西田演ずる相葉常夫が主人公。現役を引退した相葉は、釜石での民生委員をしていたが、そのときあの3・11の地震と津波が起こる。その被災の最初の十日間が描かれている。
海辺の街は壊滅。助けに駆けつけても、誰もいない。見い出されるのは、亡くなった人たちだ。次々に遺体が安置所となった小学校の体育館に運び込まれる。海水と泥にまみれた瓦礫の中から見出された遺体がビニールシートにくるまれておかれていく。かつて葬儀社にいた相葉は遺体の扱いを知っているとボランティアになって、その場所に行ってひとつひとつの遺体を丁寧に扱い、きれいに並べるように指示をしていく。ビニールシートを毛布に変えて、まわりをきれいに整えるようにしていく。
そこに家族が探しにくる。少し離れたところで自分たちは助かったけれど、家族を失った、探しに回る家族たち。一緒に逃げていたはずなのに、つないでいた手が引きちぎられて、津波にさらわれた娘をやっと見つけた母。現実は何と残酷なことだろう。生死の境を突然異にしてしまう。
後悔。助けられなかったことの悔しさ、無力さ。圧倒する死の力に飲みこまれてしまったように、遺された人たちも力を失う。誰もがことばをのみこんで、黙々と作業をする。役場の職員も皆被災しているが、それでも懸命に仕事をする。人を助けることにならず、遺体を収容していくだけのこの仕事に、無力感だけが広がる。
そのなかで、相葉が声をかけていく。遺体に話しかける。
「ああ寒かったね。家族の人が来ましたよ。見つけてもらってよかったね。逢えてよかったね。」
たった一つの言葉かけが、一つひとつの遺体に、その人その人の尊厳を取り戻していく。遺体は単なる死体ではなく、ご遺体となっていく。そこにいる人たちは皆、そのやりとりを聞いて、そこにいのちを落としていった一人ひとりの人としてのそのかけがえのなさをもう一度受け取っていくこととなる。
遺族は、その必死に見い出したことに慰めを得る。
人間の、その互いにかわす、一つの言葉かけは、人格的な交わりを取り戻すのだ。その交わりにこそ、人間の尊厳、人間のかけがえのなさを受け取る力がある。
ならば、神のことばには、なお、その人のいのちを豊かにし、確かなものとする力があると信じられよう。