2016-08-01

1980年代の学生時代を振り返って ⑥

 少し遡り、最初に教育を学んでいったときのことを振り返りたい。実は、優柔不断な自分は、国文学を専攻しようか、心理学を専攻しようか、それとも教育を専攻しようかときめかねていたのだ。大学に進んでからこれを決められるという人文学部にとりあえず進んだ。そんな自分がこれを学ぼうと教育を専攻する一番の動機になったのは、大学での一つの出会いがきっかけだった。

 1979年に大学に入って、最初の「教育学」の授業。その先生は、「いやー、まいった」といいながら教室に入ってきた。何人かの教育学研究室の学生といっしょに、それまで学内食堂か研究室で話していたような、そんな雰囲気で入ってきた。教室にすわっている自分は何のことだかさっぱりだったけれども、とにかく、その先生の圧倒的な存在感だけが自分を惹きつけた。大学で学ぶということの不思議な魅力を、その一つのことばから、感じ取ったようなことだった。教授の名前は坂元忠芳。
 先生の手には、一冊の本があってこの第一回目の授業はその本の紹介からはじまり、自分をその本をどうしても読まずにはいられない気持ちにした授業だった。
 その本は、『愛と共感の教育』というタイトルで、糸賀一雄という日本の社会福祉で働いた人の講演集だった。戦後に「近江学園」という知的障害者の施設をつくり、また、最初の重度の障害児施設「びわこ学園」を設立した人で、講演のタイトルは「この子らを世の光に」というもの。この講演の最中に糸賀は倒れ、病院搬送されるが、還らぬ人となる。とにかく、その講演集をもって語る坂元教授は、教育は、愛によって、その子どもを人間として育てることで、そこに愛するという教師の関わりが愛するという子どもの心と産み出す、そういう人格教育こそ考えられなければならないというような話だったように思う。実際にはその講演集を読みながら、施設の中で見られる子どもたちとその子どもに関わるスタッフとの関係の姿に、教育の原点を見るというような講義だった。

 教育といえば、読み書きそろばんではないけれども、この社会に生きる主体として身につけるべき教養、自然科学や社会科学の基礎を学んでいくための力をつけることのように考えていた。そのために、もちろん大学で学ぶような学問のレベルに至るまでに、充分な基礎的能力と知識を系統的に学び、それがより効果的に身に付くようにその教育方法の工夫が必要とされている。学問にはもちろん諸説があり、未だに何が正しいのかわからないような議論がなされるものもあるけれども、高校までに習うことといえば、ほとんど解答のあることを身につけることだ。政治経済にしろ、地理歴史にしろ、あるいは物理化学の理系の科目でも、基本的な知識とものの考え方、分析の能力、もろもろの定理や公式をしっかりと身に付けることが求められてきた。だから、その正解にいかに効率的に、たどり着くことができるか。その能力が鍛えられることが教育なのだと、そう思い込んでいたと言ってもいい。
 もちろん、そういう学力偏重主義の学校教育というものへの反発がいろいろな形で噴出してくるのを目の当たりにしながら、中学高校を駆け抜けてきたから、それなりに教育というものの重要性を考えていたけれども、まだ、教育という現場で何が考えられるべきかということについては、自分の中には充分なイメージが持ててはいなかった。

 そんな自分に、教育とは人を育てること、人格教育であって、その基本は愛、愛の交流の中に、教育、共に育っていくということが出来事として起こっていくのだと強烈に印象づける最初の授業となった。
 今は、同書は古本でしか手に入らない。
 しかし、同じように、この糸賀の実践、そこにどんな考えと働きがあったかは、NHKブックの『福祉の思想』でも見ることが出来る。



 この坂元教授との出会いは、自分のなかに教育を捉え直す最大のきっかけになった出会いだったし、また、いずれ改めて記録することにしたいが、この糸賀一雄との出会いを与えてくれた恩人でもある。

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