2018-02-10

石牟礼道子の言魂

 石牟礼道子さんが逝った。


 かつて、大学生の頃、ゼミで取り上げられた『苦海浄土』をはじめて読んで、引き込まれた。もちろん、水俣の問題を深く考えさせられたことだったし、現代社会の複雑な姿をはじめて学んだ。けれど、それ以上に、私にとっては引き込まれるような彼女のことばの力に出逢ったことが非常に大きなチャレンジだった。
 たとえば、『苦海浄土』のなかにあった一文は、未だに自分に問いかけることばとして噛み締める。幾つか自分が書いたものにも引用してきたし、授業でも必ず紹介する。それほど大きな衝撃をうけたのだった。読んだ当時は、そんなふうに自分を捉えていくものだとは、思っていなかったかも知れない。でも、何かの予感に、心が高鳴った。石牟礼道子はこう書いている。

  「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私
   は、わたしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねば
   ならぬ。」

 大学生の自分は、教会にも通わない似非クリスチャンだったかもしれないが、それでもキリスト者であるという自覚を持たなければ、まわりの「民青」の連中との距離が保てなかったのだろう。そんな程度で、熱心でもない信仰を後生大事に抱えているだけだった自分に、宗教とは何かということを本当の意味で問いかけてきたことばのひとつだったようにおもう。宗教というものの役割を改めて社会構造の問題と重ねて考える視点を受け取っていったといってもよいかもしれない。(これについては、後に神学校に入って田川を読んだときに聖書の世界との関係で学び直す。でも、比較にはならないが、ことばの力と言う意味に限って言えば、僕にとってはもちろん、石牟礼の方に軍配があがる。)
 僕の薄っぺらなキリスト教信仰に、チャレンジすることばだった。石牟礼道子のことばには力がある。それは、現代に生きる哀しみと、どうしようもなさを抱えている私たちの姿を決して怯むことなくあからさまにする迫力なのだ。人間存在の深みにある「業」、あるいは「原罪」ということを捉えていくような力だと言ってもよい。それが、彼女のいう「現代の呪術師」たるゆえんか。深い魂のことばが紡がれる。

 彼女が逝った。
 しかし、彼女のことばは生きている。これが、「言霊」というものだろう。彼女のことばは小説とか詩とかの領域を超える。いや、それらの芸術の極みには必ずや宗教的な「祈り」に近いものがみえてくるということか。でも、やっぱり僕にとっては、彼女は小説家でも、詩人でもない。現代の呪術師なのだ。

 誰とともに生きるのか。誰の祈りをとりなすのか。たちまよう魂のうめきを聞き、寄り添うものであり得るか。自分の歩みは遅々として進まないが、現代のなかでの「祭司」である意味を自分なりに模索している。

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180208005487.html

2018-01-08

教職神学セミナー「平和:現代世界への宣教の視点から」




 今年も、日本ルーテル神学校では、2月の13〜15日の二泊三日で教職神学セミナーを開催する。今回のテーマは「平和:現代世界への宣教の視点から」とした。
 宗教改革500年の節目をそれぞれに憶えて、私たちは時代の苦悩に応える福音宣教への思いを新たにしてきた。そして、11月23日、長崎で行われたカトリック教会と日本福音ルーテル教会の共同記念では「平和を実現する人は幸い」をテーマとして現代における宣教的課題に共同・協働していくことが憶えられた。今、ポスト500年を迎えて、あらためてこの課題にしっかりと向かい合っていきたいと思っている。
  
    


 現代の深い苦悩は、世界全体のなかにうまれてきた格差の深刻さが原因となり、人間関係が深く傷つけられ、切り裂かれていることに由来する。自分を守るために、他者を排除し、あるいは自分に都合よく他者を支配、利用しようとする。そこに対立も分断もうまれてくることになる。ナショナリズムということばかりではなく、なにか行き場の無い怒りのようなものが渦巻いていて、自分ファーストでなぜ悪いと開き直る。共に生きる隣人を選び、限定して、身近な苦悩に目をつぶる。
 「民は民に、国は国に敵対」し、あるいはテロや戦争の影が身近に迫っているかに騒がれるけれども、それ以上に、日常的に人々のいのちや人権がないがしろにされるような現実が見出されている。いじめや虐待、ヘイトスピーチ。ハラスメント、ネット上の炎上や「たたき」なども、じつは平和を崩壊させていく私たちの深刻な内実だ。
 私たちの宣教と牧会の現実にどのように向かい合うのか。いったい、どのように平和をつくりだし、いのちを守る、私たちの福音宣教の意義と可能性を見出すことができようか。

基調講演:宮本 新(日本ルーテル神学校) 「現代の宣教と『平和』」
聖書研究:大串肇 (日本ルーテル神学校) 「平和」旧約聖書から学ぶ
     原口尚彰(フェリス女学院) 「平和」新約聖書から学ぶ
講  演:望月康恵(関西学院大)「平和と人権:ジェンダーの視点から」      
     内藤新吾(ルーテル稔台教会)「教会と平和」
     藤原佐和子(東北学院大)
      「平和の使者を育てる: アジアにおけるエキュメニカル教育に向けて」

ルーテル教会の教職者は、それぞれの教団、教区での申し込みをお願いしたい。
ルーテル以外の諸教会からも是非一緒に学んでいただければと、願っている。
ルーテル外の方は三日間全日程参加で2万円の参加費となっている。(宿泊別)
問い合わせはルーテル学院までお願いしたい。

詳しい日程は、以下のとおり。

テーマ「平和:現代世界への宣教の視点から」
  2月13日(火)
    15:00〜15:30 礼拝
    16:00〜17:30 基調講演「現代の宣教と『平和』」 
                宮本 新(日本ルーテル神学校 専任講師)
    18:00〜    レセプション
    
    14日(水)
    午前
    9:00〜9:15 デボーション
    9:15〜10:30 「旧約聖書神学から『平和』を学ぶ」 
                大串肇(ルーテル学院大学教授)
    10:45〜12:00 「新約聖書神学から『平和』を学ぶ」 
                原口尚彰(フェリス女学院大学教授)
      昼食・休憩    
    13:30〜15:00 「平和と人権:ジェンダーの視点から」
                望月康恵 (関西学院大学教授)
    15:30〜 分科会:「平和」をめぐる説教と牧会
         4グループに別れて
    
    15日(木)
    9:00〜10:15 「教会と平和」
                内藤新吾(日本福音ルーテル稔台教会牧師)
    10:30〜12:00  
       「平和の使者を育てる: アジアにおけるエキュメニカル教育に向けて」
                藤原佐和子(東北学院大学 専任講師)
      昼食・休憩
    13:30〜14:30  まとめ 石居基夫 (日本ルーテル神学校校長)
    14:30〜15:30  派遣聖餐礼拝  
                説教 齋藤衛(日本ルーテル神学校准教授)
 

2017-12-18

『咲いていること』

 
小さな絵本の紹介です。クリスマス用に小さなプレゼントを紹介して欲しいとリクエストがありました。もう、少し前の出版なのですが、すてきな絵本です。ご紹介します。

                   

 『咲いていること』
 一つひとつの頁に、一粒の種が花を咲かせる小さな物語が描かれています。小さな花の小さな物語は、「ただ、そこに咲くだけ」の出来事をたんたんと語ります。その場所に招かれて、そこに咲くこと。種は自分で選ぶことも決めることもできないのですが、それが誰かの慰めや、いやしになるようにと与えられた、その種の存在の意味として受け止められていくのです。とくべつ、何かをするわけではありません。気づかれないままに終わるかも知れない一輪の花なのです。それでも、そこにいのちを咲かせます。
 
 渡辺和子さんの「おかれた場所に咲きなさい」や、松尾芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」の物皆自得にも通じるものがあるでしょうか。みことばの種のことかもしれませんし、私たちのいのちの不思議のことかもしれません。ルターのベルーフ(召命)の考えもみることも出来るでしょう。
 でも、むしろ、この語られた物語をしずかに味わってみていただければ、それでいいのです。子どもから大人まで、だれにとっても読みやすい絵本です。読みながら、きっとこころの奥にひびいてくるものがあるに違いありません。自分自身の、魂の奥に、何かが語りかけられるでしょう。

 イエス様は、誰にも気づかれないような宿屋の厩にお生まれになられました。誰にも顧みられることの無い人々の友となるお方。神のまなざしと愛の御手が誰に向けられているのかを示すように、世界の片隅においでになられたのでした。そのいのちは、人々に慰めと癒し、そして喜びをもたらす存在です。
 この絵本のメッセージとも重なってきますね。
 クリスマスのストーリーではありませんが、クリスマスのプレゼントにしてよい作品の一つではないかと、ご紹介します。

 私の先輩牧師でもあり、敬愛する友、立野泰博牧師の作品です。絵は平岡麻衣子さん。ザメディアジョンから2009年の初版です。
 
 日野原重明先生が推薦の辞を帯に書いていらっしゃいます。

2017-11-29

「共同記念」の苦労と喜び

日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会の共催で、宗教改革500年共同記念の行事が、11月23日祝日にカトリックは長崎の浦上教会において無事開催された。
五百年目にして、このように相互理解と交わり、そして共同・協働が可能になったことは、なによりも真の「対話」を重ねて来たことによると思う。



以下のURLにて、当日のシンポジウム、そして共同記念の礼拝を視聴できる。

https://www.youtube.com/watch?v=CkLUSYOPZoA

全国から600名近くのルーテルの信徒があつまり、同様にカトリックから長崎を中心として600名が参加されて1200名を超える方々が浦上の会堂を埋めた、その様子だけでもご覧いただければと思う。

この共同記念は、簡単に実現したわけではない。日本のカトリックとルーテルとで30年に渡り対話を重ね、洗礼の相互承認、そして『カトリックとプロテスタント、どこが同じでどこが違う』の出版や、『義認の教理に関する共同宣言』、『争いから交わりへ』の翻訳・出版を行い、2004年、また2014年と過去2度にわたる合同での礼拝を実現してきたことが、この企画を実現するための下地だ。カトリックの高柳俊一先生、ルーテルの徳善義和先生らが牽引してくださってきた神学的な対話ための委員会も、すっかり世代交代したと言ってよいだろう。委員会は、この企画のための準備委員を選び、企画原案をつくりながら委員会へと報告し、それぞれの教会レベルでの決定へと進めた。
今回の企画は、委員会での企画ではなく、教会レベルのものすることにこそ意義がある。しかし、委員会レベルにおいてさえ、両教会の間には大きな温度差も存在した。まして教会レベルでの取り組みとすることがどれほど困難なことだったか。
カトリックにとっては宗教改革を「記念」すること自体にそもそも意義を見出すことはできないし、日本という状況で言えば、そもそも乗り越えたり、克服したりしなければ成らないような「争い」も経験しているわけではない。この企画の意義とは一体何か?ということは国際レベルの委員会がリードをしてくれて文書を出した後でさえ、自分たちのものと成らなかった。
それでも、改めてこの宗教改革500年の時だからこそ、私たちが取り組むべき意義があることを見出していく。
一つは第二バチカン以降の両教会が重ねて来た対話と一致のための歴史を16世紀の分裂の歴史に対する責任として両教会が世に示していくべきではないかということが深められた。宗教改革ということが年号と出来事の暗記ものとしての歴史に成ってしまうのではなく、むしろ、私たちがその歴史に責任を負って生きる者であること証言していくべきなのだと理解されたことだった。
二つ目は、平和のメッセージを出す責任を理解したことだ。唯一の戦争被爆国、そして3・11での原発事故を踏まえて、非核という喫緊の問題に直面して、平和を単に国際関係の問題としてだけでなく、神のつくられた被造世界への責任として理解するとき、私たちが日本で、カトリックもルーテルも一人のキリストに結ばれて今、世界に発信するべきことがあるのではないかということだった。
この二つのことを踏まえて、ようやく動き出すこととなるのだ。
それでも、これが動いていくプロセスには、大きさもそうだがあらゆる意味で両教会には組織的な差があったために、準備にあたるものの苦労は、実は作業的なことばかりではなかった。総論でよしと成っても、各論、つまり実際はどこでどうするのかということが具体化しなければ成り立たない。これには、さらなる苦労が重なることと成った。
 つまり、「長崎」という場所が唯一カトリックとして取り組む土壌として浮上して、企画は軌道に乗せられたのだ。しかし、さて、ルーテルの側では「長崎」には小さな教会が一つあるのみで、しかも現在は専従の牧師をおいていない。この差のなか、出来ることは東京で準備していくことだったが、この取り組みを日本のキリスト教の歴史に対する一つの責任とも理解してきたし、自認するからには、このギャップは実は本当に大きなチャレンジと成ってくるのだ。
 それでも、執行部、事務局長は身を粉にして足しげく「長崎通い」をして一つひとつ理解を求め、この地でのカトリックの深さと大きさに圧倒されつつ、この地でとりくむことが出来ることの意義を、本当に深く知っていくことと成った。
 そうした積み重ねが、ようやく具体的な形になって希望が見えてくるのは、今年の春から初夏にかけてだ。そこからさらなる詰め、現場での実際を可能にする準備は直前一ヶ月でも終えられなかったのだ。それでも「長崎」現地の浦上の方々の大きな理解と協力を得て、これが実現していく。
 改めて、今回、この取り組みができたこと、大きな喜びのなかに味わっている。
 
 当日の感動は、さらに、深いものとなった。シンポジウム、礼拝のそれぞれの企画の布告とともに、また別に記したい。
 今は、まず、これを終えたことで、この歩みができたことを、神様の恵みとしてただひたすら感謝する。

2017-11-19

11・23 宗教改革500年 共同記念礼拝 

 この11月23日、長崎でのカトリックとルーテル両教会が宗教改革500年を共同で記念する。そのメインは、共同記念礼拝だ。カトリック浦上教会に約1500人が集うこととなる。
 礼拝の主題は「すべての人を一つにしてください」。


 説教者は、日本福音ルーテル教会総会議長立山忠浩牧師と日本カトリック司教協議会会長高見三明大司教の二人。
 神のみことばによって導かれた一致と協働であることを覚え、福音を聞き、和解と平和の恵みを分かち合い、そうして分断された現代の世界へ神の恵みを伝えるよう祈りを合わせていく礼拝としたい。


 この礼拝に与った一人ひとりが、この世界の平和と一致を祈り、また新しい未来に向かって主の働きのなかに自らを捧げ、委ねていくことを具体的に表していくような礼拝となればと願っている。集められた祈りを執り成し祈り、共に主に仕え、明日の世界に希望をつないでいく。きっと、そんな礼拝となることだろう。

礼拝は、以下のサイトで同時配信される。

https://www.youtube.com/channel/UCs8_-OJJpWCurq3l4gFVA1Q/live


 

2017-11-18

11・23シンポジウム「平和を実現する人は幸い」


宗教改革500年、ルーテル・カトリック両教会による、共同記念が11月23日に行われる。



午前中はシンポジウム、午後は礼拝。
シンポジウムのテーマは「平和を実現する人は幸い」。
シンポジストは、三名(組)による。
はじめに、「長崎からの声」として橋本勲司祭と深堀好敏氏。深堀氏は、今年の8月9日の平和祈念式典で平和への誓いを被爆者を代表してはなされた方だ。ご高齢なので、当日の出席が心配されるが、橋本司祭がサポートしてくださって、長崎・浦上のキリシタン弾圧と被爆体験の苦難の歴史体験を踏まえたなかから、信仰と平和への願い、取り組みの証しをお話しいただける。
その次は、石居が担当させていただき、私たちが平和を願いつつそれを実現することがなかなか出来ないでいる私たち自身の「罪」の問題を取り上げる。キリスト教に限らず、宗教というものの陥りやすい過ちについて、気づいていくことの大切さを考えたい。そして神の恵みの働きの中に生かされていくルターの信仰に学び、また、このエキュメニカルな交わりの成果にたちつつ、いま何ができるのかを考えていきたい。
最後に、カトリックの光延一郎神父にエキュメズムという視点から平和に取り組むことを深くお話いただく。特に「カトリック性」が全体を一つのものとして捉える視点であることから、現代のように多様化し、また深い分裂や争いの絶えない世界の中でのこれからのキリスト教の責任を説かれる。あらたな宗教改革を生きるべきことをお話いただく。

宗教改革500年は、単なる過去の記念ではない。それがなんであるか、ということを深く問いつつ、今の私たちが何をするのか、その改革を新たに自らのものとするべきことを捉えることだろう。
シンポジウムも礼拝も、参加できなくても、ネットを通じて配信される。是非、それぞれの場所で参加いただければと願う。



2017-11-06

今、宗教改革をおぼえることの意義



(写真は2016・10・31ルンドでのLWFと
                       カトリック教会の共同の祈りの礼拝)

☆宗教改革とは
 16世紀の教会改革運動:ドイツのルターによって始められ、カルヴァン、ツヴィングリなどによるスイスの改革運動や、イングランドにおける英国国教会の改革の取り組みなどに広がりをもつ。この一連の改革運動は神学者同士の単なる教義学的論争ではなく、全ての信徒の信仰生活と教会、そして社会全般に大きな影響を与えるものとなった。

☆激動の世界の中で生きる人々に
 近代に向かう中世末の16世紀。大航海時代と新大陸発見に世界の広がり、活版印刷術という新しいメディアの登場と各地域における産業と資本主義の胎動は、政治的・宗教的に固定化した中世社会の崩壊をもたらし、一人ひとりがどう生きるのか問われる時だった。
 ペストや飢饉が、ヨーロッパ全体に死の恐れと不安をもたらし、「メメント・モリ」、「死の舞踏」ということばに象徴される精神的・霊的危機状況をもたらした。真剣に神を求める時代であったし、その神に人間が取って代わろうとする近代の夜明け前でもあった。
 宗教改革とは、この激動の時代の苦悩を生きる人々によって、キリストの福音が今一度問い返されていったことだと言える。ルターは時代の人として、聖書に取り組み、それまでの教会のことばによっては伝えられない福音の根源的な意味を、「十字架の神学」、「信仰義認」のことばによって民衆のなかに伝えていくこととなった。

☆福音の鮮明なる宣言
 中世における聖人を称え、立派な信仰者となることを目指す敬虔な信仰は、神の救いを人間の素晴らしさのなかに押し込めてしまいかねなかった。その人間の功績すべてに神の恵みを見ているといっても、このスコラ神学のことばは、結局神のはかりに適わない人々を救いから遠ざけているようなものだった。しかし、本当は、人はあまねく神から遠い「罪人」に過ぎない。だからこそ、キリストがその罪人のわたしのもとにおいでくださった。ルターは、その神の救いの働きに信頼するだけだという。
 神が見えないところ、弱さ、みすぼらしさ、絶望の只中(十字架)に、神がいたもうことを信じる信仰だけが、反対の層のもとに隠された神を知る。ルターは、この福音を鮮やかに、力強く、喜びをもって語ったのだ。

☆エキュメニカルな交わりなか、主の宣教のために継続する改革
 宗教改革500年の記念は特別である。第二バチカン公会議後の50年に及ぶ対話が、過去の対立と争いを乗り越え、新しい時代に向けて宣教の協働を求めつつ、ローマ・カトリック教会とルーテル教会は一致と交わりの道を歩み始めている。かつて袂を分かつことになった宗教改革が、福音理解を深める霊的な賜物と理解されている。16世紀の分裂の鍵「義認の教理」が、21世紀には交わりの回復のしるしなのである。
 この歴史の中にある限り、教会は何時でも改革されなければならない。神は、同時代に生きる人たちの苦悩に寄り添い、キリストの福音を分かち合うように求められている。人間の飽くことなき欲望が、世界に分断と争いをもたらし、また自然を破壊していく。この現代に、互いに助けあう愛と平和、そして被造世界の保全のために罪人である私たち一人ひとりが召されているのだ。みことばによって、私たち自身が神の愛に満たされ、赦され、新たに生かされて、自らを絶えず新たに悔い改めていく勇気を持つべきということだろう。

 宗教改革を憶えることの意義は、ここにこそある。

(11月3日に行われた日本福音ルーテル教会東海教区と名古屋キリスト教協議会共催の「宗教改革500年記念大会」に寄せて書かせていただいた文章です。)