昨年は、三人の現役牧師を招いての修養会だったが、このテーマで、今年はお一人。立野泰博先生をお迎えした。熊本は大江教会で牧会の責任を負うばかりでなく、地元の九州学院でのお働き、東日本大震災の被災地支援、臨床宗教士養成のプログラム、あるいはまた実際のカフェ・ド・モンクの活動にと忙しい毎日。FBやBlogの欠かさぬ更新。全国各地での講演。絵本や紙芝居づくり。そうした一切合切を抱えたまま、なおその貴重な時間を神学生のために用いてくださった。
大江教会が九州学院教会としての歴史的な性格と立地を持っているところで、どのように若い人たちと地域にひらかれた教会として新しい歩みを作っていかれているのか。
教会の現状への確かな分析、地域における課題や可能性、教会員との雑談のなかでのヒアリング、確かなリサーチのなかで考え抜き、教会員にも一緒に考えていってもらえるようにワークショップを行う。そうして教会の宣教のヴィジョンを描いていく。そのヴィジョンを実現するのは牧師ではない。教会の人々の心に働きかけ、楽しくみんなでやる。協力が生まれていく。教会の見え方が違ってくる。結果が伴う。
大胆な取り組みには、きっと色々な問題があるだろうが、すべては神さまの働きの中に用いられるものとの信頼があってこそのことだろう。
種が豊かなみのりをもたらすためには、その石地を耕し、茨を除き、良い地としての畑にされる農夫のつとめがあればこそ。そんな信仰の姿に教えられるものはいっぱいあった。その農夫に仕える牧師と教会員こそが、まずよく耕され、柔らかくなって、蒔かれた種を成長させないとならないだろう。神学生もこの修養会でたくさん耕された。
最終日は、先生ご自身の被災地支援の取り組み、そのご経験からお話をいただいた。「となりびと」から「寄り添い人」へ。大きな大きな被害のなかで被災者一人ひとりが、いのちの重みを知り、その生活が根こそぎ奪われ、家族を失い、地域を失い、コミュニティーを失って、どう生きるのか。そこに生きている人々が自分で生きていかなければならなくて、そこに何の力にもなれないという現実を多い知らされながら、なおそこで牧師としてその現場の苦悩に立ち尽くすこと。ここでも先生の経験、また先生が見て来られた多くの被災者、ボランティアの働きの数々から学ぶことができた。
被災地支援に限らず、それぞれ召され、遣わされていくところで、牧師であることとはどういうことなのか、将来の牧師の卵、神学生たちは重い問いかけの中に投げ込まれたように思う。
三日間、この修養会がほんとに恵まれた時間であったことを、感謝!