石牟礼道子さんが逝った。
かつて、大学生の頃、ゼミで取り上げられた『苦海浄土』をはじめて読んで、引き込まれた。もちろん、水俣の問題を深く考えさせられたことだったし、現代社会の複雑な姿をはじめて学んだ。けれど、それ以上に、私にとっては引き込まれるような彼女のことばの力に出逢ったことが非常に大きなチャレンジだった。
たとえば、『苦海浄土』のなかにあった一文は、未だに自分に問いかけることばとして噛み締める。幾つか自分が書いたものにも引用してきたし、授業でも必ず紹介する。それほど大きな衝撃をうけたのだった。読んだ当時は、そんなふうに自分を捉えていくものだとは、思っていなかったかも知れない。でも、何かの予感に、心が高鳴った。石牟礼道子はこう書いている。
「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私
は、わたしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねば
ならぬ。」
大学生の自分は、教会にも通わない似非クリスチャンだったかもしれないが、それでもキリスト者であるという自覚を持たなければ、まわりの「民青」の連中との距離が保てなかったのだろう。そんな程度で、熱心でもない信仰を後生大事に抱えているだけだった自分に、宗教とは何かということを本当の意味で問いかけてきたことばのひとつだったようにおもう。宗教というものの役割を改めて社会構造の問題と重ねて考える視点を受け取っていったといってもよいかもしれない。(これについては、後に神学校に入って田川を読んだときに聖書の世界との関係で学び直す。でも、比較にはならないが、ことばの力と言う意味に限って言えば、僕にとってはもちろん、石牟礼の方に軍配があがる。)
僕の薄っぺらなキリスト教信仰に、チャレンジすることばだった。石牟礼道子のことばには力がある。それは、現代に生きる哀しみと、どうしようもなさを抱えている私たちの姿を決して怯むことなくあからさまにする迫力なのだ。人間存在の深みにある「業」、あるいは「原罪」ということを捉えていくような力だと言ってもよい。それが、彼女のいう「現代の呪術師」たるゆえんか。深い魂のことばが紡がれる。
彼女が逝った。
しかし、彼女のことばは生きている。これが、「言霊」というものだろう。彼女のことばは小説とか詩とかの領域を超える。いや、それらの芸術の極みには必ずや宗教的な「祈り」に近いものがみえてくるということか。でも、やっぱり僕にとっては、彼女は小説家でも、詩人でもない。現代の呪術師なのだ。
誰とともに生きるのか。誰の祈りをとりなすのか。たちまよう魂のうめきを聞き、寄り添うものであり得るか。自分の歩みは遅々として進まないが、現代のなかでの「祭司」である意味を自分なりに模索している。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180208005487.html