2018-02-27

教職授任按手式礼拝 2018・3

日本福音ルーテル教会 教職授任按手式が3月4日の日曜日、午後7時から、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂にて行われる。



今年、日本福音ルーテル教会で按手を受け、牧師となるのは3名。それぞれ、先の常議員会で任地も発表された。
多田哲さん(豊中教会出身)の赴任教会は東教区の日本福音ルーテル日吉教会。野口和音さん(熊本教会出身)は同じく日本福音ルーテル長野教会、そして松本教会。森田哲史さん(田園調布教会出身)は東海教区の日本福音ルーテル新霊山教会。

教会では、伝統的に教会の職務に当たるものが選び出され、派遣されて行く時には、先に任にあたってきた責任をもつ者たちが集い、その選ばれた者の頭に手を置いて祈り、聖霊による賜物を祈願し、教会の委託を示して祝福をしてきた。 この按手によって、それぞれの職務へと召され、用いられていくわけだ。

頭に手を置くことは、限られた人たちによるのだけれど、集うものたち皆が心を合わせて、彼ら一人ひとりを祝福し、祈っていただくことで、教職となっていく恵と使命を新たに心に受け取っていくことだろう。大勢の皆さんがおいでくださることを願っている。

http://jelc-news.blogspot.jp/2018/01/2018.html



2018-02-13

2017年度 神学校の夕べ

今年も、「神学校の夕べ」で新しい卒業生を送り出す季節となった。

日時は、2018年2月25日 午後4時から
場所は、日本福音ルーテル教会宣教百年記念東京会堂(東京教会:新大久保)
テーマは「かけら」。


2017年度の卒業生は、多田哲さん(JELC豊中教会出身)、野口和音さん(JELC熊本教会出身)、東谷清貴さん(JELC松山教会出身)、森田哲史さん(JELC田園調布教会出身)の4名だ。
 4年前、それぞれの人生の歩みの中で、神様の呼び声を聞き、新しい歩みを牧師への召命として受け止めて神学校へ入学してきた。以来4年間、神学校での学びを深めてきたのだ。宣教の困難な時代、これからの教会を担う新しい人材を神様からいただけることは、本当に大きな恵みだ。しかし、その招きに応えていく一人ひとりにとっては、楽なことは何一つない。しかし、もちろん、この招きのなかで生かされていく喜びは、それに増して大きい。4年間の神学校の学び、教会での実習や研修のなかで、その喜びを味わいつつ、改めて主の召しを受け取り直して歩んできたことだろう。
 そして、彼らは、また新たに自身の生涯にわたる主の導きを実感していることだと思う。だから、彼らは皆、それぞれにこの主の召しに応える歩みの途上にあるといってもよいだろう。
 いま、神学校卒業の節目を迎えるが、主の召しを聴き続ける歩みが重ねられていくことになるのだ。彼らの証しする主の語りかけを、この夕べに聞いていきたい。
 
 そして、彼らのあらたな門出を祈りをもって祝していただければと、願っている。
 

2018-02-10

石牟礼道子の言魂

 石牟礼道子さんが逝った。


 かつて、大学生の頃、ゼミで取り上げられた『苦海浄土』をはじめて読んで、引き込まれた。もちろん、水俣の問題を深く考えさせられたことだったし、現代社会の複雑な姿をはじめて学んだ。けれど、それ以上に、私にとっては引き込まれるような彼女のことばの力に出逢ったことが非常に大きなチャレンジだった。
 たとえば、『苦海浄土』のなかにあった一文は、未だに自分に問いかけることばとして噛み締める。幾つか自分が書いたものにも引用してきたし、授業でも必ず紹介する。それほど大きな衝撃をうけたのだった。読んだ当時は、そんなふうに自分を捉えていくものだとは、思っていなかったかも知れない。でも、何かの予感に、心が高鳴った。石牟礼道子はこう書いている。

  「私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私
   は、わたしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねば
   ならぬ。」

 大学生の自分は、教会にも通わない似非クリスチャンだったかもしれないが、それでもキリスト者であるという自覚を持たなければ、まわりの「民青」の連中との距離が保てなかったのだろう。そんな程度で、熱心でもない信仰を後生大事に抱えているだけだった自分に、宗教とは何かということを本当の意味で問いかけてきたことばのひとつだったようにおもう。宗教というものの役割を改めて社会構造の問題と重ねて考える視点を受け取っていったといってもよいかもしれない。(これについては、後に神学校に入って田川を読んだときに聖書の世界との関係で学び直す。でも、比較にはならないが、ことばの力と言う意味に限って言えば、僕にとってはもちろん、石牟礼の方に軍配があがる。)
 僕の薄っぺらなキリスト教信仰に、チャレンジすることばだった。石牟礼道子のことばには力がある。それは、現代に生きる哀しみと、どうしようもなさを抱えている私たちの姿を決して怯むことなくあからさまにする迫力なのだ。人間存在の深みにある「業」、あるいは「原罪」ということを捉えていくような力だと言ってもよい。それが、彼女のいう「現代の呪術師」たるゆえんか。深い魂のことばが紡がれる。

 彼女が逝った。
 しかし、彼女のことばは生きている。これが、「言霊」というものだろう。彼女のことばは小説とか詩とかの領域を超える。いや、それらの芸術の極みには必ずや宗教的な「祈り」に近いものがみえてくるということか。でも、やっぱり僕にとっては、彼女は小説家でも、詩人でもない。現代の呪術師なのだ。

 誰とともに生きるのか。誰の祈りをとりなすのか。たちまよう魂のうめきを聞き、寄り添うものであり得るか。自分の歩みは遅々として進まないが、現代のなかでの「祭司」である意味を自分なりに模索している。

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180208005487.html