2025-03-20

「地下鉄サリン事件」から30年

 日本の宗教史の中で最も大きな問題を提示した事件の一つと言って良いだろう。20世紀末、しかも阪神淡路大震災のあった1995年の3月20日、オウム真理教の教団員によって起こされた「地下鉄サリン事件」。

この事件は、教団についての社会的評価を決定づけることとなって、これ以降に「カルト」という言葉と共に、新興宗教のみならず伝統的宗教も含めて宗教全般にわたって、日本社会におけるアウェー感が広まったと言ってもいい。その時から30年が経つ。私たち、とりわけ宗教者と数えられるような者は、この事件から何を学び、考え、また自らを省みるか。あの教団と事件を担った人たちと同世代との認識の中で、私自身は本当に色々なことを考えさせられてきたと思っている。


三年前の旧統一協会の宗教二世が起こした首相暗殺事件と自民政権と教団の結びつきが問題になったことは、「宗教」への風当たりを再び強めたようにも思う。

そして、こうしたカルト教団の持つ問題は、その内部にあっては認識されにくく、外からは見えにくいものだ。何かの事件を通じて、切り開かれたところではじめて見出されてくる。「洗脳」「マインドコントロール」など、言葉による暴力や修行などに隠された肉体的な暴力も、自らのうちにも向けられるし、他者にも向けられる。それによって傷つけられた心も体も、その人の生活、人生の上に暗い影を落とし続けている。教団の外の社会に生きる人に向けられたテロは、この「暴力」の恐ろしさを嫌というほど見せつけた。

しかし、その「問題」とは一体何なのか。教団の外の一般社会にはその「問題」はないのか。教団だから存在する「問題」なのか。私たちは、ただあの教団が問題、間違っている、悪なのだと断じて、その外の社会が良いものだ、正しいものであるかのようなステレオタイプに捉えるのだとしたら、ある意味ではカルトの論理と変わらないことになってしまう。私たちの社会の「問題」、人間が集まって生きる中での「力」がもたらす「問題」にどのように向き合うものであり得るのだろう。

7年前に教団幹部の死刑が執行された際、「オウム真理教を考える」を9回に渡ってこのブログで記した。実は、その時には全くその存在を知らなかった映画をつい最近みた。あの地下鉄サリン事件の後で教団に密着した森達也監督のドキュメンタリー映画「A」。こんな映像がよく撮れたものだと本当に感心したし、それを観ないままで自分はあれを書いていたことが悔やまれた。この映画をみて、改めて、私たちの社会において「宗教」がなぜ存在し、またなぜ弾圧されるのかという問題に深く思いを向けることとなった。この映画は続編がある。だから、それらは全て観てみたい。その上で、改めて自分の考えを記してみたい。

今日は、30年の時間を改めて心に留めながら、私自身を省みて、まだまだ言葉にならないままの祈りを捧げている。



2025-02-25

按手式礼拝 2025年春 

 2025年3月2日(日曜日)19時から、日本福音ルーテル宣教百年記念東京会堂(東京教会)にて、新しく教職となられる方の教職授任按手礼拝が行われます。

按手を受けられるのは、大和友子(出身教会:日本福音ルーテル大岡山教会)さん。




長くキリスト教主義の小学校で教員としてお勤めになられて、退職後に献身をされて4年間の神学校の学びを終えられました。25年度より牧師としてのお働きに向かわれます。

赴任地は、日本福音ルーテル久留米教会、田主丸教会、二日市教会です。

新しい牧師の誕生に心を合わせ、またそれぞれの宣教に祈りを合わせて参りましょう。



2025-02-10

2024年度 神学校の夕べ

今年は日本ルーテル神学校を一名の学生が卒業します。 
日時:2025年2月23日 日曜日 午後4時 
場所:日本福音ルーテル教会 宣教百年記念会堂 
卒業生:大和友子さん(出身教会:JELC大岡山教会)。

 四年間の学びをすべて終えられこの春に牧師として教会に遣わされます。
(赴任地は久留米教会、田主丸教会、二日市教会となりました。 )

 どうぞ、卒業生を覚えるこの神学校の夕べにお集まりいただければと思います。
また、お集まりいただけなくてもお祈りくださいますように。

* 当日、多くの方々がおいでくださいました。感謝。



第6回臨床牧会セミナー(第59回ルーテル教職神学セミナー)

今年も、臨床牧会セミナー(ルーテル教職神学セミナー)の季節となった。
今年度はリトリート。教職たちが自らのいのちのありようを神との関係の中に見つめ直し、新たな息吹に生かされることを願っての企画だ。 テーマは、「召命の再確認——「主がお入り用なのです」(ルカ19:31)」2月11・12日の両日を日本聖公会の施設「ナザレの家」で黙想の時を過ごす。 忙しさの中、ほとんど「仕事」と化している私たちの日々は、本来は、神に捧げ、人々に支えるものとしてそなえられたもの。教職として召されている私たちはいったいその恵みを忘れかけているのかもしれない。 もちろん、現代社会の中で、牧師もまた一人の労働者であるし、適切な働き方とその生活の保障が考えられなければならないことは言うまでもない。 けれども、教会の教職となるということは、やはりその働きにおいて与えられる特別な恵みを試練と共に知っているはずなのだ。 その喜びは、ただ、神との関係の中に見出されるのかもしれない。 それなのに、私自身もそうだけれど、なかなかその恵みを想う時が限られたものになってしまっている。 ルターは、忙しい時こそ祈ることにつとめたという。祈れない時は詩編をもって独り個室のこもるといった。 深い沈黙の中で、私は神のみ声にのみ呼び出され、その息吹に生かされるはずなのだ。

報告:
昨日、一昨日とナザレの家にてリトリートをいたしました。
恵まれたひと時でした。ファシリテーターには、聖路加大学、国際病院の成成鍾チャプレンをお迎えして基本的にはレクチオ・ディヴィナの作法に則る形で行われました。
(レクチオ・ディヴィナは、レクチオ(読書)、メディタチオ(黙想)、オラチオ(祈り)、そしてコンテンプラチオ(観想)の4つの段階を踏みながら神のことばを受け取り、またそれに生かされていく方法です。)

1日目、午後に集まって、オリエンテーションを行なってから黙想の実践に入りましたが、基本的には、この二日間は大沈黙として、参加者はお互いの間で自己紹介も含め一切話しをせず、神と自分との関係に集中した黙想の時間といたしました。
成先生はテキストから「子ロバ」に視点を当てながら、黙想のための4つのお話をされてそれぞれに15分ほどの黙想の時間を持ちました。その後には個人黙想と霊的同伴を実施。

二日目には、同じくテキストから3つの話をされ、それぞれに30分ずつ。また神の御用に用いられるという召命の出来事のたとえをマザーテレサのことばに触発されたヒントとなる短い5つのポイントをお分ちくださってまた30分ほどの黙想をいたしました。
午後にはまた個人黙想と霊的同伴を実施。
その後、大沈黙を解いて、それぞれに受け取ったものを分かち合いました。4人の神学生を含めて、教派を超えて20名以上の教職者たちが参加、全員が神の恵みと召しを新しく受け取るような聖なる時間をいただきました。
感謝します。