自身の、魂の奥に、何かが語りかけられるでしょう。

 イエス様は、誰にも気づかれないような宿屋の厩にお生まれになられました。誰にも顧みられることの無い人々の友となるお方。神のまなざしと愛の御手が誰に向けられているのかを示すように、世界の片隅においでになられたのでした。そのいのちは、人々に慰めと癒し、そして喜びをもたらす存在です。
 この絵本のメッセージとも重なってきますね。
 クリスマスのストーリーではありませんが、クリスマスのプレゼントにしてよい作品の一つではないかと、ご紹介します。

 私の先輩牧師でもあり、敬愛する友、立野泰博牧師の作品です。絵は平岡麻衣子さん。ザメディアジョンから2009年の初版です。
 
 日野原重明先生が推薦の辞を帯に書いていらっしゃいます。

2017-11-29

「共同記念」の苦労と喜び

日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会の共催で、宗教改革500年共同記念の行事が、11月23日祝日にカトリックは長崎の浦上教会において無事開催された。
五百年目にして、このように相互理解と交わり、そして共同・協働が可能になったことは、なによりも真の「対話」を重ねて来たことによると思う。



以下のURLにて、当日のシンポジウム、そして共同記念の礼拝を視聴できる。

https://www.youtube.com/watch?v=CkLUSYOPZoA

全国から600名近くのルーテルの信徒があつまり、同様にカトリックから長崎を中心として600名が参加されて1200名を超える方々が浦上の会堂を埋めた、その様子だけでもご覧いただければと思う。

この共同記念は、簡単に実現したわけではない。日本のカトリックとルーテルとで30年に渡り対話を重ね、洗礼の相互承認、そして『カトリックとプロテスタント、どこが同じでどこが違う』の出版や、『義認の教理に関する共同宣言』、『争いから交わりへ』の翻訳・出版を行い、2004年、また2014年と過去2度にわたる合同での礼拝を実現してきたことが、この企画を実現するための下地だ。カトリックの高柳俊一先生、ルーテルの徳善義和先生らが牽引してくださってきた神学的な対話ための委員会も、すっかり世代交代したと言ってよいだろう。委員会は、この企画のための準備委員を選び、企画原案をつくりながら委員会へと報告し、それぞれの教会レベルでの決定へと進めた。
今回の企画は、委員会での企画ではなく、教会レベルのものすることにこそ意義がある。しかし、委員会レベルにおいてさえ、両教会の間には大きな温度差も存在した。まして教会レベルでの取り組みとすることがどれほど困難なことだったか。
カトリックにとっては宗教改革を「記念」すること自体にそもそも意義を見出すことはできないし、日本という状況で言えば、そもそも乗り越えたり、克服したりしなければ成らないような「争い」も経験しているわけではない。この企画の意義とは一体何か?ということは国際レベルの委員会がリードをしてくれて文書を出した後でさえ、自分たちのものと成らなかった。
それでも、改めてこの宗教改革500年の時だからこそ、私たちが取り組むべき意義があることを見出していく。
一つは第二バチカン以降の両教会が重ねて来た対話と一致のための歴史を16世紀の分裂の歴史に対する責任として両教会が世に示していくべきではないかということが深められた。宗教改革ということが年号と出来事の暗記ものとしての歴史に成ってしまうのではなく、むしろ、私たちがその歴史に責任を負って生きる者であること証言していくべきなのだと理解されたことだった。
二つ目は、平和のメッセージを出す責任を理解したことだ。唯一の戦争被爆国、そして3・11での原発事故を踏まえて、非核という喫緊の問題に直面して、平和を単に国際関係の問題としてだけでなく、神のつくられた被造世界への責任として理解するとき、私たちが日本で、カトリックもルーテルも一人のキリストに結ばれて今、世界に発信するべきことがあるのではないかということだった。
この二つのことを踏まえて、ようやく動き出すこととなるのだ。
それでも、これが動いていくプロセスには、大きさもそうだがあらゆる意味で両教会には組織的な差があったために、準備にあたるものの苦労は、実は作業的なことばかりではなかった。総論でよしと成っても、各論、つまり実際はどこでどうするのかということが具体化しなければ成り立たない。これには、さらなる苦労が重なることと成った。
 つまり、「長崎」という場所が唯一カトリックとして取り組む土壌として浮上して、企画は軌道に乗せられたのだ。しかし、さて、ルーテルの側では「長崎」には小さな教会が一つあるのみで、しかも現在は専従の牧師をおいていない。この差のなか、出来ることは東京で準備していくことだったが、この取り組みを日本のキリスト教の歴史に対する一つの責任とも理解してきたし、自認するからには、このギャップは実は本当に大きなチャレンジと成ってくるのだ。
 それでも、執行部、事務局長は身を粉にして足しげく「長崎通い」をして一つひとつ理解を求め、この地でのカトリックの深さと大きさに圧倒されつつ、この地でとりくむことが出来ることの意義を、本当に深く知っていくことと成った。
 そうした積み重ねが、ようやく具体的な形になって希望が見えてくるのは、今年の春から初夏にかけてだ。そこからさらなる詰め、現場での実際を可能にする準備は直前一ヶ月でも終えられなかったのだ。それでも「長崎」現地の浦上の方々の大きな理解と協力を得て、これが実現していく。
 改めて、今回、この取り組みができたこと、大きな喜びのなかに味わっている。
 
 当日の感動は、さらに、深いものとなった。シンポジウム、礼拝のそれぞれの企画の布告とともに、また別に記したい。
 今は、まず、これを終えたことで、この歩みができたことを、神様の恵みとしてただひたすら感謝する。