「リラ・プレカリア(祈りの竪琴)」という奉仕活動があります。病床にある方、死に直面している方、また心身の癒しを必要とする方に、ハープと歌を通して祈りを届け、魂の癒しをもたらす働きです。日本で、キャロル・サック氏(米福音ルーテル教会宣教師)によってその活動が始められ、奉仕者養成の講座が12年間続けられて38名の奉仕者が育ち、全国の様々な場所でこの奉仕を続けています。
この「祈りの竪琴」については、以下のHPに詳しく紹介されています。
http://www.jela.or.jp/lyraprecaria/index.html
リラ・プレカリアの奉仕者養成で、最も大切なことは、ハープや歌の技術レッスンではありません。この奉仕者自身が、目の前の一人の人の魂の深い苦しみや嘆きに寄り添い、祈る霊性を養うことです。宗教が何であれ、思い病にあることや死を目の間にする人間の心の奥底にある求め、魂の深みに気づくことがなければ、誰の魂の深みにも祈り持って寄り添うことはできません。
奉仕者養成は、一つの節目を迎えました。けれども、その養成プログラムには様々な学びがあり、何かを継続することができないか。そんな願いがあちらこちらから届けられました。そこで、そのプログラムの中の一つを公開講座として多くの人々にこの霊性(スピリチュアリティ)を深めていただきたいと、そう願って一つの公開講座を作ることになりました。
デール・パストラル・センターの「詩編と祈り〜音楽のスピリチュアリティーとともに」です。
この講座については、以下のHPをご覧ください。
http://www.luther.ac.jp/news/20190205-02.html
この講座はキリスト教の長い歴史の中に用いられてきた詩編や礼拝の時の祈りの歌などを通して、人間が「神」と呼び、その信仰を形作ってきたキリスト教の世界に深く学びます。そのことを通して、私たち人間一人ひとりが持つ魂の深い息遣いを知っていくことでしょう。もちろん、学びをする方がどのような信仰をお持ちであっても、この講座を取っていただけますが、そうした内容であることはご理解いただき、学んでいただければと思います。ただ、いずれの信仰をお持ちでも、そうでなくても、私たちが宗教とか信仰といってきたものについての新しい気づきと自身の霊性に大きな養いが与えられることと思います。
講座は、1期4回。全部で4期まであります。通しで取っていただくことも、バラバラでも構いません。ただ、一つの期はまとまったプログラムですので、そうご理解いただければと思います。
定員があります。定員を超えてお申し込みがあった場合にはお断りすることがありますので、どうぞそのことも合わせてご理解くださいますように。
すでに、第1期については、定員を超えてお申し込みをいただきました。本当にありがとうございます。第II期につきましては、全く新たにお申し込みいただくことになります。
2019-02-15
2019-02-13
神学校の夕べ 2018年度
今年も、4名の神学生を宣教の第一線に送り出すため、神学校の夕べが行われる。
日時:2019年2月24日 午後4時から
於:日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)
礼拝-燃える心-
今年の卒業生は、中島共生(JELC市川教会出身)、中川祐子(NRK北見教会出身)、小澤周平(JELCなごや希望教会出身)、そして筑田仁(JELC函館教会出身)の4名。規定の課程を全て終えて神学校を後にする。
それぞれ、献身に至るまで様々な歩みを重ねつつ、神様の招きの声を聞くことになって神学校の門を叩いた。人生経験の豊かさを思う。それだけに教会での働きには自分の賜物を生かして、主に仕えることだろう。人生の深みでみ言葉に生きる力を分かち合ってくれることと信じている。
ぜひ、この卒業生がどんな風にみ言葉を取り次ぐものと育ってきたのか、証人となっていただき、励ましをもらいたい。
お集りいただければと願っている。
それぞれの赴任地は、この神学校の夕べでお伝えした通り、
中川祐子氏はNRK新潟地区の招聘を受けて新発田教会へ赴任。
中島共生氏はJELC下関教会、厚狭教会、宇部教会。
小澤周平氏はJELC名古屋めぐみ教会。
筑田仁氏はJELC甲府教会、諏訪教会。
彼女・彼らのこれからの働きに祝福を祈っていただければ幸い。
日時:2019年2月24日 午後4時から
於:日本福音ルーテル教会宣教百年記念会堂(東京教会)
礼拝-燃える心-
今年の卒業生は、中島共生(JELC市川教会出身)、中川祐子(NRK北見教会出身)、小澤周平(JELCなごや希望教会出身)、そして筑田仁(JELC函館教会出身)の4名。規定の課程を全て終えて神学校を後にする。
それぞれ、献身に至るまで様々な歩みを重ねつつ、神様の招きの声を聞くことになって神学校の門を叩いた。人生経験の豊かさを思う。それだけに教会での働きには自分の賜物を生かして、主に仕えることだろう。人生の深みでみ言葉に生きる力を分かち合ってくれることと信じている。
ぜひ、この卒業生がどんな風にみ言葉を取り次ぐものと育ってきたのか、証人となっていただき、励ましをもらいたい。
お集りいただければと願っている。
それぞれの赴任地は、この神学校の夕べでお伝えした通り、
中川祐子氏はNRK新潟地区の招聘を受けて新発田教会へ赴任。
中島共生氏はJELC下関教会、厚狭教会、宇部教会。
小澤周平氏はJELC名古屋めぐみ教会。
筑田仁氏はJELC甲府教会、諏訪教会。
彼女・彼らのこれからの働きに祝福を祈っていただければ幸い。
2019-02-11
映画「ナディアの誓い」を観て
久しぶりに、本当に久しぶりに劇場で映画をみた。
心を捉える、ドキュメンタリーだった。
「ナディアの誓い」
心を捉える、ドキュメンタリーだった。
「ナディアの誓い」
哀しみの果てを生きる そんな言葉が体を締め付けてくるような映画だった
ノーベル平和賞の受賞で、この女性ナディアの名前、ISによる虐殺と破壊、そして女性に対する性支配からのサバイバーでその現実を訴えてきた女性であることは知っていた?かもしれないが、やはり恥ずかしいことに何も知らなかったのだ。何もわからないままだったのだ。そして、そういうことなんだということが、ただただ、悲しいとその哀しみを深めていったのが、この映画を観た後に残っている私の思いだ。
ナディアの哀しみの深みが、心を捉えている。それがこの映画の力だと言って良いだろうか。そして、こうした哀しみを生み出してきた私たち人間の恐ろしさ。
2014年8月3日。イラク北部の小さな村に生きていたヤジディ教を信じていた少数民族が、ISISによって襲われた。暴力の支配。戦争とかテロといえば、何か政治的な大きな力を思うが、いじめも、ハラスメントも虐待も、DVも、みんな根っこは同じなのだ。私たち自身の中にそうした黒い力が渦巻いている。人のいのちも尊厳も奪い取って生きていく。そんな人間の残酷さに震撼としながら、このような哀しみの普遍性に気づかされる。そして、また、その哀しみを繰り返してはならないと、私たちは思うのだ。
2014年8月3日。イラク北部の小さな村に生きていたヤジディ教を信じていた少数民族が、ISISによって襲われた。暴力の支配。戦争とかテロといえば、何か政治的な大きな力を思うが、いじめも、ハラスメントも虐待も、DVも、みんな根っこは同じなのだ。私たち自身の中にそうした黒い力が渦巻いている。人のいのちも尊厳も奪い取って生きていく。そんな人間の残酷さに震撼としながら、このような哀しみの普遍性に気づかされる。そして、また、その哀しみを繰り返してはならないと、私たちは思うのだ。
そう思う中で、改めてそうした思いが現実の世界を変えることの遥かなる遠さに押しつぶされそうになる。それでもなお立ち続けることの尊さ。ナディアがあの日まで将来美容師になる夢を描いて生きていた本来のナディアであることを取り戻すために、今、その証言者として生き続けるナディアとして生かされていく現実がある。そして、その本来の「ナディア」と呼ばれるものは決して戻らないという現実。その二重の現実を、それでも、希望を掲げて生き抜くのは、彼女がもはや、彼女自身ではなく、あのとき、生活を奪われ、家族を奪われ、尊厳を奪われ、自由を奪われ、命を奪われた大勢の声なきものたちの「声」として生きることになったからに他ならない。その「声」として生きることが、彼女の肩に乗っているのだ。「私は誰なのだろう」彼女はきっとこの現実を生きながら、「ナディア」である自分を新しい問いの中に受け止めていかなければならない。彼女は彼女でなくなるようにしながら、彼女自身を生きざるをない。何重にも悲しみを重ねて生きるのだ。
だから、深い深い悲しみが、希望であるというアイロニーがここにある。
ナディアは 彼女の深い心の傷を癒すためのカウンセリングを断っている。それは、同胞が皆同じ苦しみにあったのに、自分だけがカウンセリングを受けて楽になることはできないということだった。自分があの苦しみの只中で共にある同胞から離れることできなかったのだ。それが彼女の本心だろう。
彼女は、もともと活動家であることは望んでいない。彼女はすでに失われてしまったのだが、あの地で生きた家族とともにあること、そこに生きた自分を抱きかかえていたのだ。その自分を取り戻したい。あの場所を取り戻したい。母に、高校の卒業証書を見て欲しかった、その思いを抱えていた。それだけだ。彼女はただ、自分が経験したことを話さないではいられなかったのだ。その証言が、ただそれだけが自分たちの家族の証なのだ。自分たちがあの地で生きた証なのだから。
しかし、そういう自分であろうすればするほど、彼女が生きることになるのは、活動家である自分なのだ。彼女が証言するのは、彼女の声によって、現実の中に正義をもたらして欲しいというただその思いなのだが、その思いはもはやその声を生きることによってのみ形を持ち、現実となると、示されるのだ。
難民となってドイツに逃れていたが、そこで難民として生きることの苦しみは、なんと不条理なものだろう。なぜ、取り戻せない。
その不条理への悲痛な叫びを、声として世界に届けたい。救いを求めていたのだ。
ところが、その願いは簡単にはもちろん叶えられないのだ。時間がかかる。このフィルムは具体的に、一つの歩みを記録する。ナディアが、国連総会の開会のスピーチをするということだ。それは世界の注目を集める。そうすれば、世界は、あのヤジディの世界に正義をもたらさねばと必ず連帯してくれるだろう。そうなれば、世界を変えることになる。
そうかもしれない。しかし、その道ははるかに長い。
しかも、その自分の願いは、他の多くの願いの中の一つに過ぎないという現実が切実な彼女の思いを引き裂いていく。相対化されていく。たった一つの彼女の願いは、多くの中の一つなのだ。しかし、それでも、そのたった一つであることをわかってもらえるように働きかけていかなければ、「声」であることの意味がなくなるのだ。
自分は、ここで、自分をしっかりと認めてもらわなければならない。そのためには世界中でこのことを伝える。しかし、メディアで求められるのは、美しい女性が悲惨な性奴隷とされたというそのセンセーショナルな出来事であって、どうしたら、そういう現実を変えられるのか、ということではないということにも気がつかされていく。
そして、その事実を語ることは、なんと彼女にとっては屈辱の経験をフラッシュバックさせるものなのだ。そうして、あの屈辱はいつまでも彼女の中に繰り返される屈辱なのだ。尊厳を取り戻すための、声であり続けようとすることで、彼女は屈辱の中に立たねばならないという矛盾。
結局、多くの人に共感を得ることができても、そのときに彼女の心に残るのは、やはり誰にもわかってはもらえないのだという深い悲しみでしかないのではなかったか。あのインタビュワーは、あのセレブリティは、どんなにしても第三者でしかないし、私の哀しみの外に居続ける。それだから、また支援しようという。支援できるのは、この哀しみの外にいるものだからなのだ。もちろん、その優しさに偽りはないだろう。そして、その連帯に、共感に感謝する。そうなのだ。そうでありながら、そこにある深い断裂を、彼女は知って行かざるを得ない。
彼女が安心できるのは、彼女の同胞の哀しみに出会うときだ。
一人の少年の叫ぶ歌声だ。その涙を流せる時だけが、彼女の本当の居場所なのだ。
けれど、彼女は、それでも、その同胞たちの声とならねばならない。それは、同胞たちには、自分たちの境遇を救う、たった一つの希望なのだから。
彼女は、その思いを受け止めている。受け止めざるを得ない。
彼女に求められているものは、一体どれほど過酷な歩みなのだろうか。そこに起こっていることは、彼女を繰り返し、屈辱の中に突き落とすことでもある。それが、実りをもたらすことを信じていくしかない。
しかし、その歩みが確かになれば、なるほど、その歩みが決して思っているような、望んでいるような世界の変革にはすぐには届かないという現実だけが残されることにもなる。すでにふるさとは荒れ果てた地となり、人々の命は帰らないのだ。
この故郷にすぐには人は住むことができない。変えることはできない。
故郷に帰ることができない彼らは、難民となって、どうやって生き得るのか。そのどれだけの人たちを世界は受け入れるのだろうか。
果てしない、苦しみがより深く現実となって見えてくる。
それでも。それでも、諦めてはならないのだ。彼女は、やはりそれでも「声」であり続ける。果てしなく、遠いことであっても、この道を歩んで、正義を求める。
その悲哀を生き抜く力を、彼女はどこから得るのだろう。
逆に言えば、私たちは、彼女のその力も、また苦しみをも本当にはわかることはない。しかし、それでも、この映画にも力があり、私たちがそこから得るものに希望を紡ぐとすれば、私たちは、私たち自身の自らの深い悲しみを通して、痛みを通してのみ、彼女たちとともに生き得ることを見いだせるかどうかではないか。
彼女が悲哀の中、断絶の中でも、それでもつかんでいる仲間の手があるのだ。それは、そういう哀しみの只中の連帯だろう。そのわずかな、苦しみの中の希望が、彼女を生かす力なのだと・・・そう思う。
悲しみを生きる意味とその力を人間であるということの哀しみの只中に探している。まだ、探しているのだ。その答えを見出せたのか。私はそれを掴んでいるのか。そう問いかけながら、この映画を繰り返し、心に映している。
悲しみを生きる意味とその力を人間であるということの哀しみの只中に探している。まだ、探しているのだ。その答えを見出せたのか。私はそれを掴んでいるのか。そう問いかけながら、この映画を繰り返し、心に映している。
2019-02-07
2019年度 牧会研究会 「現代日本における牧会と牧会者」
日本ルーテル神学校の付属研究機関デール・パストラル・センターでは、現場の牧師たちの牧会を支えようと牧会研究会を開催し、多くの教派の牧師先生と共に学び合う時をもって参りました。
4年目を迎えます今年度は、「現代日本における渤海と牧会者」をテーマとして、デール・パストラル・センターの所員5名が、二コマずつを担当して以下のようなテーマで学びを深めていくことになりました。
それぞれの講師のもと、講義ばかりではなく、グループディスカッションやワークショップなどを取り入れて、学びを深めて参ります
※講師の予定が変わる可能性がありますが、予めご了承ください。
4月12日 「現代社会の孤独を考える ~ロンリネスからソリチュードへ」(堀 肇)
5月10日 「信徒の賜物を用いる ~教会の業としての牧会」(関野和寛)
6月14日 「ジェンダーについて ~多様性の時代に」(ジェイムス・サック)
7月12日 「役員会とスーパービジョン ~寄り添う力を作る」(関野和寛)
09月13日 「現代日本文化のスピリチュアリティーと牧会 ~占い・迷信・前世」(石居基夫)
10月11日 「グリーフ・ワーク ~愛する者を失ったとき」(ジェイムス・サック)
11月08日 「牧師自身の霊的養い ~聖なる読書のすすめ」(斎藤 衛)
01月10日 「一人となることの霊性 ~孤独・沈黙・出会い」(斎藤 衛)
2月14日 「ネット時代の牧会 ~Eメール、SNSメッセージなど」(石居基夫)
3月13日 「寄り添いについて考える ~援助から共にいることへ」(堀 肇)
【日 時】毎月第2金曜日午後1時30分〜3時30分(8月および12月は休会)
【場 所】日本福音ルーテル東京教会 1階集会室
東京都新宿区大久保1−14−14
【受講料】20,000円 (一年間 全10回分)
【定 員】15〜20名
【講 師】
堀 肇 (鶴瀬恵みキリスト教会牧師、ルーテル学院大学非常勤講師、キリスト教カウンセリングセンター講師、デール・パストラル・センター所員)
関野 和寛(日本福音ルーテル東京教会牧師、デール・パストラル・センター所員)
石居 基夫(日本ルーテル神学校校長、デール・パストラル・センター所長)
ジェームズ・サック(日本ルーテル神学校教授、デール・パストラル・センター所員)
斎藤 衛 (日本ルーテル神学校准教授、デール・パストラル・センター所員)
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