聖書日課セミナー(10・22−24)
三日間、軽井沢の地で、聖書日課セミナーを過ごした。
ルーテル5教団で、共有する働き「聖書日課」の読者とともに、年に一度の集いが守られている。その集いに招かれて、「申命記」をともに学ぶことだった。聖書学の専門でもない私には、いささか荷の重いことでもあったけれど、改めて深い学びに導かれたことだった。
モーセの告別の説教という形式でまとめられた申命記。
でも、もちろんそれがいまの形にまとめられていくのは、イスラエルの民がたどった苦難の歴史の只中で、神を求め、信仰を確認する中でのことだった。とりわけ、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされて、また南ユダ王国がバビロニアの脅威に晒され、やがてこの国も失われる。多くの人が土地を失い、生活を奪われ、いのちの危機に晒されて、信仰を失いかけていく。そういう時代に、神を生きるということがどんな恵みなのか、力なのか。懸命に綴りながら、その恵みに生きるという具体的な生活の姿を律法に表していったのだった。
彩られるのは、カナンの地に入っていくイスラエルの民による戦いで、主なる神の聖戦という描かれ方。残忍なやり方を神の言葉と受け取るのには、大きな抵抗を感じるだろう。でも、なぜ、そのように描くこととなったのか。
私たち人間の罪の現実の中で、神の恵みを受け取り、その計り知れないみ言葉の力を、告白的に記していく人間の信仰の歴史性、その限界を見定める必要がある。それでも、そのように描きながら、何を聞き取ろうとしてきたのか。その営みをこそ、私たちは人間の信仰の器として、申命記における神の啓示を知ることができるように思う。
聖書の言葉を、現代に生きる私たちに今一度語りかける神の言葉として聞いていく、その学びをともにさせていただけたことだった。